20220425

Spotify Premium復帰

金のかかる事は一切出来なくなった。

その為、音楽配信サーヴィスSpotifyもfreeプランで何とか凌いで来た。

だが、普段月額980円のところを3ヶ月980円でPremiumに上げられるキャンペーンが始まった。これならどうにかこうにか手を出す事が出来る。かくしてこの度Spotify Premiumに復帰する事が出来た。

相変わらず古楽ばかり聴いている。

だがその気になれば


このように友人に貸したまま返って来ないお気に入りだったCD、チャールズ・ミンガスの「ファイブ・ミンガス」もCDを買い直さなくても堪能する事が出来る。

古楽ばかりを5年間程聴いていたら、耳が古楽に慣れ切ってしまった。

この頃その「恩恵」を感じる事がある。

古楽以外の音楽は基本的にラジオかYouTubeもしくはCDで聴く。

古楽に慣れ切った耳には、これが何とも新鮮なのだ。

具体的に言えば、従来昔の音楽としか聞けなかった古典派以後のクラシックも、驚く程新鮮に聴こえる。

ハイドンやメンデルスゾーンがいかに独創的で革新的な音楽を創造したのかと言うことなどが、はっきりと感じられる様になっていたのだ。

普段ジョスカン・デ・プレやジョン・ダウランドなどを聴いている。どれも限りなく美しい。この時代の音楽さえあれば、もう新しい音楽は必要ないのではないかなどとも思えて来る。

だが、音楽家たちは歴史を刻む。

ハイドンやメンデルスゾーンは、従来なかった独創的な音楽を、確かに創造したのだ。そしてBachは、古典派以前の音楽を集大成している。増してベートーヴェンやムソグルスキーなどは音楽に確かな革命を起こしている。

それらが皮膚感覚として理解出来る耳になっていた。

さらに今迄若干苦手意識があったシューベルトも「分かる」様になっていた。ようやくシューベルトのピアノソナタのCDを、思う存分楽しめる様になった。

もうひとつ変わった事がある。

安い音楽機材しか使って来なかった。なので私は音楽の音質にさほど敏感な方ではないと思っていた。

Spotifyのfreeプランでは、最高音質が選択出来ない。今迄はそれで十分だと思って来た。だが、この程Premiumに上げたところ、自動的に設定が最高音質になり、その事がはっきりと理解出来たのだ。

音の立体感や輪郭が全く違う。

持続して体験する事は、レベルの向上に繋がる。

とりわけ苦労して努力した訳ではないが、ずっと古楽を聴いてきた為に、いつの間にか音楽に敏感な耳が養われていたと言う訳だ。

これは思っても見なかった成果だ。

しかし困った面もある。キャンペーンは3ヶ月で終わる。つまり3ヶ月後には私はまたSpotifyをfreeに戻さねばならないのだ。

果たして我慢出来るだろうか?

20220424

いま言葉で息をするために

フランスの錚々たるメンバーの文章を、日本の錚々たるメンバーが訳している。

主題はCOVID-19だ。


多くの国で、人々は疫病を蔓延させない為に、家に閉じ込められ、隔離されて過ごさねばならない状況に落とし込められた。圧倒的な無為の時間。そこで人々は思考する事に活路を見出そうとした。

本書はその思考の記録である。

疫病が蔓延する度に、人々はその疫病について思考を巡らせる。それはひとつの定めの様だ。この本には多くの思想家、哲学者、歴史家などが、COVID-19の意味するものを探り、多彩な思考実験を繰り広げている。

