20200201

専門家は錯誤する

少なからず動揺した。

岸由二『利己的遺伝子の小革命─1970-90年代日本生態学事情』を読んだ。
最初はドーキンスの理論が進化生物学に与えた影響が描かれているものと思っていた。
けれど日本の生物学の辿ってきた道のりは、それ程単純明快なものではなかったようだ。

日本の生物学界で、進化論の総合説は、素直に支配的なパラダイムにはならなかった。それを阻んできたのはルイセンコ学説であり、今西進化論だったと言う。

筆者はII「今西進化論退場へ」とIII「ひとつの総括」の2つの章を使って、今西進化論を批判している。
これらを読んで、私は何とも微妙な気分に陥った。


私が大学に入った頃は、すでにルイセンコ学説はそれ程大きな影響力を持たなくなっていたが、それでも先輩の中には、「信者」がいた。

彼らから打ち出されるルイセンコ学説の意義は、それなりに説得力を持つものだった。

私が絡め取られたのは、むしろ今西進化論の方だった。これにはすっかり「信者」となって、入れ込んだ。今西錦司が書いた本は、殆ど読んだのではないだろうか。
今西錦司が言う通りに、彼はダーウィンを超えたのだと、本気で信じ込んだ。
彼が主張する「棲み分け理論」に基づく進化論は、美しく、素晴らしいものに思えた。


最近は進化論の議論からすっかり遠ざかり、今西錦司の名もそれ程聞かなくなっていた。
だが、それが「退場」という言葉で表現されるものになっていたとは全く想像もしていなかった。ショウビニズムとすら言われるようでは、もはや元も子もない。
考えてみると、私もいつの間にか、進化の総合説を支持する立場に戻っていた。


これは、私が専門とした地質学にも当てはまる出来事だ。
私は大学に入ってすぐ、地質調査を学生の手で行うグループに参加した。そのグループは地団研と呼ばれる反プレートを標榜する団体の下部組織だった。

染まりやすくもあったのだろう。私はすぐ反プレートの立場に立つようになっていた。
曰く、軽いものが重いものの下に沈み込むなんてあり得ない。

組織というものは、厄介なものだ。

いくら世界の趨勢から反したものであろうと、その組織が主張していれば、正しいものに思えてくる。
日々精進して、反プレートの理論武装を強固なものにする事に邁進した。

地団研の反プレート論は、大学や地質コンサルタントを中心に、未だ影響力を持っており、それは、日本にプレート論を定着させることを、頑強に拒んでいる。

教科書に書いてあることから疑って、物事を様々な角度から検討する事。それは大学で学んだ大きな観点だ。
なので、今になって振り返ってみて、今西進化論や反プレートに入れ込んだ事も、それ程無駄な事ではなかったと思える。
けれどまた、もうひとつの教訓として、一旦弾みが付くと、専門家はとことん錯誤するものだという教訓もまた、学べたと思っている。

今、私は進化論は総合説を支持しているし、プレート論も十分に信頼している。大学で主張していた事は何だったのだろうかとも思える程、高校迄の立場に戻っている。

だから「科学者の90%が二酸化炭素による地球温暖化に反対している」と主張されても、それが何だと言い返す事が出来る。学者は自分は賢いなんて思っていない。自分だけしか賢くないと思っているのだ。
そうした存在がおいそれと他人の立てた説に靡くとは思えない。だから逆に安心して地球温暖化を語る事が出来る。

専門家は専門家であるが故に、錯誤するのだ。

20200130

『パラサイト』

映画『パラサイト─半地下の家族』を観てきた。ポン・ジュノ監督は、ネタバレをしないようにとのメッセージを出しているようだ。まだ観ていない方々はすぐこの文章を閉じた方が良いだろう。出来る限りネタバレは避けるつもりだが、何も書かない訳には行かない。

全員が失業中で、その日暮らしをしているキム一家は、日当たりが悪く、WiFiの電波も入りにくい半地下に暮らしている。

ある日キム一家の息子ギウがひょんな事から身分を詐称して、IT社長の大富豪パク一家の娘の家庭教師に応募し、それに続いて妹のギジョンも豪邸に入り込む。

何もかも正反対の二つの家族が出会うことで、物語は創造を超えた悲喜劇へと加速し、暴走を始める。

格差。ひと言で表現してしまえば、この映画に描かれているのはそれに尽きるだろう。しかし、その格差を、ここ迄見事に描き切った映画は滅多にお目にかかれない。

幾つものキーワードが、象徴的に使われている。雨、階段、桃、匂い。
それらをひとつひとつ解き明かす暇も与えず、物語は進む。

映画全体を貫くのはスラップスティックな構成だ。
ともすれば陰惨なシーンになりがちな事件も、あくまでテンポを崩す事なく描かれる。

それにしても『パラサイト』とは、言い得て妙な題名をポン監督は選んだものだ。
そして空間の切り取り方が途方も無く巧い。

凄い映画を観た!

