20140526

『帰ってきたヒトラー』

同じ作品を2回採り上げることになった。
髭が原語の題名になっている。なのでこの表紙のまま翻訳されるとは思っても見なかった。

ドイツ語版は読むのに3ヶ月くらい掛かった。かなり苦労した。その理由は、彼ヒトラーが使う古色蒼然としたドイツ語を始めとして、頻発する方言に手を焼いたのだ。

この表紙ならば翻訳されるまで待てば良かったと思う。

だが、やはりこれまた頻発する駄洒落が苦労して訳されているのを読んで共感の笑いを笑うことが出来た。苦労した甲斐はあったというものだ。

ドイツ語版の感想は1年以上前のエントリEr ist wieder daに書いてある。この文章を私は「慎重な訳が望まれる」と結んでいる。

軽快な、テンポの良い、リズム感に溢れた翻訳になっている。

ドイツ語で読んだ当時はかなり危険な本と感じた。愛されたヒトラーを描いているからだ。危うさはやはりある。だがこの軽快さならば許されるのではないかと感じた。

ドイツ語も実はこうした軽快なリズムなのかも知れない。時間が掛かったので重さを感じてしまったのだろうか。

或いは日本の状況が本気で危うくなってきているので、この本の危険性に麻痺してしまったのかも知れない。

冒頭に置かれた「本書について」という文章にはこう書かれている。

読者は同時にわずかな後ろ暗さを感じるはずだ。最初は彼を笑っていたはずなのに、ふと気が付けば、彼と一緒に笑っているからだ。ヒトラーとともに笑う─これは許される事なのか?いや、そんなことができるのか?どうか、自分でお読みになって試してほしい。この国は自由なのだ。今のところはまだ─。

作者ティムール・ヴェルメシュの意図はこれに尽きるだろう。

現代に復活したヒトラーは実に感じが良く、魅力的なのだ。そして交わされる会話の殆どが勘違いで成り立っていることにも現されるように、強運にも恵まれている。

彼は瞬く間に現代に順応し、成功してゆく。

そして最後に実に危険な台詞をスローガンとして吐くのだ。

「悪いことばかりじゃなかった」

ここに辿り着いて、私たちは私たちの笑いが凍り付くのを感じるだろう。



ハンナ・アーレントを読むために、そして読むうちに、ヒトラーと彼の行いに関する知識は自然に身に付いた。それがこの小説を読むとき実に役立った。

そしてかつてのヒトラーとその「一味」の所業を悪魔のようなナチスの所業として理解していては、決して正しい理解に辿り着かないことも学んだ。

『イェルサレムのアイヒマン』に示されたように、悪は陳腐で凡庸な形で立ち現れたのであり、この作品『帰ってきたヒトラー』が示すように、彼ヒトラーは魅力的で人に愛されうる質を(多分)持っていたのだ。


「訳者あとがき」でこの小説の原題Er ist wieder daが1966年にドイツで大流行した歌のタイトルからとられたものである事を知った。

これだ


翻訳された日本語版の本は1日で読めた。

20140511

『アル中病棟』

その緻密な観察眼に驚いた。

前作『失踪日記』はこの『失踪日記2 アル中病棟』への序章に過ぎなかったのではないか。そう思わせるほど充実した作品に仕上がっている。
私は今ではもう一滴も呑まなくなっているが、若い頃は激しく呑んでいた。なのでアル中への恐れは人並みに持っている。
それでも(と言うよりそれだからこそ)『アル中地獄(クライシス)』 や本作を読むと身の毛がよだつ。決して人事ではないのだ。

それにしても実に客観的に物語にしているものだと感心する。

恐らく思い出したくないような体験でもあっただろう。ギャグ漫画家の性なのだろうか?一歩も二歩も引いた立ち位置からアル中病棟を冷静に観察し、描いている。

これ程自覚的に生きることが出来るならば、アル中なんぞ簡単に克服出来るのではないかとも思うのだが、そうは行かないのがアル中のアル中たる所以なのだろう。恐ろしい病気だ。

