tag:blogger.com,1999:blog-25823167274448491172024-03-19T09:58:29.881+09:00夏の扉へWir sollen heiter Raum um Raum durchschreiten,
-H.Hesse-IKEDA Yutakahttp://www.blogger.com/profile/07280449401867627527noreply@blogger.comBlogger524125tag:blogger.com,1999:blog-2582316727444849117.post-69654146131032048802024-03-19T09:57:00.002+09:002024-03-19T09:57:55.399+09:00怪物君<p>再読である。</p><p>前回は新しいiMacが届いたのと重なってしまい、十分にこの詩集に集中する事が出来なかった。加えて、吉増剛造の朗読を意識し過ぎてしまい、速く読み過ぎたとも反省していた。</p><p>今回は、意識的に、極めてゆっくりと読む事を心掛けて読んだ。</p><p></p><div class="separator" style="clear: both; text-align: center;"><a href="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEjxdD1MwYy5wzGX5j8oAn3PCC9aORDei75qkRDzLjpkyc4BZhpNR2wzK6ZAgsp7MCpU5G0r_sx7zj7RnUWP0ITyricZFiIyExo0jgBtHMNp-PF7sLhIlb75Lpvv9O2pZy2pfTo-lwkfQD9PSPcUVRkN4v5VASre5EvAOz8XVMaip9xnRqodYwTNMMn0Jfg/s765/%E6%80%AA%E7%89%A9%E5%90%9B-001.jpeg" imageanchor="1" style="margin-left: 1em; margin-right: 1em;"><img border="0" data-original-height="765" data-original-width="383" height="320" src="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEjxdD1MwYy5wzGX5j8oAn3PCC9aORDei75qkRDzLjpkyc4BZhpNR2wzK6ZAgsp7MCpU5G0r_sx7zj7RnUWP0ITyricZFiIyExo0jgBtHMNp-PF7sLhIlb75Lpvv9O2pZy2pfTo-lwkfQD9PSPcUVRkN4v5VASre5EvAOz8XVMaip9xnRqodYwTNMMn0Jfg/s320/%E6%80%AA%E7%89%A9%E5%90%9B-001.jpeg" width="160" /></a></div><br />詩に書かれている事が、十分に腑に落ちる迄、ひとつひとつの節を噛み締め、それが出来る迄詩集を閉じて熟成させて読み進めた。<p></p><p>考えるな、感じろ!はブルース・リーの言葉だが、これは詩を読む時にも言える事だと思う。</p><p>現代詩は難解だと言われる。私はそう感じたことがない。現代国語の授業やテストの様に「作者の意図を答えよ」と問われたら、答えに窮するだろうが、それは詩を理解する事ではないと考えている。詩は、書かれた言葉を読んで、そこから何かを感じれば良い。</p><p>音楽を聴いて、作曲者の意図を答えよと問う者はいない。それと同じ事だ。</p><p>今回、『怪物君』を読んで、吉増剛造によって「書かれた」詩であるという事が、妙に説得力を持って感じられた。この詩集は書かれた言葉であるということに、とりわけ意味がある。</p><p>勿論、私は吉増剛造の声を想起する事なしには、彼の詩が理解出来ない。私は吉増剛造の声に導かれて、彼の詩の世界を旅する。</p><p>だが、この『怪物君』という詩集は、既に失われているという原稿に書かれた文字を想起する事で、理解出来た側面が大きく存在する。</p><p>その詩の言葉が、どの様な形態で書かれた言葉であったのかが、この詩集では、極限まで再現されている。その形態が必然である事を、私は素直に理解出来る。</p><p>吉増剛造の詩は、読者を選ぶ側面があると思う。彼の詩に感性を開けない者は容赦無く切り捨てられる。</p><p>吉増剛造の詩を読み始めてもう45年経つ、既に老境にある彼は、だが、今も尚新しい表現の方法に挑戦し続けている。私は全力を尽くして、その試みにどうにかこうにか追い付く事が出来ている。これは幸福な出逢いだ。</p><p>そして思うのだ、私の幸福は、吉増剛造の詩集を選んだ事ではなく、彼の詩集に選ばれた事にあるのだと。</p><p>私は多くの詩人の詩に、全身を晒して生きて来た。これからもそうあるだろう。私は詩人に選ばれて、生きながらえている。</p>IKEDA Yutakahttp://www.blogger.com/profile/07280449401867627527noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-2582316727444849117.post-29544298486150847552024-03-02T13:40:00.000+09:002024-03-02T13:40:08.029+09:00だれか、来る<p>ノーベル賞作家ヨン・フォッセの代表作『だれか、来る』とエセー『魚の大きな目』、そして訳者河合純枝の『解説』が収められている。</p><p></p><div class="separator" style="clear: both; text-align: center;"><a href="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEg2jpepJgtm7Zi76yQ5zeBcA94i66BnSfcGS68dB1HsPygR33Emrj27d7YdlQYLxTHqETk-hRizMAR52sA0G7r_ALS1zjMxwMdgnOwN10xBqtnfBTDW1xAH4XNuSEo7i8k97Ez6fqK0yxDeo7rGgj8p9vYdZ0Tmxjn2LE0lFhB4uT0r1hS_TfVVxQAokAo/s574/%E3%81%9F%E3%82%99%E3%82%8C%E3%81%8B%E3%80%81%E6%9D%A5%E3%82%8B-001.jpeg" imageanchor="1" style="margin-left: 1em; margin-right: 1em;"><img border="0" data-original-height="574" data-original-width="406" height="320" src="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEg2jpepJgtm7Zi76yQ5zeBcA94i66BnSfcGS68dB1HsPygR33Emrj27d7YdlQYLxTHqETk-hRizMAR52sA0G7r_ALS1zjMxwMdgnOwN10xBqtnfBTDW1xAH4XNuSEo7i8k97Ez6fqK0yxDeo7rGgj8p9vYdZ0Tmxjn2LE0lFhB4uT0r1hS_TfVVxQAokAo/s320/%E3%81%9F%E3%82%99%E3%82%8C%E3%81%8B%E3%80%81%E6%9D%A5%E3%82%8B-001.jpeg" width="226" /></a></div><br />『だれか、来る』は、何とも不思議な戯曲だ。<p></p><p>「彼」と「彼女」は、過去を捨て、二人だけの楽園を夢見て「家」にやって来る。しかし過去からは逃れられない。古い家には、先住者の遺物があり、その人たちの若い頃の写真がいっぱい貼られている。否応なしに、過去の時間に引き戻され、過去は現在となり、同じ平面で重層する。</p><p>そして突然、やっと得たと思えた楽園への入り口に立ちはだかる若い「男」。</p><p>「彼」と「彼女」は「男」の出現により、微妙にすれ違い始める。</p><p>話はこの様に要約出来る。と言うより、それしかない。</p><p>それしかないが故に、酷く難解だ。</p><p>ヨン・フォッセは何が言いたいのか?その問いに答えは無い。</p><p>台詞は非常に短く、断片的で、何度も反復する同じ表現。そして、この戯曲では、記載は少ないが「間」という言葉と言葉との間隔。言葉の断片の行き交うその間隙から滲み出す微妙な揺れ。観客はそれらからヨン・フォッセの「表現」を探り当てなければならなくなる。</p><p>読者は芝居で発せられる「声」を、嫌が上にも想定して読まねば、この戯曲からは何も与えられないだろう。</p><p>「声」と「間」、それがこの戯曲の全てだと言っても過言ではあるまい。</p><p>読んでいて、これと似た読書体験を、最近したと思い当たった。吉増剛造の詩。彼の詩は、彼の朗読を思い浮かべながらでないと、理解不能になる。</p><p>それと似た味覚が、この戯曲にはある。</p><p>そうなのだ。この戯曲を読んでいて、強く思ったことがある。これは戯曲の形をした詩なのでは無いか?</p><p>そう思うと、この戯曲が「分かる」。私たちはこの「声」と「間」に身を委ね、思う存分それを味わえば良い。</p><p>そうすれば、この戯曲に登場する「彼」と「彼女」は、現代のアダムとイブだと言う事に、素直に頷けるだろう。</p><p>良質な戯曲に出逢えた。</p>IKEDA Yutakahttp://www.blogger.com/profile/07280449401867627527noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-2582316727444849117.post-78269643897063327972024-02-26T08:29:00.002+09:002024-02-26T08:29:31.868+09:00初期作品集<p>『石牟礼道子全集不知火第一巻』に収められた作品群である。</p><p>石牟礼道子の原点が『苦海浄土』にあるとするならば、この作品集に収められた作品群は、原点以前の作品たちと呼べるのかも知れない。</p><p>全集ではそれらをエッセイ、詩、短歌とジャンル分けし、それぞれを、ほぼ作成年代順に纏めてある。石牟礼道子はその作家人生を、詩人、歌人としてスタートさせた事が分かる。</p><p></p><div class="separator" style="clear: both; text-align: center;"><a href="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEhmzOEVXm6ECPhp1ceJjEnm7T6jMU7mW2YtVJUubMqkmDhb3UAc7MH1Y26cb1NaGqTBL_tATNKVnuHnbJtVegfgCsZ7134y17kq0RNhX21u5xJgI7jj4FT0eEmSugW7b1bL2msbYjK4VesR3yIeNShVhwYjhoxLrmWh6R3HVXQ9H03_T0T9XnSyNaHDgiM/s634/%E7%9F%B3%E7%89%9F%E7%A4%BC%E9%81%93%E5%AD%90%E5%85%A8%E9%9B%86%E4%B8%8D%E7%9F%A5%E7%81%AB%E7%AC%AC%E4%B8%80%E5%B7%BB-001.jpeg" imageanchor="1" style="margin-left: 1em; margin-right: 1em;"><img border="0" data-original-height="634" data-original-width="458" height="320" src="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEhmzOEVXm6ECPhp1ceJjEnm7T6jMU7mW2YtVJUubMqkmDhb3UAc7MH1Y26cb1NaGqTBL_tATNKVnuHnbJtVegfgCsZ7134y17kq0RNhX21u5xJgI7jj4FT0eEmSugW7b1bL2msbYjK4VesR3yIeNShVhwYjhoxLrmWh6R3HVXQ9H03_T0T9XnSyNaHDgiM/s320/%E7%9F%B3%E7%89%9F%E7%A4%BC%E9%81%93%E5%AD%90%E5%85%A8%E9%9B%86%E4%B8%8D%E7%9F%A5%E7%81%AB%E7%AC%AC%E4%B8%80%E5%B7%BB-001.jpeg" width="231" /></a></div><br />『苦海浄土』以後に見られる、魂を高みに運んでくれるような精神性はまだない。若書きの荒削りな作品が並ぶ。だが、そこには異様なまでに荒々しい、激しさと力強さがある。<p></p><p>石牟礼道子が師と仰ぐ蒲池正紀さんは、石牟礼道子を歌誌『南風』に誘う時、</p><p></p><blockquote>あなたの歌には、猛獣のようなものがひそんでいるから、これをうまくとりおさえて、檻に入れるがよい</blockquote><p></p><p>と批評したそうだ。よくぞ見抜いて下さったものだ。</p><p>作品に一貫として流れているのは、弱い者、小さい者に寄り添おうとする姿勢だと思う。最初期の詩は、蟻に向けられている。これは石牟礼道子の全生涯を通じて、貫かれている姿勢なのではないだろうか?</p><p>エッセイでは、早くもその目が水俣病に向けられている。石牟礼道子にとって水俣病は、社会問題以前に、身の回りの郷里に起こった、ひとつの事件としてあったのだ。</p><p>石牟礼道子は、本によって育てられた作家ではない。本は教科書くらいしか読まなかったと言う。彼女の歌のリズムは、母親の話し言葉にあったとエッセイで語っている。母親の話し言葉は美しく、殆ど歌であったと言う。</p><p>そこで合点が行くのだ。彼女の方言へのこだわりは、(初期作品に既に現れているが)体裁の調った「標準語」による本からではなく、話し言葉から文学を学んだ故なのではないか?</p><p>エッセイにしろ詩にしろ短歌にしろ、その作品は年代を経るにつれて表現力が研ぎ澄まされ、「魂の秘境」へと近づいてゆくのが分かる。そのダイナミズムは、石牟礼道子を読んで来た者が『石牟礼道子全集不知火第一巻』に辿り着いて知る、何よりの醍醐味だ。</p>IKEDA Yutakahttp://www.blogger.com/profile/07280449401867627527noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-2582316727444849117.post-62524590462429971062024-02-16T20:10:00.003+09:002024-02-17T09:13:41.479+09:00CBDの科学<p>日本はいつもアメリカを追い駆ける。</p><p>日本では1万年以上前から大麻を生活用品として利用してきた歴史がある。第二次世界大戦直後のGHQの占領下でメモランダム(覚書)が発行され、全ての大麻類が全面禁止になり、大麻草の利用も全面禁止となった。ところが、当時の農林省は、繊維製品や魚網などで、生活に不可欠な農作物であるとGHQに進言し、都道府県知事の許可制となって、栽培が継続されることになった。</p><p>一方で麻薬取締法と大麻取締法は1948年7月10日という同日に施行されたが、医師の取り扱う「医療品」と農家の取り扱う「農作物」が区別された為、別々の法律として、管理下に置かれた。</p><p>アメリカの力によって、大麻の使用は禁止されたと考えて良い。