20230922

敗北を抱きしめて

必読の書と言えるだろう。

言わずと知れたジョン・ダワーの第二次世界大戦後の日本を描いた歴史書である。以前この本は持っていたのだが、引っ越しに伴い売却してしまって、今回改めて図書館で借り、紐解いてみた。増補版とあるが、文章に取り立てて変更はなく、画像類の差し替えがある程度のものらしい。


読んでみて強く感じたのは、私と言う人間が、まごう事ない戦後の子だという事実だ。思想・信条、そしてちょっとした趣味・嗜好に至る迄、戦後という文脈の下に照らし出して読み解かねば、十分な解釈は不可能だという事を思い知った。

私は時の政府が「もはや戦後ではない」と宣言した、丁度その年に生まれている。その様に宣言しなければならない程、日本はまだ戦後の真っ只中に居たという事なのだろう。それもその筈だ。その年は敗戦からまだ10年と経っていない。

従って、ジョン・ダワーのこの著作を、まさに私の事が書かれているという思いで、丹念にページを繰った。


よく調べられ、そして丁寧に練り込まれたジョン・ダワーの文章は、戦後の日米関係を中心に展開される。そして、添えられた画像もまた、戦後の日米関係を如実に照らし出す。

例えば有名な裕仁とマッカーサーが並んだ写真は、それが誰が勝者かを、端的に表す写真としてだけでなく、マッカーサーが裕仁と伴にある事を意味するものだと解釈される。

事実、マッカーサーが天皇を生かしたまま政治的に利用する方針を立てたのは、終戦後ごく早い時期だったらしい。

この方針によって日本は、戦争の最高責任者に責任を取らせないという、摩訶不思議なやり方で、戦後が始まったのだが、その影響は今も確実に響いている。

日本は第二次世界大戦後、アメリカに占領され、敗戦国として歩み始めた訳だが、それ故に、極めて幸福な占領時代を経験したと言って良いだろう。そしてその政策の下に幸福な民主主義社会の到来を夢見たのだ。

だが戦後世界は束の間の協力関係をすぐ終え、資本主義vs共産主義の対立関係が支配する情勢へと変化する。占領されていた日本は、その影響を少しは受けたが、直接巻き込まれる事なく、アメリカとの蜜月時代を過ごした。

まさに敗北を抱きしめて戦後をやり過ごしたのだ。

その中で幾つかの革命を抱きしめようとした者もあった。それは戦後の「上からの革命」の文脈の延長上に当然のように夢見られたものだったが、それを許すほど世界情勢は単純ではなかった。

現にその世界情勢に巻き込まれる形で、隣国ではいまだに南北に分断された形でしか、存在できていない。

現在世界情勢はまた、きな臭さを帯始め、その中で日本は敗戦を経験せずに凋落を迎えている。そうした時期に、この本を読めたのは幸福な出会いだった。

現在に至る迄というスパンで、時代を戦後という文脈の下に読み直す事が出来たからだ。確かな事は、戦後はいまだに続いていると言う事だ。

20230905

大規模言語モデルは新たな知能か

最初のうちは驚いた。

そして、こんな面白いおもちゃがあるか!とばかりに使い倒した。

ChatGPTの出現だ。

何を聞いても答えが返って来るのだ。それもかなり自然な対話の形式で。

だが、村野四郎の『惨憺たる鮟鱇』の冒頭に掲げられている「へんな運命がわたしを見つめている」と言うリルケ(とされている)の詩句が、どの詩からの引用なのかを問うたところ、ドウィノ悲歌第2部第1歌冒頭からの引用だと答えが返って来た辺りから、こりゃ答えを鵜呑みに出来ないなと、警戒しながら付き合い始めた。

リルケだったら一通り読んでいる。ドウィノ悲歌には第1部も第2部もなく、どの詩の冒頭にも、該当する詩句はない。その位の知識はあった。


本書を読んでみると、そうした、存在しない情報を作り出してしまう現象は幻覚(hallucination)と呼ばれ、大規模言語モデルの致命的な問題であり、一朝一夕には解決しないものらしい事が分かった。

重要な事は、機械を通じて常に真実にアクセスできるという考えは捨てて、完全には信用できない情報の中から有益なものを見つけ出す方法を確立する事だ。

だがこれは言うは易く、行うは難しである。大規模言語モデルが作り出す幻覚は、手が混んでおり、一流の専門家にも、本当かどうか区別が付かない程、正確に見えてしまうものがあるのだ。

