20250627

カンタさんの古代桜とB29

最初、著者の半生記なのだろうかと思った。

だが読み進めるうちにすぐにそうではないと理解した。著者は自分の想像力を駆使して、小説を創作している。その事を理解して、読み返してみると、小説が持つリアリティに驚かされた。


名前を出しても良いだろう。

著者の三嶋寛さんは今年86歳。戦争を記憶し、語る事の出来る最後の世代だ。

Webを通して知り合い、著者が参加している同人誌を、1年に4回贈って下さっている。私はそれをいつも楽しみにしており、受け取るとすぐ著者の文章を読む事を習いとして来た。

忙しさにかまけて、感想を述べる事もせず、非礼の限りを尽くして来たが、それでも嫌な素振り一つせず、贈り続けて下さった。

その三嶋寛さんが本を出す。その事を知ったのは、彼のブログを通じての事だった。

読みたい!

切実にそう思った。

だが、情けない事に、私にはその書籍を購入する資金がない。

図書館にリクエストしてみよう。ぼんやりと、そう思案していた。

それが何という事だろうか!

三嶋寛さんは件の小説をも、私に贈って下さったのだ。

同人誌などで語る三嶋寛さんの文章は、彼が生きた時代を、生き生きと語る、まさに戦後の語り部であり、著者の文章から、戦後という時代を再考するのが、楽しみであった。

本を出すと聞いて、そのいつもの語り口を拡大したものを想像したのも無理はないと思う。

小説の基調には、勿論彼の半生が映し出されているのだろう。

おはなし。三嶋寛さんは自分の作品を、謙遜してそう呼んでいる。けれど、作品の持つリアリズムは、その語感を大きく上回っている。

この作品には、戦争というものに対する、重い反省と、著者の郷土に対する、深い愛情が描かれている。

内容の詳細は敢えて秘す。是非読んでみて頂きたいからだ。B29がいかにしてカンタさんの記憶に留まり、いかにして甦ったかの物語だとだけ、書いておきたい。B29は戦争の、薄墨桜は郷土のメタファーになっているのだろう。

この本には、中編の「カンタさんの古代桜とB29」の他に、掌編「路面電車の走る街で」が収録されている。こちらの語り口も見事だ。 

20250620

ajides

パロディーTシャツと呼ばれているのだそうだ。

もし、当時この言葉を知っていたら、或いは店のどこかにこの言葉が書いてあったら、私は確実に、そのTシャツを買っていただろう。

御徒町のアメ横の、怪しげな洋品店の店先に、それは展示されていた。


adidasのロゴそっくりに、魚が並べられている。そしてadidasの文字そっくりのフォントでajidesと書いてあった。鯵です。

見かけて思わず吹き出した。よく考えられている。

だが、そのTシャツと店の醸し出す怪しげな雰囲気に呑まれて、何だこのバッタもんは。と見切り、私はそのTシャツを買わなかった。

下宿に帰って来て、私は私の判断を、ひどく悔しがった。

買っておくべきだった!

この程、あのTシャツは幻ではなかったか?と、Webで検索してみた。すぐに見付かった。やはり実在したのだ。

何でもイチロー選手が着ていて、人気が出たらしい。彼は私のように貧乏ではない。買ったのだ。

今ならいつでもこのパロディーTシャツを入手出来る。

だが、そう思うと、私を悔しがらせた緊迫感が無くなってしまった。

いつでも手に入るなら、今でなくても良い。

それにイチロー選手の真似をしたと思われるのも、何だか癪だ。

私はajidesTシャツを買わないだろう。 

ただ、その存在を認知して貰えたらそれで良い。

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SNSにこの投稿を投げたら、よしさんという方から、ロゴが燃えているkajidesを買ったという指摘を受けた。

早速調べたところ、ajidesの頭にkを付けたkajides(火事です)というTシャツは実在する事がわかった。


いやはや、このパロディーTシャツ。どこ迄進化するのだろうか?