</p><p>だが、そのアメリカが動き始めた。</p><p>医療用大麻の使用を認める州が続出し、嗜好品としても認める流れになって来たのだ。</p><p>こうなると日本もそれを追い駆け始める。</p><p>大麻取締法の改正に向けた動きが出始めたのだ。</p><p></p><div class="separator" style="clear: both; text-align: center;"><a href="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEiZlPvyOKQB96FkTvhOYdSLcbatQTt4dQf369z9ohVDCDPksHdetSuMbS9uFXqrMNf1N-wHWY2jv12otUPwj_Zyb0h92iVffgJYTDnGgekwQD_h_0n_uK1HWltlOlb4x6X8WUPIuAzfXE-on3bz0fMUcfArbxveS8w_xnlBLWM6fb6DdcUr-FaiNwzw9ho/s620/CBD%E3%81%AE%E7%A7%91%E5%AD%A6-001.jpeg" style="margin-left: 1em; margin-right: 1em;"><img border="0" data-original-height="620" data-original-width="435" height="320" src="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEiZlPvyOKQB96FkTvhOYdSLcbatQTt4dQf369z9ohVDCDPksHdetSuMbS9uFXqrMNf1N-wHWY2jv12otUPwj_Zyb0h92iVffgJYTDnGgekwQD_h_0n_uK1HWltlOlb4x6X8WUPIuAzfXE-on3bz0fMUcfArbxveS8w_xnlBLWM6fb6DdcUr-FaiNwzw9ho/s320/CBD%E3%81%AE%E7%A7%91%E5%AD%A6-001.jpeg" width="225" /></a></div><br />本書は、医療用大麻の第一人者による、大麻由来成分CBD(時にはTHCも)の薬効を、網羅的に概観した医学書である。<p></p><p>原題はCBD:What Does the Science Say?</p><p>様々な憶測や噂が飛び交っているが、現代医学では、どう見られているのか?それを纏めている。</p><p>読解には苦労した。予備知識が40年も前の受験生物学のものしか持ち合わせていない。本書には、様々な病気の、最先端の知識が詰め込まれている。それをいちいちネットで調べながら読んだので、時間が掛かってしまったのだ。</p><p>本書はCBDの化学的及び薬学的特徴から始まり、てんかん、癌、自己免疫疾患、不安、PTSD、うつ病、統合失調症、依存症などとありとあらゆる角度から大麻由来成分の働きを、事細かくチェックしている。</p><p>読んでいて歯痒かったのは、至る所で「〜の検査が必要」「〜の研究が不足している」と結ばれている事だった。</p><p>医療用大麻の歴史は浅い。つい最近になって、ようやく議論が始まったばかりなのだ。研究がそれ程進んでいない事は、驚く事では無かったのかも知れない。</p><p>殆どの研究は<i>in vitro</i>によるもの、<i>in vivo</i>での研究は少し。と殆どが前臨床試験の段階であり、ヒト臨床試験が組織的に行われているものは、僅かな例に留まっていた。</p><p>分かった事は、CBDは万能薬ではない。だが、かなり広範囲に薬効が認められるか、その可能性がある成分で、しかも副反応がないという事実だ。</p><p>本書で、議論は極めて慎重に進められている。決して楽観視していない。むしろ大麻研究が何十年も放置されてきた歴史に苛立っている。</p><p>本書の結論は12章の「科学はここからどこに進むのか?」に述べられている事に尽きるだろう。</p><p></p><blockquote><p>ヒトのさまざまな疾患に対するCBDの医療効果については、<i>in vitro</i>および前臨床<i>in vivo</i>試験からのエビデンスが豊富に存在することは明らかだが、こうしたエビデンスを裏付ける、ヒトを対象とした臨床試験はほとんどない。これらの主張は、質の高いRCT(ランダム化比較試験)で評価されることが極めて重要である。今のところ、CBDが持っていると主張されている効果の多くは、臨床試験が完了してその主張が裏付けられる、あるいは反証されるまでは、誇大広告の域を出ない。主張されている効果は、抗不安作用について最近報告されている(Spinella <i>et</i> <i>al</i>.2021)のように単に期待に基づくプラセボ効果にすぎないのか、それとも本当に臨床効果があるのか、その答えを提供するのはRCTのみである。</p><p>本書は、CBDに医療効果があるという主張が何らかの基本的な科学的根拠に裏付けられている適応症について概観したものである。つまり本書はこの、(薬物代謝肝酵素との相互作用には注意が必要ではあるが)毒性が比較的低く、THCのような「ハイ」を生じない非常に興味深いカンビノイド化合物がもたらす希望と単なる誇大広告を見分けるための、少なくとも出発点にはなるだろう。</p></blockquote><p></p><p>議論は始まったばかりだ。そうした段階にある現在、冷静で網羅的な本書が出版され、日本語に訳されたという事実は、その議論を慎重に行う為に、極めて意義深いものになると、読み終わって感じた。</p><p>基礎はじっくりと作られたのだ。</p>IKEDA Yutakahttp://www.blogger.com/profile/07280449401867627527noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-2582316727444849117.post-47468172266545126812024-02-10T10:32:00.002+09:002024-02-10T16:03:08.610+09:00土偶を読むを読む<p>『土偶を読む』という本が売れている。</p><p>噂には聞いていた。読んでいない。地質学をやって来て、「素人の斬新な発想」にはうんざりして来た。それと同じ匂いが、この本にはある。そんな気がする。</p><p>その本に危機意識を抱いた考古学者たちが、『土偶を読むを読む』という本を出した。『土偶を読む』のどこが専門家の目で見るとおかしいのか。それを徹底検証している。必要な事だと思う。</p><p></p><div class="separator" style="clear: both; text-align: center;"><a href="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEgsMOlt22od5yKy4XsPhHv1zJUlHClAf9D6JFIQoOgILMfiJ0-llhcxjmTiiC0tZQfvhayKjmUD_CpmXcUqTJxZ4r-1J-1CxifqIwOrXqy9BWujfLM-WXKG2nDooG0SSgPLGDH6wzoWkecKKBnQCAbyKJuuxGOtU3idP_4u6HultvN3_wtbef4BzsH40Os/s552/%E5%9C%9F%E5%81%B6%E3%82%92%E8%AA%AD%E3%82%80%E3%82%92%E8%AA%AD%E3%82%80-001.jpeg" style="margin-left: 1em; margin-right: 1em;"><img border="0" data-original-height="552" data-original-width="378" height="320" src="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEgsMOlt22od5yKy4XsPhHv1zJUlHClAf9D6JFIQoOgILMfiJ0-llhcxjmTiiC0tZQfvhayKjmUD_CpmXcUqTJxZ4r-1J-1CxifqIwOrXqy9BWujfLM-WXKG2nDooG0SSgPLGDH6wzoWkecKKBnQCAbyKJuuxGOtU3idP_4u6HultvN3_wtbef4BzsH40Os/s320/%E5%9C%9F%E5%81%B6%E3%82%92%E8%AA%AD%E3%82%80%E3%82%92%E8%AA%AD%E3%82%80-001.jpeg" width="219" /></a></div><br />図書館で、この本も読まれていて、なかなか順番が周って来なかった。ようやく読めた。<p></p><p>縄文学は人気のジャンルだ。参入しようとする素人もまた、多い。</p><p>専門家は保守的だ。それら素人(困った事に一部の「認められない専門家」も)には、その思いが強い。だが専門家はそのジャンルを網羅的体系的に基礎から学んでいる。持っている基礎知識もまた多い。</p><p>素人の「斬新な発想」はそれらを軽々とすっ飛ばしてくれる。</p><p>一部の方々にとって、そうした姿勢は、爽快感も感じるようだが、実際には困った事であることが多い。</p><p>本書『土偶を読むを読む』を読んで、『土偶を読む』に欠けている視点の最大の欠陥は、編年と類例にあるのではないかと感じた。</p><p>ひとつの土偶にイコノロジーの手法を応用して、「何に似ているか」を探る。それもいいだろう。だが、ひとつの土偶が作成される迄、類例となる同系列の土偶は幾つも作られている。それを年代順に追跡する事で、土偶の編年が編まれる。</p><p>まさに「土偶は変化する」(本書p292金子昭彦)のだ。</p><p>例えば栗に見える土偶が、その類例を含めて栗に見えるのであれば、その土偶の作成意図に栗の精を想定しても良いだろう。だが、編年・類例を追跡してみると、そうではない例ばかりなのだ。</p><p>また、ある角度から捕らえられた写真を見ると、何かに似ているように思えても、その土偶を立体的に見てみるとそうではない。そうした例も多い。</p><p>学問に王道なしとはユークリッドの言葉だが、『土偶を読む』の著者も、縄文学の基礎くらいは、きちんと身に付けてから、ものを言って欲しいと感じる。</p><p>『土偶を読む』を読んでいないので、公平な評価とは言い難いが、今回もまた、新説・奇説より、学問のメインストリートの方が、面白くて深い。そう感じた。</p><p>だが、『土偶を読む』が発表された事で、縄文学の裾野が、今迄より拡がった事は確かだろう。それに対するアンサーである本書を読んで、私も縄文学の現在に、少しだけ触れる事が出来た。その事には何を置いても感謝したい。</p>IKEDA Yutakahttp://www.blogger.com/profile/07280449401867627527noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-2582316727444849117.post-77123064754642890172024-02-04T07:05:00.003+09:002024-02-04T10:11:28.689+09:00全身詩人吉増剛造<p>最初は活字からだった。</p><p>ヘルマン・ヘッセにノックアウトされて、詩に目覚めた私は、高校に入ると、思潮社から出版されている現代詩文庫を少しずつ買い集め、愛読していた。その中の1冊に吉増剛造詩集があった。</p><p>それは時経る毎に続・続々と増えていった。</p><p>私の中で詩人は特別な存在として位置付けられていた。聖なる存在と言って良かった。その中でも吉増剛造は、他の詩人と比べても、段違いに特殊な、特別な存在だった。</p><p>安い現代詩文庫で読むという行為だけでも、彼の詩は、それが特別なオーラを放っている事が理解できたし、そのオーラを浴びる事だけでも、当時の私には掛け替えの無い体験だった。</p><p>後に東京の大学に進学すると、私はばね仕掛けの人形の様に、東京の「文化」を体験し始めた。その中に、当然の様に吉増剛造の詩の朗読があった。</p><p>最初にそれを体験した時の衝撃は今も忘れない。今迄の吉増剛造体験は、一体何だったのだろうかと、乱暴に否定したくなる程朗読による吉増剛造の詩体験は強烈だったのだ。</p><p>活字では決して体験する事の出来ない吉増剛造がそこに居た。</p><p></p><div class="separator" style="clear: both; text-align: center;"><a href="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEi2BXiBCt5hB3xocRQOxgKxFyru2OwXeCHMsoYYovhIJzTR1_d5_ZT7uaVrmOCkMsJCBVuCgF4Bz_2fSG_KQVyH2TgRZUlDw0OeQYoXLlfEJIIZKMl4F3K9AFQzRaJ8kqaX-dRAOES0WdRFZjgRiZJQNYj3Yzz0nPaoT_SEvmavRLXYVya7NGk6xG3XM2w/s566/%E5%85%A8%E8%BA%AB%E8%A9%A9%E4%BA%BA%E5%90%89%E5%A2%97%E5%89%9B%E9%80%A0-001.jpeg" style="margin-left: 1em; margin-right: 1em;"><img border="0" data-original-height="566" data-original-width="391" height="320" src="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEi2BXiBCt5hB3xocRQOxgKxFyru2OwXeCHMsoYYovhIJzTR1_d5_ZT7uaVrmOCkMsJCBVuCgF4Bz_2fSG_KQVyH2TgRZUlDw0OeQYoXLlfEJIIZKMl4F3K9AFQzRaJ8kqaX-dRAOES0WdRFZjgRiZJQNYj3Yzz0nPaoT_SEvmavRLXYVya7NGk6xG3XM2w/s320/%E5%85%A8%E8%BA%AB%E8%A9%A9%E4%BA%BA%E5%90%89%E5%A2%97%E5%89%9B%E9%80%A0-001.jpeg" width="221" /></a></div><br />本書は吉増剛造の専門家を自称する、自らも詩人であり、TVディレクターでもある林浩平が、吉増剛造の現在を語らなければならないという、切羽詰まった衝動に突き動かされて書かれた、2冊目の吉増剛造論である。<div>私は本書から多くの吉増剛造作品を知る事が出来た。</div><div><p></p><p>読んでびっくりした。決して吉増剛造から、目を離した心算ではなかったのだが、本書で紹介されている吉増剛造は、私の知っている吉増剛造と比べ物にならない程、大きな変貌を遂げていた。</p><p>私の知っている吉増剛造は、活字の詩とその朗読に限られていた。</p><p>だが、彼はかなり以前から多重露光写真による作品を多数発表しており、その上近年ではgozoCinéと呼ばれる映像表現にも活路を広げていた様だ。</p><p>迂闊にも、私はその全てを見逃していた。</p><p>調べると、写真集の幾つかは図書館で、映像表現はYouTubeである程度追える事が分かった。地方都市に住む貧乏人である私は、ほっと胸を撫で下ろした。</p><p>思いがけない発見もあった。『詩とは何か』からの引用。</p><p></p><blockquote>もう一つ、『我が詩的自伝』では「言葉を枯らす」ということを言いました。言葉を豊穣にするんじゃないんです、逆なんです。