20240327

椿の海の記

水俣病を知る以前の水俣の風土が描かれている。

石牟礼道子の自伝的小説と読んで間違いはなかろう。

春の花々があらかた散り敷いてしまうと、大地の深い匂いがむせてくる。

この1行目から、作品のリアルさと深さに嵌まり込んでしまった。


描かれているのは、みっちんと呼ばれていた子どもの頃の石牟礼道子と、それを取り巻く大人達の生き方だ。

それは、知的でも近代的でもないが、周囲の自然に溶け込んだ、素朴な、それでいて力強い生き方を営んでいた事が、伸びのある、美しい文章で記されている。

子どもだった石牟礼道子は、不思議な力を持っていた様だ。他の誰にも心を開かない、精神を病んでしまった神経どん、おもかさまや、進出していた窒素肥料の「会社ゆき」を当てにして開かれた娼館の遊女たちも、みっちんには心を開き、交流を深めて行く。

それは椿の海と呼んでいた水俣の海も同様であり、潮の満ち引きや、巻き起こる漣を通して、そこで遊ぶみっちんに語り掛けて来る様だ。

貧しい漁村の風景。そう呼んでしまえばそこで終わってしまうのかも知れない。だが、そうした近代的経済の用語とは別の、自然と調和した豊かさが、そこにはあったのではなかろうか?

近代はその豊かさを根こそぎ破壊し、やがて水俣は水俣病の荒波に押し流されていった。

それは時代の必然だったのかも知れない。失われた豊かさを振り返るのは、感傷なのかも知れない。だがそれでもなお、近代が破壊し尽くしたものに、かけがえのない大切なものを感じることを、私は否定する事が出来ずにいる。

調和した豊な椿の海。それは石牟礼道子という貴重な語り部によって記されなければ、とうの昔に失われ去っていた光景なのかも知れない。

その意味で、この『椿の海の記』は、貴重な、そして奇跡的な記録文学であるように、私には思える。

読み終えた時、私は不思議なそして深い感銘に包まれた。

20240319

怪物君

再読である。

前回は新しいiMacが届いたのと重なってしまい、十分にこの詩集に集中する事が出来なかった。加えて、吉増剛造の朗読を意識し過ぎてしまい、速く読み過ぎたとも反省していた。

今回は、意識的に、極めてゆっくりと読む事を心掛けて読んだ。


詩に書かれている事が、十分に腑に落ちる迄、ひとつひとつの節を噛み締め、それが出来る迄詩集を閉じて熟成させて読み進めた。

考えるな、感じろ!はブルース・リーの言葉だが、これは詩を読む時にも言える事だと思う。

現代詩は難解だと言われる。私はそう感じたことがない。現代国語の授業やテストの様に「作者の意図を答えよ」と問われたら、答えに窮するだろうが、それは詩を理解する事ではないと考えている。詩は、書かれた言葉を読んで、そこから何かを感じれば良い。

音楽を聴いて、作曲者の意図を答えよと問う者はいない。それと同じ事だ。

今回、『怪物君』を読んで、吉増剛造によって「書かれた」詩であるという事が、妙に説得力を持って感じられた。この詩集は書かれた言葉であるということに、とりわけ意味がある。

勿論、私は吉増剛造の声を想起する事なしには、彼の詩が理解出来ない。私は吉増剛造の声に導かれて、彼の詩の世界を旅する。

だが、この『怪物君』という詩集は、既に失われているという原稿に書かれた文字を想起する事で、理解出来た側面が大きく存在する。

その詩の言葉が、どの様な形態で書かれた言葉であったのかが、この詩集では、極限まで再現されている。その形態が必然である事を、私は素直に理解出来る。

吉増剛造の詩は、読者を選ぶ側面があると思う。彼の詩に感性を開けない者は容赦無く切り捨てられる。

吉増剛造の詩を読み始めてもう45年経つ、既に老境にある彼は、だが、今も尚新しい表現の方法に挑戦し続けている。私は全力を尽くして、その試みにどうにかこうにか追い付く事が出来ている。これは幸福な出逢いだ。

そして思うのだ、私の幸福は、吉増剛造の詩集を選んだ事ではなく、彼の詩集に選ばれた事にあるのだと。

私は多くの詩人の詩に、全身を晒して生きて来た。これからもそうあるだろう。私は詩人に選ばれて、生きながらえている。

20240302

だれか、来る

ノーベル賞作家ヨン・フォッセの代表作『だれか、来る』とエセー『魚の大きな目』、そして訳者河合純枝の『解説』が収められている。


『だれか、来る』は、何とも不思議な戯曲だ。

「彼」と「彼女」は、過去を捨て、二人だけの楽園を夢見て「家」にやって来る。しかし過去からは逃れられない。古い家には、先住者の遺物があり、その人たちの若い頃の写真がいっぱい貼られている。否応なしに、過去の時間に引き戻され、過去は現在となり、同じ平面で重層する。

そして突然、やっと得たと思えた楽園への入り口に立ちはだかる若い「男」。

「彼」と「彼女」は「男」の出現により、微妙にすれ違い始める。

話はこの様に要約出来る。と言うより、それしかない。

それしかないが故に、酷く難解だ。

ヨン・フォッセは何が言いたいのか?その問いに答えは無い。

台詞は非常に短く、断片的で、何度も反復する同じ表現。そして、この戯曲では、記載は少ないが「間」という言葉と言葉との間隔。言葉の断片の行き交うその間隙から滲み出す微妙な揺れ。観客はそれらからヨン・フォッセの「表現」を探り当てなければならなくなる。

読者は芝居で発せられる「声」を、嫌が上にも想定して読まねば、この戯曲からは何も与えられないだろう。

「声」と「間」、それがこの戯曲の全てだと言っても過言ではあるまい。

読んでいて、これと似た読書体験を、最近したと思い当たった。吉増剛造の詩。彼の詩は、彼の朗読を思い浮かべながらでないと、理解不能になる。

それと似た味覚が、この戯曲にはある。

そうなのだ。この戯曲を読んでいて、強く思ったことがある。これは戯曲の形をした詩なのでは無いか?

そう思うと、この戯曲が「分かる」。私たちはこの「声」と「間」に身を委ね、思う存分それを味わえば良い。

そうすれば、この戯曲に登場する「彼」と「彼女」は、現代のアダムとイブだと言う事に、素直に頷けるだろう。

良質な戯曲に出逢えた。