20221208

トム・ピリビ

15年程前から、本格的に探し始めた。

それ迄も気になる歌だったが、それ程真面目に探してはいなかったのだ。

だが、いくら検索を重ねても、全くヒットしなかった。それもその筈だ。検索語が間違っていたのだ。『みんなの歌』でダーク・ダックスが歌っていた。そんな事を混ぜてもみた。駄目だった。

一昨日、なんという事なしに、検索語を変えてみた。すると、

あるわあるわ、一旦見つかり始めるとこれ程になるのかと思う程、次から次へと探していた歌に関する情報が引っ掛かって来た。


歌の題名は『トム・ピリビ』。どうやら元はシャンソンだった事も分かって来た。そして、何とこの歌は1960年の第5回ユーロヴィジョン・ソング・コンテストの優勝曲でもある。

みんなの歌名曲100選にも含まれているらしい。更には作曲者、作詞者、訳詞者なども分かって来た。


ダーク・ダックスが歌っているヴァージョンは、本歌にかなり忠実に訳されているが、肝心のオチが訳されていない。ダーク・ダックス自身が訳した様だ。『みんなの歌』なので、教育的配慮がなされたのかも知れない。

そう、日本では『トム・ピリビ』はあくまでも子どもの歌だったのだ。

だがシャンソンではそうではないらしい。


元唄の詞も見つかったので載せておく。作詞者はPierre Cour(ピエール・クール)。作曲者はAndré Popp(アンドレ・ポップ)。この作曲者は『恋はみずいろ(L’amour est blue)』の作者としても有名だ。歌っているのはJaqueline Boyer(ジャクリーヌ・ボアイエ)。Lucienne Boyer(リシエンヌ・ボアイエ)の娘だ。


Tom pillibi


Tom Pillibi a deux châteaux

Le premier en Écosse

Tom Pillibi a deux châteaux

L´autre au Montenegro


Il a aussi deux grands vaisseaux

Qui vont au bout du monde

Chercher des ors et des coraux

Et les plus beaux joyaux


Il a d´la chance, Tom Pillibi

Et moi je pense que je suis son amie

Il est si riche que je l´envie

Il est si riche

Sacré Tom Pillibi


Tom Pillibi a deux secrets

Qu´il ne livre à personne

Tom Pillibi a deux secrets

Moi seule, je les connais


La fille du roi lui sourit

Et l´attend dans sa chambre

La fille du roi lui sourit

Et la bergère aussi


Il a d´la chance, Tom Pillibi

Et moi je pense que je suis son amie

Quelle bonne étoile veille sur lui?

Quelle bonne étoile?

Sacré Tom Pillibi


Tom Pillibi n´a qu´un défaut

Le mal n´est pas bien grave

Tom Pillibi n´a qu´un défaut

Le mal n´est pas bien gros


Il est charmant, il a bon cœur

Il est plein de vaillance

Il est charmant, il a bon cœur

Mais il est si menteur

Que rien n´existe de tout cela

Mais je m´en fiche quand je suis dans ses bras

Car je suis reine de grand pays

Où il m´entraîne

Sacré Tom Pillibi


  トム・ピリビはお城を二つ持ってる

  一つ目はスコットランドに

  トム・ピリビは二つのお城を持ってる

  もう一つはモンテネグロに


  彼はまた大きなお船を二つ持ってる

  それは世界の果てまで行くの

  黄金や珊瑚を

  そして一番きれいな宝石を探しにね


  運がいいのよ、トム・ピリビは

  そしてわたしはね彼の彼女のつもりよ

  彼はうらやましいくらいのお金持ち

  とってもお金持ちなの

  とんでもないトム・ピリビ


  トム・ピリビには秘密が二つあって

  それを誰にも打ち明けないのよ

  トム・ピリビには秘密が二つあって

  わたしだけがね、それを知ってるの


  王様の娘が彼に微笑みかけ

  彼を寝室で待ってるのよ

  王様の娘が彼に微笑みかけ

  羊飼いの娘もそうするの


  運がいいのよ、トム・ピリビは

  そしてわたしはね彼の恋人のつもりよ

  どんな幸運の星が彼を見守っているのかしら?

  どんな幸運の星が?

  とんでもないトム・ピリビ


  トム・ピリビには欠点が一つしかない

  たいしたことじゃないのよ

  トム・ピリビには欠点が一つしかない

  大きなことじゃないのよ


  彼はチャーミングで、いい人よ

  とっても勇気があるわ

  彼はチャーミングで、いい人よ

  でもねとってもホラ吹きで

  ぜんぶ本当のことじゃないのよ

  だけど彼の腕に抱かれているときには気にならないわ

  だってわたしは大きな国の女王ですもの

  そこに彼はわたしを連れて行ってくれるのよ

  とんでもないトム・ピリビ


元唄の”Tom Pillibi”は、彼が好きな女性の視点から、彼がつくホラ(嘘)も許してしまう、盲目的な恋心が描写されている。れっきとしたオトナの歌なのだ。

20221118

60年の電話番号

今年、1月16日に母が死んだ。98歳だった。大往生であろう。

それに伴い、使用していた電話などを解約した。作業は女房殿がてきぱきと行ってくれたが、私だったらあれ程効率的に行動出来たかどうか分からない。


使用していた電話は、私が小学1年の時に時の電電公社と契約して、導入したものだ。

与えられた電話番号は、4や9が並んだとても縁起が良いとは言い難い番号だった。就寝前、家族全員でどうしたものかと話し合った事を、昨日の事の様に覚えている。

3歳年上の姉が、気の利いた語呂合わせを考え出した。私は途端にその電話番号がとても気に入ってしまった。私の気分屋は、幼少の頃からの傾向らしい。

以来丁度60年に渡って、その電話番号を使い続けて来た。それ故に、名伏し難い思い入れがある。

高校を卒業する時、私は故郷を完全に捨てる覚悟で家を出た。もう2度と帰る事はない場所。それが故郷だった。

その時から15年に渡って、私は本当に家族と連絡を断ち、下宿生活を続けた。それでも正月になると、年に1回だけ両親の家に電話を掛けた。そう、件のその番号の電話だ。

それ故に、その電話番号は、いつでも、どこに行っても忘れる事のない、特別な番号になった。

何かと言うと、その電話番号を使用した。もう、住んでいる場所が異なるのだから良いだろうと。

18年前、今の女房殿と一緒に暮らす決断をして、私は故郷に帰って来た。青春の誓いはあっさりと破られた。母とは同居せず、独立した住まいを構えた。

帰って来てむしろ、私は母と連絡を取らなくなった。近くに住んでいるのだから良いだろうと思ったからだ。

「特別な」電話番号も、暫くは使わず仕舞いだった。

けれど、解約するとなると話は別だ。その電話番号に関わる、あらゆる思い出がどっと私を押し倒して行った。

女房殿はあっさりと電話を解約した。

何はともあれ60年は長い。その間、常に共にあった、件の電話番号が、遂にこの世から消え去るのだ。

女房殿が外出した隙に、私はそっとその電話番号に電話してみた。勿論誰も出ない。留守番電話機能は使ってないらしく、通信音はいつ迄も鳴り続けていた。多分これが、その電話番号に電話した、最後の電話になるだろう。そう思うと、意味もないのにその電話を、なかなか切れなくなってしまった。

通信音はいつ迄も鳴り続けていた。いつ迄も、いつ迄も。

20221113

51年振りの邂逅

中学生の頃、T野R子さんという片想いの女性がいた。恋としては全く実らなかったが、彼女は私の詩や絵を大層買ってくれた。良き友であった。

その彼女が私の15歳の誕生日に、リルケの詩を贈って下さった事がいまだに忘れられない。

だがその詩は、いくらリルケの詩集を繰っても見つからず、どの詩集に載せられた、なんという詩なのか全く分からずにいた。

(写真は偶然見付けたJim HallとBill Evansの"Undercurrent"のカヴァー写真カラー版。彼女のイメージは、私の中でこのアルバムと共にある。)


最近、沖縄に住むIGさんという方が、「もちよる詩集」という名で、ClubhouseでRoomを開いて下さる様になった。毎週ひとつずつ詩を携えて集まり、それぞれ開陳し合うという趣向だ。

私はそこで、外国語の詩を紹介する事を旨としている。

引っ越しの時、図書館にある本は処分する事になり、日本語訳の詩集は殆ど売ってしまった。残っているのは、主に原文だ。そこで、私はそれらの詩を自分なりに翻訳して披露する事にしている。

だが、各週のテーマに沿った詩は殆どなく、ネタ探しにGutenberg Projectを漁る事が多くなった。

一昨日も次のテーマを探しにGutenberg Projectをうろついていた。困った時のヘッセとリルケ。主にこの二人の詩を当てもなく読み散らかしていた。

そのうちにRainer Maria Rilkeの”Die Sonette an Orpheus”に辿り着いた。この詩集を私は読んだ事がない。

綺羅星の如きドイツ語が並んでいる。

リルケの詩には、題名が付いていないものがかなりある。この詩集の詩も、番号が振られているだけで、個々の詩には題名はない。

そのうちにXXI番の詩に辿り着いた。何気なく読んでみると

似ている!

T野R子さんが下さった詩に、XXIは確かに似ている!

急いでDeep Lで訳してみると確かにこれだ!

ようやく見付けた!!

その詩は彼女が贈って下さった詩そのものだと、私は確信が持てた。

51年の年月を経て、私はこの詩と再会する事が出来たのだ。

今、私は幸福である。


その詩を紹介したい。

Deep Lは外国語の大意を掴むには便利なツールだが、詩の翻訳には殆ど役に立たない。

仕方がないのでいつも外国語と格闘して、日本語に訳している。その際に51年前の記憶が役立っている事は言うまでもない。


XXI


Frühling ist wiedergekommen. Die Erde

ist wie ein Kind, das Gedichte weiß;

viele, o viele ... Für die Beschwerde

langen Lernens bekommt sie den Preis.


Streng war ihr Lehrer. Wir mochten das Weiße

an dem Barte des alten Manns.

Nun, wie du Grüne, das Blaue heiße,

dürfen wir fragen: sie kanns, sie kanns!


Erde, die frei hat, du glückliche, spiele

nun mit den Kindern. Wir wollen dich fangen,

fröhliche Erde. Dem Frohsten gelingt.


O, was der Lehrer sie lehrte, das Viele,

und was gedruckt steht in Wurzeln und langen

schwierigen Stämmen: sie singts, sie singts!


21

春がまた来た。大地は

詩を覚えた子どものようだ。

たくさんの、おぉ、たくさんの詩を…長く苦しい

勉強のおかげで今ご褒美をもらうのだ。


彼女の先生は厳しかった。僕たちは

老人の白い髭が好きだった。

今度は僕たちが、あの緑は何、青は何と

尋ねてもいいのだ。彼女はできる、きっとできる!


大地よ、休暇になった幸福な大地よ、

さあ子どもらと遊ぼう。さあ掴まえるよ。

楽しい大地よ。一番楽しい人が捕まえるのだ。


おぉ、先生が教えたことを、たくさんの事を、

それから木の根や、長い難しい幹に

印刷されたものを、彼女は歌う、彼女は歌う。

20221109

私の源である暗黒よ

 Du Dunkelheit, aus der ich stamme - Rainer M. Rilke (1919)を苦労して訳した。

祈念にここに記しておきたい。


Du Dunkelheit, aus der ich stamme 

ich liebe dich mehr als die Flamme, 

welche die Welt begrenzt, 

indem sie glänzt 

mich nicht so sehr verhinderte am Wachen -: 

für irgend einen Kreis, 

aus dem heraus kein Wesen von ihr weiß.


Aber die Dunkelheit hält alles an sich: 

Gestalten und Flammen, Tiere und mich, wie sie's errafft, 

Menschen und Mächte -


Und es kann sein: eine große Kraft 

rührt sich in meiner Nachbarschaft.


Ich glaube an Nächte.


私の源であるおんみ暗黒よ

焔にも増して、私はおんみを愛する

焔は輝いて世界を限定するが

その眩い輝きは

定まった範囲を照らすに過ぎぬ


だが暗黒は あらゆるものを抱き寄せる

さまざまな姿を焔を けだものをそして私を─

暗黒は奪い取るのだ

人間たちを また諸々の力を─


闇に包まれる私の横で

何かは知らぬ大きな力が 身じろいでいるかも知れぬ


私は夜を信じる

20221107

鴨脚樹の変遷3

 私はこの風景を石垣りんさんの詩で飾りたいと思う。


用意

 

それは凋落であろうか


百千の樹木がいっせいに満身の葉を振り落とすあのさかんな行為


太陽は澄んだ瞳を

身も焦がさんばかりに濯ぎ

風は枝にすがってその衣をはげと哭く


そのとき、りんごは枝もたわわにみのり

ぶどうの汁は、つぶらな実もしたたるばかりの甘さに重くなるのだ


ゆたかなるこの秋

誰が何を惜しみ、何を悲しむのか

私は私の持つ一切をなげうって

大空に手をのべる

これが私の意志、これが私の願いのすべて!