むしろ逆に、意味的、想像的、文学的、そういった次元において言語を少し弱くして萎えさせて、そんなときにふっと立ち上がってくる、こっそり立ち上がってくる幽霊のようなもの。論理学的な言い方をすると「否定」。否定した瞬間に違う種類の肯定が立ち上がってくる。そのすきを狙って何かが出てくるのを待っているような詩を書くようになったのです。</blockquote><p></p><p>こうした姿勢は、彼の詩を漫然と読んでいただけでは、見出せなかった境地だ。</p><p>著者林浩平は、吉増剛造の全貌を捕まえるべく、本書の中で、評論で、往復書簡で、対談で、多面的に吉増剛造をデッサンしてゆく。</p><p>しかし、詩人吉増剛造は、その追跡を軽くかわして、身軽にもっと先へと進んでしまう。だが大切な視点がある。吉増剛造のこの一見移り気な身軽さは、彼の詩への生真面目さ、真摯さから滲み出たものであるということだ。</p><p>本書の終わり付近の座談会の中で、林浩平はこう呟いている。</p><p></p><blockquote>しかも加速している。やっとつかまえた、と思っても、もう先に行ってしまっている。</blockquote><p></p><p>同感である。</p><p>もはや老境にある吉増剛造は、しかし、その感性に於いて、いつまで経っても若々しい。今も、そしてこれからも、現代詩のトップランナーとして、彼は最先端を疾走し続けるのだろう。</p><p>我々はそれを追いながら、とぼとぼとしかし必死に、後をついて行くしかない。</p><p>だがそうする事で、私たちは今迄見たこともない景色を目撃する事が出来るのだ。</p></div>IKEDA Yutakahttp://www.blogger.com/profile/07280449401867627527noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-2582316727444849117.post-77796699431738123182024-01-27T07:43:00.003+09:002024-01-27T17:12:30.500+09:00天の魚<p>─第三部 終─</p><p>昨日、2024.01.26 20:26私はこの行を読み終えた。第1部『苦海浄土』、第2部『神々の村』、第3部『天の魚』。昨年末から続けて来た、石牟礼道子『苦海浄土』三部作を、読み切ってしまった瞬間だった。</p><p>『天の魚』最終章「供護(くご)者たち」は長かった。だが、私の中で、この章はもっと長くて良いという思いが生まれていた。『苦海浄土』と伴にある時間が、もっと長く、出来れば永遠に続いて欲しいとする願いだった。</p><p></p><div class="separator" style="clear: both; text-align: center;"><a href="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEi9wYfB4w7p-0t2yStzAIK90BOR8KrfxflIx8-Y-Nq-1ow6afvBlAxhVi2UDQdAYYDA_YcfCk_UJNp7XXJQlGT0PsWJdwrg0G-NdHuj8EKIJ4dhGFt0NvUL9wcdlWlL4tdxMsn1xoqn3ad7GSKshN8EGLz2Vhrz-1Jev78Q92wCfsoL_1PajfaGh6oXmCw/s631/%E7%9F%B3%E7%89%9F%E7%A4%BC%E9%81%93%E5%AD%90%E5%85%A8%E9%9B%86%E4%B8%8D%E7%9F%A5%E7%81%AB%E7%AC%AC%E4%B8%89%E5%B7%BB-001.jpeg" style="margin-left: 1em; margin-right: 1em;"><img border="0" data-original-height="631" data-original-width="465" height="320" src="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEi9wYfB4w7p-0t2yStzAIK90BOR8KrfxflIx8-Y-Nq-1ow6afvBlAxhVi2UDQdAYYDA_YcfCk_UJNp7XXJQlGT0PsWJdwrg0G-NdHuj8EKIJ4dhGFt0NvUL9wcdlWlL4tdxMsn1xoqn3ad7GSKshN8EGLz2Vhrz-1Jev78Q92wCfsoL_1PajfaGh6oXmCw/s320/%E7%9F%B3%E7%89%9F%E7%A4%BC%E9%81%93%E5%AD%90%E5%85%A8%E9%9B%86%E4%B8%8D%E7%9F%A5%E7%81%AB%E7%AC%AC%E4%B8%89%E5%B7%BB-001.jpeg" width="236" /></a></div><br />第1部『苦海浄土』、第2部『神々の村』とは違って、第3部『天の魚』は、水俣の病者たちと加害企業「チッソ」との交渉が描かれていた。<p></p><p>それは単なる公害交渉では、決して無かった。文字通り血飛沫が飛ぶ「死闘」だった。</p><p>水俣を企業城下町としてきたチッソ。病者たちは、故郷の水俣で、手厚く扱われていたのではない。チッソと死闘を繰り広げる病者たちに、加えられる相次ぐ妨害、中傷。彼らはそれとも闘わなければならなかったのだ。</p><p>そして、微妙に擦れ違う、支援者たちとの溝。</p><p>著者石牟礼道子は孤立する病者たちと、常に伴にあった。</p><p>石牟礼道子が、彼らと伴に歩む事がなかったら、水俣病はこれ程の深い意味合いを持つことはなかっただろう。</p><p>昨年末に第1部『苦海浄土』と第2部『神々の村』を読んだ後、図書館の都合で暫く間が空いた。だがその間も私は常に『苦海浄土』を意識して生きざるを得なかった。</p><p>石牟礼道子に釜鶴松の魂魄が棲みついたように、『苦海浄土』は私に取り憑いた。</p><p>それは今回に限った事ではなく、最初に『苦海浄土』を読んだ頃からそうだったのではないかと、今回読み終えて思った。</p><p>私は決して病者の方々と常に伴にあったわけではない。</p><p>だが、石牟礼道子の言の葉に導かれて、病者に寄り添うとは、どんな心構えなのかを、常に考え、模索し、辿り着いてはまた見失いを繰り返して来た。それは永遠に続くかのような、長い旅だった。</p><p>ふと思う。近年、特にこの2年間程の間で、社会は水俣病を、急速に見失い続けて来たのではないだろうかと。</p><p>それは風化と呼ぶにも程遠い、むしろ忘却と呼んだ方が正確なのではないかと思う程の見失い方だ。</p><p>私もそうだった。日常的に増え続ける気に掛かる問題たち。それについて考えるのに忙しく、私もつい、水俣病の事を考えるのを止めていた。</p><p>『石牟礼道子全集不知火』を全巻読破したい。昨年その思いが募った。なぜ石牟礼道子だったのか?それはもう思い出せない。</p><p>多分私は、石牟礼道子の魂に呼ばれたのだと感ずる。</p><p>水俣病を忘れつつある私を、石牟礼道子は的確に見抜き、私を『苦海浄土』三部作の世界に引き摺り戻してくれたのではなかろうか?</p><p>そう思ってしまう程に、今回この瞬間に『苦海浄土』三部作を読み終える事が出来たのは、私にとって幸運な出来事だったと思える。</p><p>『苦海浄土』三部作を読破して感じたのは、『苦海浄土』という作品は、三部作で初めて完結する作品だという事だ。どれも無駄がなく、必要不可欠な作品であり、三部作それぞれが互いに響き合い、それら全てが寄り添い合って初めて完結する。そうした作品になっている。その事を強く感じさせられた。</p><p>全集を選んだのも正解だったと思う。第三巻はこの後「『苦海浄土』をめぐって」という段が続く。私はもう暫くの間、『苦海浄土』と伴に生きる事が出来るのだ。</p><p>そして多分、この後ずっと、『苦海浄土』は私の意識の中にあり続けるだろう。</p><p>『苦海浄土』三部作とはそうした作品だ。</p>IKEDA Yutakahttp://www.blogger.com/profile/07280449401867627527noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-2582316727444849117.post-88142016749040943552024-01-23T04:42:00.004+09:002024-01-23T04:52:35.810+09:00魂の秘境から<p>石牟礼道子最晩年のエセーとも日記とも判別が付かない遺作。だがそこには彼女の確かな肉声が響いている。</p><p>そしてその肉声は、ひと作品毎に挿入されている芥川仁の写真と響き合い。書物自体が作品である様な、見事な著作に仕上がっている。</p><p>石牟礼道子は2018年2月10日に逝去されている。本書には、著作の掲載された日付が付されており、最後の作品には2018年1月31日と記されている。本当に最後の最後迄、石牟礼道子は著作に取り組んでいたのが分かる。</p><p>そして驚くのは、その作品の質が、最後迄極めて高い水準を保っている事だ。文章に衰えは全く感じられない。</p><p>それは折に触れ描かれる子ども時代の回想に迄及び、90歳という年齢を全く感じさせない鮮明さで、遠い過去の記憶が語られている。</p><p>それら幼年期の記載を辿ると、石牟礼道子という存在が、最初から異界に棲んでいたと思わざるを得ない不思議な感触を得る。</p><p></p><div class="separator" style="clear: both; text-align: center;"><a href="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEj4T4iG3ur9lmyl9k9ZZOS9JDMIE3Hl1-7N458_1tha3Oxw15i11cDBpJsudYD7F-B3xq6D9rGXOqrXbIAB_FdrFbqjDE8jL9c7S4pKcOLo4bBkEPg9CSQ61AVGK4owI5S3a1rreKOxleEmg6SyMpb2gYviCdMTsQ1J_5PKhO6JHh3p2j6F7ArQfyHxy04/s574/%E9%AD%82%E3%81%AE%E7%A7%98%E5%A2%83%E3%81%8B%E3%82%89-001.jpeg" style="margin-left: 1em; margin-right: 1em;"><img border="0" data-original-height="574" data-original-width="370" height="320" src="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEj4T4iG3ur9lmyl9k9ZZOS9JDMIE3Hl1-7N458_1tha3Oxw15i11cDBpJsudYD7F-B3xq6D9rGXOqrXbIAB_FdrFbqjDE8jL9c7S4pKcOLo4bBkEPg9CSQ61AVGK4owI5S3a1rreKOxleEmg6SyMpb2gYviCdMTsQ1J_5PKhO6JHh3p2j6F7ArQfyHxy04/s320/%E9%AD%82%E3%81%AE%E7%A7%98%E5%A2%83%E3%81%8B%E3%82%89-001.jpeg" width="206" /></a></div><br />その感触は、近代を厳しく拒絶している。<p></p><p>「原初の渚」にはこうある。</p><p></p><blockquote>海が汚染されるということは、環境問題にとどまるものではない。それは太古からの命が連なるところ、数限りない生類と同化したご先祖さまの魂のよりどころが破壊されるということであり、わたしたちの魂が還りゆくところを失うということである。 </blockquote><blockquote>水俣病の患者さんたちはそのことを身をもって、言葉を尽くして訴えた。だが「言葉と文字とは、生命を売買する契約のためにある」と言わんばかりの近代企業とは、絶望的にすれ違ったのである。</blockquote><p>石牟礼道子が魂と書くとき、そこには深く透明な意味が宿る。決して軽々しい言葉ではない。</p><p>本書を読んでいて、あ、と思った箇所がある。</p><p></p><blockquote>花に酔ったのだろうか。「椿の花になりたい」と思った。それは幼いながら切実ともいえる思いで、畑仕事の手を休めた母にはどうしても伝えたい。けれど、そう願うばかり、そのころのわたしの内には、言葉というものがまだ生まれていなかったのである。言葉の出ない歯がゆさというものを覚えたのは、その時のことであったろうか。</blockquote><p></p><p>彼女の最初の記憶なのだろうか?</p><p>その中に言葉の出ない歯がゆさと言う語句を発見して、私ははっとする。</p><p>石牟礼道子は生涯、その歯がゆさと格闘していたのでは無いだろうか?それ故に彼女が魂と書くとき、その語には魂が宿るのでは無いだろうか?</p><p>決して器用な書き手では無かった。『苦海浄土』を書き終えた時には、片方の視覚と聴覚を失っていたと聞く。石牟礼道子はまさに、全身全霊を賭けて、身を削りながら、数多の作品をこの世に産み出して来たのだと思う。私たちはそれ故に、彼女の作品から、途方もない深みと高みを授かることが出来るのでは無いか?</p><p>石牟礼道子の遺作である本書を読んでいて、彼女が最後迄、水俣病の事に触れていた事に、私は静かな、けれど強い感動を覚えた。石牟礼道子は最後の最後まで水俣病の作家であり続けたのだ。揺るがない、確かな、気高さがそこにある。</p>IKEDA Yutakahttp://www.blogger.com/profile/07280449401867627527noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-2582316727444849117.post-31118629404737862122024-01-21T10:17:00.001+09:002024-01-21T10:17:47.848+09:00過去を復元する<p>地質学を専攻して来た。当然過去を復元する事には、強い興味がある。古生物を経由して、進化論にも強い関心を抱いて来た。</p><p>なので、名著の誉高きエリオット・ソーバーの『過去を復元する』が復刊されると聞いて、即座に購入した。</p><p>けれどどことなく敷居が高く感じられて、今迄手に取る事はなかった。図書館から借りている本が少なく、全て読了してしまったので、これはチャンスだと感じて、今回思い切って読み始めた。</p><p></p><div class="separator" style="clear: both; text-align: center;"><a href="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEi3_eQSjQ62mtS_5uGRt9LatODkbjBfVUGWRxd1Nqe5iUu5hSFWt1m3L77kkhaLz5-VSL4xNenV1ZwxY7_QKoqKuit_RT98o7FsdhZqkIPSK3L_ew2d58tckGWI3d0FxVwj0_47Ln_3pQp6TsIx1Q4UXZOCqssVz7Auiha-dV4GTacVuKnelklkbaTipao/s640/%E9%81%8E%E5%8E%BB%E3%82%92%E5%BE%A9%E5%85%83%E3%81%99%E3%82%8B-001.jpeg" imageanchor="1" style="margin-left: 1em; margin-right: 1em;"><img border="0" data-original-height="640" data-original-width="455" height="320" src="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEi3_eQSjQ62mtS_5uGRt9LatODkbjBfVUGWRxd1Nqe5iUu5hSFWt1m3L77kkhaLz5-VSL4xNenV1ZwxY7_QKoqKuit_RT98o7FsdhZqkIPSK3L_ew2d58tckGWI3d0FxVwj0_47Ln_3pQp6TsIx1Q4UXZOCqssVz7Auiha-dV4GTacVuKnelklkbaTipao/s320/%E9%81%8E%E5%8E%BB%E3%82%92%E5%BE%A9%E5%85%83%E3%81%99%E3%82%8B-001.jpeg" width="228" /></a></div><br />予想していた以上の数式の嵐だった。