20261108

山海経の妖怪たち

森和『山海経の妖怪たち─古代中国の奇獣図鑑』

この本を書いている時、著者は無類に楽しかっただろうと想像する。こうした纏め物は、書いている方がより多くの楽しみを味わえるものだ。

読んでいる側は、それに追いつこうともがくのだが、今一つ追いつけない。

かと言って、楽しくなかったかと言うと、そんな事はない。次から次へと繰り出される奇妙な動植物・草木にいちいち驚嘆の声を上げた。


山海経は「せんがいきょう」と読むのが正しい様だ。ちなみに著者のお名前「和」は「まさし」と読む。

それにしても、人間の想像力というものは、どこまで自由なのだろうか。

多分、古代の中国人にとって、ここに載せられている奇獣たちは、単に空想の産物ではなく、実在する奇獣だったのだろう。

その証拠に、実在する象や犀、鸚鵡などもリストに含まれている。

最初から、ホラ吹きの人間が、ありもしない奇獣たちをでっち上げたのか、それとも実在の動植物が、語り継がれるうちに、とんでもない姿に変わって行ったのか。ここに掲げられた動植物のその姿の多様さに、知らないうちにこちらの想像力も大いに刺激される。

この本の優れた点は、原典の漢文を、各章の冒頭にそのままの形で挙げてあるところだ。それに続いて、それを訳した和文も載せられているが、漢文を知る事で、古代中国人たちの考える姿勢を、ダイレクトに知ることが出来る。

それらの奇獣たちは、どこに住んでいるのか、出現すると何が起こるのかも、丁寧に解説されている。

それによって、載せられた図を参照しながら、読む側は自由に物語を繰り広げる事が許されている。

この感覚、どこか懐かしく切ない感覚。私の記憶が刺激されると思って、自分の中を探って思い出した。

子どもの頃、長い入院生活を送っている時に、昆虫図鑑を眺めながら、それらの虫たちを、捕まえる自分を空想していた。あの感覚にそっくりなのだ。

昆虫図鑑や恐竜図鑑に夢中になった過去をお持ちの方向け。大いにお勧めです。

20261030

洪水はわが魂に及び

決して読み易い小説ではない。

鮮烈な、そして読む者に嫌悪感すら催させる程のグロテスクなイメージが、全編を通して乱舞する。しかし、それらは決して読まれる事を拒否している訳ではない。むしろ私たちは、この小説を読み始めると、それから目を背ける事が出来なくなり、ぐいぐいとその虚構のイメージ群に引き込まれて行く。


73年に発表された小説だ。今回、若干の不安と共に、その扉を開いてみて、その世界が全く古びていない事に、安心と驚愕を覚えた。

時代も、世界情勢も異なっている。だが世界は、かろうじて核兵器の使用を控えており、まだ人類は、極端な危機に瀕してはいない。

世界は、厳粛な綱渡りを強いられているが、存続している。世界はそんな53年間を維持して来た。


主人公達は、核避難所に籠城する。それは、いつ滅びるかも知れない、全人類から、自らを守ろうとする、主人公達の意志の象徴でもある。そして、樹の魂と鯨の魂と交感しようとする。樹と鯨はかろうじて滅んでいない世界を代表している。

主人公大木勇魚と、数少ない侵入者達。

それが、見事なまでにホモソーシャルな人間関係を形造るのは、大江健三郎の意図的な仕掛けなのだろうか?

やがて現れる鯨の木のイメージ。それはデフォルメされた世界の反転像なのだろうか?

