20140510

『理性の暴力』

叢書・魂の脱植民地化の第5弾、古賀徹の『理性の暴力─日本社会の病理学』を読んだ。
図書館から借りてきたときにはこれを1日で読み、すぐにハンナ・アーレントやミシェル・フーコーに移行するつもりでいた。だが結果としてほぼ2週間をこれで費やしてしまった。

意欲作だと思う。

古賀さんはこの作品をミルフィーユと称している。「千枚の葉」を意味するお菓子の名前だ。

それは記述の重層性と共に記述している〈私〉にもまた言及しなければ不十分とする自己言及性の入れ子構造も意味している。

その為この本は本論とその後に続くP.S.と題された補論によって構成されている。

この本は凄まじい程の密度を持っている。その密度の高さが読解に時間が掛かった主な理由だ。
特に序論には手を焼いた。
繰り出される哲学用語の量にも脅かされたが、それによって記述される哲学的内容の豊富さは半端ではない。

その為か序論を飛ばして読むことも奨められているのだが、敢えて読み切ったのは文章に秘められた訴求力に感じるところがあったからだ。

この判断は正解だったと読後に感じた。本を読む上で必要な大局観と言うのか、この本全体を貫く哲学的な方法論を意識しつつ読むことが可能になったからだ。

暴力を抑止する筈の理性が、

法が整備され、教育が普及し、社会が合理的に組織されればされるほど、まさにその合理性を通じてあらたな暴力が胚胎し、人々がそれに苦しめられている

そうした病理を現在の日本社会は抱えている。

この本はそうした状況を踏まえて、理性に対し理性による反省を試みている。

本の構成は

序論 ミルフィーユとしての記述
第一章 いじめの論理学
第二章 沖縄戦「集団自決」をめぐって
第三章 〈声〉を聞くこと─ハンセン病の強制収容
第四章 破壊のあとの鎖列─水俣の経験から
第五章 廃棄物の論理学のために
第六章 死刑場の設計
第七章 原子力発電の論理学
終章 鉄鎖を解く哲学の任務

ひとつひとつのテーマもかみ砕いて書かれていたら1冊の本になったであろう。

論考はカントやハンナ・アーレント、フーコーを引用しつつ、全体として「輸入の学」に留まらずこなされていると思う。

全てが成功しているとは思わないが、各テーマに潜む暴力としての理性を哲学の文脈に即し、そこからの脱却の可能性を丁寧に模索していると感じた。

だが、自らの不勉強さが残念で溜まらなかった。

この本を読む以前に読んでおかねばならなかった本が何冊もある。数冊はこの本と同時進行で目を通したが、やはり足りなさを感じる。エマヌエル・カントの『純粋理性批判』はその最もたるものである。無論おいそれと読解できる代物でないことは経験的に理解している。しかし、読解しておくことが必要だった。

しかし、理性の結晶である筈の哲学は、日本では典型的に植民地的な正確を有しており、解放のための学とはなっていない。

この本はそうした哲学を本来の位置に置き直す行為の一つとして理解出来る。この本に付きまとう一種の難解さは、そうした行為が常に試みとしてあった事実に由来しているのだろう。

投げかけられているのは、現代社会にあって、哲学するとはどういう意味を持つのか?社会の課題に立ち向かうとはどういう事か?そうした問題意識なのだと思う。

読み終わって、私は著者古賀さんの問いかけに、応えたいという衝動を強く感じた。

良い読書体験が出来たと感じている。

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