20260204

薔薇の名前完全版

既に旧版は読んでいる。その時も図書館から借りて読んだ。

この度完全版が出ると聞いて、取るものも取りあえず、図書館にリクエストを出した。だが不安もあった。県立・市立共に旧版が既にあるのだ。買ってもらえるのだろうか?

どうにか買って貰えるようだと分かって、その時は欣喜雀躍した。

この程借りて来て、今日(2月4日)上巻・下巻共読み終えた。


やはり、圧倒された。

読んでいて、旧版の記憶が意外と残っている事に驚いた。それと比べると、構成構想には変化はないものの、相当手がが加えられている事が分かった。

完全版は十分に読む価値のある版だった。細かなところ迄、気を配ってあって、完成度が、旧版より、遙かに高いのだ。


嬉しいのは、いつか読む心算でいた「『薔薇の名前』覚書」が、巻末に添えられていた事だ。ウンベルト・エーコの創作の秘密が、本編を読んですぐ明らかにされるのだ。ファンにとって、これ程嬉しい事はない。

読んでいて、旧版で気が付かなかった事にも、多数気が付いた。作者はこんな所まで、気を配って、創作しているのかと、何度も驚かされた。

無論、読書量の不足から、まだ気が付いていない仕掛けも多数あるに違いない。それを思うと、やはり悔しさが滲む。

何よりも、キリスト教の教義を全くと言って良い程理解していない事が悔やまれる。

だが、そうした事を悔しがれる程、今回は読解できたのだと思えば、少しは気が休まると言うものだろう。

『薔薇の名前』は、今回の読書体験で、より一層、私にとって大切な本になった。

20260109

奴婢訓

参った。

明日10日に、図書館に本を返しに行く。それまでにと思いつつ、三木卓の書いた北原白秋の伝記を読んでいたのだ。だが、それは今日9日の朝7時には読み終えてしまった。

突然空いた空白の時間に私は狼狽えた。本棚を眺め回す。その時このスウィフトの『奴婢訓』が目に留まった。薄い。これなら1日で読めそうだ。

そうなのだ。私はこの本を、内容ではなく、未読の薄い本であるという理由だけで選んだのだ。


読み始めてすぐ、この本は素直な気分で読むことが不可能な本である事が理解出来た。

素直な気持ちで書かれた本ではない。

表向きは使用人に対して贈る、人生訓の振りをしている。だがそこに展開されるのは、一筋縄では括れない、手の込んだ、容赦ない皮肉、逆説、諧謔の嵐だった。

スウィフトは、最初よくあるタイプの人生訓を説く本を書く心算だったらしい。

けれど書き始めてすぐ、捻りに捻った形の方が、本来の目的を達成出来ると思い付いた様だ。

これでもか!と言う勢いで、奉公人が主人に対して、いかに狡賢く立ち回れるか、どうすれば責任を免れる事が出来るかが、記されている。

私が主人ならば、この様な本を読む奉公人は御免被りたいところだ。

流石『ガリヴァ旅行記』の作者スウィフト。その面目躍如のとんでもない奇書だ。

だがどうだろう。自分が奉公人であるとしたら、この本に書かれている姿勢で、勤め上げた方が、主人という権力に対して、敢然と立ち向かい、自己を貫く事が出来るとも言えるのではないだろうか?

スウィフトの狙いも、あながちそこにあったのではないかとも、今では思ている。

20251211

賢治と鉱物

加藤禎一+青木正博『賢治と鉱物ー文系のための鉱物学入門』

美しい本だ。


それは装丁が美しいだけにとどまらず、中身の鉱物の写真に至る迄、徹底的に美しさに貫かれている。

文系のためのと謳われている。だが、鉱物の記載は本格的だ。元素記号や晶系などの用語が、何の説明もなしに使われている。

しかも、賢治が作品に用いた鉱物について、実によく調べられている。例えば、ガスタルダイトとインデコライトという項目がある。

私は地質学を専攻してきた。だがガスタルダイトなどという鉱物は、見た事も聞いたこともない。賢治の作品を読み解く上でも、この鉱物の正体は、長い間謎であったらしい。

それが写真付きで紹介されている。

これは宮沢賢治の作品を鑑賞する際にも、実に有難い手助けをしてくれる本なのではないだろうか?

鉱物の色をキーとして、青、緑、黄色、赤、白、黒の6章に分けられて記載されている。

賢治は空の色などを鉱物を喩えとして、作品中で描写している事が多い。

この分け方は理に適っている。

図書館で借りた。けれど読んでいるうちに、どうしても欲しくなった。この本に引用されている賢治の作品を、読み解きたくなったのだ。

その意味ではこの本は、理系のための賢治入門とも言えるのではないだろうか?

無論、この美しい本を、写真もろとも手元に置いておきたい欲求もある。

20251106

ガザ 欄外の声を求めて

凄いものを読んでしまった。その思いに打ち倒されるように、読後、暫く立ち上がれなかった。


パレスチナのイラストレーター、ジョー・サッコによる漫画である。けれど、これを漫画と呼んでしまうのには、かなり大きな抵抗がある。

それ程軽いものではないからだ。

ジョー・サッコは、その優れた丁寧な筆致によって、ガザが置かれている現状を、他のどんな表現手段を用いるより以上に、リアルに描き出す事に成功している。

それは人物をアップで描いている時(それも極めてリアルなのだが)にも、現れているが、人々を群像として描く時に、驚くべき表現力を発揮している様に思える。

例えばガザの住民を校庭に集めているシーンなどで、遠近法によって、群衆が捉えられるのだが、遠くに坐っている小さな人物像に至るまで、その個性、特徴を、丁寧に描き込む事で、その群衆が、ひとりひとりのパレスチナ人である事を、否応なしに読む者に伝えて来る。

