西から大雨をもたらす雨雲が近づいている。秋雨前線の雨だという。
立秋はとうの昔に過ぎ、夜にはコオロギの声も聞こえ始めた。秋の気配が確実に近づいている。だが昼間はまだ暑く、蝉の声も絶えない。
そろそろアレの出番かと思い、本棚から引っ張り出して来た。
アレというのはアーダルベルト・シュティフターの『晩夏』のことである。
夏の終わりにアーダルベルト・シュティフターの『晩夏』を読み、真冬に鈴木牧之の『北越雪譜』を紐解く。そうした習慣が出来てから10年が経つ。
余りに暑かったので、出遅れの感があるが、そろそろ『晩夏』を読み始めないと本格的な秋になってしまいそうだ。
暑さと鬱で余り本を読む事が出来ずにいる。
今読んでいるのはスティーヴン・ジェイ・グールドの『がんばれカミナリ竜』だ。進化論をめぐるエセー集も第5集目に入った。
第1集の『ダーウィン以来』の頃は上下巻を2日で読んでいた筈なのだが、この頃は2週間位掛かる。グールドの責任ではない。むしろエセーは日増しに洗練され、筆致は鋭くなっている。読み進めるのが遅くなっているのは、主に私の側の問題だ。
エセー集を中断する事に不安はない。いつでも戻って来る事が出来るだろう。だが、本が読めない状態が続いている事に関しては、酷く不安を感じる。
『晩夏』をいつもの様に読む事が出来るだろうか?
案ずるより産むが易しと言う。実際に読み始めれば、どうにかなるだろう。そうした楽観も心のどこかにある。だから不安なく『晩夏』を本棚から引っ張り出して来る事が出来る。
かれこれ15回以上は読んでいる。読み始めても何か新しい事に出会えるとは思っていない。実際何も起こらない。
だが元々どれを読んでも同じような作風の作家だ。
かえって安心して読書を進める事が出来る。
物語はゆっくりと、急ぐ事なく、静かに進んで行く。私はその物語に心ゆく迄身を委ねるだけで良い。
この作品はトーマス・マンが
世界文学のなかでも最も奥深く、最も内密な大胆さを持ち、最も不思議な感動をあたえる。
と評した本である。
ニーチェも
再読三読に値する
と言っている。
この頃奇妙な緊張感に取り憑かれている。それが読書の足を引っ張る原因のひとつにもなってきた。このアーダルベルト・シュティフターの悠久な作品に浸る事で、その緊張感からも開放されるのではないか?そうした期待感も実は持っている。
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