20130625

おふざけベートーヴェン

このところピアノ曲を中心に、クラシック音楽ばかりを聴いている。お金が無いのでYouTubeが多くなるが、関連リンクに時折何じゃこりゃ?!というものが引っ掛かってくる。

ベートーヴェンにこんな曲があるとは知らなかった。


ベートーヴェン:「なくした小銭への怒り」

いや、知らないはずだった。

だが、この曲、子供の頃確実に聴いたことがある。

多分、ピアノを習っていた友人経由で聴いたのだと思う。
だが、小学生が弾いていたのだろうか?聴いた限りではこの曲、結構難しい。


調べてみると、どうやらベートーヴェン自身が付けた題名ではないようだ。
正式な題名は『Rondo a capriccio Op.129』-「ロンド・ア・カプリッチョ ト長調」と言う。

有名な表題《奇想曲の中へぶちまけた、なくした小銭への怒り》は、第三者が自筆譜に書き込んだもので、ベートーヴェンの命名ではない。
との事。 

しかし、これでようやくNAXOSが延々と連載している漫画の意味が分かった。

WEB4コマ劇場「運命と呼ばないで」~Op.3「失われた小銭のゆくえ」~

今迄単なるギャグだと思っていた。この曲が背景にあったのだ。

この漫画マイナーだと思うのだが、それでは勿体ないほどベートーヴェンに詳しい。
逆に詳しくないと分からない部分が多い。

WEB4コマ劇場「運命と呼ばないで」特設ページに最新作と今迄の作品へのリンクがあるので是非読んでもらいたい。


この曲をFacobookやtwitterで広めていたらhugujoという方からこんな曲を紹介された。


Ludwig van Beethoven - Der Kuß Op. 128

ベートーヴェンってときどき「これモーツァルトの役目じゃないの?」みたいなおふざけ(?)をしますね
とあった。

このtweetがなかったら、例え偶然にこの曲に辿り着いても詩の意味を探ろうともしなかったろう。

Christian Felix Weisse (1726-1804)という詩人が作った詩に晩年のベートーヴェンが曲を付けたものだ。

Ich war bei Chloen ganz allein,
Und küssen wollt ich sie:
Jedoch sie sprach,
Sie würde schrein,
Es sei vergebne Müh.

Ich wagt es doch und küßte sie,
Trotz ihrer Gegenwehr.
Und schrie sie nicht?
Jawohl,sie schrie,
Doch lange hinterher.

ぼくはクロエのそばで全くのふたりきり
それで彼女にキスしようとした。
だけど彼女は言った
キャーって叫ぶから
しようとしても無理よって
それでもぼくは思い切ってキスしたんだ、
彼女の抵抗をものともせず
で、彼女は叫ばなかったのかって?
もちろん、彼女は叫んだよ
でもずっと後でね。

確かにまるでモーツァルトだ。

20130622

グレン・グールドの肖像

私には、私にとってとても重要なピアニストという存在がある。

Vladimir Horowitz、Arturo Benedetti Michelangeli、そしてGlenn Gouldがそれだ。冷静でいられなくなる。
演奏だけでなく、その人となりも知りたくなってくる。
彼の著作も読んでみたいが、噂に聞く彼の独自の言い回しを理解出来るほど英語に堪能ではない。残念だ。


この所、クラシック音楽ばかりを聴いている。当然この3人の演奏が多くなる。

今迄買ったCDも多いがYouTube動画でかなりのものが視聴できるようになった。これは有り難いことだ。以前ならCDを買わない限り聴くことが出来なかったものも手軽に視聴できる。

