読む前から本の佇まいに感動していた。1979年の12月に発行された本だ。その頃には既にこの様な佇まいを持つ本は珍しいものになっていたのではなかっただろうか?
小豆色の布張りの表紙。背に金の明朝体で題字が記されているのみ。
読む為に本を触っているだけでとても気持ちが良い。
この感触を味わっていたくて(それだけが理由ではないが)ゆっくりと読んだ。
「あとがき」でも触れられているが、副題に「ニーチェ論考」とあるが、ニーチェについてのみ論じている本ではない。構成としてはIはだいたいニーチェが、IIは茂吉、鴎外、草田男が、IIIはゲーテとドイツ・ロマン派が主題となっている。
しかし、いずれの文章でもニーチェの名はひょっこりと飛び出して来るので、副題に偽りはないだろう。
表題になっている大いなる正午という言葉は、『ツァラトゥストラ』などに頻繁に出て来る、印象深い言葉であり、何と言っても『ツァラトゥストラ』は
これは俺の朝だ。俺の昼がはじまるぞ。さあ、来い、来い、大いなる正午よ!
とツァラトゥストラが叫ぶシーンで終わっている。
その大いなる正午を論じるエッセーでこの本『大いなる正午─ニーチェ論考』は始まっている。
古代ギリシアでは正午のころに物の怪が出没したらしい。
ほう!と思わせて、著者氷上英廣はその知的で広大な世界に私たちを引きずり込む。
驚かされたのが、著者の和歌・俳諧に対する造詣の深さだ。
ニーチェの『ツァラトゥストラはこう語った』を、最初に注釈なしで訳した事がクローズアップされた事により、ドイツ文学の専門家と見られがちだが、ヨーロッパの著作と同程度に和歌・俳諧が引用されている。
博学とはこの様な人のことを言うのであろう。
困ったのは、茂吉とニーチェの関係を論じた文章などに顕著だったのだが、訳もなしにいきなりドイツ語の詩が引用され、論じられている部分だった。久し振りにドイツ語の辞書を本棚から引っ張り出した。
著者の知的な文章に触れ、ものがはっきり見えてくる快感に浸ることができた。
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