<p></p><p>だが、慣れとは恐ろしいもので、そのうちに数式の持つ意味が分かり始めると、展開する毎に変化してゆく意味合いのダイナミズムに、快感すら感じる様になった。</p><p>本書は系統学を、哲学の立場から切り込んでいる。</p><p>推論の原則として、最節約原理と呼ばれるものがある。</p><p>世にオッカムの剃刀として知られる原理で、仮説を設定する場合、その仮説は複雑なものより、単純なものの方が真理に近いとする原理だ。</p><p>プトレマイオスの天動説は、当時の観測精度の範囲では、ほぼ十分に現象を説明していた。だが、コペルニクスの地動説は、天体の運動を、より単純に表現する事が出来る。軍配はコペルニクスに上がる。</p><p>だが、この最節約原理、一体どの様な論理的基盤を持っているのだろうか?</p><p>エリオット・ソーバーはこの難問に、論理哲学の方法を駆使して、大胆に取り組んでいる。</p><p>その論理形態は緻密で、文の一行、数式のひとつでも読み飛ばすと、滑り落ちてしまいそうなスリリングな筆致を有しており、私は予想していた以上の、知的冒険に晒される事になった。</p><p>結論から言うと、オッカムの剃刀は、数学的な検証をしてみると、それ程万能な道具ではないようだ。</p><p>これは思い掛けない結論だった。</p><p>最節約原理は、経験からは十分に信頼出来、進化の分岐図を描く時など、私もいつものように使用して来た。だがホモプラシーが成立する様な場面では、最節約原理では、説明がつかない分岐図が採用される可能性があると言う。</p><p>本書はその事を言う為に、1冊を丸ごと費やしたと言っても過言では無い。</p><p>言葉を変えれば、エリオット・ソーバーは、最節約原理をポパーの反証理論や検証度理論に結び付けるのではなく、むしろ統計学で影響力を増しつつあるモデル選択論を踏まえた際節約基準の正当化を目指していると言う事になるのだろう。</p><p>翻訳は三中信宏さん。論者の名前や基本的概念が原語で示してあったり、注釈・訳註が巻末ではなく、そのページに示してあったり、丁寧で読み易い翻訳になっていた。</p><p>本書には、数式だけでなく、理論哲学の様々なパラドクスも紹介されている。それ等読み知る事だけでも、本書を読む価値がある。</p><p>巻末の訳者あとがきや、訳者解説が付けられているのも有り難かった。本書の全体像、20年前に発表されている本書の現代的価値などは、ここから教えられた。</p><p>進化論に興味を持つ人には、必読の書と言えると思う。</p>IKEDA Yutakahttp://www.blogger.com/profile/07280449401867627527noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-2582316727444849117.post-61627009074226542212024-01-16T11:37:00.001+09:002024-01-16T11:37:42.026+09:00四つの未来<p>始まったばかりだが、今年読んだ最もショッキングな本になる予感が強くある。</p><p>資本主義が限界を迎えつつある。それを指摘する本は数多ある。だが、それでは資本主義の次に来る社会は何か?と言う問いに十分な説得力を持って展望している本は少ない。</p><p>本書はその少ない本の中でも、最も説得力とリアリティを持った本のひとつに数えられるだろう。</p><p></p><div class="separator" style="clear: both; text-align: center;"><a href="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEiTl88r73XlMaZcONkz31mJ5Cp4xt4VRMIJnPLVlVXT78rf_NvlMRN5wf05d21Qa0Y3wVHM9lpTj1HunJzOwwwxc_cMQRYMNq5PbC3jMplVmsFlVQbCyKMGTNdLpl0A18ixwhjPUpWigIwJDmcfLSavC42nU4oBzo1qedkRv-nh4hN5iGI7wx3RS5TbGmw/s548/%E5%9B%9B%E3%81%A4%E3%81%AE%E6%9C%AA%E6%9D%A5-001.jpeg" imageanchor="1" style="margin-left: 1em; margin-right: 1em;"><img border="0" data-original-height="548" data-original-width="387" height="320" src="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEiTl88r73XlMaZcONkz31mJ5Cp4xt4VRMIJnPLVlVXT78rf_NvlMRN5wf05d21Qa0Y3wVHM9lpTj1HunJzOwwwxc_cMQRYMNq5PbC3jMplVmsFlVQbCyKMGTNdLpl0A18ixwhjPUpWigIwJDmcfLSavC42nU4oBzo1qedkRv-nh4hN5iGI7wx3RS5TbGmw/s320/%E5%9B%9B%E3%81%A4%E3%81%AE%E6%9C%AA%E6%9D%A5-001.jpeg" width="226" /></a></div><br />本書では、既に資本主義の限界を強く訴えない。それは既定の事として、認識されている様に思う。筆者が現代の問題として挙げるのは、エコロジカルな破局と自動機械(オートマトン)の隆盛と言う事実(!)だ。その上で筆者は資本主義後の社会として、コミュニズム、レンティズム、ソーシャリズム、エクスターミニズムの四類型を挙げている。つまり資本主義後の世界として、ふたつのユートピアとふたつのディストピアを想定しているのだ。<p></p><p>だが(筆者が「結論」で強調している様に)この著作は未来予測(フューチャーリズム)の試みではない。</p><p>何故ならば、そうした予言と言うものは、これまでに相当外れてきたし、それだけではなく、予言は、宿命のオーラを醸し出し、それによって私たちを傍観者にし、運命を受動的に甘受する様に促してしまうからだ。</p><p>本書がひとつの未来ではなく、四つの未来を描いた理由は、自動的に起きる事など何もないと言う事を示す為だと言う。前途を定めるのは、私たち自身なのだ。</p><p>本書を読めば、レンティズムとエクスターミニズムが悪の側、ソーシャリズムとコミュニズムが善の側の希望を表現していると考えるだろう。だが、これらのどれもが純粋な形態で可能であることはない。端的に、歴史はそうするには余りに複雑なものだからだ。そして、現実の社会は、いかなる理論的モデルのパラメーターを超えている。</p><p>それ故、私たちは最終的な目的地の正確な性格よりも、こうしたユートピアやディストピアに向かう過程に特に関心を寄せるべきなのだ。とりわけユートピアに向かう道のりは、必ずしもそれ自体がユートピアではないが故にそうなのだ。</p><p>豊かさと平等の世界への移行は、波乱と抗争に充ちたものになるだろう。富裕層が自らの特権を自発的に手放す事がない(その可能性の方が大きい)とすれば、実力で没収せねばならないのだが、そうした闘争は双方の側に、悲惨な結果をもたらす可能性がある。フリードリヒ・ニーチェが有名なアフォリズムに於いて述べたように「怪物と闘う者は、そのため己自身も怪物とならぬよう気をつけるが良い。お前が永い間深淵を覗き込んでいれば、深淵もまたお前を覗き込む」。</p><p>だが筆者が四類型を提出する中で、エクスターミニズム(絶滅主義と訳せば良いだろうか?)の記述が持つ、既に始まっているのではないか?とすら思わせる、切羽詰まるようなリアリティは何なのだろうか?</p><p>繰り返しになるが、本書は読者に対し、歴史の傍観者になる事を、強く拒否するよう促す。現在進行中の資本主義の崩壊を傍観しているのならば、その後に訪れるのは、エクスターミニズムのそれに他ならないのだ。</p><p>本書は未来を建設する上で、読者にその主体である事を強く促している。私はそのメッセージを、確かに受け取った。決して心地よくはない、本書の読後感と共に、その決意は強くある。</p>IKEDA Yutakahttp://www.blogger.com/profile/07280449401867627527noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-2582316727444849117.post-45973283450184148662024-01-12T20:36:00.005+09:002024-01-13T09:41:00.542+09:00ソース焼きそばの謎<p>ソース焼きそばは私の得意料理のひとつに数えられる。</p><p>と言うより、ソース焼きそばは誰にでも手軽に作ることが出来る軽食として存在しているのだろう。焼きそばと言えばやはりスタンダードはソースであり、決して塩や醤油ではない。</p><p>ところで、そのソース焼きそば。いつから存在しているのだろう?</p><p></p><div class="separator" style="clear: both; text-align: center;"><a href="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEjC0AtxK34liqswICB9ry4DsS6R1CFZKvBzO3DNTt40j6CKK7gv5UtjJkxcg_4qijsISEVG8nDGK128GxpQEdZNJTJVHddlz9JNDxdnZp1JOkEfBLPkhXfFTXZIdvAInvie-m8HFv_3KbCzYFZ6gG3nu9sY3-R6tQq1KCt3QdFFVFHrNch0H9YmD7_o9_k/s495/%E3%82%BD%E3%83%BC%E3%82%B9%E7%84%BC%E3%81%8D%E3%81%9D%E3%81%AF%E3%82%99%E3%81%AE%E8%AC%8E-001.jpeg" style="margin-left: 1em; margin-right: 1em;"><img border="0" data-original-height="495" data-original-width="306" height="320" src="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEjC0AtxK34liqswICB9ry4DsS6R1CFZKvBzO3DNTt40j6CKK7gv5UtjJkxcg_4qijsISEVG8nDGK128GxpQEdZNJTJVHddlz9JNDxdnZp1JOkEfBLPkhXfFTXZIdvAInvie-m8HFv_3KbCzYFZ6gG3nu9sY3-R6tQq1KCt3QdFFVFHrNch0H9YmD7_o9_k/s320/%E3%82%BD%E3%83%BC%E3%82%B9%E7%84%BC%E3%81%8D%E3%81%9D%E3%81%AF%E3%82%99%E3%81%AE%E8%AC%8E-001.jpeg" width="198" /></a></div><br />この本に出逢う迄、私はそんな事を意識すらせずに、当たり前に存在する料理として、ソース焼きそばを食して来た。<p></p><p>その謎に、敢然と立ち向かっているのがこの本である。</p><p>ソース焼きそばは大阪。それも戦後に誕生したという説をどこかで耳にした事がある。その説にも、本書は触れている。それによると、それは広く行き渡っている俗説であり、どうやら間違いであるらしい。</p><p>本書によると、ソース焼きそばの発祥を突き止めるのは、かなり困難な作業であった様だ。</p><p>筆者は、幅広い文献、詳細な聞き込みを軸として、時には大胆な仮説を交えて、この謎に挑んでいる。</p><p>それによると、焼きそばはお好み焼きの一種として、醤油ベースのソースを用いた、子ども相手の食べ物として誕生したらしい。それがやがて、安価なウスターソースを用いる様になり、現在のソース焼きそばに近づいていったものだと言う。</p><p>発祥については、決定的な文献は存在せず、聞き込みや状況証拠を積み重ねる事で、浅草の千束町にあるデンキヤホールと言う店で、大正初期から提供されていたらしいという結論に至る。</p><p>その結論に至る経過は、一流の推理小説を読む様なスリリングな筆致が冴える。</p><p>状況証拠として面白かったのは、日清製粉の前身である館林製粉が、群馬県館林市で明治33年に創業を開始するのだが、それが東武鉄道の開設とほぼ時を同じくしており、館林から浅草への小麦粉の運搬に大きく影響したと言う点だ。</p><p>ソース焼きそばに、小麦粉は欠かせない。その運搬の便が、浅草で整っていたと言う事実は、ソース焼きそば浅草発祥説に大きな傍証となる。</p><p>だが、ソース焼きそばが全国的に広まり、隆盛を誇る様になったのは、やはり戦後の事らしい。当初小麦粉は国産のうどん粉と、アメリカ産のメリケン粉に分かれており、メリケン粉は、輸入に頼るしか無かった。これが緩むのは、アメリカ産のメリケン粉に、関税が課される様になってからであり、特に戦後は、闇市を中心に、供給されていた様だ。</p><p>ソース焼きそば大阪起源説を否定する、ひとつの材料として、関西では、焼きそばの元になる中華麺がなかなか手に入らず、戦後も焼きそばではなく、焼きうどんが主流であったという事実がある。</p><p>本書によると、長野県は北海道と並んで、ソース焼きそばではなく、餡掛け焼きそばが主流な特殊な地方として挙げられている。あまり外食をしないので、詳しくは知らないが、以前住んでいた住宅の隣にあった中華料理店では、確かにソース焼きそばではなく、餡掛け焼きそばを提供していた。</p><p>筆者は、「<a href="https://yakitan.info/" target="_blank">焼きそば名店探訪録</a>」と言うブログを公開しており、そこに筆者自らが足で訪ね歩いた全国の焼きそば、焼きうどんの記録が残されている。</p><p>東日本大震災で、東北の主だった焼きそば店が無くなって行くのに気付いたのが、このブログを始める動機だったらしいが、焼いた粉物に賭けるその情熱の半端なさは、本書でもブログでも遺憾無く発揮されている。</p><p>本書を読み終えた日、昼食にソース焼きそばを食べた。それはいつもの味の普通のソース焼きそばの筈だったのだが、本書で様々な知識を得て、それを元に味わうと、ソース焼きそばが経験してきた100年の歴史が、我が家にたどり着いたような気になり、格別の味わいを持っているような気がした。</p><p>面白い本だった。