物語は、明確な回答を与える事なく、急速に回転してゆく。

最終章に至って、物語のイメージと、題名のイメージが、一気に合体して行く。そこで小説は終わるが、世界はまだ続く。

この小説を読むのは、気をつけた方が良い。読む前と読んだ後では、読者は全く別の存在に生まれ変わってしまうからだ。

20261022

ロルカースペインの魂

高校時代からスペインに入れ上げていたらしい。その著者が、ロルカをスペインの魂と呼んで伝記をものにした。本書はそうした成立過程を経ている。必然だったのだろう。

好きこそ物の上手なれと言うが、この本を読むと、成る程と思わされる。ロルカの長くは無かった人生を、余すところなく謳いあげている。


本書の最大の長所は、ロルカの詩を、スペイン語を含めて多数翻訳してあるところだ。ロルカはその著作集、全詩集など、かなりの翻訳が出回っているが、この本で原詩に触れる事が出来、スペイン語の響きを思う存分味わう事が出来る。

本書でロルカは、家系を辿って描かれている。ロルカがその多才なセンスを発揮したのも、成る可くして成ったのだと納得出来る。

そして、彼を取り巻く人間関係の芳醇さは、改めて振り返る事をあえてしなくても、実に絢爛たるものがあったと分かる。

特にサルバドール・ダリと、深い関係にあった事を知ると、時代の中で、2人の天才がいかに見事に共鳴していたのかを、私たちは知る。

それにしてもスペインは、酷い事をしてしまったものだ。これ程の人物を、何故若くして銃殺してしまったのか?

生きていれば、成したであろう、大仕事を、未完のまま終わらせる政治の非道を改めて感じざるを得ない。

ロルカの詩は、私の人生とも深く関わり合っている。その存在は、常に大きなものだった。本書で、彼の仕事が、どの様な背景の下で行われたのかを知り、ロルカへの想いを、更に深める事が出来た。

この本で知る事が出来たロルカ像に思いを馳せながら、これからもロルカの作品を、深く味わってみたい。

20261016

宮沢賢治のオノマトペ集

楽しい読書をした。

まず、表紙が気に入った。表題のレタリングと漫画が一体になっている。ユニークで楽しい表紙だ。


この本は、数ある宮沢賢治の童話の中から、特に面白いオノマトペを集め、それを纏めたものだ。

それぞれのオノマトペはフリーハンドでレタリングされ、1ページ丸ごと使って表示されている。それだけで、そのオノマトペを音読したい衝動に駆られる。

それが右ページ。

左ページにはそのオノマトペがどのようなシチュエーションで使われているかを、短い引用で示してあり、その解説が、これまた短い文章で付せられている。

宮沢賢治が使ったオノマトペに注目する事で、賢治の童話をより深く、重層的に楽しむ事が出来る仕組みになっているという訳だ。

宮沢賢治が使っているオノマトペは、意表を突くものが多く、独特な味わいをその童話にもたらしている。今までも、それに注目して来たが、それを集めるには数が多過ぎ、諦めていた。

それだけに、丁寧に厳選したこの本の登場は、嬉しいものになった。

改めて、宮沢賢治のオノマトペから、童話を読んでみると、慣れ親しんだ賢治の童話が、また独自の味わいで、立ち現れて来るのを感じた。

宮沢賢治にとって、彼が選び用いたオノマトペは、その童話の命とも言える、重要な役割を果たしていた事を、心を新たにして感じ取る事が出来たと思う。

解説の中には、同じオノマトペが、別の童話のどの様な局面で用いられているかを紹介してあるものも多く、それぞれが、独特な表現になっている事を知る事が出来た。これも編者の有り難い配慮だと感じた。

この本は、宮沢賢治のオノマトペを集めたものだが、それだけに留まらず、独自の新しい、宮沢賢治の作品集になっている。

これから先、宮沢賢治の作品を読む時に、この本で味わった読書体験は、貴重な新しい視点を提供してくれるだろう。

楽しみだ。

20261009

須賀敦子全集第1巻

毎年これと言った著者をひとり選んで、その全集を全巻読破する事にしている。

今回選んだのは須賀敦子。名エセーイストである。

かつて、彼女の全集は、文庫版で全巻持っていたのだが、引っ越しの折ブック・オフに売り払ってしまった。図書館に在庫があるのが、その理由だったが、今迄なかなか機会が掴めず、読まずに過ごしてしまった。