空は日毎に深く、澄み、光り

私はその底ふかくつきささる一本の樹木となる


それは凋落であろうか、


いっせいに満身の葉を振り落とす

あのさかんな行為は─


私はいまこそ自分のいのちを確信する

私は身内ふかく、遠い春を抱く

そして私の表情は静かに、冬に向かってひき緊る。

鴨脚樹の変遷2

 


次は10月30日。左側の樹は、全体が色付いている。


そして11月の3日。右側の樹も色付き始めた。この頃から左側の鴨脚樹は、その葉を散らすようになった。


11月6日。葉はあるか無しかの風で、ハラハラと散って行く。もう左側の樹はスカスカだ。

鴨脚樹の変遷1

今や世は立冬である。暦の上では遂に冬を迎えてしまっている。

この秋、私は部屋から見える鴨脚樹の樹の変遷をカメラで追った。始めは10月中旬からだった。


10月14日の左側の鴨脚樹。まだ葉は青く、その縁がほんのりと色付いている程度だった。


次は10月18日。遠目からも、葉がはっきりとはっきりと色付いて来ている事がわかる。4年前のこの頃、私は脚の手術で入院した。その時も、鴨脚樹がほんのりと色付いている事を確認している。季節というものは、毎年大体同じ様に変化して行くものだ。


次は10月27日。この頃から左右の鴨脚樹を並べて撮るようになった。左側の樹は、下半分がはっきりと黄葉し始めている。

20221007

詩とは何か

これは読書なのだろうか?

読んでいて、何度もその様な思いに迫られた。ページの後ろから光が差し、印刷されている文字が自動的に目に飛び込んで来る様な感覚があった。大事な事が伝えられようとしている。その思いに突き動かされ、夢中になって文字を追った。


そのうちにこれは旅なのではないかと思い至った。

吉増剛造さんは、根源に辿り着いている詩人だ。私はそこから遥かに隔ったったところにいる。その私は吉増剛造さんに導かれて、根源への旅をしている。と。

吉増剛造さんの詩の朗読会には、何度か参加した事がある。その度に私は、詩の迫力に圧倒され、眩暈に似た困惑、困惑に似た感動を身体に覚えながら、おぼつかない足取りで帰路に着いた。

その時の感覚を思い出しながら、この本を読んだ。

あの体験がなかったら、私はこれ程鮮明に、この本を理解できなかっただろうと確信する。

私は、吉増剛造さんを体験出来る時代に、かろうじて生きる事が出来た幸運を噛み締める。

吉増剛造さんの圧倒的な声を浴びながら、過ごしていたあの時間は、何と贅沢な、そして何と貴重な時間だった事だろう。

あの時の体験も、旅だったのだと、私は今になって理解する。

吉増剛造さんはいつも、私を独りでは辿り着けない高みへと、導いて下さった。

この本『詩とは何か』は、その吉増剛造さんの詩作の秘密を、丁寧にそして確かな手付きで語ったものだ。そしてやはりこの本は吉増剛造さんの肉声で書かれている。

そして、今、私は密かに確信している。恐らく、全ての読書体験は、旅なのだと。

私は読書して来た幸運を再び噛み締める。時に優しく、時に激しく翻弄されながら、私は全ての書物を旅した。

私はかろうじて、詩を理解する事が出来る。その事は、何事にも代え難い幸運だったのだと、この本を読み終えて感じ取る。

読書という旅は風雅な時の流れだ。

20220915

iOS16.0

私のiMacは古い。なのでOSは未だBig Surだ。一昨日(13日)そのBig Surのバージョンアップがあった。11.7にupした。Safariも16.0にupdateした。これは別にどうって事はない。ただ新しいOS、Montereyは一体どのようなOSなのだろうか?と憧れ、空想するばかりだ。

そうこうしているうちに次期macOS Venturaの噂も耳に入ってくる様になった。iMacを当分の間古いまま使う事にしている。どうやらmacOS Montereyには縁がないうちに終わってしまうようだ。

だがiPhoneは新しい。まだ最新のiOSを使う事が出来る。macOSのupdateに合わせる様に、iOSのupdateもあった。

最初に15.7にupするようにアプリで指令が入った。言われるがままにupdateした。すると何と16.0へのupが可能である事が分かった。大きなupdateだ。upせざるを得ない。

40分程掛けてupdateし、その日はそのまま予定されていたClubhouseに参加した。

しかし、時が経つにつれて、どうにも気にかかる事が起きていた。

IPhoneはロック画面になると、時刻が表示されるのだが、そのフォントがやたら太くて、ぼってりしており、はっきり言ってダサいのだ。

私は以前持っていたiPhoneから引き継がれた、スレートの壁紙を愛用していた。これはデザインと言い、色の濃さと言い申し分ないもので、変更の予定は全く無かった。


だがフォントのダサさがどうにも気に掛かった。変更の手立ては無いのか?調べてみると、これがiOS16の新機能のひとつとなっており、様々に変更出来る事が分かった。

すぐに変更作業に取り掛かり、色々試してみたのだが、時刻のフォントだけを替える事は、どうやら不可能らしい事が分かって来た。変更しようとすると、新規を追加と表示され、壁紙毎の変更を余儀なくされた。

どうする?壁紙を変更するか?ダサいフォントのまま我慢するか?

だがそのフォントは、Appleが新機能を使わせる為に、わざとダサく設定したとしか思えないものだった。

恐る恐る新しい壁紙にしてみる。そうするとフォントは変更出来た。フォントだけではなく、文字の色も変更出来る事が分かった。

調べてみると、ロック画面は簡単に元に戻す事も出来るようだ。やってみると以前のスレートがそのまま残っている。

ならば!と調子付いて用意されている画面から6種、自分で撮影した写真で2種、計8種のロック画面を作ってみた。画面は単に絵が用意されているだけではなかった。例えば天候の画面では、その時の天候に合わせて画面が変わる。

折角iOSを16.0に上げたのだ。心機一転、壁紙も替えてみよう!決心した。


中でも地球が映っている画面と、月が映っている画面が気に入った。昼は地球、夜は月でやって行こう。そう決心した。飽きてきたらまたスレートに戻せば良い。

地球の画面はロック画面の時、地球の中に自分の現在位置が緑色のスポットで表示される仕様になっていた。なかなか心憎い演出だ。しかも地球の姿は時刻によって変わって行くのだ。


月の壁紙は、時刻が月に隠れるように配置されており、加えてその日の月の名前が分かる仕様になっている。今夜は寝待ちの月である事を知った。


壁紙の変更を切っ掛けとして、iOS16の新機能を色々調べてみた。これはかなり凄いupdateだ。例えば送信したメールを15分以内ならば変更したり、取り消したり出来る。

他にも調べれば調べる程、魅力的な新機能を発見出来た。

当分の間、私はiOS16.0で遊ぶ事が出来そうだ。

20220827

読書メーター

先週から、今迄使うのを避けていた読書メーターを導入する事にした。

基本、ブログとInstagramに読んだ本について上げる事にしていた。だが、本を読むペースが落ちて来て、図書館から借りている本を、とにかく読む事という事を優先し始めたら、なかなかブログには上げられなくなってしまった。これでは読書の記録が殆ど残らなくなってしまう。何等かの形で残さねば。そう考えて、導入に踏み切ったのだ。

pushucaで登録している。


最初はtwitterとの連携の仕方も分からず、右往左往するばかりだったが、1週間使い続けたら、設定の仕方も分かり、何となく、コツが掴めてきた。

まだ5人しかフォローしていない。読んだ本も5冊しかない。それでも今迄twitterと三中信宏さんの日録からしか入って来なかった本の情報の経路に、新たにもうひとつが加わった。

フォローする人は敢えて、余り増やさない様にしている。

特殊な名前で登録している人が多く、なかなか目当ての人が見つからない。

また、私は読書傾向が余り一般的ではない。その事は薄々気が付いている。手当たり次第増やしても、読まないであろう本を沢山紹介されても、どうしようもない。

困っているのは、今読んでいるスティーヴン・ジェイ・グールドの進化論エセー集のような本を登録した場合など、本の内容が多岐に渡っていると、短かな文章で、感想を纏める事が難しい事だ。

だがこれは上げる対象がブログであっても同じ事で、どうせ簡潔には纏められそうにない。読書メーターには読んだ本として追加するという機能もあるので、そこに上げておく事にしている。これはなかなか便利だ。

驚いたのは『がんばれカミナリ竜』が、登録されている本のデータとして、上がっていなかった事だ。仕方なく、オリジナル本として登録し直した。読んだ本の書影を全てスキャンしてあったのが役に立った。

今のところ私は1日に72ページのペースで本を読んでいるらしく、8月の読書量も1947ページに及んでいる様だ。思ったよりかなりハイペースで読んでいる。

本を読むペースが遅くなってしまったのには困っている。最初の頃1日に1冊のペースで読んでいたスティーヴン・ジェイ・グールドの進化論エセーも、1日に2章を読むのが精一杯になってしまった。これでは県立・市立両図書館から借りている、月に10冊の本も、読み切る事がなかなかできなくなってしまっている。

盛夏のうちは、暑さの為に読めないと思っていたが、少し暑さが緩んでも、本を読むペースは上がらない。

読書メーターに、手を出して来なかった理由は、本を読む動機が、アプリに上げる事になったらつまらないと思って来たからだ。

今のところ読書メーターは、純粋な読書記録であり、読書の動機にはなっていない。

少しほっとするが、気を緩めるとすぐに本末転倒するのが私の常だ。気を付けたい。

20220817

そろそろ『晩夏』の時期だ

西から大雨をもたらす雨雲が近づいている。秋雨前線の雨だという。

立秋はとうの昔に過ぎ、夜にはコオロギの声も聞こえ始めた。秋の気配が確実に近づいている。だが昼間はまだ暑く、蝉の声も絶えない。

そろそろアレの出番かと思い、本棚から引っ張り出して来た。

アレというのはアーダルベルト・シュティフターの『晩夏』のことである。


夏の終わりにアーダルベルト・シュティフターの『晩夏』を読み、真冬に鈴木牧之の『北越雪譜』を紐解く。そうした習慣が出来てから10年が経つ。

余りに暑かったので、出遅れの感があるが、そろそろ『晩夏』を読み始めないと本格的な秋になってしまいそうだ。


暑さと鬱で余り本を読む事が出来ずにいる。

今読んでいるのはスティーヴン・ジェイ・グールドの『がんばれカミナリ竜』だ。進化論をめぐるエセー集も第5集目に入った。

第1集の『ダーウィン以来』の頃は上下巻を2日で読んでいた筈なのだが、この頃は2週間位掛かる。グールドの責任ではない。むしろエセーは日増しに洗練され、筆致は鋭くなっている。読み進めるのが遅くなっているのは、主に私の側の問題だ。

エセー集を中断する事に不安はない。いつでも戻って来る事が出来るだろう。だが、本が読めない状態が続いている事に関しては、酷く不安を感じる。

『晩夏』をいつもの様に読む事が出来るだろうか?

