20260606

ヴァレリー・セレクション

苦手と言う訳ではないが、畏れていて手を出せずにいる作家群がある。

尊敬して止まない方に止められていた事もあり、ポール・ヴァレリーはその筆頭とも言える存在だった。ルートヴィヒ・ヴィトゲンシュタインが意外に「読めた」ので、それに気を良くして本棚から『ヴァレリー・セレクション上・下』を引っ張り出した。


恐る恐るページをめくると、冒頭に訳者まえがきとして「ヴァレリーを読むよろこび」という文章が置かれていた。

世の中には畏れるのではなく、ヴァレリーによろこびを感じている方もおられるのだ。

かなり勇気付けられた。

学生の時分に初めて『ヴァリエテ』のなかの一作品を読んだとき、こんな面白いものがあるのかと思い、邦訳にして上下巻あわせて千ページをこえる人文書院版『ヴァリエテ』の全作品を一気に、時間的には半年から一年をかけてほんとうに丁寧に、熱中して、読んだのです。

とある。

私にもその面白さが分かるかも知れない。

すぐに図に乗った。

早速ヴァレリーの文章に取り掛かった。

読み始めてすぐに感じたのは、畏れていた程ではないと言う事だった。


だが、明晰な語り口を「楽しむ」為には、相当深く広い教養が必要だと言う事は私にも分かった。

知っていて当然の様に、古典が仄めかされている。しかも、文系の教養だけではなく、科学的知識に関しても、ヴァレリーは深い造詣を持っているのだ。

書かれた当時の、国際問題にも、ある程度知識を持っていないと、文章全体が何を言わんとしているのか分からない作品も多い。

これ等の文章を学生時代に読んで、「こんな面白いものがあるのか」と感じる訳者の方々は、どれ程の教養の持ち主なのだろうか?!

若い頃、背伸びしてヴァレリーを読み散らかしていたら、私はどれ程浅い読書体験で満足してしまった事だろうかと、少し背筋が寒くなった。

更に驚くのは、ヴァレリーが生きた時代にあって、現在に通ずる抜きん出た見通しを、彼が既に持ち合わせていたという事実だ。

これはこれ等の文章が書かれた時代には、決して理解する事が出来なかったであろう、ヴァレリーの優れた一面だと嘆息した。

私は今のこの年齢でこの時代にヴァレリーを読めた幸運を、深く噛み締めた。

良いタイミングで、ヴァレリーを読み始める事が出来たと思う。

読み終えて、私は薄っすら汗ばんでいた。

20260603

薔薇のイコノロジー

とことん調べ尽くされている。

人類は古代から花に様々な寓意を込めて来た。それは明らかな事。だがその実態はどうだったかは意外に明らかにされて来なかった。

著者若桑みどりは豊富な文献と作品の画像を駆使して、薔薇を中心として花の持つ寓意の実際を、個人、時代、そして洋の東西を越えて人類に共有されて来た経緯として見事に纏め上げている。


それは薔薇と聖母の深く長い関係の歴史を紐解くところから始まり、グロテスクの系譜に立ち寄る事でその幅を大きく拡げ、花の復権に至る意外性に満ちた一大精神史である事が、しっかりした裏付けを伴った形で示されている。

SNSなどではしばしば非現実的な、見通しの甘い、希望的観測に満ちた見解を「お花畑」と揶揄する事がある。だが、人類の美術史などは、まさにそのお花畑を維持する為の労苦の連続であったのであり、実際にお花畑を維持する時に費やされる手間暇は、ちょっと考えただけでも目が回る。

人類は、薔薇を始めとするそのお花畑に、美しさはもとより極めて困難な愛と生命の寓意・象徴を込めて表現して来たのだ。

その実現に、意識が遠のく様な長い時間が費やされて来た事実は、注釈に並べられた幾多の美術論文献のリストを見れば、すぐに理解出来るだろう。

惜しむらくは本文中に引用されている数多くの絵画の写真がモノクロである事だ。口絵に、代表的な作品の幾つかが、カラーで示されているが、これだけでは勿体無い。

図に付けられたキャプションを基に、Webで検索する事で、殆どの作品をカラーで見る事が出来たが、この手法は誰しもに薦められるものではない。とてつもなく時間を必要とする作業だったからだ。

