20260721

ファシズムの同時代性

石田憲『ファシズムの同時代性ー誘惑するナショナリズム』

ファシズムの語源がイタリアにある事は知っている。そして日本のファシズムを語る上で、日独伊三国同盟は欠かせない。

だが、ドイツに関しては、知り過ぎている程知っているにも関わらず、事イタリアのファシズムは具体的にどの様なものだったのかと問われると、答えに窮する。

知らないのだ。


本書の著者石田憲は、イタリアのファシズムが専門らしい。題名を見て、もっとファシズム一般に関する本ではないかと当たりを付けていた私にも、読み始めてすぐその事を理解出来た。

むしろ渡りに船だ。

一定のテーマの下に、体系的に書かれた本ではなく、それぞれの論文は、独自に発表され、それを独立したまま纏められたのが、本書の成り立ちである様だ。

今迄の無知からの反動も大きかったのだが、本書に書かれている内容の詳細さに圧倒され、それで読み終えるのに時間が掛かった。

ムッソリーニ以下のサブリーダーたちの履歴に至る迄、事細かく調べ上げてある。

重要な事は、繰り返し述べられている。

どうやらイタリアのファシズムにとって、メルクマールとなるのはエチオピア戦争らしい。

それが如何なる経緯で開始され、どの様な経緯を辿ったのか。それを詳しく知る事が出来た。そして、日本同様に、イタリアでも「過去の克服」はドイツ程には行われていない事も理解した。イタリアの政局で、現在でも時々、右派政権が実権を握る事があるのは、だからだろう。

描いているのが日本の研究者だからだろう。日本も時々顔を出す。だが、全体の流れからは独立しており、異質礫の様に坐りが悪い。

どうやらイタリアの現状を、日本に引き合わせて、日本のこれからを占う材料にしようとする意図があるらしい。

これに関しては、書き方が失敗だと言うしかない。

だが、意を汲む事は出来る。

日本でも、右派は台頭して来ている。それに対し、必要なのは過去の失敗を、丹念に振り返る事だろう。

その意図を持ってこの本を読めば、考察材料はふんだんに用意されていると言える。

イタリアのファシズムは殆ど忘れられている。日本のファシズムもその道を辿るかも知れない。

その為の材料としては、この本は十分に応えてくれるだろう。

20260710

悪童日記三部作

 心地よい読後感などあろう筈もない。

それが分かっていて、何故読み続けるのか?私にはその理由が最後迄分からずにいた。ようやくそれが見えたのは、最終作『第三の嘘』を読み終える直前の事だった。リュカ(LUCAS)とクラウス (CLAUS)という互いにアナグラムになった名をもつ双子の兄弟たちの行く末が、気になって仕方がなかったからだ。


『悪童日記』から『ふたりの証拠』そして『第三の嘘』へ。

物語の枠組みはヨーロッパ大陸からひとつの町へ、町からひとつの家族へと絞られて行く。しかしそこで語られている事が、真実なのか嘘なのか、私たちにはそれすら知らされない。しかしその主題はいささかも矮小化されていない。それどころか絶対的な永遠の次元にまで掘り下げられている。


三部作はそれぞれ、独立した小説と捉える事も可能だ。だが三部作を通読して、やはりこの三部作はそれぞれがそれぞれに支えられている事が理解出来る。『第三の嘘』を読み終えて、私にはやっと前二作とりわけ第一作の『悪童日記』に秘められた謎が、その真の姿をおずおずと現してくるのを感じた。その構成力に、私は改めて著者の力量の凄さを感じざるを得ない。


物語は、著者アゴタ・クリストフの全てを突き放した様な真っ白なエクリチュールで語られる。読者は作中のどの登場人物にも、感情移入を許してくれない作為を感じる。そしてそれはむしろ、読者にとって幸いな事である事を、最後の最後で感じ取る事が出来る。

