20190227

『この世界の片隅に』

映画を観てから、もう3週間経つ。うかうかしていると、ひと月が過ぎてしまいそうだ。

感想はこうの史代さんの原作を読んでからにしようと思っていた。映画との違いを確認したかったからだ。『罪と罰』やその周辺の本を読んでいる内に月日が経った。ようやく読む事が出来た。

読んでみて、殆ど映画そのものなのに驚いている。映画を観てようやく原作を「読む」事が出来たようにも思う。今迄一体何を読んできたのだろうか?

改めて映画というものの力を感じさせられたようにも思う。

2月5日、アニメ映画『この世界の片隅に』を観てきた。

あらすじなどの紹介はもういいだろう。映画が公開されてからもう2年も経つのだ。

映画の終わり、エンドクレジットに、無数と言っていい程の多くの人々の名前が並ぶ。映画を作る資金を得る為に用いられたクラウドファンディングに参加した人々の名前だ。

それは、この映画が多くの人々の思いが詰まった映画である事を、如実に物語っている。

原作者がいて、アニメーターがいればアニメ映画は出来る。そうした単純な物語をこのエンドクレジットはそっと、しかし断固として拒絶する。

恐らく、全ての映画にはその制作過程に於いて、波乱に満ちた物語が存在する。

この『この世界の片隅に』はその物語に於いても、傑出したものがあったのだと、分かる。

片渕須直監督の熱意は周囲を巻き込み、様々な人生を乗せて膨らんでいった筈だ。


パンフレットによると、すず役にのんが決定したのは、映画の公開まで4ヶ月を切った、2016年7月の事だという。驚いた。その短い期間に、のんは北条すずを徹底的に研究し、見事に演じ切った。

その年の9月、完成披露試写会挨拶でのんが発した言葉は、この作品の本質をたったひと言で言い表していた。

「生きてるっていうことだけで涙がぽろぽろあふれてくる、素敵な作品です」

のんの思いも、この映画は乗せている。


アニメーションには生命を吹き込むという意味があるという。
映画を観始めた時、こうの史代さんのあの絵が、動いている。それだけで私は感動してしまった。

自分の描いた絵が、動く。それは一体どの様な感覚なのだろうか?

映画になった自分の絵を観て、初めて見え始めたものも多かっただろう。

いろいろな人たちの思いを乗せて動き始めた自分の絵。それは確かに生き生きとした生命が吹き込まれた、掛け替えのない絵として、存在したに違いない。


今回、原作を読んで、調べてみて驚いた。気が付かなかった。

すずが右手を失ってからの背景の絵は、全て左手で描かれていたらしい。

創造を行う人という存在は、実に驚くべき存在だ。
こうの史代さんはすずに思いを託すために、そこ迄追体験をしていたのだ。

映画も凄いが、原作も凄い。それぞれにそれぞれの良さがある。


大音量が可能な、そして何より大画面で観る事が出来る劇場で、『この世界の片隅に』を観る事が出来、その後原作を読み返す事が出来てとても良かったと感じている。多くの発見があり、感動があった。そうなのだ、この映画は原作を読み、かつ映画館で観るべき映画なのだ。

またひとつ私にとって大切な物語が出来た。

20190220

ドストエフスキー生活

中学校の隣のクラスの担任だった松岡という教師は、なぜか私をいたく気に入って下さって、あれこれ気を遣って、特別な指導もして下さったように思う。中学を卒業する時、その松岡先生も異動となり、今生の別れとなった。
新しい赴任先に出掛ける寸前、その松岡先生は、わざわざ私の家まで出向いて下さり、一冊の本を私に手渡した。それは米川正夫訳のドストエフスキー『罪と罰』だった。
「いや、持っているとは思うのだけれど、それでもこの本で読んでもらいたくて…」
松岡先生は首にタオルを巻いた、引っ越し用の姿で、そう仰って下さった。
正直に言おう。私は少し残念だった。『罪と罰』は世界文学全集の中の一冊に含まれており、その米川正夫訳の本は、やはり既に持っていたからだ。

しかしその時から『罪と罰』は、私にとって特別な本となった。

けれど恩知らずな私は、その本を気にはしていたものの、読む事は無かった。

長い間、私にとってドストエフスキーを読んだ事がない事は、深いコンプレックスとなっていた。『罪と罰』ばかりではなく、それこそ一冊もドストエフスキーの作品を読んだ事は無かったのだ。だが高校生の頃は、当然読んだ事がある振りをしていた。
どこぞからか知識だけは仕入れていて、あの大地へのキスが良いなどと一丁前に論じたりしていた。

昨年の夏、本棚を眺めていて気が付いた事があった。

今住んでいる団地に引っ越す前、私は本の大整理を敢行していた。図書館にある本を中心に、持っていた本の2/3を売り払った。
中には良い本が多く、読んでいないものもかなりあった。断腸の思いでブックオフに持っていっては、売った。かなりの額になった。

もとの1/3ほどになったとは言え、それでも残った本もかなりの冊数があった。

ふと、気が付いた。現在の私の本棚には、1冊もドストエフスキーがない!

