20140930

御嶽山噴火

TVを観ていたらもう少し早く気付いたのかも知れない。twitterで地質関連の方々が騒ぎ始めたので知った。

9月27日11時52分、御嶽山が噴火した。

突然の噴火だった。
前兆と呼べるものはなかったと言って良いだろう。

41分頃から火山性微動が発生しており、山体も膨張してはいたらしい。

噴火7分前、山体の膨張を観測 気象庁、予知は困難か

だが10分前からの前兆が何の役に立つだろう。

タイミングも最悪に近かった。紅葉シーズンの始まった快晴の土曜日、それも昼頃。
当然登山者は多く、火口付近にも大勢の人がいた。

噴火としては小規模のものだったと思える。だがその小規模な噴火でも大惨事と呼べる被害が発
生してしまった。

現在(141030)12名の死亡が確認されている。これは医師の診断が下ったものであり、山中にはまだ少なくとも26名の心肺停止状態の方々の存在が確認されている。行方不明者の総数はまだ確認されていない。

死者は50名を越えるのではないかと憂慮している。

噴火はマグマによるものでは無く、水蒸気爆発だったようだ。

マグマが関与していれば火山ガラスなどのマグマ由来物質が観察されるはずだ。
だがそれらは観察されていない。

御嶽山2014年9月27日噴火の火山灰について

この事が前兆がなかった主な原因だろう。

だが、原理的に噴火の予知は可能と言えるのだろうか?

前兆と噴火の間には

異常あり→噴火あり
異常あり→噴火なし
異常なし→噴火あり
異常なし→噴火なし

という関係が成り立つだろう。

このうち予知が出来たとされるのは

異常あり→噴火あり

の場合に限られる。
つまり予知は極めて限られた場合のみに限られると言うことが出来る。

厄介なのは
異常あり→噴火なし
の場合が余りにも多いという事実だ。

これをいちいち気にしていたら日常生活は成り立たないという言い方を、私は乱暴だとは思わない。

それに加えて今回の噴火のような
異常なし→噴火あり
と言う場合が無視できない頻度であるという事実を目の前にして私は噴火予知に対して楽観的になれない。

火山活動レベル1でも死者が出る火山噴火は十分にあり得るのだ。

そしてまたマグマ噴火ならば予想できたという考えを私は嘘だと言い切れる。
2011年新燃岳噴火は数100年に1度の規模のマグマ噴火だったが、事前に見られた地殻変動をもとに「噴火するぞ」とは誰も言えなかった。

噴火予知が全く不可能とは言わない。

有珠山などでは現実にその噴火の予知に成功している。

しかし、全ての火山で予知が可能ではない。災害が起き、死者が出るのは予知できない火山だ。そしてそちらの方が多数派であるということが現実であり、重要なことだ。

私は地震や火山噴火の予知が出来ないことは、「現在の」科学の限界なのではなく、原理的な限界だと考える。

金を掛け、もっと研究を進めれば予知が可能であるかのような言い方は妄想だと考える。

私たちが暮らす国土は、プレート境界にあり、もともと地震や火山噴火によって形作られたものだ。

私たちは活動的縁辺部に住んでいる。その事実にもっと謙虚であるべきだと思う。

また火山で死者を出してしまった痛みを堪えながら私はそう考える。

自然を畏敬すること。それを現代人はいつの間にかどこかに置き忘れてしまったのではないだろうか?

20140912

宇井純セレクション

何もしていなかったわけでは無い。

まず、最近希に見る充実した読書体験として、ハンナ・アーレントの『人間の条件』読破があった。

そして、何よりも「技術的・科学的な」とハードルを上げられた、川内原発再稼働に関するパブリックコメントなどの作成があった。

総じて、かなり充実した日々を送っていたと言っても叱られないと思う。

それらを記録しなかった事はこれから響いてくるだろうが、充実していたが故に気持ちがブログに向かわなかったという側面があった事を付け加えておく。

2週間に1度県立長野図書館に行き、そこで5冊本を借りる。そしてそれを読む。それが日課になっている。かなりの仕事量になる。その為に時間が取れなかったという面もある。

さて…。

7月に3冊の本が出版された。

新聞でその書評を読み、すぐに図書館でリクエストした。

それを読んでいた。

宇井純セレクションである。

『原点としての水俣病─宇井純セレクション1』
『公害に第三者はない─宇井純セレクション2』
『加害者からの出発─宇井純セレクション3』

という構成になっている。

適切な構成だと思う。

宇井純さんは確かに水俣病を原点として活動し始め、加害者から出発し、公害に第三者はない事を初期の段階から訴え続けていた。

この三巻本は亡くなる直前まで書かれていた1,100を越える宇井純さんの文章の中から118編を選び、編集した労作である。

1956年に水俣病は発見されている。

この年は、私の生まれた年でもある。

それだけに水俣病は私にとって逃れる事の出来ないテーマとして長年存在し続けていた。

けれど高校生の頃、水俣病を調べたいと相談した倫社の先生から、
「水俣病は生半可な覚悟で取り組むテーマではない」
と釘を刺されたこともあって、深入りしない程度に留めていた。

それでも宇井純という存在は大きく、常に意識せざるを得ない人物のひとりとして、私の中で存在し続けていた。

しかし、深入りしないようにというブレーキから、東京に居ながら彼の自主講座『公害原論』に参加することが無かったことは、今になっても悔やまれる。

今回改めて宇井純という存在を概観して、彼が成した仕事の多彩さと重要さに目を開かれる思いだった。

中でも科学者としての宇井純を浮き彫りにした第3巻の記述は驚きだった。

水俣病を始めとする公害に対しての闘士としての宇井純さんは良く知っていた。けれど、科学者としての宇井純さんは知らずに居たのだと気付かされた。

彼を批判する人々は、宇井純は批判はするが代案を出さないとしばしば口にしていた。

けれど宇井純さんは汚染水処理技術の開発・設計・建設という仕事を通して、オルタナティブな科学・技術の実践者でもあった。

と言うより公害問題を含め、彼は常に実践の人であったと言った方が正確なのだろう。

編者のひとり宮内泰介は解題にこう記している。

この三冊は、宇井純さんという人を懐かしむため、あるいはかつての運動を懐かしむためのセレクションではない。現代世界のいまだ解決されない種々の問題を解決するために、これからもずっと参照されるべきものとして編まれた。─宮内泰介・解説「宇井純さんが切りひらいた科学のかたち」-本セレクションについて
この言葉はこの三巻本を紹介する、最適な言葉になっている。