20170430

『海街diary8恋と巡礼』

ほっとした。それが今回の正直な感想だ。

少し注文するのが遅れた。今日の午後、『海街diary』8巻「恋と巡礼」が届いていた。

ニーチェも中山元も高橋昌一郎も押しのけて読み始め、貪るように一気に読み切ってしまった。


7巻の終わりで、主人公たちの香田家に大きな転機が訪れる事は予想出来た。上手く行って欲しいという願いはあれど、どの様に展開されるのか分からない不安で、7巻を読み終わるや否や、この第8巻が待ち遠しくて仕方がなかった。最大の不安は、ありがちな、安易で杜撰な展開になってしまうのではないかと言う事だった。いくらでもあざといドラマにできる展開だったからだ。

さすがにそれはなかった。

それどころか、読み終わって、充実した読後感に浸り、物語の背後でバックグラウンドミュージックのように啼く蝉の声を感じ、本棚に並ぶ背表紙を眺めながら、第1巻からの展開を振り返っていた。

実際、この巻が最終回であっても構わないと思える程、いつもより内容の濃い巻だった。

今回は今迄どちらかと言うと地味な扱いで、物思いや屈託と無縁の存在だった三女千佳が、一躍主役に踊り出て来た感がある。彼女を、そして彼女に起きた事を軸として物語は展開する。

海街diaryの主人公たちは、互いに大切な家族、友人、恋人、知人を思いやり、相手の心に一歩も二歩も踏み込んで意見する。日常に波風を立てまいとするのも、そうした思いやりの一種なのだろうが、「事件」は波風を立てずに済む訳もなく、問題を抱えた当人も、問題から逃げる事なく向かい合い、解決してゆく。こうして「事件」は丸ごと家族の日常に引き戻され、日常の一部として、包含されてゆく。それが家族の強靱さであり、日常の分厚さなのだろう。

海街diaryの持つ鮮明なリアリティーは、そうした強靱さや分厚さを、見事に描き出し、それが私たちの人生と一致するものを持っているところから生まれて来るのだろう。

諭す側も決して説教臭くならないのは、それぞれが別の弱点を抱え、それ故に互いに支え合う関係にあるからだと思う。

強靱さや分厚さは、自然にそうなっているのではなく、また誰かひとりの手柄としてそうあるのでもない。ひとりひとりがさりげなく努力し、その努力によってひとりひとりが互いに支え合い、助け合う。そうした作業の積み重ねの上に成り立っているのだ。つくづくこの頃そう思う事が多い。

海街diaryの主人公たちもそれぞれが、新しい門出を迎えている。
それぞれの人生が鎌倉の四季の移ろいと共に変化して行き、これから先も様々なドラマを演じてくれるのだろう。

鎌倉という街は、有名所だが、私にとっても決して縁のない、単なる観光地としてあった訳ではない。深く、いろいろな個人的な思い出が染みついている。
作品の所々に現れてくる、詳細なスケッチは、どれも正確無比で、私の記憶が、逆にスケッチから呼び起こされる事すらある程だ。

その鎌倉という土地の自然や風物が、描かれる人間模様と相俟って、独得の風合いを醸し出している。

帯に書かれていて知った事だが、作者の吉田秋生さんは今年で画業40周年を迎えるのだという。なかなか出来ることではない。その区切りを、この海街diaryで迎えるという事が、なぜか運命的なものを感じるのは私だけなのだろうか?

家族のあり方を描いて来た吉田秋生さんの、集大成と言ってよい作品になって来ていると思う。

20170423

『ニーチェの顔』

前々回の「『大いなる正午』」に引き続き、氷上英廣の本を紹介する。

今回紹介するのは『ニーチェの顔』。岩波新書青版である。言わずと知れるだろうが古い。ちなみにamazonで氷上英廣を検索しても、『大いなる正午』も『ニーチェの顔』もヒットしない。偶々、県立長野図書館に蔵書があったお蔭で、読むことが可能になった。だが、読んでいて全く古さを感じなかった。

この様な本を読んでいると、本物のインテリの話は面白いと素直に思えてくる。洋の東西を問わない、広く深い知識と教養が本から泉のようにこんこんと湧き出てくるような気がしてくるのだ。

今回の『ニーチェの顔』は70年代前半に書かれた、ニーチェに関するエッセイを集めたものだ。

ニーチェの容貌や声、孤独とデカダンス、エピクロスやヘーゲルとの関係、西洋と東洋、ゾロアスターや仏教キリスト教、ニーチェが生きた時代のドイツと日本の知的風土、といった様々な角度から光をあて、ニーチェという希有な思想家の迫力と魅力を、生き生きと描き出している。

ニーチェが書いたままの原語で、ニーチェを読むことができる事へのうらやましさを含めて、これだけ教養があると、ニーチェを読んでいても、私が読む場合の数十倍、いや数百倍は愉しいだろうと想像する。