意を決して市立図書館から第1巻を借りて来た。

1985年から1996年にかけて発表された作品を収録した巻だと言う。


この巻の、中核を成すのは「コルシア書店の仲間たち」だろう。

須賀敦子さんがイタリアで過ごしていた期間、最も力を入れた活動のひとつ、ミラノのコルシア・デイ・セルヴィ書店を通じて出逢った仲間たちの話題が、愛情の籠った、詩的な文章で描かれている。

イタリアの文化を担う一大拠点であろうと言う志があったのだろう。彼女の筆によって描き出される仲間たちは誰もが個性的で、人間としての魅力に溢れている。

コルシア書店に集まって来る人間達は誰もが、壮大な夢を抱いている。だが、そのコルシア書店の活動も、常に順風満帆と言う訳では無かった。

誰もが葛藤を抱え、時にぶつかり合い、悶着も起こす。だが、そうした負の経験ですら、コルシア書店と言う場を通して眺めると、独特の色合いを帯びて、肯定的に浮かび上がって来る。

それはコルシア書店と言う場を共有する彼らが、何よりも、真実全力で生きているからであり、それを垣間見る私たちは、その姿につい感動を覚えてしまうからだと思う。

この巻の冒頭には、「ミラノ 霧の風景」と題されたエセーが掲げられている。ミラノに住む人々は、ミラノの霧の風景に誇りを抱いている。

ロンドンの霧など、ミラノのに比べたら影が薄くなると、認めていた。

霧の「土手」と言うのか「層」と言うのか「バンコ」と言う表現があって、これは車を運転していると、不意に土手の様な、塀の様な霧の塊が目の前に立ちはだかる。運転手はそれが霧だと先刻承知でも、反射的にブレーキを踏んでしまう。

今住んでいる土地でも、晩秋から冬に掛けて、かなり濃い霧が立ち込めるが、ミラノ程の濃い霧には、今迄立ち会った事がない。視界10m程の霧はしばしばあるが、2mとなると記憶にもない。ヘッセの「霧の中で」をつい思い出す。

そのミラノの霧が、誰もはっきりした理由が分からないまま、姿を消し始めているのだと言う。暖房に重油を使わなくなったからだと言う人もいる。あんな霧、無くなった方がいいですよと、ミラノに住んでいる日本人は言うが、古くからのミラノ人は何となく淋しく思っているのだそうだ。

第1巻の最後を飾るのは、「旅のあいまに」と題された、単行本未発表の、様々な知人を巡る思い巡らしだ。

須賀敦子さんは、人生の中で出逢って来た様々な人々を、ひとりひとり大事に扱って来たのだな。としみじみしてしまう。エセーで描かれる人々のひとりひとりを、彼女は実に愛情深く、描き出している。

これは単なるエセーではなく、詩だ。読み終えてその事を、深く納得した。

20261003

詩人茨木のり子の誕生

熊谷誠人『詩人茨木のり子の誕生─西尾の少女の物語』。

よく調べたものだ。そしてよく考え抜かれている。

この本を読んで、今年が茨木のり子の生誕100年に当たる事を知った。それ程昔の人だったのかと、改めてびっくりする。彼女の言語感覚は、現代人と殆ど変わらない。若い。

しかし「わたしが一番きれいだったとき」などの作品を思い浮かべると、その時代に納得が行く。

茨木のり子の伝記としては、後藤正治の『清冽 詩人茨木のり子の肖像』という労作がある。著者もこれには一目置いており、これを越える聞き取りは難しいと認めている。その上で、それと比べて、本書にはどの様な特徴があるのかを、冒頭で解説している。