20250609

活動的生

母語で考えるとはいかなる事か。その事を考えさせられる1冊になった。

『人間の条件』は最初に志水速雄の訳で、そしてその後牧野雅彦の訳で読んだ。

今回読んだ『活動的生』は『人間の条件(Human Condition)』のドイツ語版『Vita activa』からの翻訳になる。訳者は森一郎。


英語版につきまとっていたある種の難解さが、ドイツ語版にはない。言語は極めてクリアで明晰だ。

そしてドイツ語版では、ハンナ・アーレントがいつにも増して饒舌である事にも気が付いた。

まさしくハンナ・アーレントは、歌うように、論文を書いている。

それこそが、普段ドイツ語で思考しているハンナ・アーレントがドイツ語で考えるという事の現われなのだろう。

だが、流石に論旨を十分に咀嚼し、理解するには、一行も読み飛ばす訳にも行かず、結局6日掛けて、ようやく読破する事が出来た。

生きている限り、人は何らかの活動を行う訳だが、それぞれの活動を行っている時、一体何をしているのか?その事を丁寧に、根気強く、ハンナ・アーレントは私たちに語りかけて来る。

それは同時に生きる事=活動する事の意義を、丹念に確認して行く事でもある。

その作業を通して、私たちは現代に生きるという課題を、どうにか達成する事が出来るのだろう。

その意味で『人間の条件』=『活動的生』は、人類が20世紀に到達した、貴重なメルクマールであると言う事が出来るのだろう。まさしく本書は、現代哲学の古典的名著であると言えると思う。

戸惑ったのは『人間の条件』で「仕事」と訳されていた語が、『活動的生』では「制作」と訳されている事だった。英語とドイツ語で使われている単語の意味が異なる事から発した相違なのだろうが、ハンナ・アーレントの主張を「仕事」で理解していた私には、飲み込むのに少し困難が伴った。

だが第六章「世界疎外の開始」から始まる、本書の結論に至る過程は、ドイツ語版ならではの迫力に満ちており、思わず感動してしまった。

3作品を通読して、やはりドイツ語からの本書が、私にはとても好感が持てた。

だが3作品の中で、『活動的生』が最も値段が高い。

20250510

石牟礼道子全集不知火別巻

昨年の1月に思い立っている。すぐ実行に移したので、ほぼ1年半掛けた事になる。石牟礼道子全集不知火の全巻読破を成し遂げた。

全集編纂後の作品や対談は、既に読んでいるので、石牟礼道子さんの作品は、全て読破した事になる。


振り返って胸に迫ってくるのは、やはり石牟礼道子という作家は、並の書き手ではないなという実感だ。

全作品を通して感じるのは、どの作品も最初の1行が鋭いという事だ。物語世界に引き込む力は勿論の事、作品全体を照射するような、強い光を放っているのだ。

それに続く文章は、どれも美しく深く、入り口でぐいと引き込まれた私たちは、作品世界に安心して身を委ねる事が出来る。

後は石牟礼道子の言霊に導かれるままに、揺蕩っていると、自然に真実に辿り着く事が出来る。

世には、石牟礼道子というと『苦海浄土』という評価がなされているように思う。別段間違ってはいないだろうが、それだけの作家ではないと言う事が分かった。

常に市井の民の視点を忘れる事なく、西郷隆盛や高群逸枝を通して、近代の落とし忘れ去って来た物を、そっと掬い上げる。その作業を全生涯を賭けて、成し遂げた作家だったのだと分かる。

それ故、石牟礼道子が魂と言う時、そこには魂が宿るのだと思う。

全集で読んだ事は、大きな意味があったと感じている。それぞれの作品は、その作品単体として完成しているが、その作品を巡って書かれた、夥しいエセー群を併せ読んだお陰で、ようやく分かった事も多い。例えば高群逸枝の伝記の題名が何故『最後の人』なのかと言ったような事。

全作品を読破して、感ずるのはこれが終わりではないのだと言う事だ。むしろようやく出発点に立つ事が出来たと言う感覚の方が強い。

私はまた、石牟礼道子を読むだろう。そして、そのようにして読んだ時、ようやく分かる『苦海浄土』があるだろうという予感が、強い信念のように存在しているのを、確かに感ずるのだ。