そう言えば図書館にはドストエフスキー全集なるものがある。

夢中で本を売り払っているうちに、『罪と罰』を含め、あった筈の『白夜』も『地下室の手記』もその姿を消していた。

頭を殴られたような思いだった。

折からハンナ・アーレントの『全体主義の起原』を読破していた。半年以上掛かったが、何とか読み切ったのだ。

大著と呼ばれる本もなんだかんだ言って、読めるではないかと調子に乗った。

暫く前から、光文社古典新訳文庫で亀山郁夫がドストエフスキーの新訳を出している事には気が付いていた。
調べてみると県立長野図書館に『カラマーゾフの兄弟』がある事が分かった。早速借りてみた。昨年の9月1日の事だ。

畏れていたドストエフスキーも、『全体主義の起原』に比べれば、遙かに読みやすい。加えて光文社古典新訳文庫には栞に登場人物が整理されていて、これが段違いに読書をしやすくしてくれていた。

「大審問官」まで1週間。全体は3週間ほどで読み切った。

感動した。

次に『悪霊』にチャレンジした。

市立長野図書館に光文社古典新訳文庫版がある筈だった。だが、行ってみると、それは分館の南部図書館にあり、すぐには借りられない事が分かった。仕方が無い。河出書房新社版の全集。米川正夫訳を借りてきた。

ところがこれが字が細かい。老眼鏡を掛けなければ読めないレベル。そして人生の転機ともなった日赤入院が重なる。

何とか字を追ってはいたが、日赤のベッドは薄暗く、読書には必ずしも適した環境ではなかった。

挫折。

退院して『悪霊』は光文社古典新訳文庫を買う事に決めた。

それが届くまでの間、少し時間が出来た。

県立長野図書館で『白痴』を借りていた。それを読む事にした。

今思うと、この頃から少しずつ躁状態が始まっていたのだと思う。
『白痴』は2週間で読破した。後半は物語が白熱し、夢中で読んだ。

躁状態のなせる業なのか、本当にそうなのか分からないが、段々と本が読め始めた実感を得たのもこの頃の事だ。

年末年始を『永遠の夫』で小休止し、正月からいよいよ光文社古典新訳文庫で『悪霊』に再チャレンジした。
今度は波に乗れた。

『悪霊』も2週間で読破。

凄まじい衝撃を感じた。

その後、『地下室の手記』、『白夜/おかしな人間の夢』、『死の家の記録』と読み継ぎ、2月に入っていよいよ、青春の忘れ物『罪と罰』を読み始めた。

これは正味5日間で読み切った。

異様とも言える読後感がその後ずっと続いた。
やはり『罪と罰』は特別な小説だった。

半年付き合ってみて、つくづく思う。やはりドストエフスキーは凄い。

トーマス・マン等を読むと、時に少し古びていると感じる瞬間があるが、ドストエフスキーにはそれがない。
19世紀に書かれたとはとても思えない程、物語は鮮度が高く、そして何より、どれを読んでも完成度が途方も無く高い。面白いのだ。

半年にわたってドストエフスキーばかり読んできた。全く手付かずの状態から、ふと気が付くと4大小説を読破していた。

今は小休止を置いている。それでも江川卓の『謎とき『罪と罰』』を読んだり、亀山郁夫の『『罪と罰』ノート』を読んだり、ドストエフスキーの周辺を漂ってはいる。

これらを読んでいると、必ずと言って良い程ミハイル・バフチンの名前が出て来る。どうやらそれを読まねば話にならないようだ。かなり前『ドストエフスキーの詩学』は購入した。県立長野図書館に『ドストエフスキー創作の問題』があるのも確認してある。

小林秀雄『ドストエフスキイの生活』を読み終えたら、いよいよミハイル・バフチンに挑んでみようと思っている。

ドストエフスキー生活はここ当分止みそうにない。