いや、それどころかTVやラジオ向けに制作されたものは、殆ど視聴することが不可能だった。
それらのうちの幾つかを、今は観ることが出来る。

これは幸運なことだと感じる。

そのYouTube動画で、Glenn Gouldに関する興味深いドキュメントをふたつ見付けた。

それを紹介したいと思う。

両方ともかなり長い。だが小分けにされているので、少しずつ観る事も出来る。

今日は1985年に制作された『グレン・グールドの肖像』を採り上げる。
父親や従姉妹を始めとする関係者の証言もふんだんにある。貴重な映像だと思う。

全部で12本あるが、いずれも10分以内の長さなので全部観ても2時間は掛からないだろう。


グレン・グールドの肖像 ドキュメンタリー(1985年)1の12


グレン・グールドの肖像 ドキュメンタリー(1985年)2の12


グレン・グールドの肖像 ドキュメンタリー(1985年)3の12


グレン・グールドの肖像 ドキュメンタリー(1985年)4の12


グレン・グールドの肖像 ドキュメンタリー(1985年)5の12


グレン・グールドの肖像 ドキュメンタリー(1985年)6の12


グレン・グールドの肖像 ドキュメンタリー(1985年)7の12


グレン・グールドの肖像 ドキュメンタリー(1985年)8の12


グレン・グールドの肖像 ドキュメンタリー(1985年)9の12


グレン・グールドの肖像 ドキュメンタリー(1985年)10の12


グレン・グールドの肖像 ドキュメンタリー(1985年)11の12


グレン・グールドの肖像 ドキュメンタリー(1985年)12の12

20130619

ベートーヴェン研究

偶然だろうか?この頃古本が入手しやすくなったように感じるのだ。

先月は串田孫一の『愛を語る壺』が手に入った。

欲しいと思い続けてきたが、これ程美しい本だとは思っていなかった。
内容も実に良い。

そして今日、待っていた本が届いた。

どちらもかなり前に黒姫のよしはらさんに教えて頂いた本だ。

それ程ぐずぐずしていた訳では無い。
教えて頂いてすぐ方々を探し回った。

どこにもなかった。

それが立て続けに見付かった。

現在、マイブームはベートーヴェンだ。
あれこれ聴いている。

主にピアノ曲が中心だが、蒙を啓かれることが多い。

既に持っていたロマン・ロランの『ベートーヴェンの生涯』を読んでいた。
これもかなり良い。これを読んでいて、そう言えば!と思い出して古本屋サイトを探してみた。amazonには出ていなかったのだ。

あった!

ロマン・ロランの『ベートーヴェン研究』だ。

思ったほど高くなかった。

表紙裏に元の持ち主の名前が書かれているとあった。

気にしなければ良い。そう決断して注文した。

届いて驚いた。
確かに古い本だが、痛みが殆どない。

そればかりか全集の月報や腰巻きまで中に揃えられていた。

こうなるとかつての持ち主の名前すら愛おしく感じられる。

早速読んでいる。
良い。

『…生涯』がロマン・ロランによってデフォルメされたベートーヴェン像であるとしたら、この本はロマン・ロランが正面切ってベートーヴェンに挑んだ大仕事だ。

私としては『ベートーヴェン研究』の方が圧倒的に好きだ。

しかし、『…生涯』は今でも簡単に入手出来るが、『…研究』は絶版になっている。

これは何とも勿体ない話だ。

だが、致し方あるまいとも思う。
『…生涯』を読んでいて感じたのだが、ロマン・ロランは決して現代の日本向けの作家ではない。重厚すぎるのだ。

ロマン・ロランにある英雄願望も現代の日本には少し毛嫌いされそうな気がする。

ロマン・ロランは英雄的な人物にとことん惚れ抜いて、それを描く。

それなら司馬遼太郎の『龍馬が行く』も同じではないかとも思う。

だが、現代日本人には『龍馬が行く』は受け容れられても『魅せられたる魂』や『ジャン・クリストフ』は無理だと思う。

何故私はそう思うのだろうか?