この救い様のない物語において、どこか一箇所でも感情移入をしながらこれらの作品を読むのであれば、読者はこの三部作について行くことすら許されなかっただろう。

『悪童日記』三部作は読んで楽しめる作品ではない。世の中はまるでアメリカで、エンターテイメントが幅を効かせている。一理ある。だがこの作品の様にエンタメとはまるで正反対の作品も、あって然るべきと私は認識する。エンターテインメントばかりが芸術とはとても受け入れられない。

どうにかこうにか、私は『悪童日記』三部作を読み切った。ここで一息入れたい。と言うより当分アゴタ・クリストフからは離れていたいと切に願う。

途方もない作品だった。

20260707

文化の脱走兵

慌てて読んでしまった自覚があったので、2度読み返した。

1回目は、引用されている詩が印象に残ったものの、本文は殆ど味わえずに終えてしまった。

今回2度目で、ようやく落ち着いて読む事が出来た。


実直な方である。

その実直さがロシア文学に向いているのかも知れない。

表裏がなく、ブレがない。

その姿勢はどこかレフ・トルストイに通じるものがある。このエセー集では、それに加えて文章に力みがなく、奈倉さん本来の人柄が滲み出ている様に思えた。この様な姿勢で文章を書いたのは、このエセー集が初めてだと仰っておられた。

ご存知の方も多いだろうが、ロシアに留学しておられた。その時期にロシアとウクライナの戦争があった。

戦争に最も近付いた日本人のひとりであろう。

本書に収められたエセーにも、その戦争を扱った文章が多い。

戦争は、丹念に築き上げて来た、留学生たちの人間関係を、一瞬で滅茶苦茶に破壊してしまう。その事実を、私はこのエセー集でやっと気付かされた。

文化は脱走するのだと言う。戦争は文化も、ずたずたに破壊してしまう。戦争と文化は相入れない。それならば、戦争から脱走するのも無理はない。

ヨーロッパには、脱走兵の碑が幾つも存在するのだと言う。その発想すら、日本には無い。だがあって然るべき姿勢だ。

その姿勢を、恐らく日本で初めてこのエセー集は伝えてくれた。

その意味でも、貴重な記録だ。

20260628

老年の価値

 ヘルマン・ヘッセと共に生きて来た。その思い込みが強い。

世間には、ヘッセと言うと青春の作家と返ってくる偏見がある事は知っている。この私からして、ヘッセに強く心を奪われたのは中学2年の時だった。家にあった高橋健二訳の詩集に手を延ばし、余りにも深く私の心を知っている事に驚いて、1行読んでは転げ回っていた。

だが、私が他の人と違っていたのは、いつまで経ってもヘッセを卒業する事が無かった点だ。高校生になり、他の数多くの詩人を知る様になっても、いつも帰って行く場所はヘッセでありゲーテだった。そればかりか、やがて中年になり、人生の折り返し点を過ぎても、私はヘルマン・ヘッセを愛読し続けた。

ヘルマン・ヘッセの作品を、全て読破したのは、中学生の頃だった。それでもヘッセを読む事を辞めなかったのは、ヘッセの作品に、各年代毎にようやく見えて来る味わいがあったからだ。


今回図書館で『老年の価値』というフォルカー・ミヒェルスの編集した作品集を見付け、すぐに取り寄せたのも、老境に差し掛かって久しい私の年齢で、また新しいヘッセに出逢えるに違いないと言う予感があったからだ。

読み始めてすぐに分かった。この作品集はかつて『人は成熟するにつれて若くなる』と言う題名で出されていた本の改版である。

多少がっかりしたが、久し振りのヘルマン・ヘッセだ。期待感の方が大きかった。

そしてヘッセは、やはり今回もヘッセだった。期待は全く裏切られなかった。

ヘッセやゲーテ等、子どもの頃から親しんで来た作家の文章は、例えば何気なく呟かれた地名などの固有名詞にも、親しみと懐かしさが混じり込んだ、独特な味わいが染み付いている。そして何より彼らの安心して身を任す事が出来る文体。