しかし、ここに薔薇の、そして蓮の、菊のイコンが示す意味の全体像が明らかにされた事は、それが持つ意味を振り返っても途方もなく大きい。

この本を読んで以降、私は絵画の持つ意味をより具体的に、そしてより多くを理解出来る様になった。

だが同時に、もはや薔薇を迂闊に描く訳にも行かなくなった。

20260529

ヴィトゲンシュタイン

最初に『哲学探究』を手に取ったのは1週間前、22日の事だった。これと言った意図もなく、ただ図書館から借りて来たと言うのが動機だった。

だがちっとも分からない。かなり焦りを感じながらベージを繰った。

そのうちにどこが特に分からないかが見えて来た。ヴィトゲンシュタインの前著『論理哲学論考』を引いてある箇所が全く理解出来ないのだ。

それも当たり前の事。私は『論理哲学論考』を今迄に読んだ事がない。

2日が過ぎていた。急いで本棚から『論理哲学論考』を引っ張り出した。


噂には聞いていた。難解であると。だが実際に読んでみると、私にはその難解さが感じられなかった。

シンプルな言葉が連なっている。そしてそれらは極めて緻密な論理構造を形作っており、頭に数字が記された短文が入れ子細工の様に並べられている。

私には、その構造がとても美しいものと感じられた。

確かにその論理は読み易い形で書かれたものではなかった。文意を読み取り、そこから意味を引き出すのはかなり時間が掛かった。

解説でヴィトゲンシュタインがこの『論理哲学論考』を書くに至った背景を知り、彼がこの著作を紡ぎ出すのにどれだけの覚悟があったかを理解出来た事も大きかった。

彼は人生の全てを賭けて、哲学を「片付け」ようとしたのだと思う。

『論理哲学論考』を読み切り、最後の有名な

語ることができないことについては、沈黙するしかない

に辿り着いた時、私はようやくヴィトゲンシュタインがこの結語に至る迄にどれ程の論理を必要としたかが理解出来た。

続いて『哲学探究』に戻った。

だが、先に読み掛けの箇所から読んでも、拉致が開かない事が分かった。私は前回殆ど理解する事なしに、『哲学探究』を読んでいたのだ。しかも読んだ箇所も全く覚えていなかった。

冒頭に戻り、再読を開始。


『哲学探究』の最良のガイドブックは『論理哲学論考』だという言葉がある。

私はその言葉の意味が極めて良く分かった。

今度は『哲学探究』が分かるのだ。

『哲学探究』に使われている言葉は、『論理哲学論考』の様な結晶の様な美しさは無い。ヴィトゲンシュタイン自身が言うように、その言葉は「ざらざらしている」。

だが読み進めて行くうちに、私には『哲学探究』にはそれなりの、大理石の様な美しさがあると感じた。

『論理哲学論考』も『哲学探究』も、それぞれの単体では、何の為の著作なのかつい見失ってしまう。そこには深い論理だけがあるからだ。

だが両著作は、私がこれ迄に読んで来た、全ての哲学書を総動員させて取り掛からなければならない深い内容が存在していた。

無茶を承知で取り掛かった事だが、『論理哲学論考』と『哲学探究』を続け様に読んで見て、私にはそれが極めて有効な読書法だったと、今になって感じる。

少しでも気を抜くと、滑落してしまいそうな、厳粛な綱渡りの様な読書体験だった。だが両者を読み終えて、今の私には読書という暗闇の中の旅に必要な、確かなオリエンテーションが備わった様な充実した力を感じている。

両者を読み切って、本当に良かったと感じている。

20260518

3934km

フアン・カルロス・ケサダス『1934lkm国境を越えて』。

3934kmは主人公ネコが国境を越える迄に旅した距離の総計。

旅の殆どを支配しているのは、想像を絶する、過酷な運命だ。

多くのラテン・アメリカの人々がより良い未来を求めて合衆国を目指して過酷な旅に身を投じている。彼らの殆どは危険を承知で国境を越えた「書類のない」移民だ。


著者フアン・カルロス・ケサダスは述べる。

まだ九歳か十歳のイレーネをこれほどの暴力下に置くのはさすがに行き過ぎではないかと思った。そこで筆を止め、移民の子どもたちの現実がどのようなものか調べてみた。そして胸が張り裂けるような思いになった。僕が書いたもののほうが、むしろ控えめだったのだ。