提出された結果に、いちいち疑いを持ち、必ず裏を取る態度が必要だろう。

本書には、そうした大規模言語モデルが、どの様な経緯で開発されて来たもので、どんな仕組みで動いているのかと言った事柄から、大規模言語モデルとこれから、どう付き合って行ったら良いのか?と言った事柄までが、理路整然と語られている。

何しろ相手は情報を扱う機械である。持っている知識量では、てんで敵わない事は明らかだ。だが、悪気はないもののたまに嘘をつく。更に厄介な事に、これも悪気はないのだが、差別的な発言もしれっと披露する。

そうした性格を持つ相手を、うまく活用しつつ付き合うにはどういう批判的な視点が必要なのか?いわゆるこちらの側のリテラシーと言う奴が、モロに問われる時代がやって来たと言う事なのだろう。

本書を読んで、大規模言語モデルと言うものは、突然出現した怪物ではなく、それまでの情報工学の文脈の延長上に開発された技術である事が分かった。革命的なのは未知のデータでも巧く予測できる様になることを汎化と呼び、汎化が出来る能力を汎化能力と呼ぶが、機械学習の最大の目標は、その汎化能力を獲得することにあるという事だ。

本書を読んで、大規模言語モデルもまた、ムーアの法則がもたらした、ひとつの結果である事が分かった。

どの様に過去の技術の歴史があり、どの方向に未来を描いているかも朧げながら分かった。本書を読んで、大規模言語モデルと言う謎の地を歩く、詳しい地図が与えられた様な気がした。これからの付き合い方が楽しみだ。

20230902

中世哲学入門

これを読書と呼んで良いのか迷う。

本書全体を通じて、中世哲学は難しいぞ!と、そればかりが書かれている。

2/3以上が用語の解説に費やされており、それらにもこの語は日本語には訳しにくいぞ!という、注意書きが必ずと言って良い程付けられている。

確かに難しい。それに加えて、文章には山内志朗氏独自の言い回しが多く、それに慣れるのに数日を要した。理虚的存在などと言われても、未だに何の事か腑に落ちない。


だが、著者が中世哲学に、真っ向から、極めて誠実に向かい合おうとしている事は伝わって来た。決して衒学趣味ではない。

中世哲学の最盛期は、今から800年程前だ。それだけ年月が経っていれば、言葉の使い方から、現在と異なっていたと考えた方が自然と言うものだ。それを敢えて現代語で書こうとすれば、その書き方が、従来と異なった物になる。

未だ影響力を持っていると言っても、神の存在を疑うのが当たり前の様な現在から、神が絶対的な存在感を持っていた時代の哲学を紐解いてどうする。そんな「悪魔の囁き」にも、何度か誘惑された。だが、歴史はその時代に立ち戻って、その時代の感性で読まなければ、理解には程遠い。その事は、今迄の読書で、深く学んで来た。

著者が本気ならば、こちらも本気で臨むだけだ。

新書にしては分厚い本書を、図書館の貸し出し期限を気にしながら、遮二無二読み進めた。どうにか、余裕を持って、読み終える事が出来た。

読んでいて、この分野の知識が、私には決定的に欠けていたと言う事実に気付かされた。カントは、最後の中世哲学の徒であったと言う。そう言われても、何の事か分からない。その程度にカントも理解出来ていなかったという事だろう。

読み終えて、何が分かったか?と問われても、答えに窮する。ただ、頭の中を、山内語で訳された、様々な用語が、励起状態の気体分子の様に、飛び交っているだけだ。

だが、ヨーロッパがイスラームに比べて、後進地域だった頃から、イスラームからアリストテレスなどの知識を逆輸入して、台頭してゆく過程で、中世哲学が極めて重要な位置を占めていた事は理解出来た。

そして、これらの中世哲学の知識は、ドゥルーズやフーコーなど現代哲学を読み解くには必須の知識(特に存在論)らしい事にも気付けた。

著者によると、中世哲学の研究も、本書でようやく六合目に達した様なものだと言う。学問の深さは、素人には見通せない程に、深く険しい。

だが、その研究を、著者が愉しんで行っている事は、十分に伝わって来た。その愉しみ方に触れる事が出来、私も楽しかった。

学問には、ひとつの無駄もないのだ。