この本ではそれらを思想・文学・歴史・宗教・人類学という単元に分類し、それぞれに訳者の解題を付けて、纏め上げている。

COVID-19の蔓延に伴って、世界はいやが上にも変わってしまった。では、何がどの様に変えられたのか?それらを見据える事は、そう容易い事ではない。

各論者はまるで病原菌を扱うような手付きで、その問題に立ち向かっている。私たちはそれを読み、自分が置かれている立ち位置を、慎重に確かめる。

この論集は、そうした知識人と私たちの密やかな対話になっていると感じた。

エマヌエル・コッチャを始めとして、今迄知らずにいた知識人を数多く知る事が出来た。これからの読書体験に、それは生かされるだろう。

それはCOVID-19がもたらした、最大の実りなのかも知れない。

20220422

チャールズ・ミンガス生誕100周年

 アメリカ合衆国のジャズ演奏家チャールズ・ミンガスは1922年4月22日にアリゾナ州ノガレスに生を受けている。つまり今日はミンガスの100回目の誕生日なのだ。

朝からソワソワしていた。この日が来るのを前々から知っていたので、いざ今日を迎えると、何をして良いのか咄嗟には判断出来なかったのだ。

取り敢えずミンガスのジャズを聴く事だけは決まっていた。さて、最初は何にしよう。

部屋のCD棚を漁って、持っているミンガスのCDを全部引き出す。

1枚目に決めたのは”Blues & Roots”


彼の誕生日を記念して、そのルーツを堪能しようと考えたのだ。

これは正解だった。ミンガスがどの様な根を持って、音楽に挑んで行ったのかが良く分かるCDになっていた。

チャールズ・ミンガスは音楽家として知られているが、黒人差別反対運動家としても知られている。そうした彼が、黒人の音楽を大切にしない訳がない。

次に掛けたのは”Charles Mingus Presents Charles Mingus”


ミンガスのトーン・カラーの魅力が最大限に生かされた名盤だ。

私にとって、チャールズ・ミンガスは特別な音楽家だ。彼の音楽ばかりを聴いていた時期もあった。椎名町の安い下宿には、彼のポスターがずっと貼ってあった。35年間に渡って、私は彼と対面して過ごしていた事になる。

さて、時間もCDもたっぷりある。今晩は彼の生誕100周年を祝して、特別な料理を作ろう。

祝祭はこれからだ。

20220421

マリア・ジビーラ・メーリアン

 大抵の場合、図書館の本は箱がある場合、それを取り除いて展示されている。ところがこの本では、箱が付いたままだった。箱にはマリア・ジビーラ・メーリアンが描いた彩色画が印刷されている。だが、表紙にはそれがない。恐らくその事が箱が残された理由だろう。この配慮には、私は最大限の感謝を捧げたい。絵があるかないか、その事はこの本の価値を大きく左右する。良くぞ箱を残して下さったものだ。


美しい本である。電子書籍が出回り、本そのものが売れなくなりつつある現在、この様に美しい本が出版された事自体、大きな驚きである。だがマリア・ジビーラ・メーリアンの業績を紹介するのであれば、その本は美しくなければならないだろう。

有名な方らしい。私は迂闊にも知らずにいて、この本でようやくマリア・ジビーラ・メーリアンについて知識を得た。昆虫や両生類の変態を初めて観察し、報告した事で知られている。

17世紀後半、世の中は観察の時代を迎えていた。

イタリアでは、ガリレオが恒星や惑星の研究に新発明の望遠鏡を役立てた。彼は地球が太陽を周回している事を確認し、それはアリストテレスの、太陽が地球を周回しているとする確信とは正反対の発見だった。

イングランドでは、ウィリアム・ハーベーが諸動物の静脈と動脈を切開し、血液は心臓の拍動によって身体中を循環している事と、2世紀ギリシャの医者ガレノスの、血液は肝臓で作られるという提言は誤りである事を証明した。

同じくイングランドで、アイザック・ニュートンは動いている物体を観察して、物体の落下は重力によるものだと断定した。

オランダではアントニ・ファン・レーウェンフックが、望遠鏡と並ぶもうひとつの新発明、顕微鏡を利用して、バクテリアや赤血球のように微小すぎて、それまでは絶対に見えなかった諸物を実験調査した。

そしてフランクフルトでは、13歳の昆虫好きの少女マリア・ジビーラ・メーリアンが「全ての芋虫は交尾を終えた蝶の卵からのみ生まれ出る」としてアリストテレスの自然発生説に挑んだのだ。

マリア・ジビーラ・メーリアンは採取した芋虫と蛹を家に持ち帰り、何が起こるのかを見ていた。中に入っているものを突き止めようと蛹を分解したり、蛹から出て来た蛾や蝶を研究したり、雌が卵を産む様子を観察したり、卵から芋虫が生まれるところを見ていたりした。彼女は研究帳に、各成長段階の絵を垂直に、或いは水平に並べて描いた。