ラストに漫画家とり・みき氏との対談が載っている。非常に良い作品紹介になっている。単独で公開した方が良いと思っていたところ探したらネタバレなしのヴァージョンがWebに公開されていた。


1998年12月26日、漫画家吾妻ひでおは妻と息子に取り押さえられて、都内のA病院に入院した。精神科B病棟(別名アル中病棟)である。

そこに至る経緯はイントロダクションに描写されている。

恐ろしい。なんか恐ろしいね。恐ろしいと頭で考える自分の声すらも恐ろしいんだよね。

B病棟には多くの先客があり、また後からも次々と新しい入院患者がやってくる。吾妻はその全てに顔を与える。20人を超えるキャラクターが、生きた人間として動き回っているのだ。彼らにはそれぞれ強烈な個性がある。

最も強烈な印象を残すのは吾妻と同室になった浅野で、彼は片付けがまったくできず、さらには計画性がないので月の小遣いを支給されるとすぐに使ってしまう。金がなくなると、新しい入院患者に対して寸借詐欺を働くのである。さらに、夜中に病室の中で小便をする奇癖もあり、吾妻を困らせる。


その他、フルコンタクト空手の有段者で気性の激しい安藤や、自己中心的な性格の杉野、修道院上がりという謎めいた経歴を持つ御木本、患者から100円ずつせびっては貯金し○○○(と書かれているがおそらくソープ)に行く福留など強烈な個性の持ち主が揃っており、集団劇として読んでもおもしろい。これだけ多くの人間を出して、しかも読者を混乱させずに描き分けるのは困難な技であるはずだ。

入院患者たちのある者は無事に三ヶ月の満期で退院するが、いつまでも病院から出られない者もいる。問題を起こして途中退院する人あり、病院の外で飲酒して再入院してしまう人あり、彼らの人生は決して明るいものではない。
看護師の1人は言う。

「私たち看護師にとって一番うれしいのは、退院していった人達が次の週呑まずに通院してくれることです」

と。つまりそれくらい、「呑んでしまう」「行方不明になる」人間が多いということなのだろう。

作中にも書かれている。

統計によるとアルコール依存症患者は治療病院を退院しても1年後の断酒継続率はわずか20%、ほとんどの人は再入院もしくは死んだり行方不明になったり。

作中で(そして確実に現実でも)吾妻ひでおは無事退院する。

来たときはタクシーに押し込められてだったが、今度は病院からひとりでバスに乗り家へ帰る。

そこからのラスト3ページは恐らく漫画史に残る名シーンだ。

俯瞰で背後からと前方からのショットが一枚ずつ。周りの人びとは吾妻と無関係に日常を生きている。

そして突然視点が仰角に変わる。

広々とした空。

しかし開放感はない。

「不安だなー。大丈夫なのか? 俺……」

そう。私たちはこの広い空の下で、広すぎる世界を歩いて行かねばならないのだ。

20140510

『理性の暴力』

叢書・魂の脱植民地化の第5弾、古賀徹の『理性の暴力─日本社会の病理学』を読んだ。
図書館から借りてきたときにはこれを1日で読み、すぐにハンナ・アーレントやミシェル・フーコーに移行するつもりでいた。だが結果としてほぼ2週間をこれで費やしてしまった。

意欲作だと思う。

古賀さんはこの作品をミルフィーユと称している。「千枚の葉」を意味するお菓子の名前だ。

それは記述の重層性と共に記述している〈私〉にもまた言及しなければ不十分とする自己言及性の入れ子構造も意味している。

その為この本は本論とその後に続くP.S.と題された補論によって構成されている。

この本は凄まじい程の密度を持っている。その密度の高さが読解に時間が掛かった主な理由だ。
特に序論には手を焼いた。
繰り出される哲学用語の量にも脅かされたが、それによって記述される哲学的内容の豊富さは半端ではない。