【本書の特徴1】詩の背後にある原体験を読み解く

【本書の特徴2】詩人茨木のり子が誕生するまでの自己形成の物語

【本書の特徴3】人々を戦争に巻き込んだ昭和の時代を見つめる

本書は、各章の冒頭に茨木のり子の詩を掲げ、それについて、背景、原体験、時代を深く語ってゆく構成を採っている。

本全体が、詩の解説になっていると言って良い。

よほど茨木のり子がお好きなのだろう。その読解は、深く、その視野は広い。

本書を読んで、私は初めて、茨木のり子が若い頃、軍国少女だったと言う事実を教えられた。

幼い頃から成績優秀で人格高潔。常にクラスのトップに君臨して来た彼女が、戦争という時代に巻き込まれた時、それに対しても優等生であったと言う訳だ。

後に現代詩の長女と呼ばれた彼女は、常に時代の長女でもあったのだろう。

その彼女の詩を、細やかな手付きで解き明かす本書の姿勢は、従来の茨木のり子像とは、一味も二味も違う彼女の側面を、鮮明に描き出す事に成功しており、冒頭で解説している本書の特徴は、正に看板に偽り無しと言った所だ。

それらの事を念頭に置いて、彼女の詩を読み返す時、今迄とは全く異なった輝きが、彼女の詩から発している事に気付く。

私は、若い頃から茨木のり子の詩を読んで来たが、本書を読み、その読みが実に浅かった事を認めざるを得ない。

本書を読み、茨木のり子理解は格段に深まった。

著者の熊谷誠人さんには、心から感謝する。

20260930

20周年

このBlogは2006年9月30日に始めたものだ。つまり、今日で丁度20年経つ。

最初は『季節風』という題名だった。大気圏などの名称にその名残りがある。

『夏の扉へ』というサイトは別にあった。掲示板の題名だったのだ。こんな感じだった。


今から見ても、なかなか良いデザインだったと思う。

最盛期には、60人程の常連がいる、結構繁盛した掲示板だった。

掲示板の運営は、結構神経を使うもので、暇な時間は、常に掲示板の事を考えていた記憶がある。けれど時代とは冷酷なもので、その繁盛していた掲示板も、終わり頃にはお客さんも限られ、労多くして益少なしの状態だった。

その頃から世の中はBlog全盛の時代に移り、私も次第にBlogに軸足を移し始めていた。

そうなると『季節風』と言う題名も平凡に思えて来て、掲示板に使っていた題名が、いたく気に入っていた事もあり、『夏の扉へ』を掲示板とBlogの両方で使っていた。

そんな状態が2年くらい続いたろうか?掲示板の方に来るお客様も居なくなり、そこは閉じる事にした。

今感じるのは、Blogの時代も終わりかけているということだ。

読者数は極端に減った。

最盛期には2Kは軽く突破していた読者も、現在は300行けば御の字。ふと周りを見渡せば、gooなどもBlogサーヴィスを辞めており、Bookmarkに登録されているBlogで、今生き残っているのは数える程しかない。

世の中は、SNSなどの短文文化が幅を利かせているのだろう。

だが、今回振り返って過去記事を読んでみると、読者が減ったのは、時代だけの理由ではないと感じる。

昔書いたものは、結構面白いのだ。

考えてみると、当時は文章も結構気を使い、推敲も入念に行なっていた。

かつては、読書感想文専用のBlogも別にあり(今も存在する)、私の興味の対象も、多岐に渡っていた。

これでは読者数が激減するのも当然と言える。

そこで、一念発起する事にした。今回、20周年を迎えるに当たって、Blogのデザインを一新する事にしたのだ。

現在使っているBlogも、相当前に新デザインを採用する様促されてもいたのだが、今迄のデザインに愛着があり、変えずに使って来たのだ。

かつてはデザインの変更を行うと、ガラリと変更された記憶があるが、今回探してみると、現行デザインを踏襲するものが殆どで、使って来たパーツもそのまま残り、大幅な変更には至らなかった。

だが、このデザイン変更には、初心に戻ろうという意図を込めた心算だ。

大気圏などのパーツは、編集したいと昔から思っていたのだが、今回の変更でも編集出来ず、かつてのものをそのまま使うしか無かった。

だが、本文中に埋め込んだリンクなども、かつてより分かり易くなっており、有意義なデザイン変更になったと自負している。

時代の流れに抗して、これからもこのBlog『夏の扉へ』を続けて行こうと決意を込めた心算だ。

どうぞ皆様、宜しくお願い致します。