それらの絵はことごとく正確でありかつ圧倒的に美しい。 

女子には学校へ通う自由がなかったこの時代、自宅で絵のレッスンを受ける事が出来た事、それは彼女にとって何よりの幸運であり、武器であり、財産だっただろう。線の引き方や絵の具の作り方から、彩色の方法まで、彼女は自由に学ぶ事が出来た。

だが、昆虫好きである事、それらを鋭くありのままに観察する、観察眼の確かさや鋭さは、彼女の天性のものだとしか思えない。

最初彼女は身近な芋虫から観察を始めるのだが、長じてスリナム迄冒険旅行に出掛ける事になる。

生涯にわたって、彼女の身の回りには、観察の対象が満ち溢れていた。彼女はそれらを注意深く観察し、独特のセンスでダイヤグラムに纏め、数多くの作品を世に出した。

それらの作品集は、調べてみると日本でも入手可能であるようなのだが、どれも高価で、とても手が出ない。

今回、比較的安価で、マリア・ジビーラ・メーリアンの作品と生涯に触れる事が出来る本が出版された事は、出版社の良心の結晶とも言える行為であり、貴重な書籍であると私は思う。

20220420

送別の餃子

 4月に入ってからブログを更新しなかった。図書館から借りている本に大著が多く、返却期限迄に読めるかどうか不安だったからだ。どうにか全てを読破する事が出来た。

読んだ本は大田暁雄『世界を一枚の紙の上に』、千葉雅也・國分功一郎『言語が消滅する前に』、陣内秀信・三浦展『中央線がなかったら』、矢島道子『地質学者ナウマン伝』、野矢茂樹『ウィトゲンシュタイン『哲学探究』という戦い』、原基晶『ダンテ論』、三中信宏『系統樹思考の世界』、スティーヴン・ジェイ・グールド『ダーウィン以来』といったところだ。

どの本も面白く、私の世界を存分に拡げてくれた。

今回採り上げる本は井口淳子『送別の餃子(ジャオズ)─中国・都市と農村肖像画』である。


実はこれ程早くこの本を読もうと、最初からしていた訳ではない。著者からtwitterでフォローされた。なのでお礼の意味を込めて、読み始めた。

当初題名から空想していた内容とは、大きく異なった。随筆的な内容を思い描いていたのだ。だが、読んでみると丁寧なフィールド調査を経て書かれた、内容の濃い本だった。

17年に渡る、著者と中国の関わり合いが描かれている。

文革終了直後から、著者は中国に入っていたらしい。

文中に頻繁に中国の難しい単語と読み方が入っている。それを覚えながら読むのにかなり苦労した。ことほど左様に、私は(そして多分私たちは)隣国中国を知らない。

この本には中国の主に農村地帯のフィールド調査の経緯が書かれているが、中国の農村と言えば難しい中国語の中でも厄介な方言が支配する所だ。中国語は堪能では無かったと著者は言う。それで単身中国の農村地帯に飛び込んで行く度胸の良さにびっくりした。

中国では、出会いの時に麺を作り、別離の時には餃子を作る。その事がそのまま題名になっている。同じモンゴロイドでも、日本人と中国人とでは、その心性に大きな違いがある。

日本人は優しさを重んずるが、中国語にはその優しさに対応する言葉がない。近い言葉として「親切(チンチェ)」「温和(ウエンハー)」「老実(ラオシー)」があるが、どれも微妙に優しさとは意味が異なる。

その中国で筆者は何度も死ぬ目に遭う。その度に現地の人々に世話になり、どうにか生き抜いて来たと言って良いだろう。

その著者が中国語には優しいという言葉がないと言うのだから、多分本当の事なのだろう。

本書には、佐々木優さんによるイラストが添えられている。これがなんとも言えない味わいを本書に与えている。これらのイラストなしでは、本書の魅力は半分も伝えられない。

20220401

フーコー文学講義

 フーコーが1983年に世を去ってから、今年で39年になる。現在、彼の哲学的営為の全容が明らかになりつつある。フーコーの生前に刊行された論文や対談を収録した『ミシェル・フーコー思考集成』の出版に続き、彼がコレージュ・ド・フランスに於いて行った講義録の刊行も2015年に完結し、その大部分が既に邦訳されている。また長らく未刊だった『性の歴史4』「肉の告白」も2018年に出版され、2020年には邦訳が刊行された。その一方で、フーコーの生前には刊行されなかった講演や、フーコーがコレージュ・ド・フランスに着任する以前に大学で行った講義録などの出版も進められている。本書『フーコー文学講義』は、そうしたフーコーの生前に未刊行だった講演のうち、文学に関わるものを収録した著作である。