読者は、ここを出発点にこの本を読まねばならない。

この本の主人公マリア・イレーネ・マダリアガ・マダリアガ通称ネコはラッキーな方なのだ。

私たちは、と言うより私は、移民の実際を殆ど知らない。そしてそれ故に時に理不尽な差別意識を抱いて彼らを見る。

この本に書かれているネコの物語を要約することは私には出来ない。まだ少女期が始まったばかりと言える年齢の彼女らの置かれている状況は、極めて過酷で高密度な削る余地のない時間の集傀なのだ。

彼女らは身の安全を期する為に昼間樹の上で眠り夜歩く。彼女らが常に追われている存在だからだ。

そしてナイフにバートという名前をつけ肌身離さず持ち歩く。

警戒している事。攻撃的である事。それが彼女らの基本姿勢になる。

殆どの人々から追われている様な生活。私たちにはそれを想像する生地があるだろうか?

時に、味方してくれる人も居る。彼らは「身に覚えのある」人々だ。

この本に、ハッピーエンドを期待する方々にはこの本はお勧めしない。確かにラッキーにも彼女らは数々の助けにも力を借りて国境越えに成功する。だがそこで苦労は終わる訳ではあるまい。彼女らを待ち受けているのは、また別種類の苦難なのだ。

私たちは彼女らを味方する側に身を置いていない。彼女らを追う側に、安住している。

20260515

エクソフォニー

日本語とドイツ語の間を軽々と越境し続ける作家、多和田葉子の様々な言語を巡る思い巡らし。

夢は日本語で見るのか、ドイツ語で見るのかと、良く質問を受けるらしい。著者はその質問に不快感を隠さない。

日本語が本物なのかドイツ語が本物なのかと、人を試す様な質問だからだ。

どちらでも見る様だ。それだけではなく、喋れもしないスペイン語やフランス語での夢も、頻繁に見ると言う。

一旦、母語から脱出すると、そう言うものなのかと、妙に納得出来た。


様々な言語に触れて来た。だが、海外に長く滞在する事がなかったので、どれもちっともモノにならない。

多和田葉子さんの様に、海外に拠点を構えて活躍する日本人には、強い憧れを抱いている。

この本には、母語の外に脱出すると言う事が、どう言う事なのかが、微に入り細に入り、詳しく述べられている。

それは日本語とドイツ語の間の関係に留まらず、他の様々な言語を例にとり、著者がそれ等とどのように関係を築いて来たのかを、具体的な例を引きながら、述べられている。

日本語と外国語の間を越境すると言うことは、例えば合わせ鏡の様に、両者を独特な感性で、眺める事を可能にする行為でもあるようだ。

例えば、松尾芭蕉の『奥の細道』のドイツ語訳を読んで、訳がおかしいのではないかとドイツに住む日本人に問われたりする。「月日は百代の過客にして」の月日がSonne und Mondと訳されているのだ。確かにおかしい。普通ならばそこで話は終わってしまう。だが多和田葉子さんは、この『奥の細道』のドイツ語訳は美しいと、暫く考えて思ったりする。中世の人間が「月日」と言った時、実際の太陽が出て沈み、月が出て沈む情景が、比喩としてでなく、具体的な生活感覚としてあったのではないかと、思い巡らしているのだ。

誤訳と思われるまでの直訳は、わたしたちを言葉の原点に立ち返らせ、言葉を比喩という老衰から救う役割を果たしてくれることがあるように思う。

この種の思い巡らしは、母語と外国語を越境し続ける事でしか、得られない感覚だと、私には思える。

その感覚は、彼女の文学観にまで及んでいる。

文学を書くということは、いつも耳から入ってきている言葉をなんとなく繋ぎ合わせて繰り返すことの逆で、言語の可能性とぎりぎりまで向かい合うということだ。そうすると、記憶の痕跡がたくさん活性化され、古い層である母語が今使っている言語をデフォルメするのかもしれない。

人は生まれた時、あらゆる言語を獲得する能力を持って生まれて来るのだと言う。だが、例えば日本語の環境で育ち始めると、6ヶ月程でlとrの区別をする能力が失われてしまう。つまりひとつの母語を獲得すると言う事は、他の言語を獲得する能力を失う事でもあるらしい。

私たちは、ある程度育ってから、他の言語を、再び学ぶ事に、妙な憧れを抱く。それは失われた能力に対しての、ある種のノスタルジーなのかも知れない。

母語から脱出する旅とは、どの様な旅なのかを、事細かく解説してくださった多和田葉子さんには、感謝の念を抑える事が出来ない。この本の読書体験を基に、これからも多和田葉子さんの作品を読解して行きたいと思わざるを得ない。