もう少し言うと現代日本人の中の若者には『龍馬が行く』も無理だと思う。

20130615

印象派の巨匠たち

印象派と言えば私にとって不倶戴天の敵である。

彼らのように描く事が出来なかった。なので、小学生の頃図画工作の成績はとんでもなく悪かった。私には絵を描く才能がなかったのだと諦めるしかないと思い込んでいた。

大きく印象を掴んで、大胆に筆に乗せること。それが出来なかったのだ。

美術の教師は何が何でも印象派だった。


中学生になった途端、私は取り憑かれたように絵を描き始めた。印象派の様に描くだけが絵ではないと美術の先生が言ってくれたからだ。

描いていればそのうち巧くもなってくる。高校の終わり頃には、美術系の大学に行くことを薦められるまでになっていた。

けれど一旦染み込んだ苦手意識というものはなかなか抜けないものだ。根本的に美術の才能が無いと信じ込んでいた私はそちらの方には進まなかった。

大学で地質を専攻し、初めて私は絵が巧い方だと人から教えられた。露頭のスケッチをしなければならなくなってからだ。

もう遅かった。私は地質に専念した。


今日、長野県信濃美術館に行ってきた。『ひろしま美術館コレクション─印象派の巨匠たちとピカソ』と題する展覧会があったからだ。

実を言うとそれ程期待していなかった。

たかが日本の地方都市のコレクションだ。大したことはあるまい。そう思っていた。

目玉はマネの「灰色の羽根帽子の夫人」とロートレックの「アリスティド・ブリュアン」らしかった。
それだけ見ることが出来れば良い。そう自分に言い聞かせて出掛けた。


意外に(失礼!)コレクションが充実していたのには正直驚かされた。

ピカソは青の時代のものとキュービズムの頃の作品がそれぞれ1点ずつと少なかったが、印象派の作品はかなり質が高かった。

「印象派」のムンクやルドンを見ることが出来たことも大きな収穫だった。


敵視していたが、余裕を持って鑑賞してみれば印象派も悪くない。

学校の美術教師が印象派を持ち上げすぎるのは害があると今でも思っているが、作品を追求してゆく態度には学ぶべき点が多くある。


だが、やはりこのようには描けないと思わされた。

印象派の描き方は、一種の技術だと思うのだ。筆遣いのテクニックと言っても良い。それを身に付けないとあのようには描けない。


だが、良いものはやはり良い。

そう思えただけでも美術館に行って良かったと思う。


やはり絵はいいな…。そう思いつつ帰ってきた。

私はやはり美しいものが好きだ。


もう一度行っても良いと思える展覧会だった。

20130614

ピエロのトランペット

また、題名の分からなかった音楽の事だ。

正直言ってもう少し簡単に分かると思っていた。多くのサイトが採り上げていると思えたからだ。

幼い頃、NHKのみんなの歌で繰り返し流れていた。誰もが懐かしく思っている曲の筈だ。
ペ ペレペという繰り返しと
♪始まり、始まり、大サーカスだ
という部分しか記憶になかった。

検索するにはこれで十分だと思っていたのだ。

だが、検索は意外と困難だった。

ひとつしかヒットしなかったのだ。
それも掲示板だった。

うたとピアノの教室:りべっらGuest Book

隠れた名曲だと思う。
それだけにここしか歌詞が残っていなかったことは意外だった。

けれど歌詞と題名はここで分かった。
これだけでも十分だった。

作者も分かった。
イタリアの曲らしい。
記録のため、歌詞をここに記しておこう。

ピエロのトランペット
 詞・S. Tuminelli
 訳詞・中山 知子
 曲・Famauri

町外れで ボクは拾った くずれた幌馬車の下で
見かけは デコボコだけれど それは とても不思議なトランペット
ぺ ペレぺ ぺレぺ ペレペ 愉快な音に胸は躍るよ
ぺ ペレぺ ぺレぺ ペレペ 始まり 始まり 大サーカスだ
 
金と銀の飾りをつけた真っ白な小馬が ぐるぐる走る
虎だの象だのライオンが ぞろぞろ 猛獣使いのムチがうなる
ぺ ペレぺ ぺレぺ ペレペ ブランコ乗りの離れ業だよ
ぺ ペレぺ ぺレぺ ペレペ 思わず手に汗を握る

トランペット抱えて 一座の花形 ピエロが奏でる陽気な音楽
その時だ、手品師のハンカチがひらめく
ぺ ペレぺ ぺレぺ ペレペ たちまち消えるピエロのトランペット
ぺ ペレぺ ぺレぺ ペレペ ピエロはしょげる サーカスも消える

哀れピエロは 町から町へ 失くしたトランペットさがして歩く
もしも どこかで ピエロに会ったら 
返してあげるよ ステキなトランペット
ぺ ペレぺ ぺレぺ ペレペ 
返してあげるよ ステキなトランペット
ぺ ペレぺ ぺレぺ ペレペ 
ボクが 持ってる ピエロのトランペット


このYouTube動画から原題も分かり、原曲も検索することが出来た。


La tromba del pagliaccio

In un vecchio carrozzone abbandonato,
in un prato verso la periferia,
una tromba un pò ammaccata ho ritrovato.
Una tromba che racchiude una magia.