案ずるより産むが易しと言う。実際に読み始めれば、どうにかなるだろう。そうした楽観も心のどこかにある。だから不安なく『晩夏』を本棚から引っ張り出して来る事が出来る。

かれこれ15回以上は読んでいる。読み始めても何か新しい事に出会えるとは思っていない。実際何も起こらない。

だが元々どれを読んでも同じような作風の作家だ。

かえって安心して読書を進める事が出来る。

物語はゆっくりと、急ぐ事なく、静かに進んで行く。私はその物語に心ゆく迄身を委ねるだけで良い。

この作品はトーマス・マンが

世界文学のなかでも最も奥深く、最も内密な大胆さを持ち、最も不思議な感動をあたえる。

と評した本である。

ニーチェも

再読三読に値する

と言っている。

この頃奇妙な緊張感に取り憑かれている。それが読書の足を引っ張る原因のひとつにもなってきた。このアーダルベルト・シュティフターの悠久な作品に浸る事で、その緊張感からも開放されるのではないか?そうした期待感も実は持っている。

20220719

準備だけはできていた

今回の記事は出来ればスマホで開いて貰いたい。Stand.fmはスマホアプリだからだ。

 森哲平さん(moriteppeiで検索して下さい)のStand.fmを毎回聴いている。非常に役に立つ。

7月6日の放送ではSimplenoteの使い方を教わった。このアプリ、実は数年前からインストールしてあった。だが便利さがよく分からず、全く使っていなかった。考えてみればiMacからiPhoneに即座に同期してくれる。これだけでも十分便利なアプリだ。だが、Simplenoteというアプリの便利さはこれだけではなかった。そもそもMarkdownという記法を全く知らなかった。なので、その便利さに気付かなかったのも無理はない。このMarkdown、簡単で実に便利な記法なのだ。早速学習して、基本的な使い方はマスターした(これが実に簡単に出来てしまうのだ)。SimplenoteはこのMarkdownに対応したメモアプリなのだ。なのでこのアプリだけを使って、簡単なホームページくらいは作り上げる事が出来てしまう。これだけの実力を持っていて只。本当に良いのだろうか?とこちらが心配になってしまう程、至れり尽せりのアプリなのだ。

更にSimplenoteでは、各項目毎にURLを付ける事が出来る。これを使えば、iMacで得た情報をiPhoneで他の人と共有する事も、簡単に出来てしまう。

放送を聴いたその日から、SimplenoteはiMacに常駐するアプリになった。ちょっとした情報を得たら取り敢えずSimplenoteに放り込んでおく。それだけでその情報をiMacでもiPhoneでも即利用することが出来る。私のWeb環境は1日で劇的に変化した。

7月16日の放送ではDeepLを用いた、英語の本の読み方を教わった。

DeepLが実力を持った翻訳サイトであることは前から知っていた。だがその実力を十分に生かすだけの機会が訪れず、殆ど使っていなかった。

ここでGoogle lensの登場となる。Googleアプリからカメラアイコンをタップすることで、Google lensはiPhoneでも使える。これも以前から知っていた。だが昆虫や植物の同定を行う事以外には使っておらず、これを用いてtextがコピー出来る事も、単なる知識としてのみ、私の中では存在してた。

この機能、かなり前から知っていたが、日に日に実力を高めている。検索、コピー共に、実に高い精度でこなしてくれる。

知らなかったのはuniversal clipboardという機能だ。

これは例えばiPhoneでコピーした情報を、そのままiMacに転送する事が出来るという画期的な機能だ。

つまり、Kindleで英文の本を開き、iPhoneのGoogle lensでその画面を撮影し、textをコピー。それをuniversal clipboardを用いてiMacに転送。そしてDeepLにそれをペーストして翻訳してやれば、無い英語の知識を振り絞って、英文と格闘しなくても、英語の本を日本語で読む事が出来るという訳だ。

個々の機能はシンプルなものだが、それを組み合わせて使うと、実に画期的な作業がこなせてしまう。

幾つかの設定が必要なようであったので、確認してみると、何と!私は既にその設定を全てクリアしてあった。準備だけはできていたのだ。

早速Ernst Mayerの”What evolution is”を訳してみた。


DeepLが優れているとは聞いていたが、これ程の実力を持ったサイトだとは思っても見なかった。まだ最初の数ページしか訳していないが、テクニカル・ワードもなんのその。分かり易く整った日本語で翻訳されて出て来たではないか!

エルンスト・マイアーは進化論の分野で、総合説という学説を一人で立ち上げてしまった重要な人物なのだが、今のところ1冊も本が翻訳されていないという厄介な存在だったが、これで全く恐れる事は無くなった。

背伸びして、購入してある英文の本は何冊もある。この方法を使えば、殆ど死蔵されていたそれらの本がいよいよ生きて来る。

調子に乗ってGoetheの”Faust”もこの方法で開いてみた。ドイツ語も英語と遜色ない品質で日本語に翻訳してくれることが分かった。

DeepLは28言語に対応している。それだけあれば、何語の本であっても、十分対処する事が出来るだろう。

情報の入口が画期的に拡がった。

細々とした作業はあるが、それを含めて、今迄の3倍から5倍くらいのスピードで外国語の本を読む事が出来るようになった。

森哲平さんも放送の中で仰っておられたが、日本語に翻訳された外国語の本は高い。更に日本語の本は紙媒体とKindleの差がさほどないのに比べ、外国語の本は、紙媒体の本よりKindleで購入した方が半額近い値段で入手出来る。これなら外国人の本は原語の本を購入した方が圧倒的に経済的でもある。

これは大袈裟でなく、私の生活をガラリと変える、革命的なテクニックだ。

他にも森哲平さんのStand.fmは役に立つライフハックで満ちている。話に聞くところでは、この放送、あまり聴かれていないらしい。

勿体無い。

このブログもさほど役に立つ程には読まれていないが、皆さん!もっと森哲平さんの放送を聴こうではありませんか!

20220712

いきなりJazz

実を言うと少々古楽に飽きが来てもいたのだ。

しかし驚いた。いつものようにSpotifyでPlay Listを朝から聴いていたのだが、そんな心の隙を見透かしたように、今日のDaily Mix 3はいきなりずらりとモダン・ジャズを並べて来た。


並んでいるのはキース・ジャレット、チャールズ・ミンガス、マイルス・デイヴィス、セロニアス・モンク、ジョン・コルトレーン等。

元々Jazzは嫌いな方ではない。高校生の頃はジャズ喫茶に入り浸って、これらのジャズマンの演奏に耽溺していた。

そうした私にとって、このラインナップは文句の付けようが無い。

しかし、最近6年程はSpotifyで古楽ばかりを聴いてきた。他のジャンルの曲を聴くときはYouTubeかCDを音源にしていた。

SpotifyのPlay listは元々、リスナーの好みをAIを用いて分析し、そこから似たようなジャンルの音楽を選択するという仕組みになっている。

折角Play listが古楽一色になってくれたのが勿体無くて、少なくともSpotifyでは古楽以外の音楽を聴いた事はない。古典派以降のクラシックすら避けて来た程だ。

なのに何故ここに来てJazzになったのだろうか?

心当たりがあるとすればヤン・ガルバレイクがザ・ヒリヤード・アンサンブルと共演した曲を聴いた事しかない。

これを切っ掛けにSpotifyが古楽からいきなりJazzに切り替えて来たとするならば、余りにも大胆なチャレンジと言う他ない。

突然鳴り始めたJazzに、最初は戸惑い、Play listを切り替えようかとも思い、まあ待てと耳を傾ける迄数分。気持ちを若い頃のままに切り替えると、やはりJazzはこれはこれで十分に良い。

50曲4時間49分を、すっかり堪能してしまった。

しかしSpotifyはなんのデータも与えていないのに、どの様にして私の好みのジャズマンを割り出したのだろうか?そのアルゴリズムを何とかして知りたいものだ。

もうすぐSpotifyのサーヴィス期間が終了する。またコマーシャル付きのfreeプランに戻さねばならない。その時が来たらと思っていたのだが、Spotifyの方から方針を変更して来たのであれば、それに乗って、そろそろ古楽一辺倒から卒業しても良い時節なのかも知れない。

20220704

涼しくなって読書復活

一時はこのまま再起不能かと不安に駆られた。

暑さと鬱が重なり、本を3日間で10ページ程しか読み進める事が出来なくなった。余りの不甲斐なさに吐き気すら覚えた。

読んでいたのがハンナ・アーレントの『革命論』だった事も、読書が進まなかった理由のひとつだったのだろう。


この本は志水速雄訳で『革命について』と題してちくま学芸文庫から出版されていたものを、森一郎がドイツ語版からの新訳として出版されたものだ。

ハンナ・アーレントは英語では難解だが、ドイツ語では筆が走り過ぎる。そう良く言われる。だが、私にはドイツ語版からの翻訳でも、十分に難解だった。序論と第1章までは快調だったのだが、第2章から難渋し始めた。

とにかく進まない。そして意味を掬い上げるのにひどく苦労する。同じ箇所を3、4回読んで、ようやく文意が理解できるという有様だった。

いつも聴いているNHK・FMの『古楽の楽しみ』が5:00からの放送になった。その為、遅くとも4:30には起床する事にしている。それもあって昼間になると、ぐったりと疲れてしまうようになった。解消する為に午睡を必要とするようになった。

2、3時間の午睡で疲れと眠気は取れるが、その分だけ読書に充てる時間は減る。遅い読書が更に遅くなった。

4号颱風アイレーが接近しつつある。その影響もあるのか、今日になってかなり暑さが緩んだ。最高気温でも30℃に届かない程度で、朝のうちは肌寒さすら覚える程だった。

相変わらず鬱は去らない。なので完全復活と迄は行かないが、午前中の読書では第3章をそれなりのペースで読み進める事が出来た。

嬉しかった。

今日常生活でやっている事と言ったら、古楽を聴く事と本を読む事くらいだ。そのうち読書が再起不能になったら、私の人生は目も当てられない事になってしまう。

他に望む事は何もない。どうかあの猛暑の復活だけは、何とかして避けてもらえないものだろうか?

9日には通院と同時に、県立・市立両図書館へ図書の返却と借り出しに行かねばならない。ハンナ・アーレント『革命論』は、延長で借りる事になるだろう。だが、先に読んでおきたい本も借りてくるので、また一旦中断する事になるだろう。

だが、伊達に何度も読み返しをしている訳ではない。今迄読んだ箇所は何とか覚えている。

要は慌てない事だ。この本はハンナ・アーレントの主著のひとつに数えられている。読み飛ばしてしまっては勿体ない。時間をかけて、じっくり取り組んで行こう。

私は読書のペースが少し取り戻せたので、すっかり気を良くしているのだ。

20220628

暑さに負けている

6月が終わろうとしている。史上最短の梅雨も明けた。

この間、スティーヴン・ジェイ・グールド『ニワトリの歯上・下』、ハンス・ペーター・リヒター『あのころはフリードリヒがいた』、大串尚代『立ちどまらない少女たち─〈少女マンガ〉的想像力のゆくえ』、岸本良彦訳・注『ディオスコリデス薬物誌』を読破した。


その度にブログに纏めねばと思うのだが、思うに任せず、放置したまま次の本に手を出してしまっている。


ただひたすら暑いのだ。

読破する度に思うところはあるのだが、暑さに思考が溶かされ、文章として纏める事が出来ずにいる。


実を言うと本を読むのにもままならない状態だ。


図書館の返却期限が近いので、それが気になり、何とか本のページを捲る。


だが急転直下来てしまった鬱も重なり、捗らない。読破した本が何冊かあるので、それで満足しようと思うに至っている。

猛暑は後3ヶ月は続くと予想されている。鬱もその程度、或いはそれ以上続くだろう。それに加えて大渦巻きのように押し寄せる自己嫌悪と希死念慮に抗って、青息吐息で何とか日々を送っている。

それが今の所の私の限界だ。

20220606

掲示板夏の扉へ

もう閉じてから15年経つが、『夏の扉へ』は前身がある。掲示板だったのだ。

ふと思い付いてWayback Machineで過去の掲示板を呼び出してみた。幾つか見付かった。


結構心血を注いてこの掲示板を運営していた。

知り合いを中心にかなりの顧客を擁していた。

USGSの画像やひまわりの画像をダウンロードしては、文章を組み立ていた。例に挙げたものは掲示板を閉じる寸前のもので、もう発言者の多くが私自身になっているが、まだお客さんは来ていた。

背景やヘッダの写真などを見ると、自分でも良いセンスしていたなと感じる。

夏の扉へ2006

夏の扉へ2007

こうして見ていて驚くのは、使用した他サイトの画像が、かなりの頻度でまだ使えるということだ。これは意外だった。

今ではひまわりも8号になり、画像も滑らかなアニメーションとなったが、この様に単独で使うには不向きになってしまった。

多くの点で掲示板というWeb文化は前世紀の遺物だと、少し心にちくりと感じるものを含めて思う。まだ生き残りはあるが、殆どの掲示板サーヴィスは閉鎖してしまった。

Webの創世記から、様々なサーヴィスが生まれては消えて来た。私たちはその度に一喜一憂して、それでも時流に乗り遅れまいともがいてきた。

この掲示板『夏の扉へ』を閉じるのとほぼ同時に、ブログ『夏の扉へ』を始めた。思えば結構長続きしている。

今回掲示板『夏の扉へ』を振り返る事が出来て思うのは、あの頃の私は今より真摯だったと言う事だ。言い方を変えれば肩に力が入っていた。

この頃になってようやく、文章に凝る事なくブログを書く事が出来るようになった。これは良い事なのか悪い事なのかは分からない。だが、自然とそうなってしまったので、時流に逆らう事なく続けている。その結果はそのうちにわかるだろう。

これから先、どんなWebサーヴィスが現れ、私はどれに手を染めるのだろうか?

