ノーベル賞作家ヨン・フォッセの代表作『だれか、来る』とエセー『魚の大きな目』、そして訳者河合純枝の『解説』が収められている。
『だれか、来る』は、何とも不思議な戯曲だ。
「彼」と「彼女」は、過去を捨て、二人だけの楽園を夢見て「家」にやって来る。しかし過去からは逃れられない。古い家には、先住者の遺物があり、その人たちの若い頃の写真がいっぱい貼られている。否応なしに、過去の時間に引き戻され、過去は現在となり、同じ平面で重層する。
そして突然、やっと得たと思えた楽園への入り口に立ちはだかる若い「男」。
「彼」と「彼女」は「男」の出現により、微妙にすれ違い始める。
話はこの様に要約出来る。と言うより、それしかない。
それしかないが故に、酷く難解だ。
ヨン・フォッセは何が言いたいのか?その問いに答えは無い。
台詞は非常に短く、断片的で、何度も反復する同じ表現。そして、この戯曲では、記載は少ないが「間」という言葉と言葉との間隔。言葉の断片の行き交うその間隙から滲み出す微妙な揺れ。観客はそれらからヨン・フォッセの「表現」を探り当てなければならなくなる。
読者は芝居で発せられる「声」を、嫌が上にも想定して読まねば、この戯曲からは何も与えられないだろう。
「声」と「間」、それがこの戯曲の全てだと言っても過言ではあるまい。
読んでいて、これと似た読書体験を、最近したと思い当たった。吉増剛造の詩。彼の詩は、彼の朗読を思い浮かべながらでないと、理解不能になる。
それと似た味覚が、この戯曲にはある。
そうなのだ。この戯曲を読んでいて、強く思ったことがある。これは戯曲の形をした詩なのでは無いか?
そう思うと、この戯曲が「分かる」。私たちはこの「声」と「間」に身を委ね、思う存分それを味わえば良い。
そうすれば、この戯曲に登場する「彼」と「彼女」は、現代のアダムとイブだと言う事に、素直に頷けるだろう。
良質な戯曲に出逢えた。
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