全作品を読破する度に感ずる思いが、また胸に押し寄せている。また特別な作家がひとり増えた。

20250425

ガザ日記

月に1冊ずつでも、パレスチナ関係の本を読むようにしている。

それは彼らに加害する西側に属する者として、人間らしく生きる為の一縷の矜持を保とうとする、私の悪足掻きのひとつなのだと思う。


本書『ガザ日記ージェノサイドの記録』は、そんな私の読書歴の中でも、パレスチナの、ガザの現実を、リアルに、そして厳しく突きつけてくる、特別な1冊になった。

著者のアーティフ・アブー・サイフは、ガザ地区のジャバリア難民キャンプ出身の作家で、パレスチナ自治政府の文化相として、通常ヨルダン川西岸地区のラマッラーに住んでいるが、たまたま息子を連れてガザを訪問中にイスラエルの爆撃が始まり、そのまま3ヶ月近くガザに閉じ込められ、親戚や友人たちと共に、ジェノサイドの恐怖を体験することとなった。

本書はその3ヶ月の間の、1日も欠落がない貴重なジェノサイドの記録である。

苦しく、辛い読書になった。

1日分の日記を読む。そこには余りに酷い記述が満ちている。彼等は真に死と隣り合わせに生きている。1日分を読み終える。余りの衝撃に、私は本を閉じる。暫く休む。一日の記載が終わったという事は、著者が眠ったと言う事だ。そして、本が続いていると言う事は、明日があるという事だ。著者と共に、私も休む。読んでいて、2日分の記述を連続して読む事は、遂になかった。

ガザのジェノサイドの犠牲者の数を、私は知っている。そして、その中に子どもの占める数も、また知っている。けれど、それらの人々が、どのような日常(と言って良いのかどうか)を送っているのか、何を体験し、何を感じているのかを知ることは無かった。

それは想像を絶するものだった。

自分が生きているのかどうかが不確かな日常。それはもはや日常とは呼べないだろう。

自分が何かを考えている。だがそれはただ単に、死んでいる事に気付かずに、彷徨っている幽霊の思考なのではないか?その様な疑問を感じざるを得ない状態を、彼等は生きている。

それはつまり、「我思う故に我有り」の、デカルトの「真理」が通用しない日常なのだ。

イスラエルの攻撃に論理はない。動いているものは猫でも狙撃する。

ガザの人々の眠りは、覚醒の保証のない眠りだ。寝ている時に攻撃されたら、永遠に醒める事はない。朝の目覚めは、当たり前の事ではなく、ただ単に良かった運の結果なのだ。

著者は書く。

戦争下では、目覚めてからの数分間がもっとも緊張する。起きるとすぐに携帯電話に手を伸ばし、大切な人たちが誰も死んでいないことを確認する。しかし日が経つにつれ、何を読まされるのか不安になり、携帯電話に手を伸ばすのを躊躇するようになる。携帯電話を手に取る勇気の出ない朝もある。いつかは悪いニュースが飛び込んでくる。

本書を読むのに、結局5日間掛かった。読み終えた瞬間、私は強烈な充実感と無力感という、矛盾した感情に、激しく撃ち倒された。

今、ガザで起きている事は恐ろしい。だが、もっと恐ろしいのは、世界がガザに慣れてしまっているという事だ。

20250414

知の考古学

意味が凝縮している。フーコーの文章を読む時、その事を強く感じる。しかもその意味は藤の樹の様に硬く捩れあい、巨大な塊を形成している。

私たちはその塊をどうにかして解(ほぐ)し、咀嚼する事が可能な程度に解体する作業を、最初にしなければならない。

それがフーコーを読むという事だ。

それはフーコーの言葉をそのまま読むという事ではない。

フーコー独自の言い回しを、一旦そのまま受容れ、その後に私自身の言葉に翻訳して行く。意味の解体と同時に、その作業も並行して行わなければならない。


本書『知の考古学』を読解する過程で、私はまたもその作業に専念しなければならなかった。

ミシェル・フーコーは、絶えず自己からの脱却を試み、繰り返し続けた思想家だと思う。

『知の考古学』は『狂気の歴史』、『臨床医学の誕生』、『言葉と物』を産み出して来た自らの方法論を、一旦解体し、伝統的な「思想史」と訣別し、歴史の連続性と人間学的思考から解き放たれた「考古学」として開示する為に書かれている。