20220530

歌うキノコ

キノコと題されているが、椎茸も松茸も出て来ない。出てくるのは地下生菌であり、変形菌であり、冬虫夏草。それとそれらの宿主たちだ。


著者は生物学者だ。私たち地質学者は自分を地質屋と称する。同じ様に生物学者は自分を生き物屋と称している。その生き物屋の中でも、この本で紹介されているのは極めてマイナーな存在だ。それぞれ地下生菌屋、変形菌屋、冬虫夏草屋と自分を呼んでいるらしい。

著者は冬虫夏草屋のひとりだ。

著者は子供の頃、海岸で貝殻を拾っていて、生物の世界にのめり込んで行ったと言う。この辺り、非常に親近感を覚えてしまった。そうなのだ、研究者になるような人間は、人生の矢鱈と早い時期に、ちょっとしたきっかけから自分の進路を決めてしまう。

だが、著者は貝殻に興味を抱いても、一目散にそれに向かって突き進んだ訳ではない。小学生高学年頃からは虫に嵌り、一時植物にも熱中し、…と生き物好きは一貫していたものの、どんな生き物を対象とするかと言う点に関しては横道にそれてばかりだったと言う。

著者は対象とする生き物を見つける目を持つ事を「眼鏡をかける」と表現する。

生き物屋の「症状」からわかるように、人はそれぞれ、見ている世界が違っている。つまり普段は見えていない、気がついていない別世界が、本当は目の前に存在していたりする。そんな別世界に気づくには「眼鏡」を掛ける必要がある。

地質学をやってきて、矢鱈と山には入ったが、私は地下生菌も変形菌も冬虫夏草も見つけた事はない。だが同じ山に入りながら、著者らはかなりの頻度でそれらを見出す。余程度の合った「眼鏡」をかけているのだろう。その眼鏡をかけることで、彼らは私たちに見えない世界を見ているのだ。

冬虫夏草眼鏡に加えて、地下生菌眼鏡をかけるようになった著者が、ずっとかけることを憧れていたのが変形菌眼鏡だという。

変形菌と言えば明治から昭和初期にかけて活躍した南方熊楠が、生涯追いかけていた生き物として知られている。

著者が変形菌に惹かれたのは増井真那の『世界は変形菌でいっぱいだ』という本を読んだのがきっかけだったらしい。この増井真那さんは5歳の時テレビで変形菌を見て取り憑かれ、たちまち変形菌屋の集まりである日本変形菌研究会にも入会、そして16歳で本を出版するという輝かしい(?)キャリアの持ち主だ。その彼には世界は変形菌でいっぱいに見えるらしい。これぞ変形菌眼鏡の効果の極地だろう。著者は変形菌好きは皆、子実体に魅力を感じるものと思い込んでいた。ところが真那さんは変形菌の変形体を飼育する事に情熱を注いでいる。そうした興味の持ち方を見ているうちに、著者は変形菌を一面的にしか見ていなかったことに気付かされたと言う。

さて、虫と言うものは結構偏食だ。モンシロチョウの幼虫はキャベツを食べてもミカンには見向きもしない。アゲハの幼虫はミカンの葉をせっせと食べてもキャベツには見向きもしない。セミは幼虫も成虫も樹液を飲んでいるばかり。それも栄養の少ない道管液しか飲まない。アブラムシやカメムシも種類によって決まった植物の汁を吸って暮らすものが多い。

こうした特定の栄養源のみに頼っている場合、栄養に偏りが生じる事は容易に理解できる。

植物の新芽にはアブラムシがよく群がっている。アブラムシが餌としているのは、植物の師管液だ。師管液には植物が光合成で作り出した糖分は豊富に含まれているけれど、タンパク質を作るためのアミノ酸は不足している。アブラムシは体内にブフネラと呼ばれるバクテリアを矯正させていて、この共生バクテリアが不足し勝ちな栄養を補う形になっている。

驚くのはセミに見付かった共生菌の遺伝子を系統解析したところ、冬虫夏草の仲間だということが分かった事だ。それも遺伝子が近縁のもの同士を並べて行くと、セミの体内で見付かった共生菌と冬虫夏草が入れ子状態になるという結果となった。つまり、セミ体内で見付かった共生菌は、どうやら元々はセミの幼虫に取り憑いて殺し、子実体を伸ばしていた冬虫夏草だったらしい。セミの体内には寄生者が変身した共生者が棲みついているいる。セミはそのおかげで道管液だけを吸って暮らし、街中でも多数発生が見られるほど繁栄しているのだ。

本書を読んで、今まで知らなかった地下生菌、変形菌、冬虫夏草には矢鱈と詳しくなった。同時に生物の体内にはバクテリアや菌類が多数棲みついている事も知った。

これから夏を迎え、煩いほどセミの声がする事だろう。だが、その声も昨年までとは全く別なものに聞こえてくるだろう。そうなのだ、そのセミの声は多数の生き物の合唱なのだ。

20220523

カントの人間学

かなり昔の話だが、ミシェル・フーコーの『言葉と物』を入手した時、Mさんから3回読んだが分からなかったと忠告された事がある。確かに分からなかった。フーコーは『言葉と物』を2,000人を対象に書いたと言われているが、私はその2,000人の中には入れなかった。だが、いつの日か読める様になりたいと、強く思った。

FBでその事を話したところ、まずは博士論文から入ると良いという助言を得た。『言葉と物』に向けてフーコーを順番に読んで行こうと言う計画が始まった。

フーコーの博士課程主論文は『狂気の歴史』だが、これも敷居が高そうなので、副論文『カントの人間学』から入ってみようと思っていた。

今回、意を決して『カントの人間学』を読んだ。


『人間学』は未読だが、カントならばそれなりに一通り目を通した事がある。大丈夫だろうと高を括って手を出したのだが甘かった。

フーコーは博士副論文から難しかった。

『言葉と物』とは違い、意味が拾える言葉で書かれている。なのでどうにか活字を追う事はできるのだが、扱っているカントのレベルの高さと守備範囲の広さが尋常ではないのだ。しかも思想的背景としてニーチェやハイデガーが仄めかされてる。

つまりこの本を理解しようとするのなら、カントを全集で何回も読み深め、ニーチェ、ハイデガーもノートを取りながら熟読した上でなければ歯が立たない。そうした論文らしいことだけは理解出来た。

もともと博士課程副論文は、出版されることはないのが通例だ。つまり、この論文は世間の人に読まれるという前提で書かれたものではない。どちらかと言うと、論文を査定する指導教官に向けてのみ書かれたものだと言っても良いのだろう。

だが、最初おずおずとカントの『人間学』と『純粋理性批判』の関係を論じていたフーコーが、8章あたりから強気になり始め、自分の見解をどしどしと詰め込み始めたのは、読んでいて痛快だった。

フーコーとハイデガーの近さと遠さは、それぞれのカント論の構図を対比してみればはっきりするだろう。「批判」から「人間学」を介して「超越論哲学」ないし「基礎的存在論」へ、という三項図式は両者に共通しているけれど、フーコーは三つの点でハイデガーから距離をとっている。第一に、ハイデガーにとって「基礎的存在論」は自分自身が取り組むべき仕事であるのに対し、フーコーは「超越論哲学」をカントの最晩年の仕事の中に見出す事。第二にハイデガーにとって「人間学」は「批判」から「基礎的存在論」に至るまっすぐな通路であるのに対し、フーコーは「人間学」に「批判」の反転=反復を認めること。第三にハイデガーがカント『論理学』の「人間とは何か」という問いから読み取られた「哲学的人間学」の構想に注目するのに対し、フーコーはあくまでも「世界=世間」の中で「人間は自分自身をいかになすべきか」を問うカントの『実用的見地における人間学』にこだわること。

要するに、フーコーが考えるカントは、ハイデガーが考えるカントよりもう少し徹底的で、もう少し屈折しているのだが、そんな徹底性も屈折も、どこまでも実用的な『人間学』から来るというのだ。

フーコーは博士課程主論文『狂気の歴史』、副論文『カントの人間学』を発表した後、怒涛の勢いで私たちには周知の数多くの著作を発表していった。起伏の激しいその行程が、「知」から「権力」へ、そして「自己」へと言う、断続的な問題設定を伴うものであったことも、比較的良く知られているが、その始まりに、このようなカントへのこだわりがあった事は、あまり知られていないのではないだろうか?

活字の数を数えるような読書体験だったが、それなりに深い感慨を伴う行程になった。読んで良かったと思う。

20220518

パンダの親指

 前作『ダーウィン以来』も面白かったが、著者スティーヴン・ジェイ・グールドが彼のエセーの手応えをしっかり掴んだのは、本書『パンダの親指』からだったのではないかという感触を得た。導入のエピソードを選択するセンス、その掘り下げ方、各章の全体像をはっきりと打ち出す統一感が、格段に違うのだ。


パンダは何故手に6本の指を持っているように見えるのか?ダニのヌンク・ディミッティスは何故母親の胎内にいる間に交尾を済ませ、死んでしまうのか?何故ミッキーマウスが可愛らしく、悪役のモーティマーが憎らしく見えるのか?世紀の詐欺事件、ピルトダウン事件にテイヤール=ド=シャルダンは本当に関わっていたのか?ダウン症の事を「蒙古症」と呼ぶのは何故か?


こうした話題を通して、生物体の「不完全性」が、進化を見事に説明し得る事を、白日の元に明らかにして行く。その手腕はやはり只者ではない。

自然史のエセーというものは動物たちの特異性、たとえばビーバーの不可解な工事の仕方とかクモがしなやかな網を編む方法とかを記述するだけにとどまることが多い。たしかにそこには楽しさがあり、そのことを否定する人はいない。しかし、生物はみなそれよりはるかに多くのことをわれわれに物語ることができる。つまり生物の形態や行動は、それを読みとることを知ってさえいれば、一般的なメッセージを表現している。そして、この教えに用いられる言語は、進化論にほかならない。楽しさプラス説明が肝要なのだ。

プロローグにある著者のこの言葉は、本書の性格を最も端的に言い表している。

著者は、豊かな着想と非常に興味深いさまざまな話題を駆使しつつ、このエセー集を統一感のある全体としてまとめた。言い換えれば、本書はクラブサンドウィッチ式の構成m、つまり基礎となる4枚のパン(第一部、二部、五部、八部)に、肉や野菜の層を挟み込んだ構成になっている。そのパンとは生物進化の証拠、ダーウィン進化論と適応の意味、生物が変化する際のテンポと時間、生物の大きさと時間の尺度の関係である。

さらに著者は、このサンドウィッチを一本の爪楊枝─全てのセクションに通じる副次的テーマ─で刺し通した。それは文化的偏見と科学が不可分の関係にあるという認識で、この認識なくして科学を理解することは不可能だと、著者は主張している。

20220509

系統樹・分類思考の世界

『哲学する漱石』という夏目漱石と清沢満之の思想的関係を論ずる、哲学なのか文学論なのか宗教論なのか分からない本を読んでいた。実は清沢満之が出て来た時点で、この本は一度挫折している。私は清沢満之が大の苦手なのだ。読む時間が確保出来たので、再挑戦する事にした。何とか読み切った。だが分かったかと問われれば答えに窮するしかない。

私は清沢満之が言っている事が、腑に落ちた試しがない。

絶対的束縛即絶対的自由と言われても、日本語としては理解出来るが、その通りだ!と膝を叩くには至らない。

漱石の則天去私を理解するには、清沢満之の思想を理解する必要があると言う。

そうだったのか!これは困った。

どうやら私は夏目漱石を理解するにも至っていなかったようだ。

名指しで文学がわからない奴と言われたようで、どうにも不快感が残る読書となった。

何だか自分の読解力が元々なかったような気にもなって来て、どうにも収まりが付かない。突破口をどこかに求めなければと言う気分になった。

突破口として選んだのは、三中信宏さんの『系統樹思考の世界』と『分類思考の世界』だ。この2冊を一気読みする事を、いつか実現したいと思ってもいたのだ。

世界は多様性に富み、万物は流転している。そうした世界に私たちは生きている。生きている限り、私たちは世界を認識しようとする。

流転し、無常な世界をつらつらと眺めてみると、至る所にダーウィンの言う「変化を伴う由来(descent with modification)」を見出すのに、さほど苦労は要らないだろう。それらを時間軸に従って追跡してみると、そこには様々な系統が認められる。その系統を図に表現したものが系統樹なのだ。


『系統樹思考の世界』の中で、最初に強調されているのは、「進化」するのは〈生きもの〉だけではないということだ。

生物と無生物の別に関係なく、自然物と人造物のいかんを問わず、過去から伝わってきた「もの」のかたちを変え、その中身を変更し、そして来たるべき将来に「もの」が残っていく。私たちが気づかないまま、身の回りには実に多くの(広い意味での)「進化」が作用し続けています。

系統樹思考の考え方は、文系・理系の垣根を超え、様々な「もの」を理解する上で、強力な道具となる事が示唆されている。

本書では更に、歴史を「科学」として理解してゆく上で、アブダクションと言う推論の方法が有効である事が紹介されている。

物理学や化学など典型的な科学では演繹(deduction)と帰納(induction)と言う二種類の推論方法が用いられる事が多い。

第一の演繹では前提となるある主張から、論理的に別の主張を導くというタイプの推論だ。数学を思い浮かべると良いだろう。「この三角形は正三角形である」と言う命題からは、「この三角形は二等辺三角形である」と言う別の命題が演繹される。演繹的な論証の特徴は、前提となる命題が真である限り、そこから演繹された命題もまた真であるという点だ。