その為か序論を飛ばして読むことも奨められているのだが、敢えて読み切ったのは文章に秘められた訴求力に感じるところがあったからだ。

この判断は正解だったと読後に感じた。本を読む上で必要な大局観と言うのか、この本全体を貫く哲学的な方法論を意識しつつ読むことが可能になったからだ。

暴力を抑止する筈の理性が、

法が整備され、教育が普及し、社会が合理的に組織されればされるほど、まさにその合理性を通じてあらたな暴力が胚胎し、人々がそれに苦しめられている

そうした病理を現在の日本社会は抱えている。

この本はそうした状況を踏まえて、理性に対し理性による反省を試みている。

本の構成は

序論 ミルフィーユとしての記述
第一章 いじめの論理学
第二章 沖縄戦「集団自決」をめぐって
第三章 〈声〉を聞くこと─ハンセン病の強制収容
第四章 破壊のあとの鎖列─水俣の経験から
第五章 廃棄物の論理学のために
第六章 死刑場の設計
第七章 原子力発電の論理学
終章 鉄鎖を解く哲学の任務

ひとつひとつのテーマもかみ砕いて書かれていたら1冊の本になったであろう。

論考はカントやハンナ・アーレント、フーコーを引用しつつ、全体として「輸入の学」に留まらずこなされていると思う。

全てが成功しているとは思わないが、各テーマに潜む暴力としての理性を哲学の文脈に即し、そこからの脱却の可能性を丁寧に模索していると感じた。

だが、自らの不勉強さが残念で溜まらなかった。

この本を読む以前に読んでおかねばならなかった本が何冊もある。数冊はこの本と同時進行で目を通したが、やはり足りなさを感じる。エマヌエル・カントの『純粋理性批判』はその最もたるものである。無論おいそれと読解できる代物でないことは経験的に理解している。しかし、読解しておくことが必要だった。

しかし、理性の結晶である筈の哲学は、日本では典型的に植民地的な正確を有しており、解放のための学とはなっていない。

この本はそうした哲学を本来の位置に置き直す行為の一つとして理解出来る。この本に付きまとう一種の難解さは、そうした行為が常に試みとしてあった事実に由来しているのだろう。

投げかけられているのは、現代社会にあって、哲学するとはどういう意味を持つのか?社会の課題に立ち向かうとはどういう事か?そうした問題意識なのだと思う。

読み終わって、私は著者古賀さんの問いかけに、応えたいという衝動を強く感じた。

良い読書体験が出来たと感じている。

20140504

『家路』

Facebookで知った映画『家路』を観た。

願望だろう。

福島に帰り、そこで生きて行くという決意をする。それは現実には果たし得ない願望なのだろう。
だが、その願望は単純に語られたのではなく逃れ得ない現実が前提とされている。

そこにこの映画の深みはあるのだろう。
兄総一の罪を被り、もう二度と戻らない決心をして出た故郷に20年振りに次郎は帰ってきた。そこから物語は始まる。

その故郷は原発事故により居住禁止地域になっており誰もいない。

そこに中学の時の同級生北村が現れ、ふたりは建物だけが残り無人と化した思い出の地を巡る。

そこで次郎は明かす。

誰もいなくなったから、帰ってきた。

腹違いの兄という家族のなかで複雑な少年時代を過ごした彼にとって、故郷は生き易い地ではなかった。

それ故立ち入り禁止という現実なしでは、彼の帰郷はありえなかったことなのだ。


私もかつて、二度と戻らない決意をして故郷を離れ、現実に25年間戻らず、その後に帰郷した。なので主人公次郎の気持ちは良く理解出来ると思っている。


やがて彼の帰郷は兄総一の知るところとなり、次郎は母登美子と再会する。そこでふたりは、何事もなかったように稲の話を交わす。


次郎が母登美子を引き取り、居住禁止地域にある家で暮らし始め、登場人物はそれぞれの家路を辿り始め、家族は再生への道を歩み始めるのだが、この設定は余りにもファンタジックだ。

咎めに来た警官も温情をかけて何も言わず去る。

ありえない。


恐らくこの映画は福島の被災者に寄り添うことを第一目的に作られた映画なのだろう。

ファンタジーはファンタジックに描いて欲しかったが、ファンタジーを愉しむ余裕も必要なのかな?と少し感じた。

確実に福島を描いた映画ではある。

登美子を演じた田中裕子の演技が光る。