私が読む場合、一寸先だけ見えていてその先は闇、の状態に近いが、もっと広い遠近感を持ちながら、確固とした全体像を持ってニーチェを読むことができると思えるからだ。

例えば「犀・孤独・ニーチェ」から引用すると

ところで、「われはさまよう、ただひとりの犀のごとくに」の句は、引用の手紙であきらかなように、ゲルスドルフから贈られたインドの箴言集のなかにあるのではなく、仏典スッタ・ニバータに由来するものであり、英訳のスッタ・ニバータのなかに出て来るリフレーンをニーチェが自家用に独訳したものだ。

こうしたことを分かっていて読むのと、全く知らずに読むのでは、同じ文章を読んでも、汲むことができる意味の量が全く違ってくる。

氷上英廣の本はこうした事の連続なのだ。

これだけの知識と教養がありながら、氷上英廣が『ツァラトゥストラはこう言った』を、注釈なしで訳した事実に、私は改めて驚嘆せざるを得ない。



ところが意外にも氷上英廣ができなかったことも、できるようになって来ている事に、今回気が付いた。

表題にも使われている文章「ニーチェの顔」の冒頭はこう始まる。

ニーチェの顔といえば、まず思いだすのはあの大きな口ひげである。シュテファン・ツヴァイクがニーチェを論じたもののなかにVercingetorixのひげという語が使ってあるが、このヴェルツィンゲートリクスというのはガリア人の勇猛な族長でシーザーと戦い、敗北し、ローマで首をはねられた人物らしい。私はいまその肖像をさがす便宜がないので、おそらくニーチェのようなひげを持った人物なのだろうと思うよりほかない。

今我々はWebを使うことができる。Vercingetorixを画像検索してみると、主に銅像でだがその肖像を簡単に見出すことができる。

ウェルキンゲトリクス(Wikipedia)

氷上英廣ができなかったことも、簡単にやってのける事ができるのだ。

時代は確実に便利になっている。

しかし、『ニーチェの顔』を読まなければ、Vercingetorixなる人物の名すら知らずに過ごしていたのであろう。所詮は氷上英廣の手のひらの上で探検をしている気分を味わっているに過ぎないのだ。

春を撮った

現実の春は、紹介する写真より、一歩も二歩も先に進んでしまった。早くupしないと本当に時機を逸する。

自宅の近くを撮ったので、あまり見栄えは良くない。

部屋から見える桜。
なかなか咲かなかったが、ちらほらと咲き始めたと思っていたら、次は8分咲きになっていた。
その隣の欅。
遠目から欅の葉の芽だと思っていたのだが、撮影しようと近付いて、花芽である事に気が付いた。まだ開いてはいない。

近所では最も立派な桜。咲くのも早かった。もう葉が出始めている。

 近くの公園の桜並木。今が見頃だ。

 鴨脚樹の葉はまだ鴨の脚と言うより雀の脚程度の大きさ。

つい最近梅も満開だった。信州の春は爆発的だ。刻々とその姿を変えている。

20170412

『大いなる正午』

良い随筆集であった。

読む前から本の佇まいに感動していた。1979年の12月に発行された本だ。その頃には既にこの様な佇まいを持つ本は珍しいものになっていたのではなかっただろうか?

小豆色の布張りの表紙。背に金の明朝体で題字が記されているのみ。

読む為に本を触っているだけでとても気持ちが良い。

この感触を味わっていたくて(それだけが理由ではないが)ゆっくりと読んだ。

「あとがき」でも触れられているが、副題に「ニーチェ論考」とあるが、ニーチェについてのみ論じている本ではない。構成としてはIはだいたいニーチェが、IIは茂吉、鴎外、草田男が、IIIはゲーテとドイツ・ロマン派が主題となっている。
しかし、いずれの文章でもニーチェの名はひょっこりと飛び出して来るので、副題に偽りはないだろう。

表題になっている大いなる正午という言葉は、『ツァラトゥストラ』などに頻繁に出て来る、印象深い言葉であり、何と言っても『ツァラトゥストラ』は

これは俺の朝だ。俺の昼がはじまるぞ。さあ、来い、来い、大いなる正午よ

とツァラトゥストラが叫ぶシーンで終わっている。

その大いなる正午を論じるエッセーでこの本『大いなる正午─ニーチェ論考』は始まっている。

古代ギリシアでは正午のころに物の怪が出没したらしい。

ほう!と思わせて、著者氷上英廣はその知的で広大な世界に私たちを引きずり込む。

驚かされたのが、著者の和歌・俳諧に対する造詣の深さだ。

ニーチェの『ツァラトゥストラはこう語った』を、最初に注釈なしで訳した事がクローズアップされた事により、ドイツ文学の専門家と見られがちだが、ヨーロッパの著作と同程度に和歌・俳諧が引用されている。

博学とはこの様な人のことを言うのであろう。

困ったのは、茂吉とニーチェの関係を論じた文章などに顕著だったのだが、訳もなしにいきなりドイツ語の詩が引用され、論じられている部分だった。久し振りにドイツ語の辞書を本棚から引っ張り出した。

著者の知的な文章に触れ、ものがはっきり見えてくる快感に浸ることができた。