第二の帰納とは、観察されたデータを蓄積する事により、真である普遍法則が導かれるというタイプの推論だ。

ここで重要な論点が提起される。それは「データと理論の間にはどのような関係があるのか」という問題だ。生物学や地質学などでは、「経験に照らす」事が不可欠だ。だが、私たちが得る「経験(データ)」が完全無欠であることを、それは意味していない。むしろ、仮説や論理が間違う可能性があり、一方観察データもまた誤りや不確かさを含んでいるかも知れない。たとえ確実な観察データがあったとしても、対立仮説間の「真偽」に決着を付ける事は必ずしも出来ないし、そうする必要もまたない。私たちはデータと理論のいずれに対しても「真偽」を問う事はない。理論がデータと矛盾していれば「偽」、整合していれば「真」というような強い関係を仮定するのではなく、もっと弱い関係を両者の間に置こうという事だ。

ここで言う「弱い関係」とは、観察データが対立仮説のそれぞれに対して様々な程度で与える「経験的支持」の大きさを指している。

データと理論の間に想定されるこの「弱い関係」は、演繹でも帰納でもない第三の推論方法だ。

データが仮説に対して「経験的支持」を与えるとき、同じ現象を説明する複数の対立仮説の間で、「支持」の大きさに則ったランク付けをすることが出来る。あるデータのもとで、最も大きな「支持」を受けた最良の仮説を頂点とする序列だ。そして、経験的支持のランクがより大きい仮説を選ぶという基準を置くことにより、仮設選択の方針を立てることが可能になる。19世紀の哲学者にして記号論の創始者であるチャールズ・S・バースは、与えられた証拠のもとで「最良の説明を発見する」推論方法を「アブダクション(avduction)」と名付けた。

理論の「真偽」を問うのではなく、観察データのもとでどの理論が「より良い説明」を与えてくれるのかを相互比較する─アブダクション、すなわちデータによる対立理論の相対的ランキングは、幅広い科学の領域(歴史科学も含まれる)における理論選択の経験的基準として用いることができそうです。

さて、多様性に満ち溢れた世界。その世界を認識する時、私たちはどのように世界に立ち向かうのか?それを論じたのが『分類思考の世界』だ。


「系統樹思考」が「タテ思考」ならば「分類思考」は「ヨコ思考」である。分類思考は、オブジェクトの時空的な変遷に目を向けるのではなく、ある時空平面で切り取られた「断面図」のパターンを論じる。たとえば、生物多様性を分類思考的に論じるとすると、ある時点に特定の場所で観察される生物相(動植物の全体)が織りなすパターンを考えることになる。

系統樹思考が推奨される思考方法だったのに対し、分類思考は「ついしてしまう」思考形態とされている。

確かに私たちは生物のみならず、様々な「もの」をつい分類してしまい、そうする事で分かった気分にもなれる。私たち人間にとって分類することは根源的な行為のひとつである。「分類するは人の常(To Classify is human)」とは格言そのものだ。

だが、その分類を科学として行おうとすると、思わぬ難題に突き当たる。例えば「種」とは何か?

この様な基本的な事柄についてすらも、現代科学は結論を得ていない。

それらの難題に対して、本書は科学者にとっては禁忌とも言われている形而上学にも果敢に深入りして、分類を考察して行く。

狂言回しとして引き合いに出されるのは、アルチンボルドでありモーニング娘。であり、果てはNHK全国学校音楽コンクール課題曲であったりする。

私たちがついしてしまう分類という行為も、まともに考え始めると、ここ迄深くなるのかと驚く程、多元的な考察が繰り広げられている。

今回『系統樹思考の世界』と『分類思考の世界』を通読して感じたのは、三中信宏さん自身が『分類思考の世界』のプロローグで仰っている事に尽きる。

私の基本的な主張は、「タテ思考(系統樹思考)」と「ヨコ思考(分類思考)」はともに重要な車の車輪であるという点にある。多様なオブジェクトがかたちづくるタペストリーとして世界を理解するためには、そのタテ糸とヨコ糸を解きほぐしてみる必要があるだろう。系統樹思考と分類思考では問題設定がそもそもちがっている。どちらかひとつで事足れりというのは短絡的な考えといわねばならない。

読んでいて、思わず胸が躍った。お陰でようやく清沢満之の毒を、身体から抜く事が出来た。

20220425

Spotify Premium復帰

金のかかる事は一切出来なくなった。

その為、音楽配信サーヴィスSpotifyもfreeプランで何とか凌いで来た。

だが、普段月額980円のところを3ヶ月980円でPremiumに上げられるキャンペーンが始まった。これならどうにかこうにか手を出す事が出来る。かくしてこの度Spotify Premiumに復帰する事が出来た。

相変わらず古楽ばかり聴いている。

だがその気になれば


このように友人に貸したまま返って来ないお気に入りだったCD、チャールズ・ミンガスの「ファイブ・ミンガス」もCDを買い直さなくても堪能する事が出来る。

古楽ばかりを5年間程聴いていたら、耳が古楽に慣れ切ってしまった。

この頃その「恩恵」を感じる事がある。

古楽以外の音楽は基本的にラジオかYouTubeもしくはCDで聴く。

古楽に慣れ切った耳には、これが何とも新鮮なのだ。

具体的に言えば、従来昔の音楽としか聞けなかった古典派以後のクラシックも、驚く程新鮮に聴こえる。

ハイドンやメンデルスゾーンがいかに独創的で革新的な音楽を創造したのかと言うことなどが、はっきりと感じられる様になっていたのだ。

普段ジョスカン・デ・プレやジョン・ダウランドなどを聴いている。どれも限りなく美しい。この時代の音楽さえあれば、もう新しい音楽は必要ないのではないかなどとも思えて来る。

だが、音楽家たちは歴史を刻む。

ハイドンやメンデルスゾーンは、従来なかった独創的な音楽を、確かに創造したのだ。そしてBachは、古典派以前の音楽を集大成している。増してベートーヴェンやムソグルスキーなどは音楽に確かな革命を起こしている。

それらが皮膚感覚として理解出来る耳になっていた。

さらに今迄若干苦手意識があったシューベルトも「分かる」様になっていた。ようやくシューベルトのピアノソナタのCDを、思う存分楽しめる様になった。

もうひとつ変わった事がある。

安い音楽機材しか使って来なかった。なので私は音楽の音質にさほど敏感な方ではないと思っていた。

Spotifyのfreeプランでは、最高音質が選択出来ない。今迄はそれで十分だと思って来た。だが、この程Premiumに上げたところ、自動的に設定が最高音質になり、その事がはっきりと理解出来たのだ。

音の立体感や輪郭が全く違う。

持続して体験する事は、レベルの向上に繋がる。

とりわけ苦労して努力した訳ではないが、ずっと古楽を聴いてきた為に、いつの間にか音楽に敏感な耳が養われていたと言う訳だ。

これは思っても見なかった成果だ。

しかし困った面もある。キャンペーンは3ヶ月で終わる。つまり3ヶ月後には私はまたSpotifyをfreeに戻さねばならないのだ。

果たして我慢出来るだろうか?

20220424

いま言葉で息をするために

フランスの錚々たるメンバーの文章を、日本の錚々たるメンバーが訳している。

主題はCOVID-19だ。


多くの国で、人々は疫病を蔓延させない為に、家に閉じ込められ、隔離されて過ごさねばならない状況に落とし込められた。圧倒的な無為の時間。そこで人々は思考する事に活路を見出そうとした。

本書はその思考の記録である。

疫病が蔓延する度に、人々はその疫病について思考を巡らせる。それはひとつの定めの様だ。この本には多くの思想家、哲学者、歴史家などが、COVID-19の意味するものを探り、多彩な思考実験を繰り広げている。

この本ではそれらを思想・文学・歴史・宗教・人類学という単元に分類し、それぞれに訳者の解題を付けて、纏め上げている。

COVID-19の蔓延に伴って、世界はいやが上にも変わってしまった。では、何がどの様に変えられたのか?それらを見据える事は、そう容易い事ではない。

各論者はまるで病原菌を扱うような手付きで、その問題に立ち向かっている。私たちはそれを読み、自分が置かれている立ち位置を、慎重に確かめる。

この論集は、そうした知識人と私たちの密やかな対話になっていると感じた。

エマヌエル・コッチャを始めとして、今迄知らずにいた知識人を数多く知る事が出来た。これからの読書体験に、それは生かされるだろう。

それはCOVID-19がもたらした、最大の実りなのかも知れない。

20220422

チャールズ・ミンガス生誕100周年

 アメリカ合衆国のジャズ演奏家チャールズ・ミンガスは1922年4月22日にアリゾナ州ノガレスに生を受けている。つまり今日はミンガスの100回目の誕生日なのだ。

朝からソワソワしていた。この日が来るのを前々から知っていたので、いざ今日を迎えると、何をして良いのか咄嗟には判断出来なかったのだ。

取り敢えずミンガスのジャズを聴く事だけは決まっていた。さて、最初は何にしよう。

部屋のCD棚を漁って、持っているミンガスのCDを全部引き出す。

1枚目に決めたのは”Blues & Roots”


彼の誕生日を記念して、そのルーツを堪能しようと考えたのだ。

これは正解だった。ミンガスがどの様な根を持って、音楽に挑んで行ったのかが良く分かるCDになっていた。

チャールズ・ミンガスは音楽家として知られているが、黒人差別反対運動家としても知られている。そうした彼が、黒人の音楽を大切にしない訳がない。

次に掛けたのは”Charles Mingus Presents Charles Mingus”


ミンガスのトーン・カラーの魅力が最大限に生かされた名盤だ。

私にとって、チャールズ・ミンガスは特別な音楽家だ。彼の音楽ばかりを聴いていた時期もあった。椎名町の安い下宿には、彼のポスターがずっと貼ってあった。35年間に渡って、私は彼と対面して過ごしていた事になる。

さて、時間もCDもたっぷりある。今晩は彼の生誕100周年を祝して、特別な料理を作ろう。

祝祭はこれからだ。

20220421

マリア・ジビーラ・メーリアン

 大抵の場合、図書館の本は箱がある場合、それを取り除いて展示されている。ところがこの本では、箱が付いたままだった。箱にはマリア・ジビーラ・メーリアンが描いた彩色画が印刷されている。だが、表紙にはそれがない。恐らくその事が箱が残された理由だろう。この配慮には、私は最大限の感謝を捧げたい。絵があるかないか、その事はこの本の価値を大きく左右する。良くぞ箱を残して下さったものだ。


美しい本である。電子書籍が出回り、本そのものが売れなくなりつつある現在、この様に美しい本が出版された事自体、大きな驚きである。だがマリア・ジビーラ・メーリアンの業績を紹介するのであれば、その本は美しくなければならないだろう。

有名な方らしい。私は迂闊にも知らずにいて、この本でようやくマリア・ジビーラ・メーリアンについて知識を得た。昆虫や両生類の変態を初めて観察し、報告した事で知られている。

17世紀後半、世の中は観察の時代を迎えていた。

イタリアでは、ガリレオが恒星や惑星の研究に新発明の望遠鏡を役立てた。彼は地球が太陽を周回している事を確認し、それはアリストテレスの、太陽が地球を周回しているとする確信とは正反対の発見だった。

イングランドでは、ウィリアム・ハーベーが諸動物の静脈と動脈を切開し、血液は心臓の拍動によって身体中を循環している事と、2世紀ギリシャの医者ガレノスの、血液は肝臓で作られるという提言は誤りである事を証明した。

同じくイングランドで、アイザック・ニュートンは動いている物体を観察して、物体の落下は重力によるものだと断定した。

オランダではアントニ・ファン・レーウェンフックが、望遠鏡と並ぶもうひとつの新発明、顕微鏡を利用して、バクテリアや赤血球のように微小すぎて、それまでは絶対に見えなかった諸物を実験調査した。

そしてフランクフルトでは、13歳の昆虫好きの少女マリア・ジビーラ・メーリアンが「全ての芋虫は交尾を終えた蝶の卵からのみ生まれ出る」としてアリストテレスの自然発生説に挑んだのだ。

マリア・ジビーラ・メーリアンは採取した芋虫と蛹を家に持ち帰り、何が起こるのかを見ていた。中に入っているものを突き止めようと蛹を分解したり、蛹から出て来た蛾や蝶を研究したり、雌が卵を産む様子を観察したり、卵から芋虫が生まれるところを見ていたりした。彼女は研究帳に、各成長段階の絵を垂直に、或いは水平に並べて描いた。

それらの絵はことごとく正確でありかつ圧倒的に美しい。 

女子には学校へ通う自由がなかったこの時代、自宅で絵のレッスンを受ける事が出来た事、それは彼女にとって何よりの幸運であり、武器であり、財産だっただろう。線の引き方や絵の具の作り方から、彩色の方法まで、彼女は自由に学ぶ事が出来た。