それ故に、その群衆は、イスラエル人によって、個性ある者として扱われず、物の様に扱われている事が、極めて理不尽な現実である事を伝えて来る。そう、10月9日以前から、パレスチナ人はイスラエル人によって、その様に扱われて来たのだ。それが唯一の現実である。

私たちはこの本を読む事で、ガザに於けるジェノサイドが、10月9日の報復によって開始されたのではなく、それよりも遥か以前から、ガザのパレスチナ人が人を人と思わないような扱いをされて来た事を、知る事が出来る。

私たちには、イスラエルがなぜ、パレスチナ人に対し、あれ程酷い事が出来るかを、簡単に想像する事は困難だ。

だがこの本を読む事で、私はようやくそれを理解する事が可能になった様に思う。

イスラエル人は常に、パレスチナ人の生殺与奪の権利を握っていた。今回のジェノサイドは、その権利をちょっと現実的に、実行してみただけの事なのだ。

断言出来る。この漫画本には、何よりもリアルなガザが存在する。

20251005

ショスタコーヴィチ

亀山郁夫『ショスタコーヴィチー引き裂かれた栄光』

辛辣な題名だが、著者亀山郁夫はショスタコーヴィチに、限りない愛情を込めて、この本を執筆している。


その偏愛の蜘蛛の巣を、払い除けながら読んだ為、非常に時間が掛かった。

私はショスタコーヴィチを好んで聴く方ではない。彼の音楽に付き纏う一種の騒々しさが神経に障るからだ。

だが、にも関わらず、ショスタコーヴィチは常に、気に掛かる存在だった。

本書の中でショスタコーヴィチは革命家の血筋を引き、音楽の才能に恵まれた少年として登場する。

運命は、ここから始まっている。

人民の希望の結晶として始まったロシア革命。そしてソヴィエトロシア。それがどのような経路を歩んだのかは、既に多くの文献で知られている。

その中で芸術家として生きて行く事は、まさにそれ自体が峻厳な綱渡りだっただろう。

ショスタコーヴィチは音楽家として成功し、ソヴィエトロシアに生きる芸術家としても成功している。

どのようにそれがなされたのか?

その具体的な経緯を、本書は忌憚のない筆致で、淡々と暴いて行く。

それは決して、綺麗事では済まされない重く分厚い現実の中のドラマだった。

天才ショスタコーヴィチ。しかし彼はそうした存在である前に、過酷な運命に翻弄される、一市民だったのだ。

20250909

少女たちの戦争

優れた文集である。

この本は、1941年12月8日の太平洋戦争開戦時に、満20歳未満だった女性たちによるエッセイを、著者の生年順に収録したものだ。その数は総勢27名に上る。


そのうち最年長は1922年5月生まれの瀬戸内寂聴さんで当時19歳。最年少は1938年6月生まれの佐野洋子さん当時3歳。

1931年9月に満州事変があり、1937年7月には日中戦争が始まり、1945年8月15日迄15年戦争が続いた。

彼女たちが物心ついた時にはすでに日本は戦時下だった訳だ。

非日常が日常となった日々の中で、幼少期・青春期を送った彼女たちは何を思い、どう過ごしたのか。それが時に戦争をはみ出す記載の中に、生き生きと綴られている。

それらを読み進めてゆくうちに、私はいつの間にか彼女らの語りに、すっかり気を取られてしまった。

それは、事実が持つ重さでもあっただろう。

今年、戦後80年を迎えた。

戦争を体験した人の数は、どんどん少なくなって行く。そんな中で、上梓されたこの文集は、その戦争の、貴重な記録でもあると思う。

中央公論新社は良い仕事をした。

20250827

「私」は脳ではない

還元主義が大流行りである。

人間を含めた生物の事であれば、遺伝子か脳に還元すれば型が付く。そうした論調が、世の中に溢れ返っている。

正直に告白すると、私も一時そうした時勢に相乗りしようとした事もある。だが、そうした考え方で物事を割り切って行くと、どこか心に隙間風が吹く。

どうしても何か見落としている感覚が残り、強烈な違和感に襲われて来た。

だが、それをどの様に表現したら良いのか分からないまま、漫然と過ごして来た。

そんな折、この本に出逢った。


この本は『なぜ世界は存在しないのか』と『思考の意味』に挟まれた、マルクス・ガブリエルの3部作の真ん中に当たる。

「私」という現象は、全てが脳に還元出来るものではないことを、理論的に説いている。

読者としては、一般の人々を想定しているらしく、書き方の手付きは柔らかく、ジャーゴンを用いた場合は必ずその解説を付けるなど、細かな心遣いがなされている。だが、

本書で採用するのは反自然主義の視点です。つまり、存在するすべてのものが実際に科学的に調査可能であるわけでも、物質であるわけでもない、という前提に立っています。

と表明がなされているところなどは、極めて挑戦的な本であるとも言える。

つまりマルクス・ガブリエルは唯物論に反旗を翻しているのだ。

それ故にだろうが、読書メーターなどでは、読む価値がない本と断言しているものもあったが、一読した限りでは、そう目くじらを立てる必要はないと感じた。

本書のクライマックスは、そうした反自然主義の表明にあるのではなく、全てを脳に還元するような見方から脱却することで、私たちはようやく自由や民主主義等の自己決定という精神の自由が擁護されるというところにあると私は思う。

現実的に私などは本書を読むことを通じて、様々な思い込みから解放され、心の有り様がかなり楽になるのを感じた程だ。

何よりも本書は、私が長年感じ続けた違和感に、ようやく言葉を与えてくれた本であると言えると思う。