20191225

口笛が鳴らない


私が今住んでいる団地に引っ越してから3年が経った。
何かと気を遣う。毎月ある定例清掃も厄介だが、日常的に、出来るだけ音を立てないように暮らすのも、ストレスフルだ。

高校の時の話だが、私はそれなりにギターが巧かったと思う。普通に弾くだけでは物足りなくなり、ブルースギターに手を出し、ピアノ曲をギターに移植して弾いていたりもしていたので、かなりのものだったのではないかと自負している。

けれど高3になり、大学入試が立ち塞がった。
毎日のように弾いていたギターを中断し、大学に合格するまで弾かなかった。

案の定、ギターの腕前は目を蔽うばかりに落ちてしまっていた。

弾き始めの頃は、基本的な練習も真面目にこなすものだ。だが、一旦弾けるようになっていた私は、下手になっていたにもかかわらず、基礎に戻ることをしなかった。

高校の頃のレベルに戻ることは、二度となかった。

先日、前から気になっていた、曲名の分からない曲を、鼻歌検索で見付けようと思い立った。

口笛で、その曲を吹こうとして、驚いた。口笛が鳴らないのだ。掠れた音は何とか出る。けれどきちんとした音にならない。

考えてみると、大学時代、下宿生活をし始めた頃から、私は周囲に気を遣って、口笛を吹くことを止めていた。

口笛なんぞ、小学生でも吹ける。それが鳴らないのだ。

何事も、練習していないと技量は瞬く間に落ちてしまう。

かなりショックだった。

団地に引っ越してから、一回もギターを弾いていない。
大学入試で弾かなかったのは、3年もなかった。
丸3年、ギターを弾いていないのだ。

これはちょっとした恐怖だ。

恐らく確実に、ギターは下手になっているだろう。

アルペジオは弾けるのだろうか?

20191223

『永遠の門』

現代美術家でもあるジュリアン・シュナーベル監督が、画家を主人公とする映画を発表するのは、デビュー作である『バスキア』以来これで2作目となる。『バスキア』はニューヨークアート界の商業化に揉まれ、疲弊して行くバスキアの無垢な魂に光を当てていたが、『永遠の門─ゴッホの見た未来』ではゴッホの目にこの世界がどう映っていたかを観客に体感させる映画となっている。

その狙いは機材にも現れていて、ゴッホが対象物のどの部分に意識を集中させていたかを表現するために、映像の半分が接写、半分がノーマルに映し出されるレンズ=スプリット・ディオプターが多用されている。
その他にもカメラが安定しない手持ちの物だったり、2重写しが用いられていたりで、ゴッホの不安定さがこちらにも伝染してくるのではないかとも思われる演出が、映画全体を支配している。
ゴーギャンのアドバイスに従って、南仏アルルに移住したゴッホが、初めて絵筆を採る場面が印象深い。無造作に脱ぎ捨てられた靴が、ゴッホの脳内で構図を得て絵画のモチーフになる過程が、靴のクローズアップの画角の変化で表現される。ここから先の映像は、風景も静物も人物も、そして色彩やアングルも、ゴッホの感受性というフィルターを通したものであると予告する演出だ。

その演出に決定的な生命力を吹き込んでいるのが、ゴッホを演じたウィレム・デフォーの迫真の演技だ。

ゴッホには絵と弟のテオしかなかった。
唯一才能を認め合ったゴーギャンとの共同生活も、ゴッホの行動によって破綻。ゴーギャンに去って欲しくないゴッホは、自らの耳をカミソリで切り落としてしまったのは有名なエピソード。
その姿を、あの自画像そのままのイメージで、描いている。

何故絵を描くのか。その問いが、映画の中で何度か繰り返される。絵を描く事は、神によって与えられた才能だとゴッホは言う。だが、その思いはなかなか理解されない。絵を描く才能は、ただゴッホを苦しめるだけなのだろうか?

絵を描く事を始める前、神職に就こうとも思っていたゴッホは、イエスの生涯に自分を重ね合わせる。イエスも、生きていた頃は、全くの無名だったのだと。
彼は言う。未来のために描いている。

永遠の門という題名の意味は、最後まで明らかにされない。けれど、ゴッホの絵は、後の世の人々の心を掴み、確かに永遠のものになっている。

映画の中に、救いはない。只報われることなく、ひたすらに絵を書き続けたゴッホがいるだけだ。けれどその絵を描くという行為は、確かに永遠の門を押し開けたのではないだろうか。

映画の中で、2016年に126年間眠っていたゴッホの素描が発見されたことの顛末が、描かれている。棚に無造作に置かれ、しまい忘れられていたのだ。
このエピソードが語るように、生前のゴッホは、同時代人に全くと言っていいほど理解されていなかったのだ。

20191221

Spotify

'18年の5月19日以来、私はCDを購入していない。
音楽を聴かなくなった訳ではない。この日からSpotifyという音楽ストリーミングサービスを利用し始めたからだ。
基本、iPod touchを利用して、Spotifyを使っている。もう一つ付け加えるならば、iMacからSpotifyのアプリを開いて、それを使ってiPodを操作している(写真参照)。