だが、昆虫好きである事、それらを鋭くありのままに観察する、観察眼の確かさや鋭さは、彼女の天性のものだとしか思えない。

最初彼女は身近な芋虫から観察を始めるのだが、長じてスリナム迄冒険旅行に出掛ける事になる。

生涯にわたって、彼女の身の回りには、観察の対象が満ち溢れていた。彼女はそれらを注意深く観察し、独特のセンスでダイヤグラムに纏め、数多くの作品を世に出した。

それらの作品集は、調べてみると日本でも入手可能であるようなのだが、どれも高価で、とても手が出ない。

今回、比較的安価で、マリア・ジビーラ・メーリアンの作品と生涯に触れる事が出来る本が出版された事は、出版社の良心の結晶とも言える行為であり、貴重な書籍であると私は思う。

20220420

送別の餃子

 4月に入ってからブログを更新しなかった。図書館から借りている本に大著が多く、返却期限迄に読めるかどうか不安だったからだ。どうにか全てを読破する事が出来た。

読んだ本は大田暁雄『世界を一枚の紙の上に』、千葉雅也・國分功一郎『言語が消滅する前に』、陣内秀信・三浦展『中央線がなかったら』、矢島道子『地質学者ナウマン伝』、野矢茂樹『ウィトゲンシュタイン『哲学探究』という戦い』、原基晶『ダンテ論』、三中信宏『系統樹思考の世界』、スティーヴン・ジェイ・グールド『ダーウィン以来』といったところだ。

どの本も面白く、私の世界を存分に拡げてくれた。

今回採り上げる本は井口淳子『送別の餃子(ジャオズ)─中国・都市と農村肖像画』である。


実はこれ程早くこの本を読もうと、最初からしていた訳ではない。著者からtwitterでフォローされた。なのでお礼の意味を込めて、読み始めた。

当初題名から空想していた内容とは、大きく異なった。随筆的な内容を思い描いていたのだ。だが、読んでみると丁寧なフィールド調査を経て書かれた、内容の濃い本だった。

17年に渡る、著者と中国の関わり合いが描かれている。

文革終了直後から、著者は中国に入っていたらしい。

文中に頻繁に中国の難しい単語と読み方が入っている。それを覚えながら読むのにかなり苦労した。ことほど左様に、私は(そして多分私たちは)隣国中国を知らない。

この本には中国の主に農村地帯のフィールド調査の経緯が書かれているが、中国の農村と言えば難しい中国語の中でも厄介な方言が支配する所だ。中国語は堪能では無かったと著者は言う。それで単身中国の農村地帯に飛び込んで行く度胸の良さにびっくりした。

中国では、出会いの時に麺を作り、別離の時には餃子を作る。その事がそのまま題名になっている。同じモンゴロイドでも、日本人と中国人とでは、その心性に大きな違いがある。

日本人は優しさを重んずるが、中国語にはその優しさに対応する言葉がない。近い言葉として「親切(チンチェ)」「温和(ウエンハー)」「老実(ラオシー)」があるが、どれも微妙に優しさとは意味が異なる。

その中国で筆者は何度も死ぬ目に遭う。その度に現地の人々に世話になり、どうにか生き抜いて来たと言って良いだろう。

その著者が中国語には優しいという言葉がないと言うのだから、多分本当の事なのだろう。

本書には、佐々木優さんによるイラストが添えられている。これがなんとも言えない味わいを本書に与えている。これらのイラストなしでは、本書の魅力は半分も伝えられない。

20220401

フーコー文学講義

 フーコーが1983年に世を去ってから、今年で39年になる。現在、彼の哲学的営為の全容が明らかになりつつある。フーコーの生前に刊行された論文や対談を収録した『ミシェル・フーコー思考集成』の出版に続き、彼がコレージュ・ド・フランスに於いて行った講義録の刊行も2015年に完結し、その大部分が既に邦訳されている。また長らく未刊だった『性の歴史4』「肉の告白」も2018年に出版され、2020年には邦訳が刊行された。その一方で、フーコーの生前には刊行されなかった講演や、フーコーがコレージュ・ド・フランスに着任する以前に大学で行った講義録などの出版も進められている。本書『フーコー文学講義』は、そうしたフーコーの生前に未刊行だった講演のうち、文学に関わるものを収録した著作である。


フーコーの文学論は、彼の哲学的営為に於いて比較的マイナーな位置を占めるものとして扱われている。

では、フーコーと文学との関わりは、ヌーヴォー・ロマンをはじめとする前衛的な興隆を目の当たりにしたフーコーの一時的な気の迷いのようなものであって、彼の哲学的企図自体には関わらない二次的なものに過ぎないのだろうか?

確かにフーコーの著作や論文に加えて、コレージュ・ド・フランス講義録が刊行されている現在、フーコーのコーパス全体に於いて文学をめぐる論考が占める量は必ずしも多いとは言えない。しかし、分量的にはマイナーだとも言えるこれらの文学論は、フーコーの研究全体の中心的な主題である主体と真理という問題に極めて密接な形で関わっているのである。

本書第一章「狂気の言語」には1963年にフーコーが製作した同名のラジオ番組企画のうち、第二回と第五回放送が収録されている。第二回放送「狂人たちの沈黙」は、フーコーと番組の監督を務めたジャン・ドアとの対談という形式を採っているが、その内容は、フーコーが1961年に刊行した『狂気の歴史』、とりわけこの著作の狂気と文学に関連する箇所の一種の要約紹介となっている。この回でまず注目すべきはフーコーがニーチェ『悲劇の誕生』に由来する「ディオニュソス的な合一」という観点から、狂気をめぐるこれらの文学的経験を捉え直しているところだろう。

次に注目すべきは、フーコーが狂気をめぐる文学的経験を明らかにするものとして採り上げた文学作品が、狂気と理性の対話という構造を持つ点である。こうした対話はフーコーが狂気の近代的経験を特徴づけるものとして分析した、狂気と理性の弁証法的な関係、即ち、理性が狂気を対象化しつつ狂気のうちに疎外された人間の真理を見出すという弁証法的な関係に鋭く対立するものである。

本書第二章「文学と言語」には、フーコーが1964年にブリュッセルのサン=ルイ大学で行った、文学をめぐる二回にわたる講演が収録されている。

サルトルによって提示された「文学とは何か」という問いを引き受ける形で開始される第一回講演に於いてフーコーが提示するのは、近代文学の考古学である。

この講演に於いてフーコーは、文学は古代以来連綿と続くものではなく、18世紀末に生まれた近代の産物であると述べる。

古典時代の文学的経験と近代の文学的経験の間にはどのような違いがあるのだろうか?フーコーによれば、古典時代の文学的経験は、古代ギリシア・ローマの古典や聖書のような、真理を告げる聖なる書物を前提として成立していた。

聖なる原典と、それを復元する修辞学の後退と共に誕生した文学を特徴づけるものとしてフーコーは、侵犯、図書館、シミュラークルという三つの形象を採り上げ、それらをサド、シャトーブリアン、プルーストという三人の作家に歸している。

フーコーによれば、侵犯、図書館、シミュラークルというこれらの形象は、いかなる肯定性も持たない否定的な形象であり、近代文学はこれらの形象の間で引き裂かれているというのである。

本書第三章に収録されているのは、フーコーが1970年にニューヨーク州立大学バッファロー校で行ったサドをめぐる二回の講演である。

サド講演に於いてフーコーは、サドの著作を精密に読解することで、論理的観点から見れば矛盾を孕むように思われるサドの思索から、その哲学的な可能性を最大限に引き出そうとしている。その意味でこの講演は、1960年代を通じてフーコーが行っ肯定的なサド評価の極北を示すものであると言える。

フーコーが文学を通してとらわれていた問題。それは、我々をこのようにあらしめている歴史的規定から身を引き離し、いかにして他なる空間を創るかにあったのではないだろうか?

〈主体と真理〉という生涯の問題系に密接な関わりを持つものとして、彼の文学論は展開されている。

20220328

進化生物学

恐ろしい程高い密度を保った本である。進化生物学に関する情報が、この一冊の本の中に凝集されている。

加えて、図表や参考、コラムが充実しており、それを読み解くだけでもかなりの集中力と根気を必要とした。


本来ならばこの本を教科書にして、1年くらい掛けて解説付きでじっくりと取り組むべきなのだろうが、図書館から借りた本には返却期限がある。泣く泣く急ぎ足でざっと通読した。

しかし、急ぎ足で読めたのは、前にスティーヴン・ジェイ・グールドの『進化理論の構造」を読破しておいた事が大いに助けとなった。進化論の概要が頭に入っていたので、ゲノミクスに関する記述も恐れずに読む事が出来たのだ。

進化論の歴史から、無機物から原子生命体が形成されるメカニズム、生命の誕生、真核生物の出現、多細胞化と有性生殖の獲得、生物の陸上進出、エボデボ(進化発生生物学)と言ったトピックスを著者は手際良くまとめ、丁寧に解説している。しかもその内容が新しい。どのトピックも現在の生命科学の最先端を紹介していると言って良い。

今迄、曖昧だった概念がこの本によって明確な輪郭を与えられた事例も多い。原始生命体の発生と粘土鉱物の関係も、具体的に開設されており、やっと納得出来る科学理論として、私の中に定着させる事が出来た。

個人的には、動物の陸上進出のきっかけとして、オウムガイによる捕食圧が関係しているという解説には大いに納得するところがあった。

今迄生物の陸上進出は、シアノバクテリアや藻類の働きによって大気中に酸素が増え、それが宇宙線によって分解・合成されてオゾン層が形成されることで陸上に到達する紫外線が激減し、陸上も生物の生存が可能になったとする解説ばかりで、なぜ陸上化しようとしたのかの解説には全く出会っていなかったのだ。

この本で一通り進化生物学をゲノミクスによって解明するとどの様なストーリーになるかを学んだ後、巻末で進化重要語集として進化年代表や基礎的な用語の解説が纏められているのも嬉しい配慮だ。曖昧な理解だった事がこれではっきりと再確認出来た。

残念なのは充実した参考文献が最後に紹介されているのだが、それがどれもNatureやScienceといった科学雑誌や原著論文で、それを手に入れる環境に私がいない事だった。それが出来ればこの本はもっと深く読み込む事が出来るだろう。

だが、この本によって進化生物学やゲノミクスに関しては、かなりアップデートすることが出来た。充実した読書体験が出来たと思う。特にエボデボの進展によってもたらされた最新の成果を知る事が出来た事がとても嬉しい。

20220316

聖母の美術全史

大きく出たなぁ!という感想がこの本を手にした最大の理由だ。何しろ「全史」だ。普通の厚さの2倍は優にあるとは言え新書だ。その新書1冊の題名に全史を謳う。その度胸の良さが気に入った。


だが読み始めて、知識量の多さに流石に舌を巻いた。更に、論ずるところの範囲も、西洋は勿論として、南米、アジア、日本と網羅されており、時代も古代から現代に至っている。伊達に全史と名打っている訳ではないなと納得した。

キリスト教の中で聖母マリアは特別な位置を占めている。神ではない。ただの人間だ。だがキリストを産んだ。その事によって、独自な聖性を帯びるようになった。キリスト教の布教に於いて、聖母マリアは更に特別な存在となった。世界各地には、それぞれ独自の女神信仰を持っていた。その女神信仰と聖母マリアが合体し、聖母マリアは各地で深い信仰を集める事になった。

聖母信仰は当初から像と共にあった。ヨーロッパでは5世紀に神の像を描いたイコンが現れているが、それより遥か以前に聖母像は現れていたらしい。それはローマ郊外にあるカタコンベに描かれていたものだ。聖母像がいつ成立したかは分かっていない。何しろキリストの弟子ルカが描いたという伝承を持つ聖母像も存在するのだ。

当初1日もあれば読破出来ると踏んでいたのだが、思いの外時間が掛かった。それは聖母像を描写するその筆致が詳細で、微に入り細に入り描かれる聖母像の形式を読み進めるのに手間が掛かったからだ。オディギトリア型とかエウレサ型とかブラケルニオティッサ型とか言われても、そう簡単に頭に入って来るものではない。なぜそう呼ばれるかの理由も、勿論説明されているのだが、その読解にもかなりの忍耐力が必要だった。

かと言って、この本は聖母像の聖性だけを描いている訳ではない。

反ユダヤ主義との絡みも一節を使って解説されている。中世にペストなどの災禍が起こるたびに、ユダヤ人は敵視され、井戸に毒を流したなどのデマが流れ、虐殺される事があった。「磔刑」や「嘆きの聖母」の主題も、しばしばその陰でキリストを処刑したユダヤ人への敵意を喚起するものとなった。その背景には、十字軍や戦争、ペストの流行や経済の衰退といった社会不安があった。ユダヤ人はキリスト教徒の敵とされ、こうした不安や不満の捌け口にされたのだ。

教会内の聖画や聖像は教義上では神を見る窓に過ぎないが、多くの信者にとっては、像自体に聖性が宿っており、生きている存在だった。その作者が問われることは少ない。奇跡を起こす聖母像の多くは、土に埋もれていた、樹木に隠れていた、海から引き揚げられたといった、その発見自体が奇跡として伝えられているものが多く、それが作者や制作時期よりも重要だった。

