ヘルマン・ヘッセと共に生きて来た。その思い込みが強い。
世間には、ヘッセと言うと青春の作家と返ってくる偏見があるのは知っている。この私からして、ヘッセに強く心を奪われたのは中学2年の時だった。家にあった高橋健二訳の詩集に手を延ばし、余りにも私の心を知っている事に驚いて、1行読んでは転げ回っていた。
だが、私が他の人と違っていたのは、いつまで経ってもヘッセを卒業する事が無かった点だ。高校生になり、他の数多くの詩人を知る様になっても、いつも帰って行く場所はヘッセだった。そればかりか、やがて中年になり、人生の折り返し点を過ぎても、私はヘルマン・ヘッセを愛読し続けた。
ヘルマン・ヘッセの作品を、全て読破したのは、中学生の頃だった。それでもヘッセを読む事を辞めなかったのは、ヘッセの作品に、各年代毎にようやく見えて来る味わいがあったからだ。
今回図書館で『老年の価値』というフォルカー・ミヒェルスの編集した作品集を見付け、すぐに取り寄せたのも、老境に差し掛かって久しい私の年齢で、また新しいヘッセに出逢えるに違いないと言う予感があったからだ。
読み始めてすぐに分かった。この作品集はかつて『人は成熟するにつれて若くなる』と言う題名で出されていたものの改版である。
多少がっかりしたが、久し振りのヘルマン・ヘッセだ。期待感の方が大きかった。
そしてヘッセは、やはり今回もヘッセだった。期待は全く裏切られなかった。
ヘッセやゲーテ等、子どもの頃から親しんで来た作家の文章は、例えば何気なく呟かれた地名などの固有名詞にも、親しみと懐かしさが混じり込んだ様な、独特な味わいがある。そして何より彼らの安心して身を任す事が出来る文体。
私は本書の最初のエセー「春の散歩」から、すっかりヘッセワールドの住人になっていた。
ヘッセは本書で、老いと死に真正面から向き合っている。それはもとより若さを否定するものではないが、若さの持つ輝きと柔軟性に匹敵する価値が、老いと言う年齢に備わっているという、ヘッセ独自の発見の喜びに満ちている。
その喜びの表現が、決して欺瞞や強がりでは無く、老境に辿り着いてヘッセがようやく理解することが出来た人生の真新しい断面なのだと言う事を、この私もこの年齢になってようやく理解する事が出来た。ぞれは今迄知る事の無かった。ヘッセの新局面だった。
恐らくヘルマン・ヘッセと共に生きて来たと自覚している読者は、私だけではあるまい。そして老境に至ってヘッセを愛読している読者もまた。
この作品集はそうしたヘッセファンに向かって編まれたものなのだろう。
あざといと言えばあざとい。
だが、私は編者のそうした意図を含め、この作品集を世に出してくださった方々に、深くお礼を言いたい。
私はヘッセが老いを自覚した年齢より、少し歳を余計に取り過ぎてしまっているかも知れない。だが、そうした私に対しても、ヘッセは暖かく声を掛けて下さるのだ。
私は歳を取って、役に立たなくなったような、老いぼれの地質屋だが、そんな私でも、ヘッセやゲーテと共に生きて来た喜びは、まだ充分に味わえるのだ。
それは人間にとって欠く事の出来ない大きな歓びなのだ。
本書は老境に至ったヘッセの、魅力溢れる写真が多数載せられている。これらの写真の殆どは、ヘッセの末っ子で職業写真家のマルティーン・ヘッセの撮影による。