フーコーにとって、その作業は一寸先だけ見えていてその先は闇の空間を、全速力で疾走する様な、知的冒険だっただろう。

フーコーの言葉を読むという事は、その冒険を私たち自身も追体験する作業でもある。

当然の様に、その過程では、一旦読んだ文章を再読し、先の読めないフーコーの言葉を繰り返し咀嚼する事が必須になる。

それは確かに苦行だが、それを繰り返し、少しずつ読み進めるうちに、ふと後ろから強烈な光が差して、その先の風景が見えて来る瞬間がある。

大抵の場合、それは瞬間的な出来事であり、その光は再び闇に包まれてしまう。

だが、それは他の思想家では味わう事の出来ない、強烈な快感である。

フーコーが一瞬腑に落ちるのだ。

フーコーは難解であり、その文章を読む事は苦渋に満ちている。

だが、一旦味わった光の瞬間を再び味わいたくて、私はフーコーを読む。

フーコーを辞められない理由はそこにある様な気がする。

20250412

種の起源

思わぬ基本文献を、私は読んでいない。

あれほどスティーヴン・ジェイ・グールドやリチャード・ドーキンスを読み漁っていながら、今日までチャールズ・ダーウィンの『種の起源』を読んでいなかった。

これは明らかに怠慢だ。

今日(2025年4月12日)ようやく読み終える事が出来た。


実はこの本は、もう少し前に読む心算でいた。

本を買ったのは、光文社古典新訳文庫から出たばかりの2009年の事だ。

まるまる16年、『種の起源』は本棚に眠っていた事になる。

写真を見ると分かるが、腰巻きや背表紙は陽に焼けて褪色している。


『種の起源』は、それほど難しい本ではない。対象は専門家ではなく、あくまでも一般読者である。

薄い本では決してないが、本来ダーウィンはもっと厚い体系的な本を書く心算でいたらしい。『種の起源』はあくまでも要約なのだ。

それでも私はそのヴォリュームに恐れをなして、本を手に取るのを躊躇っていた。躊躇い続けていた。

図書館から借りて来た本も読み終え、1週間程隙間時間が出来た。これを利用して、ついに読む事にした。

さすが光文社古典新訳文庫から出ているだけあって、訳が読み易い。昔八杉竜一訳のものを読んだ時は、その文章の長さに圧倒され、遂に挫折した記憶がある。

この渡辺政隆訳は、本人も書いているが。本来延々と続くダーウィンの文章を適当に、短く切り、それを繋げて行く書き方になっている。

それでもダーウィンの議論は、微に入り細に入り、全方位からの反論を想定して書かれている為、スルスルと読めて行く文章ではない。

選ばれている用語が比較的易しいので、それに助けられながらどうにか内容を理解して行く事が出来た。

ダーウィンはビーグル号航海で、「変化を伴う由来」(ダーウィンは進化という用語を避け、この呼び名を使用している)の発想を得てから、『種の起源』を書き始める迄22年間もの間、構想を寝かせていた。

だが、伊達に沈黙していた訳ではなかった。その事が、『種の起源』の議論を読んでいると分かる。

『種の起源』はダーウィンの長いセルフディベートの果てに書かれた要約なのだ。

ダーウィンは彼の学説への反論を、あらゆる角度から想定し、それに対して丁寧に再反論している。おおよそ全ての議論が、『種の起源』の中に織り込まれているのではないだろうか。

それはダーウィンの学説を理解するためには、それだけの議論が必要だったという事だ。

『種の起源』を読んでみて、この要約は、かなり誤解されているという事が分かった。

ダーウィンは『種の起源』の中で引用や注釈を避け、図の使用も可能な限り控えている。

唯一図を使ってあるのは、生物が「変化を伴う由来」を経て変化して行く過程とは、限りなく枝分かれして行く分岐の連続であるという事を示すもので、その考えを何度も繰り返し強調している。

だが、ダーウィンの学説への反発は、人類は猿から変化したものだという誤解だった。

これは『種の起源』発表直後の当時の反応だったのだがどうだろう?今もそれ程変わっていないのではないだろうか?ヒトは猿から進化したと思っている方がどれほど多い事か。

『種の起源』を読み終えた時、私は深い感動を覚えた。

それは、とても一人の人間の頭脳から編み出されたものとは思えない、一種荘厳なカテドラルの様な思考の作品を読み終えたという満足感だった。

私はようやく進化論についての様々な本を読む資格が与えられたと感じている。