この辺りは例えば浅草観音が海から引き揚げられたと伝えられている事にも通じ、世の中の信仰とは、洋の東西を問わず似たところがあると感じさせられた。

日本にも教会があり、そこには聖母像が飾られている。そうした意味で、身近な存在と思えていた聖母像の歴史も、深く掘り下げてみると、意外な側面が多かったり、知らない事だらけだったりだという事をこの本を読む事で知らされた。

また、良い本に出会う事が出来た。

ただ載せられている図版がどれも白黒で小さく、図の判読に苦労させられたのは残念だった。出来れば新書ではなく、図もカラーで大きく載せられる大きな本だったらと思わざるを得なかった。

20220307

進化理論の構造

その本が私の部屋に来た時、それは登れそうにない山、渡れそうにない河のように厳然と聳えていた。そして読み始めてすぐ分かったのだが、その本はただ単に巨大なだけでなく、内容も難解と言って良く、展開されている議論の密度も途方もなく高かった。


著者スティーヴン・ジェイ・グールドは、この本を書くのに20年を要している。まさにライフワークと言って良い。そうした本が、それほど簡単にモノにできるとは思えないが、それにしても立ちはだかるハードルは、途方もなく高かった。

それでも何とか読む気になったのは、同時期に三中信宏さんがこの本をお読みになっており、twitterで次々と「自己加圧ナッジ」をあげ続け、それを更に自身のブログ「日録」で再録してくださった事が大きい。加えて氏の著書『読む・打つ・書く』、『読書とは何か』は、この『進化理論の構造』を読み進めるに当たって、貴重で有効な助言となった。特に目次を全体の中のどこを今読み進めているかの位置を確認するマップのように使うという示唆は、実に役に立った。

昨年12月25日にこの本を読み始めて、2ヶ月近くを費やしてしまった。実際に読み終えるまで、自分でも読み終える事が出来るとは実感出来なかった。実際、途中で何度も滑落しそうになったし、遭難も仕掛かったが、その度に『日録』と目次に戻っては自分のいる位置を確認出来た事が、この本を読むという登攀行為を成し遂げられた大きな要因と言って良い。三中信宏さんにはこの場を借りて、深くお礼を申し上げたい。お陰で『進化理論の構造』という大山脈の登攀に、何とか成功した。

その三中信宏さんも申しているように、この本は読者を選びまくっていると思う。進化論について深く学び、考え、悩んで来なかったら、そしてスティーヴン・ジェイ・グールドの本を何冊か読み続けて来なかったら、この本を読み続ける事すら不可能であったと思う。

とは言え、この本の概要をブログサイズで纏める事は、私の力量を遥かに超えた作業である。スティーヴン・ジェイ・グールド自身がこの本の冒頭で、要約を挿入しているが、それすらも47ページもあるのだ。

読み進めていて、重要と思われる箇所にノードとしてブックダーツを挟み込んでおいたが、それを要約し、纏めるだけでも、一冊の本になるだろう。

別の章でスティーヴン・ジェイ・グールドは書いている。

本書はダーウィニズムの前提を拡張し変更する試みであり、拡張された独特な進化理論を構築する試みである。新たな進化理論は、ダーウィニズムの伝統内とそのロジックの下に留まってはいるが、小進化の仕組みとその外挿方式がもつ説得力の埒外にある大進化の現象という広大な領域を説明可能なものとする。しかもそれは、そうした小進化の原理が原則として一般理論の完全な集成を必ずや構築するのだとしたら、偶発性による説明に割り当てられることになるはずのものなのだ。

この本の書名についても説明が必要だろう。本書では冒頭から、ミラノ大聖堂という建築物のメタファーが語られている。現在の大聖堂は、14世紀後半に建てられたゴシック様式の基盤に、後にバロック様式が加味され、さらに最後には、未完の建物の屋上に幾つものゴシック様式の尖塔がナポレオンの命令で建造された代物なのだ。

このアナロジーと本書の書名の関係についてもスティーヴン・ジェイ・グールドに語ってもらおう。

ダーウィン流のロジックの核心部分は、変更を受けないまま、進化理論全体の最重要項目であり続けている。しかし進化理論の構造自体は重要な変更を加えられており、拡張や追加や再定義を重ねることで別の新しいモノへと姿形を変えている(核心部分から太枝が四方八方に伸びている)。ようするに「進化理論の構造」は、たくさんの変更を抱えつつも論理的首尾一貫性を保ち続けている複合体であり、知的な作業として、永続的な探究と挑戦に値する対象なのである。

この本は、全体がダーウィンへの深いオマージュでもあると同時に、自然淘汰説と漸進説を根幹とするダーウィンの進化理論を拡張する試みということになる。リフォームの主眼は階層論の導入という構造的なものであり、階層ごとに異なる進化の仕組みを導入することで大進化を説明しようとする壮大な試みということになるだろうか。

本書を読み進める中で、私はダーウィンのロジックを数多く誤解していた事に気付かされた。その意味では私にとってこの本は進化論のよき解説書の役割も果たしてくれたと思っている。もう一度『種の起源』を初版と第6版で読み返さねばならないと感じている。

20220222

読書とは何か

 「謝辞」で詳しく述べられている様に、本書は昨年出された『読む・打つ・書く』の子孫本と位置付けられている。私は『読む・打つ・書く』を昨年の7月に読んでいる。なので良心の呵責なく、本書に取り掛かる事が出来た。


だが、読み始めてすぐ、顔面を痛打されるような思いに出くわされることとなる。いきなり陶淵明の漢詩、雜詩其一が出て来るのだ。しかもその漢詩には真逆とも取れる2種類の和訳を当てられている。

読むという行為には大きな”落とし穴”があると私が言ったのはまさにこれだ。「歳月不待人」という漢文をたとえ私たちが読み下せたとしても、そのほんとうの意味や背景まで読み解けたわけではない。ほんのわずかな部分(一句5字)だけを見て、性急に全体(5字×2×8行×6行=60字。の意味を理解しようとすると、前に指摘された思わぬ”落とし穴"にはまってしまうことがある。すでに読み終えた部分からまだ読み終えていない全体について何かを推論することはつねにまちがいを犯すリスクを背負っている。

文字が読めたとしても、本を読んでいる事にはならないという事の例として、陶淵明の漢詩は使われているのだ。

ところが著者の三中信宏さんは読書とはつねに「部分から全体への推論(アプダクション)」であると主張している。

本の読み手は、既読の部分を踏まえて未読である本全体に関する推理・推論をたえまなく問い続ける。その推理・推論の対象である”全体”とは、その著書から読み取れる著者の主張を解釈することだったり、ある著者が依拠する知識全体を包括的に理解することだったりするだろう。

三中さんは本を選ぶ際、陥りがちな効率主義を注意深く避けている。本書は世にはびこる「読書効率主義」とは正反対のベクトルを志向するという。私に異論はない。望むところだ。

お手軽に知識を得る道はまちがいなく”地獄”に通じている。

私もそう思う。

本は広大な文字空間である。それを一望のもとに見わたすことは、それがとりわけ分厚い大著や専門書を手に取る時、読者はいま読み進んでいる部分が全体の中のどのあたりの位置を占めているのかに気をつけるよう心がけると、途中で挫折したり予期せず遭難したりするリスクを減らせるのではないか。そう三中さんは仰っている。

その例としてチャールズ・ダーウィンの『種の起源』が取り上げられている。

私にとって嬉しかったのは、遥か昔紹介されて(その時の紹介者も三中信宏さんだったと記憶している)以来行方不明になっていたベン・フライによる『種の起源』のインフォグラフィックのリンクが示されていた事だ。

ベン・フライによる『種の起源』各版の加筆修正プロセスの可視化(1)

ベン・フライによる『種の起源』各版の加筆修正プロセスの可視化(2)

このインフォグラフィックによって私は『種の起源』は各版によって、全く違う本と言って良い程書き替えられていた事を知った。

三中さんはインゴルドを引きつつ、読書は狩りであると表現する。

狩猟者としての読書を遂行するに当たって、三中さんはその読書のチャートとなるべく、目印或いは痕跡としてのノードを残す事を勧めている。

本のマルジナリアにあれこれ書き込んだり、備忘のための付箋紙を貼り付けたりする行為だ。

圧倒的な極貧に喘いでいる私は、現在本を買う事を禁じられている。本は専ら図書館を利用して工面している。なのでマルジナリアにメモを書き込む事は出来ない。印字が剥がれる恐れもあるので、付箋紙も利用しない。しかし昔購入しておいたブックダーツという薄い金属製のクリップをページに挟む。これをするかしないかによって、その読書の質は大きく違って来る。読書にノードは必須なのだ。

更に三中さんはこれらのノードを互いに結びつける連鎖として、「チェイン」、階層構造を示す「ツリー」、そしてより複雑な「ネットワーク」を提唱する。

これによってひとつひとつの断片だったノードが、まとまりを持った体型とみなす事が出来る様になる。

ここを起点として三中さんは続く章を用いて、読書に関わる様々な大技・小技を紹介して下さる。例えば

(1)一歩ずつ足元を見て先を進む

(2)ときどき休んで周囲を見回す

(3)備忘メモをこまめに書き残す

どれも非常に参考になる態度だ。

更に自己加圧ナッジとして、twitterを使った読書メモを公開している。

このtwitterを使った自己加圧ナッジは、今読んでいるスティーヴン・ジェイ・グールド『進化理論の構造』を三中さんがお読みになっている時目撃し、大変参考になった。

中学生の頃、現代国語を教えて下さった松岡先生は、授業の時、教科書の文章を各段落に分け、段落毎の要約を書かせるという作業をずっと繰り返し続けて下さった。最後の授業の時、先生は、これから先何冊も本を読むだろうが、やることは、今まで授業でやって来た事に尽きるとおっしゃっていた。その通りだと思う。

文章を各段落に分け、その段落に書かれている事を短かな言葉にまとめて、それを更に幾つかの段落をまとめたものに応用して行く。そうした地道な作業を繰り返して行くしか、本の内容を理解する方法はない。

三中さんの自己加圧ナッジも、それをtwitterを用いてやるという事であって、誰でもやる事は基本的に通じ合うものだという思いを深くした。

本書を通じて、三中信宏さんは、自分がどのようにして本と付き合って来たかを開陳して下さっている。それぞれの読み方は、全てを真似できるものではないが、大いに参考になった事は間違いない。

耳の痛い提言もあった。数式を言葉として読むように三中さんは指導していらっしゃる様だが、私は過去数十年の間、それを目指しながら未だに出来ずにいる事だからだ。だが、これも無闇に先を急がずに数式をじっくりと噛み砕きながら読めば、実践可能な事の様にも思える。機会を見つけて試みてみよう。

本の狩猟の仕方を解いてきたこの本も、第4章に至って、面白い方向に進路を取る。読まない事も読書だと言うのだ。

この本『読書とは何か』は当初『一期一会の読書術』と言う題名だった。この辺りの感覚は、少し本に親しんで来た者には、直感的に理解出来る筈だ。本との出会いはまさに一期一会の運命に似た出逢いそのものなのだ。読書家はその事を体験的に理解している。と言う事は、既に手元にあっても、その本との出逢いの時はまだ熟しておらず、もっと先である事もあると言う事だ。

それは取り逃した狩りなのかも知れないが、そうした狩りも世の中にはあろう。

私は図書館から借りたものの、読む機会を逃し、読まずに返却してしまった本を多く抱えている。それは図書館の貸し出しカードとして、手元に残っているが、毎月新しい本を予約するため、リベンジ出来たものは数を数えられる程しかない。まして今の様に読むのに数ヶ月を要する本を抱え込んでしまった時などは、読み逃した本だらけになる。県立・市立の両図書館から本を借りているが、1月の本は自分でもワクワクする程充実したものだった。だが、にも関わらず、その殆どを読まずに返却してしまった。そうした本は見逃した夢のように、記憶が身体に染み込む。そうした出逢いもまた現実としてあるのだ。

私がamazonで開いている仮想本屋の店名は蟻書房という。蟻が餌をひとつずつ巣に運び込むように、私も一度に一冊ずつしか本を読む事は出来ない。そうした自省を込めた心算だ。毎日、読んでみたい本は見つかる。私は図書館からそれを借りるべく、ノートにそれらを纏めている。もうそのノートも4冊目になった。当然の事ながら、本を読むスピードより、本を見付けるスピードの方が早い。読むべき本はどんどん溜まってゆく。

圧倒的に時間が足りない。

だが、何事にも言える事だが、焦りは禁物だ。

蟻書房発足の初心に常に帰って、一冊ずつ本を読む行為を繰り返してゆくしかなかろう。

その時私は、本に対し、どれだけ狩猟者の姿勢を保っていられるだろうか?