私は本書の最初のエセー「春の散歩」から、すっかりヘッセワールドの住人になっていた。

ヘッセは本書で、老いと死に真正面から向き合っている。それはもとより若さを否定するものではないが、若さの持つ輝きと柔軟性に匹敵する価値が、老いと言う年齢に備わっているという、ヘッセ独自の発見の喜びに満ちている。

その喜びの表現が、決して欺瞞や強がりでは無く、老境に辿り着いてヘッセがようやく理解することが出来た人生の真新しい断面なのだと言う事を、この私もこの年齢になってようやく理解する事が出来た。ぞれは今迄知る事の無かった。ヘッセの新局面だった。そして今回もまたヘッセは異様とも言える迫力で私の心を鷲掴みにした。

恐らくヘルマン・ヘッセと共に生きて来たと自覚している読者は、私だけではあるまい。そして老境に至ってヘッセを愛読している読者もまた。

この作品集はそうしたヘッセファンに向かって編まれたものなのだろう。

あざといと言えばあざとい。

だが、私は編者のそうした意図を含め、この作品集を世に出して下さった方々に、深くお礼を言いたい。

私はヘッセが老いを自覚した年齢より、少し歳を余計に取り過ぎてしまっているかも知れない。だが、そうした私に対しても、ヘッセは暖かく声を掛けて下さるのだ。

私は歳を取って、役に立たなくなったような、老いぼれの地質屋だが、そんな私でも、ヘッセやゲーテと共に生きて来た喜びは、まだ充分に味わえるのだ。

それは人間にとって欠く事の出来ない大きな歓びなのだ。

本書は老境に至ったヘッセの、魅力溢れる写真が多数載せられている。これらの写真の殆どは、ヘッセの末っ子で職業写真家のマルティーン・ヘッセの撮影による。

20260616

ネクロポリティクス

M.フーコーが従来の権力観を転倒させて唱えた生の政治学。それを更に転倒させて死の政治学と題したのは、現在世界中に死が充満しているという現実認識があるからだろう。

実際パレスチナやウクライナの例を引くまでもなく、世界の権力は、人民の死を軽々と増加させてしまっている。

著者アシル・ンベンベは、その現実認識を、フーコーのみならず、古今の哲学者の論考の延長上に、整合的に位置付ける事に成功している。


本書は前半二章を論理展開の助走に宛て、第三章から本格的なネクロポリティクスの論述が始まる構成を取っている。

著者の哲学・政治学の文献の読み込みは深く広く、そして徹底している。従来の論考のエッセンスを自在に取り込み、駆使してゆく手法は、その要求するレベルが高く、読解にかなり困難を感じた。

だが、決してペダンチックにはなっていない。著者の展開する論理を、噛み砕き身を任せる事で、本書は今迄見えていなかった世界の現実の全体像を、鮮やかに描き出す事に成功している。

著者は各章の冒頭に、それまで述べて来た論理の要約を、一言で付す。これはそれ迄の読書の理解を確認する事を可能にするだけでなく、それ以降の論理展開に追い付いて行く上で大きな手助けになった。

だが第五章をほぼ境界として、それ迄緻密な展開を見せていた論理に代わり、文学的な表現が多くなって来るのは何故なのだろうか?

著者が自らの論理の範疇を越える現実認識を、本書に盛り込む為の手法なのかも知れないが、その切り替えに少々苦慮させられた。

20260606

ヴァレリー・セレクション

苦手と言う訳ではないが、畏れていて手を出せずにいる作家群がある。

尊敬して止まない方に止められていた事もあり、ポール・ヴァレリーはその筆頭とも言える存在だった。ルートヴィヒ・ヴィトゲンシュタインが意外に「読めた」ので、それに気を良くして本棚から『ヴァレリー・セレクション上・下』を引っ張り出した。