</p>IKEDA Yutakahttp://www.blogger.com/profile/07280449401867627527noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-2582316727444849117.post-42373328024752166552024-01-09T11:36:00.001+09:002024-01-09T12:47:28.562+09:00私たちはいつから「孤独」になったのか<p>孤独には強い方だ。そう思って生きて来た。</p><p>学生時代は、独りで安下宿に沈殿し、地質学の勉強や、楽器の練習に勤しんでいた。それらは、安易な友人関係に流されるより、孤独を飼い慣らし、むしろ愛していなければ、到底実現出来ない、自己鍛錬だった。</p><p>今でもやりたい事は幾つも抱えている。私には孤独な時間が何よりも大切なものだと確信すらしていた。</p><p>そんな私がこの本に手を出したのは、この本の原題が “A Biography of Loneliness”直訳すれば「孤独の来歴」と記されていたからだ。</p><p></p><div class="separator" style="clear: both; text-align: center;"><a href="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEjE_cyl21jWKwshu6YH2DN5aUuBId80xkiM8FdVkSZI8NlWHIekowlU3ncuQBmhp1Yu4xeNn2IkKJPhyg2cvWc_-8TONVuWSqJ5u4fIKAHikWYjE9-F4qaxFW7FWbj_9zpIyoeKSyN6IAWmeSdcGFxMr2Rvx1Qc4DqLTDx8LGfIMIjo0bDUKHXcLN6u4RA/s573/%E7%A7%81%E3%81%9F%E3%81%A1%E3%81%AF%E3%81%84%E3%81%A4%E3%81%8B%E3%82%89%E3%80%8C%E5%AD%A4%E7%8B%AC%E3%80%8D%E3%81%AB%E3%81%AA%E3%81%A3%E3%81%9F%E3%81%AE%E3%81%8B-001.jpeg" style="margin-left: 1em; margin-right: 1em;"><img border="0" data-original-height="573" data-original-width="401" height="320" src="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEjE_cyl21jWKwshu6YH2DN5aUuBId80xkiM8FdVkSZI8NlWHIekowlU3ncuQBmhp1Yu4xeNn2IkKJPhyg2cvWc_-8TONVuWSqJ5u4fIKAHikWYjE9-F4qaxFW7FWbj_9zpIyoeKSyN6IAWmeSdcGFxMr2Rvx1Qc4DqLTDx8LGfIMIjo0bDUKHXcLN6u4RA/s320/%E7%A7%81%E3%81%9F%E3%81%A1%E3%81%AF%E3%81%84%E3%81%A4%E3%81%8B%E3%82%89%E3%80%8C%E5%AD%A4%E7%8B%AC%E3%80%8D%E3%81%AB%E3%81%AA%E3%81%A3%E3%81%9F%E3%81%AE%E3%81%8B-001.jpeg" width="224" /></a></div><br />孤独について語る本を、孤独を愛する私が読んだらどんな感想を持つのだろうか?そこに興味があった。<p></p><p>日本語で孤独と訳し得る英語は幾つかある。</p><p>ひとつはこの本で主に採り上げるloneliness。他にはoneliness, solitude, isolationなどが挙げられるだろう。</p><p>それではlonelinessとsolitudeはどう違うのか?</p><p>改めて考えると即答は困難だ。</p><p>この本でもlonelinessを孤独、solitudeをソリチュードと訳している。</p><p>本人が望まない、主観的に欠落感や喪失感を伴うものをlonelinessと定義しているようだ。</p><p>そう考えると、私が飼い慣らし、愛して来た孤独なるものはlonelinessではないようだ。むしろただひとりでいることを意味するonelinessの方がしっくり来る。もしくは正しい意味でのsolitudeか?</p><p>私が孤独に対して、超然としていられたのも、私が孤独つまりlonelinessを経験した事が無かったからだとも言えるのではないか?</p><p>Lonelinessという言葉の歴史は、この本によるとかなり浅い。それが前景化されるのは、少なくとも19世紀を待たなければならない。</p><p>そしてその概念はジェンダーやエスニシティ、年齢、社会的経済的地位、環境、宗教、科学などによって異なる経験であるとされる。</p><p>私は今、妻帯者であるが自分の子どもはいない。もし仮に、女房殿に先立たれたら、私は即孤独な状態に陥るだろう。</p><p>もはや音楽や地質学は、私の人間関係を保つものではなくなっている。私はそれでも孤独に対して、超然としていられるのだろうか?私が愛した孤独solitudeについても、この本は1章を費やして、論じている。孤独が贈り物(ギフト)である場合もあるが、それは、その孤独が自分から望んだものであり、一時的なものであるからだと記している。</p><p>安下宿に沈殿して没頭していた地質学や音楽は、やがてそれを用いて、人間関係を形成する事が可能な営みだった。そこには欠落感や喪失感はなく、むしろ充実感があった。私が愛して来たのは決してlonelinessでは無かったのだ。</p><p>孤独の解消の手段として、ソーシャルメディアがより大きな役割を果たすだろうという指摘は当たっていると思う。</p><p>2018年一月、イギリスのメイ政権は、孤独担当大臣まで設置した。</p><p>孤独(loneliness)という病理はもはや、社会問題として認識された、一大課題にまでなっているのだ。</p>IKEDA Yutakahttp://www.blogger.com/profile/07280449401867627527noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-2582316727444849117.post-24519626312554682402023-12-31T13:37:00.003+09:002024-01-01T19:40:40.984+09:00第一部『苦海浄土』<p>本を読む速度は遅い。だが、この作品は、意図的に、更に遅く、ゆっくりとしたペースを保って読んだ。</p><p></p><div class="separator" style="clear: both; text-align: center;"><a href="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEiJgkPa9peOUivFVKSBiC4zPJYs-RnE2IKP7PpdJ7fP2gIsKbSDorUWTvHdDbOTab35J82LfV3quDc2ZkHvguGapHRYN7rrsJ5Pt95HLtmRjckb_kZi87oSU16q73gYDjzw51JgAJGyrAHWnz2ll6fkx9YhqzLU0nHo9aEvAxANygjvotpT6jO3aHVaEm8/s636/%E7%9F%B3%E7%89%9F%E7%A4%BC%E9%81%93%E5%AD%90%E5%85%A8%E9%9B%86%E4%B8%8D%E7%9F%A5%E7%81%AB%E7%AC%AC%E4%BA%8C%E5%B7%BB-001.jpeg" style="margin-left: 1em; margin-right: 1em;"><img border="0" data-original-height="636" data-original-width="471" height="320" src="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEiJgkPa9peOUivFVKSBiC4zPJYs-RnE2IKP7PpdJ7fP2gIsKbSDorUWTvHdDbOTab35J82LfV3quDc2ZkHvguGapHRYN7rrsJ5Pt95HLtmRjckb_kZi87oSU16q73gYDjzw51JgAJGyrAHWnz2ll6fkx9YhqzLU0nHo9aEvAxANygjvotpT6jO3aHVaEm8/s320/%E7%9F%B3%E7%89%9F%E7%A4%BC%E9%81%93%E5%AD%90%E5%85%A8%E9%9B%86%E4%B8%8D%E7%9F%A5%E7%81%AB%E7%AC%AC%E4%BA%8C%E5%B7%BB-001.jpeg" width="237" /></a></div><br />全集で読んでいる。石牟礼道子全集不知火では、この作品は、第二巻の第一部を構成する。今は第二部の『神々の村』を読んでいる。<p></p><p>通読してみると、『苦海浄土』は第一部『苦海浄土』、第二部『神々の村』、第三部『天の魚』の三部作であり、これらはどの作品も有機的に結びついており、一体化されている事が分かる。</p><p>なので『苦海浄土』という作品についての感想は、第三部『天の魚』を読んだ後になってから、ブログにアップしたいと思っている。</p><p>この文章は『苦海浄土』と言う、類まれな作品を読み続けている途中経過の報告という意味合いになる。</p><p>第一部『苦海浄土』を読むのは、これで三度目になる。最初に読んだのは、この作品が発表された直後の事ではなかっただろうか?</p><p>強い衝撃を受けた。</p><p>その強い衝撃は、今回、既に無い。告発だった水俣病の実態は、既知の事実となった。</p><p>その代わり、この作品の持つ、文章の美しさに驚いた。特に方言が美しい。</p><p>地質調査で天草は訪れた事がある。なので方言の持つ、イントネーションは何となく分かる。これは、とても幸運な事だと感じた。</p><p>そして、この作品が、水俣病の告発の書というだけではなく、水俣病を通して見通された、深い、魂の記録である事が、十分に感じられた。</p><p>水俣病は『苦海浄土』によって、その意味合いが途方もなく、深い物に掘り下げられたのだ。</p><p>石牟礼道子は、本書のあとがきで「白状すればこの作品は、誰よりも自分自身に語り聞かせる、浄瑠璃のごときもの」と告白している。</p><p>本書は正確な意味での水俣病の「記録」ではない。石牟礼道子による創作が、ふんだんに散りばめられている。だが、その事は、本書の持つ価値を、少しも引き下げるものではないと私は考える。石牟礼道子の創作が散りばめられる事で、水俣病の実情が、底引網の様に過不足なく、世の中に報告されたのだ。</p><p>『苦海浄土』三部作を、全集で、通読するのは、今回が初めての事となる。読み終わって、私が、どの様な感想を持つのか、今から楽しみだ。</p>IKEDA Yutakahttp://www.blogger.com/profile/07280449401867627527noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-2582316727444849117.post-53965748200869836852023-12-26T15:15:00.000+09:002023-12-26T15:15:33.742+09:00石牟礼道子と〈古典〉の水脈<p>これは石牟礼道子の本ではない。石牟礼道子についての本である。</p><p>なぜこのような言わずもがなの事を書くかと言うと、この本を読んでいて、私は溜まらず何度も本を閉じてしまったからだ。</p><p></p><div class="separator" style="clear: both; text-align: center;"><a href="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEiVGLApMzkcbESywMUyjhzv71Rl5L__WV9Xn3dLA57irYpmiSlPlyyXraWQa_KUztF22-8ekDeXnNRq-8HeZOiJBmpS6OoXyidZ1Lb7Qxuk2A0LPfpe5ANHDf3rqwx_NVTqXn5kZBGG2nbMM_JX3lg9efmaityyGwjRfj9V-w1zH4r1Goqjjvk-ddKeiMM/s618/%E7%9F%B3%E7%89%9F%E7%A4%BC%E9%81%93%E5%AD%90%E3%81%A8%E3%80%88%E5%8F%A4%E5%85%B8%E3%80%89%E3%81%AE%E6%B0%B4%E8%84%88-001.jpeg" imageanchor="1" style="margin-left: 1em; margin-right: 1em;"><img border="0" data-original-height="618" data-original-width="441" height="320" src="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEiVGLApMzkcbESywMUyjhzv71Rl5L__WV9Xn3dLA57irYpmiSlPlyyXraWQa_KUztF22-8ekDeXnNRq-8HeZOiJBmpS6OoXyidZ1Lb7Qxuk2A0LPfpe5ANHDf3rqwx_NVTqXn5kZBGG2nbMM_JX3lg9efmaityyGwjRfj9V-w1zH4r1Goqjjvk-ddKeiMM/s320/%E7%9F%B3%E7%89%9F%E7%A4%BC%E9%81%93%E5%AD%90%E3%81%A8%E3%80%88%E5%8F%A4%E5%85%B8%E3%80%89%E3%81%AE%E6%B0%B4%E8%84%88-001.jpeg" width="228" /></a></div><br />論考が杜撰なのではない。むしろ逆で、どの論考も石牟礼道子に対する愛情が溢れていて、しかも深く鋭い掘り下げがなされており、見事な論集になっている。<p></p><p>なぜ私が本を何度も閉じてしまったかというと、それらの論考に刺激され、石牟礼道子自身の本に向かって行きたいという衝動に駆られたからだ。</p><p>本書の論考は石牟礼道子の作品に「浄瑠璃や説経節、近代以前にしたためられた地誌、紀行文など広い意味で〈古典〉と呼ぶことのできるジャンルやテクストからの影響や引用が認められること、またそうした箇所が彼女の文学や思想を読み解くうえで重要な手がかりになりうること」という問題意識を共通項として持つ事を特徴としている。</p><p>これは、石牟礼道子の作品を深く読み込んでいる事。そして〈古典〉に通暁している事の2点を同時にクリアしていないと、手掛ける事が出来ない論集である。</p><p>本書を読んでいて、あの箇所はそうだったのか!と強い衝撃を持って、再認識させられる事が何度もあった。</p><p>その意味で、本書は石牟礼道子再発見の為の本であると言って構わないと思う。</p><p>同時に、当然の事ながら、私の石牟礼道子読解の底の浅さを、痛烈に指摘されたような気分に陥った。</p><p>石牟礼道子は、私にとっても、常にどこかしら気になる、特別な存在だった。そして、彼女の作品に触れる度に、自分が未知の高みに引き上げられるような、感覚を持たされた。</p><p>にもかかわらず、私は極浅い読みでしか、石牟礼道子を読むことしか出来ていなかったのだ。これは、私の読書体験に、根本的な変革をもたらす、一大事件だった。</p><p>石牟礼道子自身の本に飛びつきたい衝動を抑えて、私はなんとか本書を最後まで読み通すことが出来た。これによって、私は石牟礼道子を読む、新たな視座が与えられたと考えている。