気になるアーチストがいる場合、すぐにSpotifyのアプリを開いて、検索する。大抵の場合すぐ見付かる。
少し日本のアーチストには弱さを持っているらしく、谷山浩子や中島みゆきなど、何人かのアーチストはSpotifyに配信していないようだ。
だが、欧米のアーチストの場合、殆ど網羅していると言って良い。

基本料金は月に980円。それを払わずにFreeを選択すれば、只で音楽を聴くことが出来る。Freeではコマーシャルが入ったり、月に15時間しか使えないなどの制限はあるが、巧く使いこなしてゆけば、それ程気にならない。

基本的な機能はFreeでも十分に使える。これは嬉しい誤算だった。


今はヒラリー・ハーンに嵌まっている。シャッフル機能を使って、彼女のヴァイオリンばかりをじっくりと堪能している。

私は彼女のCDを一枚も持っていないが、Spotifyを使って、殆ど全てのCD音源を聴くことが出来ている。


PCから操作するのにはもう一つ理由がある。
Facebookと連携して、Spotifyの友人を探すことが出来るのだ。

音楽を聴きながら、友人たちがどんな音楽を今聴いているかが分かる。

この機能を使って、私はどうしても探し出せなかったサザンオールスターズの音源を探し出す事が出来た。

実にいろいろなアーチストが聴かれている。全く知らないアーチストである事も多い。興味を持ったら、その名をクリックすれば、そのアーチストを探し出すことが出来る。

ついさっきも小野リサというミュージシャンを知った。

宣伝臭くなったが、事ほどさように、私はSpotifyに嵌まっている。

20191206

不完全な行為としての読書

アンリ・ベルクソンの『時間観念の歴史』を読んだ。
哲学の諸相に時間観念がどの様に影響してきたかというテーマで行われた、コレージュ・ド・フランスの講義の記録だ。時間という観念を導入することによって、所謂ゼノンの逆理なども、合理的に解決することが出来る。プラトンやアリストテレスを豊富に引用した講義録だった。
余り詳しくないギリシャ哲学からの哲学史を、分かり易く解いていて、興味深く読書を進める事が出来た。面白かった。

ところで、この様な本には当然のように豊富な注釈が付いている。そこに書かれた幾多の本を、私は殆ど読んでいない。
これは『時間観念の歴史』に限らず、あらゆると言って良い読書につきまとう、私の不備だ。
体系的に学んだものと言ったら地質学しかない。
知の体系の基本となる文献を、若い頃読んでいない。知はそれらを当然既知のものとして、書かれている。
慌てて、注釈にある本を読んでみても、今度はそこにある引用文献を読んでいない。
今度はそれを読む。この様にして永遠の遡行を強いられることになる。

今回は、『時間観念の歴史』を読んだ後、アリストテレスの『形而上学』を読んだ。

これを読まずに、哲学書を読んでいたと言う事を、恥ずかしながらも、ボソボソと告白しなければならない。何という無謀な事をしていたのだろうか?!

幾多の本の中に使われていた、基本的な用語が、どの様な意味で、どの様な文脈の中で使われるのかが書かれている。

読んで、ようやく理解出来た事は極めて多い。

そこにもプラトンが平気で引用されている。
私が読んでいない文献だ。

そればかりではなく聞いたこともない名前のフィロソファーたちの引用も溢れている。

それらを全て網羅していったら、私の寿命は簡単に終わるだろう。

この様にして、私の読書という行為は、いつ迄経っても不完全なまま放置される。

仕方があるまい。私の知は、永遠の素人芸に過ぎないのだ。

その時の興味の赴くままに、一度に一冊ずつ、友人のWが言う様に、蟻が卵を巣に運ぶようにコツコツと読んで行くしかない。

なんだかんだ言いながら、それでも何とか、今迄本だけは読んできた。これからも読書を続けて行くだろう。
だが、それは永遠に不完全な行為として行われているのだという事を、私はコンプレックスとして抱え込んで行くしかない。

本は、読めば読むほど、読まねばならない文献が増えて行く。
読みたい文献もまた、どんどん増えて行く。

私に残された時間は、果たしてどのくらいあるのだろうか。
それを少し不安に思いながら、私はこの不完全な行為を連綿と続けて行くだろう。

どこ迄行くことが出来るのだろうか?

20191027

ハギビスは生きている

twitterで拾った画像を見て驚いた。
2週間前、広い範囲で被害を出した颱風19号ハギビスが、低気圧となって、まだ移動中らしい。
この颱風は、日本列島に上陸してからも、なかなかその渦の姿を変えず、確かにしぶとかったのだが、未だに生きているとは思ってもいなかった。

颱風は赤道付近に溜まった熱を、高緯度地域に運んで冷やす、ラジエーターのような役割を果たしている。

なので、颱風でなくなった後も温帯低気圧として、生き残ることが多い。

だが、これ程長い間、その姿を保っているとは、驚きである。

これも地球温暖化のなせる業なのだろうか?