20260513

あじさしの洲/骨王

『あじさしの洲/骨王 小川国夫自選短篇集』

力みのない、奇を衒った表現も全くない、淡々とした日本語が綴られている。それでいながら、描かれている情景は鮮明で、独特の光沢を帯びている。

それが小川国夫の文学である。

私はこの本を読み始めて、一行目から、ぐいぐいと引き込まれる力を、感じざるを得なかった。

この本には、小川国夫が自ら選び抜いた、11の短篇が収められている。


どれがどれより優れているかとか、比較することは不可能だった。それぞれに、独自の魅力がある。

選ばれた作品はどれも、似通ったものはなかった。それぞれに独自の世界観を持ち、小川国夫という宇宙に散りばめられた星座の様に、輝いている。

ある作品には心中に引き込まれてゆく男女の情景が描かれ、ある作品には旧約聖書の世界が縦横無尽に展開されている。

しかし、読み終えて、作品のひとつひとつを振り返ると、そこには首尾一貫とした、小川国夫の色彩がある。そうした矛盾したような感想をなぜ抱くのか?いくら考えても、その謎は解けなかった。

作品に描かれているのは、人々と自然の織りなす情景であり、その中で繰り広げられる、登場人物たちの素朴な行為だ。

だが、私たちはそこから、登場人物たちの細やかな心理を、確かに読み取る事が出来るのだ。

それぞれの登場人物たちは、まるで旧知の親友であるかのように、最初から親しげにそこに存在している。

従って、私たちは登場人物の行為の意味やその必然性を、何の疑問もなく、理解することが出来る。

彼等はまた彼女等は私が経験をした事もない境遇を生き、行為する。私たちはそれを後追いする事で、自らもまたその境遇、行為を経験したような世界に浸る。

小川国夫は彼の作品を読む事で、読者の人生の幅を大きく拡げてしまうような力がある。

不思議な作家だ。

20260502

ファウスト

面白い本は多いが、これ程の感動に包まれる読書体験は、人生の中でそう多くない。

ゲーテ『ファウスト』を、遂に読んだ。


今迄読んでいなかったのは、家にある本が柴田翔訳のもので、出来れば彼以外の訳で読みたいと思っていたからだ。

だが、図書館から借りた本は全て読み切ってしまった。この際と思い切りを付けて、彼の訳で読む決心を、この程固めた。

読み始めて、思ったより良い訳になっていると感じた。真剣にゲーテと向き合って訳している。


なんと言う恐るべき作品なのだろうか?!

読み終えて暫くの間放心してしまい、何も手に付かなかった。

柴田訳は上巻に第I部が、下巻に第II部が当てられている。第I部、第II部は、それぞれ独立しており、全く別の作品と言っても構わないものになっていると感じた。

第I部はファウストのメフィストとの契約までの物語が、比較的短い章立てで、軽快に進行してゆく。

芝居の脚本として書かれているが、台詞は全て韻文になっており、完成度の極めて高い詩が、延々と続いて行く筋立てになっている。

柴田訳は、その韻文の面にも可能な限り気を配り、工夫して訳されているが、詩の芳香は損なわれていない。

だが、脚本の軽快さに引き摺られたのか、ファウストの人生に対する飢餓感がもうひとつ上手く表現し切れておらず、その部分は残念だった。

第II部は一転して、超人的な力を得たファウストが、時空を超えて、ギリシア神話の世界に迄及ぶ壮大な冒険譚を展開する構成になっており、ゲーテが達し得た、高邁な人生観が存分に表現されている。

とても人間が書いたものに思えなかった。ゲーテがこの作品に費やした年月は60年に及ぶ。確かにそれだけの内容を持っている。或いはゲーテ自身がこの作品を完成させる為に、メフィストと契約を交わしたのではないかとすら思える程の、完成度の高い、奔放で壮大な想像力が、作品全体を覆い尽くし、遺憾無く発揮されている。

今回は読み切る事を主眼とした為、作品を深読みする事が出来なかったが、この作品は単に読み切るだけでは勿体無いと、読後感じた。私が『ファウスト』を読めたと感じるのはまだ先の事だ。私と『ファウスト』の付き合いは、これから始まるのだろう。そしてまた、ゲーテの音律を深く味わう為に、ドイツ語で読んでみたいという欲求を強く感じた。この作品には、それだけの時間を割く価値が充分にある。