</p><p>この機会を逃すのは勿体なさすぎる。全17巻の石牟礼道子全集を、最初は『苦海浄土』から始めて、読破したいという欲求に、私は今強く突き動かされている。</p><p>月に1巻ずつ読み進めて行っても、全巻読破には2年近くの時間が必要だ。その間、他の本には、残念ながら縁遠くなってしまうだろう。その意味で、この計画は一種の賭けである。その賭けの結果がどうなるか?それは(何でもそうだが)やってみなければ分からない。</p>IKEDA Yutakahttp://www.blogger.com/profile/07280449401867627527noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-2582316727444849117.post-12708856299714104422023-11-11T09:15:00.003+09:002023-11-11T09:32:30.098+09:00〈悪の凡庸さ〉を問い直す<p>本書の前提になっている2冊の本がある。</p><p>1冊は言わずと知れたハンナ・アーレントの問題作『エルサレムのアイヒマン─悪の陳腐さについての報告』であり、もう1冊はそれに異を唱える形で出版されたベッティーナ・シュタングネトの『エルサレム〈以前〉のアイヒマン』である。</p><p>私はたまたまこの2冊を読んだ事がある。なので本書を読み進めるに当たって、何ら抵抗を感じる事なく、過ごす事が出来た。</p><p>これは幸運な事だった。</p><p>だが、読み終えて、この2冊を例え読んでいなくても、本書を読み進めるには、さほど問題は無いのでは無いかという結論に至った。</p><p>本書には、それだけ丁寧な引用と注釈が施されている。</p><p></p><div class="separator" style="clear: both; text-align: center;"><a href="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEg76e5VSeZYaCUUzce1onFhitNh-NVp1MsaTh2JvNF2ab9E0S7jjox-x87zeflyJlwujMahyaot44-oLsdrTntZoc9Id9wmjfWK0BV5Re_7F1zNu6tAEBn-Op8WhvEGrXsAiFwGsmtJ7D8p2t7jCwfyf2hPD7krdzm73buxhWrmWqdhnN4Hs2M6gutIwHc/s576/%E3%80%88%E6%82%AA%E3%81%AE%E5%87%A1%E5%BA%B8%E3%81%95%E3%80%89%E3%82%92%E5%95%8F%E3%81%84%E7%9B%B4%E3%81%99-001.jpeg" style="margin-left: 1em; margin-right: 1em;"><img border="0" data-original-height="576" data-original-width="405" height="320" src="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEg76e5VSeZYaCUUzce1onFhitNh-NVp1MsaTh2JvNF2ab9E0S7jjox-x87zeflyJlwujMahyaot44-oLsdrTntZoc9Id9wmjfWK0BV5Re_7F1zNu6tAEBn-Op8WhvEGrXsAiFwGsmtJ7D8p2t7jCwfyf2hPD7krdzm73buxhWrmWqdhnN4Hs2M6gutIwHc/s320/%E3%80%88%E6%82%AA%E3%81%AE%E5%87%A1%E5%BA%B8%E3%81%95%E3%80%89%E3%82%92%E5%95%8F%E3%81%84%E7%9B%B4%E3%81%99-001.jpeg" width="225" /></a></div><br />『エルサレムのアイヒマン』が発表されてから、もう60年が経つ。この間この著作は、様々な場面で引用され、悪の陳腐さ─現代では悪の凡庸さ─の概念も、頻繁に人口に膾炙して来た。その間に〈悪の凡庸さ〉の凡庸化(矢野久美子)と呼びうる現象も起きて来た。また哲学の面で、歴史の面で、研究も大きく進み、従来の意味合いでの〈悪の凡庸さ〉概念は、その有効性を含め、洗い直しが必要ではないか?そうした問題意識が芽生えて来た。<p></p><p>本書は、その問題意識を明確化する為に書かれたものと言って良いだろう。</p><p>本書は2部に分けられる構成を持っている。</p><p>第1部には〈悪の凡庸さ〉をどう見るかについて、各研究者の論考が置かれている。いずれの論考も、〈悪の凡庸さ〉の概念を丹念に検証しており、読み応えがある。</p><p>第2部では1〈悪の凡庸さ〉/アーレントの理解をめぐって。2アイヒマンの主体性をどう見るか。3社会に蔓延する〈悪の凡庸さ〉の誤用とどう向き合うか。の3つのテーマを設定し、思想研究者と歴史研究者の間での座談会が組まれている。</p><p>読んでいて感じたのは、ハンナ・アーレントによって「発見」された〈悪の凡庸さ〉概念は、言わば地上の望遠鏡によって発見された惑星であり、本書によってアップデートされた〈悪の凡庸さ〉概念は、ハッブル宇宙望遠鏡によって、鮮明化された像であろうという感覚だ。解像度が上がり、ピントもしっかりあって来たのだ。</p><p>論考は〈悪の凡庸さ〉概念は無効なのではないか?という地平まで視野を広げたものだったが、座談会を通して、確認されたのは、〈悪の凡庸さ〉概念は、未だ古びておらず、未来に渡って生き続けるだろうという点を再確認するに至っていると思う。</p><p>この結論に、私は全面的に賛同する。</p><p>これはシュタングネト<a href="https://durchschreiten.blogspot.com/2021/09/blog-post_28.html" target="_blank">『エルサレム〈以前〉のアイヒマン』を読んだ時</a>にも感じた事で、この本は決してアーレントの〈悪の凡庸さ〉概念を否定する為に書かれたものではないという感想を持ったのだ。</p><p>確かに俗流の〈悪の凡庸さ〉概念の中には、不適切と言わざるを得ないものも出始めている。それには、全力で注意せねばならない。だがハンナ・アーレントの著作を丁寧に読み解き、その意図を注意深く受け取るならば、〈悪の凡庸さ〉概念がもたらすものは、未だに豊富に存在しているだろう。</p><p>本書の末尾には、参考になる書籍などが豊富に挙げられている。それらを含んで、〈悪の凡庸さ〉概念についての思考を深めて行くには、本書はタイムリーな出版だったと感じている。</p><p>本書は出るべくして出た、貴重な論集である。</p>IKEDA Yutakahttp://www.blogger.com/profile/07280449401867627527noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-2582316727444849117.post-54214963684047034892023-11-08T13:21:00.001+09:002023-11-08T13:29:48.197+09:00セミコロン<p>その存在は勿論知っていた。だが英語に初めて触れてから50年になるが、今迄英作文で、一度たりとも使った事は無い。それが私にとってのセミコロンだった。</p><p>本書の訳註にある通り、セミコロンはコンマより重く、ピリオドより軽い区切りの事だ。だが有り体に言って、その使い方は全く分かっていなかった。文章を書く時もそうだが、読む場合に、どの様な差を付けたら良いのか、それさえも分かっていなかった。</p><p></p><div class="separator" style="clear: both; text-align: center;"><a href="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEjwSAkBShtWwfu-0f3BDzG2jMO-NkciUJQYJLy569txJH_k1DeKJhoIdouteTCBeF1tpBM3uX6HMuGR8Nb7MtphbHIJnYfDnySZMqClyvPVRkommeN2QWJI4SjCVowmn1XUXhUWno7K-blWtVDWp6SN5xNR-JF88C_cGJsBed58ceqD2aAjDsqmRXPK-0I/s551/%E3%82%BB%E3%83%9F%E3%82%B3%E3%83%AD%E3%83%B3-001.jpeg" style="margin-left: 1em; margin-right: 1em;"><img border="0" data-original-height="551" data-original-width="345" height="320" src="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEjwSAkBShtWwfu-0f3BDzG2jMO-NkciUJQYJLy569txJH_k1DeKJhoIdouteTCBeF1tpBM3uX6HMuGR8Nb7MtphbHIJnYfDnySZMqClyvPVRkommeN2QWJI4SjCVowmn1XUXhUWno7K-blWtVDWp6SN5xNR-JF88C_cGJsBed58ceqD2aAjDsqmRXPK-0I/s320/%E3%82%BB%E3%83%9F%E3%82%B3%E3%83%AD%E3%83%B3-001.jpeg" width="200" /></a></div><br />本書の題名は『セミコロン─かくも控えめであまりにもやっかいな句読点』となっている。原題は”SEMICOLON : How a Misunderstood Punctuation Mark Can Improve Your Writing, Enrich Your Reading and Even Change Your Life”だ。『セミコロン:誤解を受けている句読点が書き方を洗練させ、読み方を充実させ、さらには生き方まで変えてくれる訳』となるのだろうか?<p></p><p>これは大ごとだ。生き方まで変えるのだ。心して読まねばなるまい。</p><p>本書は大きく分けて、4つのパートで構成されている。</p><p>1つ目はセミコロンの数奇な歴史を辿るパート。</p><p>セミコロンの発明・受容の経緯から、文法書(文法・語法だけでなく、約物の使用法など、表記に関するルールも掲載した書籍)の成立まで。文法家の悪戦苦闘を楽しく眺めているうちに、ひとつの重要な事実が浮かび上がって来る。カッチリとした決まりを人為的に定めても、実際の使われ方は実に多様で、規則の縛りを自由自在にすり抜けて行くのだ。このせめぎ合いは本書全体を通して、繰り返し浮上して来る。</p><p>4・5章で扱われる「規則」は、句読点の使い方を定めたルールではなく、句読点を用いて書かれた「法律」が俎上に上げられる。</p><p>アメリカでもイギリスでも、ある時期を境に条文内の句読点の解釈をめぐって、訴訟が立て続けに勃発する。何と、人の命が左右される事態と相なるのだ。その結末やいかに?</p><p>実は、法の条文というものは、自動的・機械的に解釈が一つに決まるものではなく、いつ、誰がどのような意図で書いたものか、それを慎重に見極める必要がある。;を使っていたものが:に変えられただけで、その意味が大きく変わる。その醍醐味は、本書最大の見せ場のひとつだ。</p><p>7章では、打って変わって、英語の盟主がセミコロンを巧みに活用した文章を鑑賞し、その効果が生じる仕組みを考察する。よもやレベッカ・ソルニットの原文を読む事になろうとは、夢にも思わなかった(けれど楽しかった)。</p><p>そして最後は、倫理的なコミュニケーションへと読者を誘うパートだ。これこそ本書の中心的なメッセージであり、ここまでの話題は全て布石だったとも言える。</p><p>本書を最後迄通読すると、セミコロンという句読点が、いかに微妙で深い意味合いを帯びているかを理解する事が出来る。</p><p>そして、私もセミコロンを使ってみたいというイケナイ誘惑に心が囚われるのを感じている。</p><p>先に示した様に、本書ではかなりの寮の英語原文を読まされる。これは許される事なら是非、声に出して、音読してみる事をお勧めする。そうすることで、セミコロンの効果が、よりリアルに感じられるだろう。</p><p>それにしても、この様な本をよくぞ訳して下さったものだ。さぞや苦労した事だろう。</p><p>本書の最後には、丁寧な訳者解説が付せられている。これは本書を見事に要約した、優れた解説になっている。この訳者解説を読むのが、本書を通読した者だけに限られるのは、実に勿体ないので、本稿に引用させて頂いた。</p>IKEDA Yutakahttp://www.blogger.com/profile/07280449401867627527noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-2582316727444849117.post-7299009176226089602023-10-28T11:33:00.001+09:002023-10-28T11:33:53.474+09:00男同士の絆<p>長い間積読状態にあった本をようやく読んだ。</p><p>クラスの男女比がほぼ1:1だったのは中学まで。高校は女子を受け入れ始めたばかりで、クラスに3人。大学・大学院は理系を選んだので更に女子は少なくなった。まさに男塊の中で過ごしていた私にとってホモソーシャルという概念は、必要にして欠くべからざるものだった。だが、興味を強く持っていても、イギリス文学にそれほど精通している訳でもなく、どことなく難しそうな佇まいに、今迄手をこまねいていた。</p><p></p><div class="separator" style="clear: both; text-align: center;"><a href="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEgnoeneD_J4X0pDlHqZdlGMUE9KwbSY-7Nyu_95GYI7j0RbyGiJ_Jj1MjiSdZPGbttFkmxKpDTv5ADjLxxu8msx8rQltQEVlISxdGKoMUfa3vlQq9O15BUQ-5AVqx1DlDFbyPOlJEyKpHpVW0hm7e-mxkz8A0lZWW_SVlm_uqc-Np4NeB-wcLAeMWgvMIQ/s636/%E7%94%B7%E5%90%8C%E5%A3%AB%E3%81%AE%E7%B5%86-001.jpeg" imageanchor="1" style="margin-left: 1em; margin-right: 1em;"><img border="0" data-original-height="636" data-original-width="464" height="320" src="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEgnoeneD_J4X0pDlHqZdlGMUE9KwbSY-7Nyu_95GYI7j0RbyGiJ_Jj1MjiSdZPGbttFkmxKpDTv5ADjLxxu8msx8rQltQEVlISxdGKoMUfa3vlQq9O15BUQ-5AVqx1DlDFbyPOlJEyKpHpVW0hm7e-mxkz8A0lZWW_SVlm_uqc-Np4NeB-wcLAeMWgvMIQ/s320/%E7%94%B7%E5%90%8C%E5%A3%AB%E3%81%AE%E7%B5%86-001.jpeg" width="233" /></a></div><br />著者イヴ・K・セジウィックの『男同士の絆─イギリス文学とホモソーシャルな欲望』は、シェイクスピアからディケンズに至るイギリス文学の古典を題材に、「ホモソーシャル」概念を、私たちにとって使用可能にしてくれる、画期的な著作だ。