Pee perepè perepèe perepè.
La tromba d’incanto si mette a suonare,
Pee perepè perepèe perepè
la pista d’un circo si vede apparire,

e bianchi i cavalli bardati d’argento
galoppano lievi sulle ali del vento,
E c’è il domatore con cento elefanti
e tigri e leoni, ma tanti, ma tanti.

Pee perepè perepèe perepè
l’acrobata vola con salto mortale.
Pee perepè perepèe perepè.
Aiuto! E’ caduto! Ma non si fa male.

Un pagliaccio colla tromba
ora appare sulla pista
nel silenzio stupefatto
sta suonando un grande artista
Ma un prestigiatore appare
e la tromba ahimè scompare

Pee perepè perepèe perepè
la tromba il pagliaccio non può più suonare
Pee perepè perepèe perepè
va via dalla pista e il circo scompare.


日本語訳は中山知子さんの訳詞で十分だろう。
しかし、原曲では「返して上げるよ」とは歌われていない。


懐かしい歌を取り戻すことが出来た。
そればかりか、原曲まで知る事が出来た。

やはりWebの奥深さには連日驚かされる。

20130613

Yahoo!知恵袋

NHKのニュースで小澤征爾氏が紹介される時必ずと言っていいほど流される曲がある。曲はすっかり覚えてしまったのだが曲名、作曲者など肝心な情報が全く分からず途方に暮れていた。

いつものもやもやがまた残っていたのだ。

通常大抵の疑問は既に誰かが誰かに訊いているのだが、意外なことに検索してもこれは引っ掛かってこなかった。

これはもはや自分で訊いてみるしかない。

業を煮やしてYahoo!知恵袋に投稿してみた。ものの20分としないうちに答えが返ってきた。

Tchaikovskyだった。

意外だった。曲調からもっと古い人かと思っていたからだ。

Yahoo!知恵袋を意識したのは、件の京都大学のカンニング事件だった。

そんなものがあるのかとびっくりした。

その後、ちょっとした疑問を検索すると、このYahoo!知恵袋がヒットして、疑問点の解決に役立ててきた。

世の中、ものを良く知っている方と言う存在がごろごろしているのだ。それがつながりを持ったWebは利用した方が良いというものだ。

ものを知っている方が多いだけではない。世の中「教えたがり」という存在もごろごろしているのだ。

教えて貰った曲はTchaikovskyの弦楽セレナーデ、Serenade for Stringsだ。
本当はこの動画そのものを教えて頂いた訳では無いのだが、丁度小澤征爾指揮の動画がヒットしたのでそれを上げておく。

噂には聞いていたが、これ程使えるサイトだとは思ってもいなかった。


だが、最初の回答で一発ヒットし感動しただけで、その後に続いた回答はどれも当て外れの色が濃く、実際はそれ程抜群に便利なサイトではない可能性もある。

今度私が知っていることがこのサイトに上がったら答えようと、待ち構えているのだが、そうそう都合良く、事が運ぶとは思えない。


より良い答えを望むならば、こちらの表現力をもっと高めておく必要もあるだろう。

いずれにせよ、便利なものを便利に使うかどうかは「使いよう」次第だ。


それにしても、良い曲を教えて貰った。

20130607

Wind from the sea

題名を何にしようかで悩んだ。

「a little boy, walking on the sand」にもしたかったのだ。

前のエントリで採り上げた玉井夕海さんのCD「ales」の最後を飾る曲の題名だ。

この曲を聴く度に浮かんでくる絵画があった。

それが誰の絵であって、何と言う題名なのか分からず、ずっともやもやした気分を抱えていたのだ。
今日、保存してあったかつての掲示板『夏の扉へ』(この題名は最初は今はない掲示板に付けられた題名だった)の膨大なデータを探し回り、画像検索してようやく誰の絵かが分かった。