フーコーの文学論は、彼の哲学的営為に於いて比較的マイナーな位置を占めるものとして扱われている。

では、フーコーと文学との関わりは、ヌーヴォー・ロマンをはじめとする前衛的な興隆を目の当たりにしたフーコーの一時的な気の迷いのようなものであって、彼の哲学的企図自体には関わらない二次的なものに過ぎないのだろうか?

確かにフーコーの著作や論文に加えて、コレージュ・ド・フランス講義録が刊行されている現在、フーコーのコーパス全体に於いて文学をめぐる論考が占める量は必ずしも多いとは言えない。しかし、分量的にはマイナーだとも言えるこれらの文学論は、フーコーの研究全体の中心的な主題である主体と真理という問題に極めて密接な形で関わっているのである。

本書第一章「狂気の言語」には1963年にフーコーが製作した同名のラジオ番組企画のうち、第二回と第五回放送が収録されている。第二回放送「狂人たちの沈黙」は、フーコーと番組の監督を務めたジャン・ドアとの対談という形式を採っているが、その内容は、フーコーが1961年に刊行した『狂気の歴史』、とりわけこの著作の狂気と文学に関連する箇所の一種の要約紹介となっている。この回でまず注目すべきはフーコーがニーチェ『悲劇の誕生』に由来する「ディオニュソス的な合一」という観点から、狂気をめぐるこれらの文学的経験を捉え直しているところだろう。

次に注目すべきは、フーコーが狂気をめぐる文学的経験を明らかにするものとして採り上げた文学作品が、狂気と理性の対話という構造を持つ点である。こうした対話はフーコーが狂気の近代的経験を特徴づけるものとして分析した、狂気と理性の弁証法的な関係、即ち、理性が狂気を対象化しつつ狂気のうちに疎外された人間の真理を見出すという弁証法的な関係に鋭く対立するものである。

本書第二章「文学と言語」には、フーコーが1964年にブリュッセルのサン=ルイ大学で行った、文学をめぐる二回にわたる講演が収録されている。

サルトルによって提示された「文学とは何か」という問いを引き受ける形で開始される第一回講演に於いてフーコーが提示するのは、近代文学の考古学である。

この講演に於いてフーコーは、文学は古代以来連綿と続くものではなく、18世紀末に生まれた近代の産物であると述べる。

古典時代の文学的経験と近代の文学的経験の間にはどのような違いがあるのだろうか?フーコーによれば、古典時代の文学的経験は、古代ギリシア・ローマの古典や聖書のような、真理を告げる聖なる書物を前提として成立していた。

聖なる原典と、それを復元する修辞学の後退と共に誕生した文学を特徴づけるものとしてフーコーは、侵犯、図書館、シミュラークルという三つの形象を採り上げ、それらをサド、シャトーブリアン、プルーストという三人の作家に歸している。

フーコーによれば、侵犯、図書館、シミュラークルというこれらの形象は、いかなる肯定性も持たない否定的な形象であり、近代文学はこれらの形象の間で引き裂かれているというのである。

本書第三章に収録されているのは、フーコーが1970年にニューヨーク州立大学バッファロー校で行ったサドをめぐる二回の講演である。

サド講演に於いてフーコーは、サドの著作を精密に読解することで、論理的観点から見れば矛盾を孕むように思われるサドの思索から、その哲学的な可能性を最大限に引き出そうとしている。その意味でこの講演は、1960年代を通じてフーコーが行っ肯定的なサド評価の極北を示すものであると言える。

フーコーが文学を通してとらわれていた問題。それは、我々をこのようにあらしめている歴史的規定から身を引き離し、いかにして他なる空間を創るかにあったのではないだろうか?

〈主体と真理〉という生涯の問題系に密接な関わりを持つものとして、彼の文学論は展開されている。