20080728

季節が分からない

昨日(27日)の夕立は凄まじかった。

降り始めた頃は今迄の夕立同様、すぐ上がるものとばかり思っていたのだが、暫く経つと、雷が周り中から聞こえ始め、単に積乱雲の縁が擦った程度のものではないと思い知った。

落雷に備え、雨が降り始める直前からコンピュータの電源は落としてあったのだが、その前に雲の様子をチェックしておくべきだった。かなり広範囲に広がる積乱雲だった。

16時頃、一旦雨は上がった。その隙をつくように女房殿がお買い物なんぞに出たのだが、車のシートに坐った途端、土砂降り。帰って来るように手招きしたのだが、通じず。

結局18時頃迄土砂降りが続いた。

だが、雨上がりの光景は、見事だった。
くっきりした虹が東の空に掛かり、その後、遠くの山が急速に明るくなってゆくのが見えた。
すぐ上の低い雲に日光が反射していたのだろうか?昼間見る山々より遥かに明るく、すぐ近くにある早春の草原を見ているような色彩が広がった。

あのような色彩の東側の山々を、少なくともあのような淡い緑色をした菅平をわたしは今迄見た事がない。


夜になって、再び雨音がし始めた。
今朝(28日)4時頃には一時的に青空が望めたが、遠くからは依然として頻繁に雷の音が聞こえ、1度、近くに落雷あり。
6時頃から再び降雨。沈む気分を自分でもり立てて何とかドイツ語の放送をこなす。

雨が鬱陶しいな。と思いながらゴミ出しに出掛け、帰って来るとまだひとつ、ゴミ袋が残っている事に気が付く。やれやれ…。


ところで、今のこの季節、どのように呼んでいいのかやはり分からない。

荒天は各地で被害も出したようで、ダウンバーストかガストフロントによるものと考えられる突風が幾つかの地域で観測された。

梅雨末期の荒天。そう呼びたくなる。

20080725

夕立

15時丁度、冷たい風が吹き始め、これは…と思っているとぽつりぽつりと雨が降って来た。最近連日のように極めて短い夕立が降る。3日前には30秒の激しい夕立が降った。

いくら激しく降ってくれてもこれでは湿度を上げるだけで不快指数はより高くなる。

今日も同じような短い夕立だろうと思っていたら、やはり1時間で青空が見えた。最近の青空はやや彩度が低く。数日前迄見えていた「美しい夏」を想起させる青さではなかったが、夕立の後それが戻って来た。

しかし案の定蒸し暑い。今日も不快指数を上げるだけの夕立だったか…と再び机の前に戻ったのだが、雨雲レーダを見ると、東北地方に雨を降らせている(どう考えても梅雨前線にしか見えないのだが)雲の列と並行して、細い雨雲の列が北信濃に延びて、西に進んでいる。

気温を見るとこの雲の列が通過している地域だけが15時の気温が30℃に達していない。

雨を期待して再びベランダに出る。確かに外の気温は低い。雲の列は気温を下げる効果を発揮していた。

期待通り、16時半頃再び雨が降り始める。今度は17時半頃迄降り続いた(また1時間だ)。

雨が上がるとすぐに陽が射し始める。やや蒸し暑かったが、これは虹が見えるのではないかと東の空を凝視する。虹を見ようとしなければ決して見えない程度の淡い虹だったが、確かにあった。それも弧の端から端迄しっかりと連続している虹だった。

再び机の前に…、蒸し暑い。

やはりコンピュータ2台と冷蔵庫に囲まれた環境がこの蒸し暑さの主な原因なのだろう?作業環境をもう少し合理的なものに変えてゆく事を考えねばならないのだろうか?やはり…。


雨が降り始めた15時頃、太平洋でも変化があったらしい。少し前から徐々にではあったが積乱雲の渦が成長し続けていた。それが颱風8号となった。Fung-wong(フォンウォン。山の名前。フェニックスと同じ意味らしい)と言う名が付けられている。またも台湾に向かって進んでいる。颱風がある辺りの海水面温度はほぼ28℃。これ以上北に進んでいたら颱風にはならなかったかも知れない。とりあえず本州に向かって来ないようなので安心しているが、中心気圧は994hPとかなり低い。

夕立が降り終わるや否や、一斉にアブラゼミが鳴き始めた。
「美しい夏」が帰って来た。

20080714

あの日、とはいつのことだったのだろう?

暫く前に、リンク集、「大気圏」に『みゃるの避難日記』を置いた。

2000年の三宅島噴火は奇妙な噴火だった。
火山には大抵、それぞれ固有の癖があり、大まかに見ると大体いつも同じような噴火の形式を踏んで、同じような経路を辿る。

三宅島の直前に噴火した有珠山はその好例で、次に起こる事が大体予想出来た。

三宅島は噴火が始まると、小規模な爆発はあるが、基本的には大量の熔岩流を噴出させ、大まかな火山活動は収束に向かう。

2000年の時も大方の学者は、そしてわたしも、そのような経路を辿るものと思っていた。

だが、地下からあがって来た熔岩流は地上で流れ出す事はなく、三宅島の地下で、神津島の方向に岩脈となって入り込み、ほんの一部は海底で噴火を起こしたものの、大方のマグマは地下に留まった。

2000年三宅島噴火は、余り例のない爆発的噴火を繰り返す形の噴火となった。

『みゃるの避難日記』には三宅島の島民であるみゃるさんが、最初の噴火から、全島民避難に至るまでの貴重な、余りにも貴重なドキュメントだ。

毎年、目を通す。

2000年の噴火が起きたのは、みゃるさんが三宅島に住み始めてから8年経った時だったと『…避難日記』には書かれている。

あの日から8年が過ぎた。噴火の年に産まれた子供も、小学2年生になっている筈だ。
だが、それ程昔の事とはとても思えない。

そして、いつも戸惑う。あの日から、と、毎年思うのだが…
あの日とは、いつのことなのだろう?
最初の噴火の日からなのか、低温火砕流が流れ出し、みゃるさんがそれに巻き込まれた大噴火の日からなのか?それとも全島民避難の日からなのだろうか?

地震と異なり、火山噴火災害は、長期間に及ぶ。三宅島の島民は、全島民避難の日から5年間、三宅島に帰る事が出来なかった。
遂に帰らなかった島民も居る。

その5年間の間に亡くなってしまった方々。或いは、新しい生活を、新しい土地で始めた方々。三宅島の人口は大幅に減り、かつ、高齢化が進んでいる。

みゃるさんは三宅島にかなり早い時期に帰り、その日からの記録をBlogにまとめてもいる。

島は、容易に噴火以前には戻らない。


わたしはみゃるさんから同じ災害と言うものはふたつとしてない、と言う事を教えられた。
仮に2000年の三宅島噴火が、通常の、熔岩流を噴出させるタイプの噴火であったとしても、この事は変わりがないだろう。ただ、その事が見えにくくなるだけだ。

災害があるたびに、「…年前の教訓が生かされなかった」と、安易に書かれた新聞記事を良く目にする。
だが、…年前と「今回」は常に異なる。その事は余り触れられない。

そして、わたしも2000年三宅島噴火が起こる迄、三宅島とは、第一に火山島であり、そこに暮らす人々が居る事を忘れがちだった。