<p></p><p>著者はこの著作の前に『クローゼットの認識論』という著作を発表しており、本作は、その続編という位置付けで良いと思う。</p><p>緻密な議論である。</p><p>ホモソーシャル概念は、検索したり伝え聞いていた範囲で理解していたものでほぼフォローできていた。その概念が、イギリス古典文学の中で、どの様に具体的に展開されているかを、微に入り細に入り論証して行く。</p><p>ホモソーシャルは同性間の人間関係の事を言い、本書では特に男性同士の連帯と絆に着目し、類似の概念とも誤解されるホモセクシャルとも異なり、女性のパートナーのいる異性愛者の男性間の絆を指す。</p><p>しかし、セジウィックの力点はそこを超え、女性をパートナーとする男性のホモソーシャル関係が、実は男性間の絆を引き裂きかねない女性を嫌悪し、排除することで成立し、政治的欲望に貫かれている事を指摘するに至っている。本書は男性優位体制批判の本でもある。</p><p>と、同時に濃密な男性間の友情関係は時として男性同性愛関係と混同されかねない。そこで男性同性愛者は、このホモソーシャル・クラブからは排除される。「ホモソーシャル連続体」はかくして女性嫌悪(ミソジニー)と男性同性愛嫌悪(ホモフォビア)によって支えられる事になる。女性のパートナーを持つ異性愛の男性たちは、女性を恐れ、女性交換によって男性秩序を維持しているのであり、しかもそれは同性愛嫌悪と連動しているのである。</p><p>この洞察は、男性中心社会の強制的異性愛体制のからくりを暴き、また女性差別批評(フェミニズム)と同性愛差別批評(ゲイ批評)の合体として、新たな批評(クイア批評)を用意した点で画期的だ。</p><p>本書の衝撃は、副題に言う「ホモソーシャルな欲望」にある。つまり「ホモセクシャル」とは一線を画した、非エロスの大勢であるはずの「ホモソーシャル」関係の中に、著者は「欲望」を発見する。友情が同性愛と区別出来ない可能性を見るのだ。</p><p>エロスとしての同性間の友情。これについては、同性愛ではない男女でも容認するだろう。また一方で、友情の純粋さや精神性を汚すものとして、エロス+友情関係に「パニクってしまう」者も多い。</p><p>著者の言う「ホモセクシャル・パニック」は自己の同性愛的要素を認知した衝撃から、同性愛差別と抑圧が生まれる過程を見事に記述している。</p>IKEDA Yutakahttp://www.blogger.com/profile/07280449401867627527noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-2582316727444849117.post-29372237145109615612023-09-22T08:34:00.002+09:002023-09-22T20:05:10.164+09:00敗北を抱きしめて<p>必読の書と言えるだろう。</p><p>言わずと知れたジョン・ダワーの第二次世界大戦後の日本を描いた歴史書である。以前この本は持っていたのだが、引っ越しに伴い売却してしまって、今回改めて図書館で借り、紐解いてみた。増補版とあるが、文章に取り立てて変更はなく、画像類の差し替えがある程度のものらしい。</p><p></p><div class="separator" style="clear: both; text-align: center;"><a href="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEgGmEBh_43ee2sd_8yXCMRLaul5mlD9txgyINfKQGCeBsrdY5qJHHIediShlQtOXya9xIoTaJxlL2hslJyztHuRqKp35yOkpxeRWDKtq-RtajkvXWWbyYYC4jbDDQ5OIW8-nULT1r5k-QtYNeooXhDxWdCYfkD_3dGs0g-7Y5c2715fi6uqDMivW2MoPFQ/s633/%E6%95%97%E5%8C%97%E3%82%92%E6%8A%B1%E3%81%8D%E3%81%97%E3%82%81%E3%81%A6-001.jpeg" style="margin-left: 1em; margin-right: 1em;"><img border="0" data-original-height="633" data-original-width="458" height="320" src="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEgGmEBh_43ee2sd_8yXCMRLaul5mlD9txgyINfKQGCeBsrdY5qJHHIediShlQtOXya9xIoTaJxlL2hslJyztHuRqKp35yOkpxeRWDKtq-RtajkvXWWbyYYC4jbDDQ5OIW8-nULT1r5k-QtYNeooXhDxWdCYfkD_3dGs0g-7Y5c2715fi6uqDMivW2MoPFQ/s320/%E6%95%97%E5%8C%97%E3%82%92%E6%8A%B1%E3%81%8D%E3%81%97%E3%82%81%E3%81%A6-001.jpeg" width="232" /></a></div><br />読んでみて強く感じたのは、私と言う人間が、まごう事ない戦後の子だという事実だ。思想・信条、そしてちょっとした趣味・嗜好に至る迄、戦後という文脈の下に照らし出して読み解かねば、十分な解釈は不可能だという事を思い知った。<p></p><p>私は時の政府が「もはや戦後ではない」と宣言した、丁度その年に生まれている。その様に宣言しなければならない程、日本はまだ戦後の真っ只中に居たという事なのだろう。それもその筈だ。その年は敗戦からまだ10年と経っていない。</p><p>従って、ジョン・ダワーのこの著作を、まさに私の事が書かれているという思いで、丹念にページを繰った。</p><p></p><div class="separator" style="clear: both; text-align: center;"><a href="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEh7sor83kayMMTU7lwWY8G6vjl7-QYHmu7pVetJNCnK-Sg2EvUOP0AGrmT9rCuaHs4oDVjtD5vuEylgMjAx8j6drG6k5Nd6kDUROWjC3fWArck4aMiayWgFWzZKbAHIoRiEXmGr_D3ThVy47Z3yJt6zp2ECCR5bQ15HJ1TGqOhlT9RD4XEZzRSEPw4I5Xs/s3648/%E6%95%97%E5%8C%97%E3%82%92%E6%8A%B1%E3%81%8D%E3%81%97%E3%82%81%E3%81%A6-002.jpg" style="margin-left: 1em; margin-right: 1em;"><img border="0" data-original-height="3648" data-original-width="2736" height="320" src="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEh7sor83kayMMTU7lwWY8G6vjl7-QYHmu7pVetJNCnK-Sg2EvUOP0AGrmT9rCuaHs4oDVjtD5vuEylgMjAx8j6drG6k5Nd6kDUROWjC3fWArck4aMiayWgFWzZKbAHIoRiEXmGr_D3ThVy47Z3yJt6zp2ECCR5bQ15HJ1TGqOhlT9RD4XEZzRSEPw4I5Xs/s320/%E6%95%97%E5%8C%97%E3%82%92%E6%8A%B1%E3%81%8D%E3%81%97%E3%82%81%E3%81%A6-002.jpg" width="240" /></a></div><br />よく調べられ、そして丁寧に練り込まれたジョン・ダワーの文章は、戦後の日米関係を中心に展開される。そして、添えられた画像もまた、戦後の日米関係を如実に照らし出す。<p></p><p>例えば有名な裕仁とマッカーサーが並んだ写真は、それが誰が勝者かを、端的に表す写真としてだけでなく、マッカーサーが裕仁と伴にある事を意味するものだと解釈される。</p><p>事実、マッカーサーが天皇を生かしたまま政治的に利用する方針を立てたのは、終戦後ごく早い時期だったらしい。</p><p>この方針によって日本は、戦争の最高責任者に責任を取らせないという、摩訶不思議なやり方で、戦後が始まったのだが、その影響は今も確実に響いている。</p><p>日本は第二次世界大戦後、アメリカに占領され、敗戦国として歩み始めた訳だが、それ故に、極めて幸福な占領時代を経験したと言って良いだろう。そしてその政策の下に幸福な民主主義社会の到来を夢見たのだ。</p><p>だが戦後世界は束の間の協力関係をすぐ終え、資本主義vs共産主義の対立関係が支配する情勢へと変化する。占領されていた日本は、その影響を少しは受けたが、直接巻き込まれる事なく、アメリカとの蜜月時代を過ごした。</p><p>まさに敗北を抱きしめて戦後をやり過ごしたのだ。</p><p>その中で幾つかの革命を抱きしめようとした者もあった。それは戦後の「上からの革命」の文脈の延長上に当然のように夢見られたものだったが、それを許すほど世界情勢は単純ではなかった。</p><p>現にその世界情勢に巻き込まれる形で、隣国ではいまだに南北に分断された形でしか、存在できていない。</p><p>現在世界情勢はまた、きな臭さを帯始め、その中で日本は敗戦を経験せずに凋落を迎えている。そうした時期に、この本を読めたのは幸福な出会いだった。</p><p>現在に至る迄というスパンで、時代を戦後という文脈の下に読み直す事が出来たからだ。確かな事は、戦後はいまだに続いていると言う事だ。</p>IKEDA Yutakahttp://www.blogger.com/profile/07280449401867627527noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-2582316727444849117.post-10971066098422965202023-09-05T14:18:00.008+09:002023-09-05T17:07:21.261+09:00大規模言語モデルは新たな知能か<p>最初のうちは驚いた。</p><p>そして、こんな面白いおもちゃがあるか!とばかりに使い倒した。</p><p>ChatGPTの出現だ。</p><p>何を聞いても答えが返って来るのだ。それもかなり自然な対話の形式で。</p><p>だが、村野四郎の『惨憺たる鮟鱇』の冒頭に掲げられている「へんな運命がわたしを見つめている」と言うリルケ(とされている)の詩句が、どの詩からの引用なのかを問うたところ、ドウィノ悲歌第2部第1歌冒頭からの引用だと答えが返って来た辺りから、こりゃ答えを鵜呑みに出来ないなと、警戒しながら付き合い始めた。</p><p>リルケだったら一通り読んでいる。ドウィノ悲歌には第1部も第2部もなく、どの詩の冒頭にも、該当する詩句はない。その位の知識はあった。</p><p></p><div class="separator" style="clear: both; text-align: center;"><a href="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEgSvrLR5v_pPgLoa0ypHlHdP8Qc9xJwL6__C8cRnMGm8Mrd7c56UX_ZSAJU9T6e-1uLbXHVR9rPAI4j50xGqpD82ZRCZZ8H8RJCjgt36IPbWmcK-0arvdtl9SStdAZ9TxirzKjGBgUgYmL9KTxMv2OAQXrfZ_E77yFqBo0rpSdauJW_VC0PygKFAajJcu0/s3648/%E5%A4%A7%E8%A6%8F%E6%A8%A1%E8%A8%80%E8%AA%9E%E3%83%A2%E3%83%86%E3%82%99%E3%83%AB%E3%81%AF%E6%96%B0%E3%81%9F%E3%81%AA%E7%9F%A5%E6%80%A7%E3%81%8B-001.jpg" style="margin-left: 1em; margin-right: 1em;"><img border="0" data-original-height="3648" data-original-width="2736" height="320" src="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEgSvrLR5v_pPgLoa0ypHlHdP8Qc9xJwL6__C8cRnMGm8Mrd7c56UX_ZSAJU9T6e-1uLbXHVR9rPAI4j50xGqpD82ZRCZZ8H8RJCjgt36IPbWmcK-0arvdtl9SStdAZ9TxirzKjGBgUgYmL9KTxMv2OAQXrfZ_E77yFqBo0rpSdauJW_VC0PygKFAajJcu0/s320/%E5%A4%A7%E8%A6%8F%E6%A8%A1%E8%A8%80%E8%AA%9E%E3%83%A2%E3%83%86%E3%82%99%E3%83%AB%E3%81%AF%E6%96%B0%E3%81%9F%E3%81%AA%E7%9F%A5%E6%80%A7%E3%81%8B-001.jpg" width="240" /></a></div><br />本書を読んでみると、そうした、存在しない情報を作り出してしまう現象は幻覚(hallucination)と呼ばれ、大規模言語モデルの致命的な問題であり、一朝一夕には解決しないものらしい事が分かった。<p></p><p></p><blockquote>重要な事は、機械を通じて常に真実にアクセスできるという考えは捨てて、完全には信用できない情報の中から有益なものを見つけ出す方法を確立する事だ。</blockquote><p></p><p>だがこれは言うは易く、行うは難しである。大規模言語モデルが作り出す幻覚は、手が混んでおり、一流の専門家にも、本当かどうか区別が付かない程、正確に見えてしまうものがあるのだ。</p><p>提出された結果に、いちいち疑いを持ち、必ず裏を取る態度が必要だろう。</p><p>本書には、そうした大規模言語モデルが、どの様な経緯で開発されて来たもので、どんな仕組みで動いているのかと言った事柄から、大規模言語モデルとこれから、どう付き合って行ったら良いのか?と言った事柄までが、理路整然と語られている。</p><p>何しろ相手は情報を扱う機械である。持っている知識量では、てんで敵わない事は明らかだ。だが、悪気はないもののたまに嘘をつく。更に厄介な事に、これも悪気はないのだが、差別的な発言もしれっと披露する。</p><p>そうした性格を持つ相手を、うまく活用しつつ付き合うにはどういう批判的な視点が必要なのか?いわゆるこちらの側のリテラシーと言う奴が、モロに問われる時代がやって来たと言う事なのだろう。</p><p>本書を読んで、大規模言語モデルと言うものは、突然出現した怪物ではなく、それまでの情報工学の文脈の延長上に開発された技術である事が分かった。革命的なのは未知のデータでも巧く予測できる様になることを汎化と呼び、汎化が出来る能力を汎化能力と呼ぶが、機械学習の最大の目標は、その汎化能力を獲得することにあるという事だ。</p><p>本書を読んで、大規模言語モデルもまた、ムーアの法則がもたらした、ひとつの結果である事が分かった。