本書『読書とは何か』は、幾つもの本読みのヒントを示してくれたが、私に与えられた最大の指針はその事だった様に思える。

読書は探検であり、旅でもある。そして読書は常に狩りなのだろう。読書の世界は、ひとりでは尽きせぬ程広大だ。だが、読書は常に孤独な行為でもある。その孤独な行為を、本書はそっとしかししっかりと支えてくれる存在であるように、今は思えている。

20220207

ヒトの壁

何よりもまず、スティーヴン・ジェイ・グールド『進化理論の構造』を読み進めなければならない。これが今の所の至上命題だ。だが、現実にはこれに様々な邪魔が入る。

まず邪魔で仕方なかったのはSNSだ。特にFacebookとInstagramがいちいち邪魔をして来た。Facebookで同一の友人が100人もいたら即フォローでしょう。そんな投稿が目に入った。そういうものなのかと倣ってみる事にした。意外にも、これが矢鱈と多い。次から次へと友人申請を出さねば追いつかなくなった。あっと言う間にFacebookの友人が4.618人に膨らんだ。上限の5,000人に届こうとしている。これはやってられない。と慌てて友人申請を止めた。そうこうしている間にInstagramの投稿が溜まる。これも律儀に見に行く。これをやっていると、時間はズタズタに寸断され、まとまった読書の時間が取れなくなる。

自分で始めた事とは言え、SNSは時間泥棒だとつくづく実感した。

メールが届く。市立長野図書館からだ。予約の準備が出来たと言う。見てみると養老孟司『ヒトの壁』だ。困ったな…。ひとり呟いた。


養老さんからは学生時代、解剖学を教えて貰った事がある。まだ知る人ぞ知る存在で、それ程売れてなかった頃だ。考え方や目の付け所に切れ味があり、没頭した。『形を読む』は地質の地層を読む作業に通じるところが多く、何度も読み返した。

講座が終わり、養老さんと接する機会は激減した。だが、私は一方的に養老さんの本を読み続けていた。

そのうちに『バカの壁』が出た。途端に超売れっ子になった。養老さんの実力からすれば、売れても不思議ではない。だが、こんなものがなぜ売れるんだ(東大出版会代表時代の養老さん自身の言葉)と呟いた。それ以前の本に比べたら、書いてある内容が薄く、毒にも薬にもならない。だが、売れると言うことは恐ろしい事で、養老さんの著作は、以後『バカの壁』の路線で行く事になった。昔からのファンならば、誰でも思うのだろうが、残念で仕方がない。

どうしよう。少し迷った。一度は諦めて、予約を保留にもした。だが図書館のHPを見てみるとその後の予約が36人もいる。今を逃したら今度いつ読めるか分からない。それにもしかしたら以前の鋭さが戻っている可能性もある。予約保留を解除し、借りて読む事にした。この辺りが図書館で本を読む事の泣き所だ。

先程読み終えた。以前の養老孟司には戻っていなかった。それどころか、書く事に対する切羽詰まった思いとか、緊張感が全く欠けている。どうしたのだろうか?その想いはあとがきを読んで解消された。

普段なら、言いたいことがたまって、それを吐き出すように本にするのだが、今回は珍しく日常生活と同時進行みたいな内容になった。たまったものがないから、そうなったのである。

なるほどそういう事か。妙に納得した。

COVID-19騒ぎで殆ど蟄居している養老さんに、編集者が書かせたのだろう。

文体はいつも通りだ。これは安心材料。だが、書かれている内容がいつも通りなのは残念な所だ、いつも同じ様な事を言っていると言う事だからだ。だが、だから売れている。そうした面も否定できない。

養老さんは良かったと総括しているようだが、大学を辞めた事は吉か凶か?養老さんの文章はいつもその時代に帰る。インプットの場が大学だったのだろう。それを辞めて、インプットの場がなくなった。そう思える。

今回はそれにCOVID-19に関する雑感が加わっている。それと愛猫まるの死。新たなインプットがそれだけだったのかも知れない。

だが、相変わらず良く本をお読みになっていらっしゃる。引用されている本について調べていたら、時間が食った。私は80歳になった時、これ程本を読んでいるだろうか?甚だしく心許ない。

この本に2日もかける必要があったのかどうか?そして、このように感想を纏める必要があったのかどうか?それは判じものである。

急いで『進化理論の構造』に戻らなければならない。明らかなのはその事と解剖学者養老孟司はもういないという事だけだ。

私の中で養老孟司は過去の人だ。

20220131

進化理論の構造I読了

大きな出来事があった。その影響でただですら進まない読書がまるまる2週間空白となった。本を読み、音楽を聴くそんな日常が戻った後も、中断していた『進化理論の構造』に戻れるのか、かなり気を揉んだ。だが熱中して読んでいた本は、記憶にも深く刻み込まれていたようで、何とか中断していた箇所からの読書を続ける事が出来た。

そして先日1月29日、ようやくスティーヴン・ジェイ・グールド『進化理論の構造I』を読み切る事が出来た。

双極性障碍を病む私は、達成感を得にくい体質になっている。何かを成し遂げても、満足感がなく、苦痛だけが残る事が多い。だが、流石に今回は一山越えたという達成感が押し寄せるのを十分に感じる事が出来た。


日記によると、『進化理論の構造I』を読み始めたのは昨年の12月25日。1ヶ月以上の時間を費やしてしまった事になる。

2017年の年末から4ヶ月掛けて、ハンナ・アーレント『新版全体主義の起原』を読破した事がある。今回はそれに続く大著への挑戦になっている。

同時期に本書を読んでいた三中信宏さんによると、この本は読み手を選びまくっていると言う。私にこの本を読む資格があるかどうかは、甚だ心許ないが、進化論に関しては、それなりに熱心に学び、悩んで来たという自負はある。本に書いている事を拾い集め、精一杯の力で、何とか付いて行く事は出来るだろう。

とは言え、何と言っても今はただ第I巻を読み切ったと言うことに過ぎない。Iは808ページあり、IIは1,120ページある。

まだ山で言えば五合目にも達していない段階なのだろう。

だが、気分は盛り上がっている。Iを読み終えた余韻も醒めぬうちだが、休息を挟む事なくIIを読み始めている。

IIはまた幾つもの急所・難所に満ち溢れているだろう。

ここに来て、COVID-19の変種オミクロン株が凄まじい勢いで拡がり、その煽りを受けて図書館が休館に追い込まれている。だが、訊いてみると貸し出し・返却はどうにかこうにか出来るようだ。連続して継続で借り出せるように、この本の所蔵先として県立長野図書館を選んでいる。もう一度延長手続きは済ませている。だが、後1、2回程度の延長では済むまい。暫くは借り出しも本書に絞って、本書に集中したいところだ。

前半を読んだところだが、もう既に私のダーウィニズムに対する誤解が幾つも、この本によって暴露されている。後半も幾つもの思い違いや勘違いに気付く事が出来るだろう。

進化論を本格的に学び始めてもう半世紀ほどが過ぎるが、まだまだ学ばなければならない事はごまんとある。厳しいと感じるが、同時にちょっと嬉しい気持ちもある。

20220104

Rocks of Ages

本棚に『時間の矢・時間の環』があり、本代が浮いた話は既に書いた。

私はこの事の本質を間違って解釈しているようだ。

もし『時間の矢・時間の環』を買うとしたら、とんでもない金額の本代を支払わなければならない。だが、この事は別に私に臨時収入があったという意味ではない。私はここのところを大きく間違って解釈している。

気が大きくなってしまったのだ。

スティーヴン・ジェイ・グールドの最後のエッセイ『ぼくは上陸している』が刊行されたのは2011年の事だった。私はすぐにそれを入手し、読んだ。読みおわっった後、これでスティーヴン・ジェイ・グールドの新刊は読む事が出来ないのだと考え、無性に寂しい思いをした事を覚えている。

だが、ここに来て、『進化理論の構造』が訳された。

まだ読んでいないグールド本があるのだ!

私は欣喜雀躍した。

すぐに図書館にリクエストし、今それを読んでいる。

またスティーヴン・ジェイ・グールドの本を読める。これは私にとって何にも変え難い喜びだ。だが、ここ迄は要求していなかった。

『進化論の構造』はIとIIに分かれており、それぞれがまるで辞書のような分厚さを持っているのだ。まさに鈍器本と呼ぶにふさわしい本である。

しかもこれはスティーヴン・ジェイ・グールドの研究書であり、普段読んでいたエッセイとは趣が異なる。ただ巨大で分厚い本というだけではない。書かれている内容は、その密度がとんでもなく高いのだ。

巨大な本は遅々として進まず、今ようやく第2章の第3節を読み終えようとしている所だ。

本を読むのが遅い。その自覚はあったが、ここ迄来るとさすがに苛立って来る。

出来心で英語版WikipediaでStephen Jay Gouldを検索し、調べてしまった。

Wikipediaには彼の著作の一覧がある。

何と!まだ未訳の本があるではないか。

その中で、”Rocks of Ages”と題された本が妙に気に掛かった。副題はScience and Religion in the Fullness of Life。魅力的だ。


いい世の中になったもので、洋書もamazonで結構入手出来る。何しろ古書代数千円が浮いているのだ。気が大きくなっていた私は、思わずKindle本を買ってしまった。1,406円だった。

意外と安い。

貧乏なのを忘れて(何しろ気が大きくなっているのだ)私はそう思ってしまった。

いかんいかん。『進化理論の構造』を読まなければ。

気を取り直して、また今読んでいる本に戻った。

本の中にチャールズ・ダーウィンの『人間の由来』が出て来た。まだ未読だ。

図書館を調べてみる。

ない。

そうなると居ても立っても居られない気分になる。加えて、何しろ私は気が大きくなっているのだ。amazonを検索すると長谷川眞理子訳で、講談社学術文庫が出ている。これもKindle本がある。これも購入してしまった。上巻・下巻合わせて3,231円で買えた。

気が大きくなっているだけではなかった。私は遅々として進まない『進化論の構造』から逃避もしようとしていた。

次に日本語版Wikipediaでスティーヴン・ジェイ・グールドを検索した。参考文献にキム・ステルレニー『ドーキンスvs.グールド─適応へのサバイバルゲーム』が載っていた。これも図書館にない。これも購入。

購入した本は、あっと言う間に5,000円を超えようとしていた。

冷水を浴びたような気分になり、肝を冷やした。いくらなんでも散財が過ぎる。

慌てて、また『進化理論の構造』に戻った。

正気を取り戻してもKindle本は返品が効かない。どうしようもない。買ってしまったものは読むしかないだろう。

だが、買う時はスティーヴン・ジェイ・グールドの原文を味わえるのだ!と喜んでもいた私だったが、さて、Rocks of Agesとは何と訳したら良いものなのか?翻訳サイトで調べても埒が明かない事が分かっただけだった。果たして私はこの本を読む事が出来るのだろうか?

20220102

新・映像の世紀

昨年末にNHKプラスで『新・映像の世紀』を一気見した。

2016年に放送されたものの再編集版だ。NHKはよほどこの番組に自信があるのだろう。BSでも90分の再編集版を放送しているし、今回また地上波のNHKスペシャルで再放送された。

動画による記録が始まってから100年が経つ。映像は、その100年間を記録して来た。この100年とは、どのような100年だったのか?それを記録されて来た映像を振り返る事で検証しようというのが、この番組の骨子になっている。


最初に登場するのは第一次世界大戦だ。

この戦争は従来の戦争とは、全く別の戦争となった。科学が戦争に動員され、人間の尊厳を根こそぎ葬り去る破壊力を持った戦争だった。

そして、第一次世界大戦は、映像に記録された、最初の戦争でもあった。

映像は、その発端から展開、終結に至るまでを、丹念に振り返っている。

誰もが、ほんの数ヶ月で戦争は終わると思っていた。だが、複雑に入り組んだ同盟関係や新兵器の登場が、戦争を途方もなく長い、悲惨なものに変えた。

まさに100年の悲劇はここから始まったのだ。

ここから現在に至る迄の世界の実像を、映像は着実に記録して来た。

初めて見る映像が多かった。

初めて知る事も多かった。

「そうだったのか!」と何度も独り言を繰り返した。

編集された映像は、そのまま現代史となっていた。

NHKは毀誉褒貶が激しいテレビ局だ。だが、この番組を見る限り、NHKには良い番組を作る力は確実に残っていると判断して良いのではないかと思った。

この1世紀に何が起きたのか?何故起きたのか?を、映像は説得力を持って、記録して来たのだ。それは今迄信じて来た虚像を、根底から覆すものでもあった。

だが、ふと思う。その虚像もまた、映像によって作り上げられて来たものではなかったか?

映像は諸刃の剣なのだと思う。真実も映し出すが、虚構もまた成立させてしまう。

私たちは過剰な迄に溢れる情報に対するリテラシーを、しっかりと持ってゆかねばならないのだろう。そうでなければ、その情報を操る者に、一方的に踊らされるだけだ。

番組は最後に、現在という時代が、誰もが被写体であり、誰もが制作者であるような、新しい映像の世紀に入った事を宣言して終わっている。

誰もが、その諸刃の剣を手にしている時代なのだ。