Andrew Wyethだ。

絵の題名は「Wind from the sea」


a little boy, walking on the sand

2013.1.31/16:14
まるも喫茶

白い部屋に吹く風よ
祈る者を護れ
目を覚ました蝉が鳴き
命終えるその日さえ

白い部屋に吹く風よ
恋するものにそよげ
赤らむ頬隠すように
束ねた髪を揺らして

海は遠くない
海は遠くない

小さな足音に導かれるままに

白い部屋に吹く風よ
戸惑う者を赦せ
静かに波打ち寄せる島の浜辺を濡らして

白い部屋に吹く風よ
抗う者を労れ
黄金に染まる稲穂が身を寄せ合い
倒れるように

海は遠くない
海は遠くない

小さな足音に導かれるままに


この詩には賛美歌のような曲が付けられている。

松本にある温石の白い部屋で、玉井夕海さんの唄を聴けたことは幸運だった。その部屋は、私にはこの歌に歌われている白い部屋のように思えるからだ。

そして、そこに吹く風は、紛うことなくAndrew Wyethの絵の中に吹く風そのもののように私には思えるのだ。

Andrew Wyethはこの風を、他の作品でも吹かせている。
Day dreams

白い部屋は、そしてそこに吹く風はこの絵の風であっても良い。


この絵を見ると、私はどうしても別の絵を連想してしまう。
仮収容所

まるでDay dreamを逆側から見ているような絵だ。しかし、この絵には風は吹いていない。

Andrew Wyethの絵は、歳を取るにつれて暗い画風に傾いていった。
仮収容所のためのデッサン

全く関係はない事は分かっているのだが、この絵に私はどうしても玉井さんの詩のなかにある「目を覚ました蝉」を連想してしまうのだ。

目を覚ます前の蝉と言った方が正確だろう。

そこには敬虔な祈りがある。

絵画や歌は祈りに捧げられている。


玉井夕海さんの歌は、私にAndrew Wyethの絵画を連想させる。

20130605

White Elephant 6.4

昨日(6月4日)玉井夕海さんのライブがまつもと市民芸術館であった。

玉井夕海さんはこの1年長野の松本に住み。拠点として活動することによって自身の音楽を見つめ直してきた。
今回のライブは、その集大成として、今迄個人で活動することが多かった彼女が、チェロの坂本弘通さん、人形使いの北井あけみさん、人類学者で今回は映像を担当した分藤大翼さん等の仲間達と繰り広げるものだった。
彼女のライブはいつも、入り口が地味なので驚かされる。
会場のまつもと市民芸術館はいつ来ても立派な施設だと感心させられる。
階段部分には動く歩道まで設置されている。

ライブが行われたのは、
ここ、小ホール。

撮影禁止だったので本番中の写真はない。
残念だ。とても美しかったのだ。

ランプが灯されているだけの、殆ど真っ暗な中でのライブだった。

観ている私には、とても純粋なものを目撃しているのだという意識だけがあった。
アクアマリンの結晶のようなライブだった。深さと透明感がそこにあった。

その中に、玉井夕海さんの真っ直ぐな歌声が響いていた。

始まりと終わり付近で、ちょっとした文章が読み上げられたが、あれは何が原典だったのだろうか?とても良い文章だった。

途中、幾つかのアクシデントがあったが、玉井夕海さんはそれを逆にお芝居に転化させて対応していた。
この辺りに舞台人としての彼女の凄みを感じた。


ライブが終わった後(ライブの最後でないと信じたい。あの結晶のようなライブを傷付けたくない)皆で玉井さんの唄『葡萄畑の真ん中で』を歌った。
撮影はいしまるあきこさん。
舞台に上がったお客さんも当然そうなのだが、上がらなかった皆様もとても良く練習してこられたようだ。皆、自信たっぷりに歌い上げておられた。


玉井夕海さんが松本を去る日も近い。
彼女はここで何を掴んだのだろうか?そして、それは今後の彼女の活動に、どの様なさざ波を立ててゆくのだろうか?


彼女が長野に残して行くものを、私はそっと引き出しの中に入れて、大切にしていたいと感じさせられた。
美しいものを、彼女は残して下さった。

長野から去った後も、私の部屋では、その美しいものが何度も奏でられ、唄い続けられるだろう。


良いライブだった。