恐る恐るページをめくると、冒頭に訳者まえがきとして「ヴァレリーを読むよろこび」という文章が置かれていた。

世の中には畏れるのではなく、ヴァレリーによろこびを感じている方もおられるのだ。

かなり勇気付けられた。

学生の時分に初めて『ヴァリエテ』のなかの一作品を読んだとき、こんな面白いものがあるのかと思い、邦訳にして上下巻あわせて千ページをこえる人文書院版『ヴァリエテ』の全作品を一気に、時間的には半年から一年をかけてほんとうに丁寧に、熱中して、読んだのです。

とある。

私にもその面白さが分かるかも知れない。

すぐに図に乗った。

早速ヴァレリーの文章に取り掛かった。

読み始めてすぐに感じたのは、畏れていた程ではないと言う事だった。


だが、明晰な語り口を「楽しむ」為には、相当深く広い教養が必要だと言う事は私にも分かった。

知っていて当然の様に、古典が仄めかされている。しかも、文系の教養だけではなく、科学的知識に関しても、ヴァレリーは深い造詣を持っているのだ。

書かれた当時の、国際問題にも、ある程度知識を持っていないと、文章全体が何を言わんとしているのか分からない作品も多い。

これ等の文章を学生時代に読んで、「こんな面白いものがあるのか」と感じる訳者の方々は、どれ程の教養の持ち主なのだろうか?!

若い頃、背伸びしてヴァレリーを読み散らかしていたら、私はどれ程浅い読書体験で満足してしまった事だろうかと、少し背筋が寒くなった。

更に驚くのは、ヴァレリーが生きた時代にあって、現在に通ずる抜きん出た見通しを、彼が既に持ち合わせていたという事実だ。

これはこれ等の文章が書かれた時代には、決して理解する事が出来なかったであろう、ヴァレリーの優れた一面だと嘆息した。

私は今のこの年齢でこの時代にヴァレリーを読めた幸運を、深く噛み締めた。

良いタイミングで、ヴァレリーを読み始める事が出来たと思う。

読み終えて、私は薄っすら汗ばんでいた。

20260603

薔薇のイコノロジー

とことん調べ尽くされている。

人類は古代から花に様々な寓意を込めて来た。それは明らかな事。だがその実態はどうだったかは意外に明らかにされて来なかった。

著者若桑みどりは豊富な文献と作品の画像を駆使して、薔薇を中心として花の持つ寓意の実際を、個人、時代、そして洋の東西を越えて人類に共有されて来た経緯として見事に纏め上げている。


それは薔薇と聖母の深く長い関係の歴史を紐解くところから始まり、グロテスクの系譜に立ち寄る事でその幅を大きく拡げ、花の復権に至る意外性に満ちた一大精神史である事が、しっかりした裏付けを伴った形で示されている。

SNSなどではしばしば非現実的な、見通しの甘い、希望的観測に満ちた見解を「お花畑」と揶揄する事がある。だが、人類の美術史などは、まさにそのお花畑を維持する為の労苦の連続であったのであり、実際にお花畑を維持する時に費やされる手間暇は、ちょっと考えただけでも目が回る。

人類は、薔薇を始めとするそのお花畑に、美しさはもとより極めて困難な愛と生命の寓意・象徴を込めて表現して来たのだ。

その実現に、意識が遠のく様な長い時間が費やされて来た事実は、注釈に並べられた幾多の美術論文献のリストを見れば、すぐに理解出来るだろう。

惜しむらくは本文中に引用されている数多くの絵画の写真がモノクロである事だ。口絵に、代表的な作品の幾つかが、カラーで示されているが、これだけでは勿体無い。

図に付けられたキャプションを基に、Webで検索する事で、殆どの作品をカラーで見る事が出来たが、この手法は誰しもに薦められるものではない。とてつもなく時間を必要とする作業だったからだ。

しかし、ここに薔薇の、そして蓮の、菊のイコンが示す意味の全体像が明らかにされた事は、それが持つ意味を振り返っても途方もなく大きい。

この本を読んで以降、私は絵画の持つ意味をより具体的に、そしてより多くを理解出来る様になった。

だが同時に、もはや薔薇を迂闊に描く訳にも行かなくなった。