</p><p>どの様に過去の技術の歴史があり、どの方向に未来を描いているかも朧げながら分かった。本書を読んで、大規模言語モデルと言う謎の地を歩く、詳しい地図が与えられた様な気がした。これからの付き合い方が楽しみだ。</p>IKEDA Yutakahttp://www.blogger.com/profile/07280449401867627527noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-2582316727444849117.post-31002763080762110252023-09-02T10:01:00.006+09:002023-09-03T16:09:47.194+09:00中世哲学入門<p>これを読書と呼んで良いのか迷う。</p><p>本書全体を通じて、中世哲学は難しいぞ!と、そればかりが書かれている。</p><p>2/3以上が用語の解説に費やされており、それらにもこの語は日本語には訳しにくいぞ!という、注意書きが必ずと言って良い程付けられている。</p><p>確かに難しい。それに加えて、文章には山内志朗氏独自の言い回しが多く、それに慣れるのに数日を要した。理虚的存在などと言われても、未だに何の事か腑に落ちない。</p><p></p><div class="separator" style="clear: both; text-align: center;"><a href="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEgEp1EtNnb_uB_i60zZ8lqE_hZ7vIV3A7EmRAoF2ryUvH76N8hNfxHbBhCnQuQGa7TGz4EzN6kHC4jG-ObBzo8oAFv1FMl32JVCTs4zXhF_aA1I9X_O8dq5b4QMaYh43iNV6vmQdND5qy2H3FFWBDQV52RJyhSc4icHEWN5rw4BDMwu_kqv-HmuhSGfBU8/s3648/%E4%B8%AD%E4%B8%96%E5%93%B2%E5%AD%A6%E5%85%A5%E9%96%80-001.jpg" style="margin-left: 1em; margin-right: 1em;"><img border="0" data-original-height="3648" data-original-width="2736" height="320" src="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEgEp1EtNnb_uB_i60zZ8lqE_hZ7vIV3A7EmRAoF2ryUvH76N8hNfxHbBhCnQuQGa7TGz4EzN6kHC4jG-ObBzo8oAFv1FMl32JVCTs4zXhF_aA1I9X_O8dq5b4QMaYh43iNV6vmQdND5qy2H3FFWBDQV52RJyhSc4icHEWN5rw4BDMwu_kqv-HmuhSGfBU8/s320/%E4%B8%AD%E4%B8%96%E5%93%B2%E5%AD%A6%E5%85%A5%E9%96%80-001.jpg" width="240" /></a></div><br />だが、著者が中世哲学に、真っ向から、極めて誠実に向かい合おうとしている事は伝わって来た。決して衒学趣味ではない。<p></p><p>中世哲学の最盛期は、今から800年程前だ。それだけ年月が経っていれば、言葉の使い方から、現在と異なっていたと考えた方が自然と言うものだ。それを敢えて現代語で書こうとすれば、その書き方が、従来と異なった物になる。</p><p>未だ影響力を持っていると言っても、神の存在を疑うのが当たり前の様な現在から、神が絶対的な存在感を持っていた時代の哲学を紐解いてどうする。そんな「悪魔の囁き」にも、何度か誘惑された。だが、歴史はその時代に立ち戻って、その時代の感性で読まなければ、理解には程遠い。その事は、今迄の読書で、深く学んで来た。</p><p>著者が本気ならば、こちらも本気で臨むだけだ。</p><p>新書にしては分厚い本書を、図書館の貸し出し期限を気にしながら、遮二無二読み進めた。どうにか、余裕を持って、読み終える事が出来た。</p><p>読んでいて、この分野の知識が、私には決定的に欠けていたと言う事実に気付かされた。カントは、最後の中世哲学の徒であったと言う。そう言われても、何の事か分からない。その程度にカントも理解出来ていなかったという事だろう。</p><p>読み終えて、何が分かったか?と問われても、答えに窮する。ただ、頭の中を、山内語で訳された、様々な用語が、励起状態の気体分子の様に、飛び交っているだけだ。</p><p>だが、ヨーロッパがイスラームに比べて、後進地域だった頃から、イスラームからアリストテレスなどの知識を逆輸入して、台頭してゆく過程で、中世哲学が極めて重要な位置を占めていた事は理解出来た。</p><p>そして、これらの中世哲学の知識は、ドゥルーズやフーコーなど現代哲学を読み解くには必須の知識(特に存在論)らしい事にも気付けた。</p><p>著者によると、中世哲学の研究も、本書でようやく六合目に達した様なものだと言う。学問の深さは、素人には見通せない程に、深く険しい。</p><p>だが、その研究を、著者が愉しんで行っている事は、十分に伝わって来た。その愉しみ方に触れる事が出来、私も楽しかった。</p><p>学問には、ひとつの無駄もないのだ。</p>IKEDA Yutakahttp://www.blogger.com/profile/07280449401867627527noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-2582316727444849117.post-20411038666273676762023-08-28T14:15:00.002+09:002023-08-28T16:19:14.097+09:00竹取工学物語<p>主に竹にフォーカスし、植物を土木工学者の眼で見たらどう見えるか?それを主題にしている。</p><p>身の回りに、竹製品は多い。溢れかえっているとすら言える。それだけ竹は「使える」素材だと言う事だろう。</p><p>だが、その竹の「使い易さ」とは一体なんだろうか?その事については、今迄余り深く考えた事が無かった。</p><p></p><div class="separator" style="clear: both; text-align: center;"><a href="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEis82T112085qT458zjdduwc0niCez3g7MzsLkKFMm3YN1jOKK0jWOriSHNemeA8flhTlviPegy46ieIBZ6mBak4utu1mJQtB-v_LL7DrL1JJfCQHPscUp6dpuSPSxYBq8wEj_1PHiFbVjxtUDQh4D9EuR_FkMzASr38hqYl5QGBCIAsWBGChloXuZTRu0/s3648/%E7%AB%B9%E5%8F%96%E5%B7%A5%E5%AD%A6%E7%89%A9%E8%AA%9E-001.jpg" style="margin-left: 1em; margin-right: 1em;"><img border="0" data-original-height="3648" data-original-width="2736" height="320" src="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEis82T112085qT458zjdduwc0niCez3g7MzsLkKFMm3YN1jOKK0jWOriSHNemeA8flhTlviPegy46ieIBZ6mBak4utu1mJQtB-v_LL7DrL1JJfCQHPscUp6dpuSPSxYBq8wEj_1PHiFbVjxtUDQh4D9EuR_FkMzASr38hqYl5QGBCIAsWBGChloXuZTRu0/s320/%E7%AB%B9%E5%8F%96%E5%B7%A5%E5%AD%A6%E7%89%A9%E8%AA%9E-001.jpg" width="240" /></a></div><br />動物は周辺の環境が嫌になれば、移動して場所を変える事が出来る。だが植物は一度根を張ってしまえばそこの環境に順応せざるを得ない。<p></p><p>その点に目を付けて、筆者は動物を「機械」構造物。植物を「土木」構造物と思っていると言う。動力があり、陸や空を移動する自動車や飛行機は機械構造物であるし、その場から決して動くことのない橋やトンネルは土木構造物だ。</p><p>そうした土木工学者の視点から見ると、竹を始めとする、植物は、その場に適応する為に、非常に合理的な形状を持っている事が分かる。</p><p>著者はその合理性を、幾つかの数式を交えて、理系の眼で考察する。</p><p>例えば、竹の維管束は、外側に密に分布しているが、この構造は、竹自身が、自らの身体を支える上で、実に見事な配列である事が分かる。</p><p>鉄筋コンクリートの様に二種類以上の異なる材料を組み合わせた構造を「複合構造」と呼ぶが、竹は正にその複合構造物以外の何物でもないのだ。</p><p>そして著者の眼は、竹を乗り越えて、他の植物にも向かう。</p><p>そこに見出せるのは、光を求めて身体を大きくする事に適応した、各種植物の実に見事な合理性だ。</p><p>生物の合理的な形態を模倣し、様々な形で応用するという、所謂「生物形態模倣」をバイオミメティックスと呼ぶ。私はその事を、この本から学んだが、それは、古くから様々な人工物に用いられてきた手法だろう。</p><p>そればかりではなく、本書から学んだ基本的な概念は多い。</p><p>断面2次モーメントなどは、今迄、聞いた事もない概念であり、それを理解するのには、多少の労力を必要としたが、著者の分かり易い説明によって、腑に落ちる所迄理解する事が出来た。</p><p>ちょっとその気になって見回せば、世界は謎に満ち溢れている。そしてその謎は、少しの工夫で、合理的に理解する事が出来る。</p><p>その事は、いつもの事ながら、私にとっては大きな驚きに満ちている。</p><p>本書と出会う事によって、世界の植物はそれぞれに合理的な形態を保っている事を知った。またひとつ、世界が新しく見えて来た。</p>IKEDA Yutakahttp://www.blogger.com/profile/07280449401867627527noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-2582316727444849117.post-60679463841317250492023-08-26T14:17:00.001+09:002023-08-26T14:28:53.001+09:00レオナルド・ダ・ヴィンチの源泉<p>レオナルド・ダ・ヴィンチの作品についての、緻密な考察が繰り広げられている。</p><p>レオナルド・ダ・ヴィンチという人物は、幼少の頃から、何かと気になり続けて来た人物だ。だが、本書の著者田辺清氏程には、ダ・ヴィンチに関して、思い巡らしをしてこなかった。</p><p></p><div class="separator" style="clear: both; text-align: center;"><a href="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEhq9tnQbUDHJNmsAyKgb6XadL_hM9qPw_fBINR9N7Wy1k-RJu29s03Md6lc2BVVxxe_gJTRYYULhmYKa063XAM5wN4L0BAqDQBLPOJ2vJQyI7bEliNSv_12f40Nue3IrWyb1-0pfPG8IM0QhZZSmdAGLTfqi5JUEDywXSP3d4fqm98Q7GN2jVHysw_NobY/s3648/%E3%83%AC%E3%82%AA%E3%83%8A%E3%83%AB%E3%83%88%E3%82%99%E3%83%BB%E3%82%BF%E3%82%99%E3%83%BB%E3%82%A6%E3%82%99%E3%82%A3%E3%83%B3%E3%83%81%E3%81%AE%E6%BA%90%E6%B3%89.jpg" style="margin-left: 1em; margin-right: 1em;"><img border="0" data-original-height="3648" data-original-width="2736" height="320" src="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEhq9tnQbUDHJNmsAyKgb6XadL_hM9qPw_fBINR9N7Wy1k-RJu29s03Md6lc2BVVxxe_gJTRYYULhmYKa063XAM5wN4L0BAqDQBLPOJ2vJQyI7bEliNSv_12f40Nue3IrWyb1-0pfPG8IM0QhZZSmdAGLTfqi5JUEDywXSP3d4fqm98Q7GN2jVHysw_NobY/s320/%E3%83%AC%E3%82%AA%E3%83%8A%E3%83%AB%E3%83%88%E3%82%99%E3%83%BB%E3%82%BF%E3%82%99%E3%83%BB%E3%82%A6%E3%82%99%E3%82%A3%E3%83%B3%E3%83%81%E3%81%AE%E6%BA%90%E6%B3%89.jpg" width="240" /></a></div><br />田辺氏は、作品のひとつひとつに対して、その作品がダ・ヴィンチの真筆であるかどうか?作品に描かれている人物のモデルは誰か?と言った基本的な事柄についても、作品に残された走り書き、従来からなされて来た研究などを丁寧に採り上げ、具体的な論拠に基づいて、ひとつひとつ結論を導き出している。<p></p><p>著者の守備範囲は、ダ・ヴィンチの技法、様式から、様々な文学表現迄と、途方もなく広い。</p><p>論文の主題は多岐に渡るが、中でも著者の博士論文を元にした、レオナルド・ダ・ヴィンチの《自画像》についての、比較的長い論考が印象に残った。</p><p></p><div class="separator" style="clear: both; text-align: center;"><a href="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEhOj1y6N42BcAbxkmDhmsESpRfrc1iD5hp-E8MU-H7TRwFyZ7IngqeuHJfdZ60s7tBL3mwg94BSLAqi0kEhtPpDhc1xJmpNBSQQlXiWsWOwlIl-hYnOYR2_NkY0bunoEDoLRtwGP13EnyshAQYnbrnMurRNlYKfCtw3fHO44dkm2c_Uxsx0TOgYhDqNOhg/s659/Leonardo_self.jpeg" imageanchor="1" style="margin-left: 1em; margin-right: 1em;"><img border="0" data-original-height="659" data-original-width="420" height="320" src="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEhOj1y6N42BcAbxkmDhmsESpRfrc1iD5hp-E8MU-H7TRwFyZ7IngqeuHJfdZ60s7tBL3mwg94BSLAqi0kEhtPpDhc1xJmpNBSQQlXiWsWOwlIl-hYnOYR2_NkY0bunoEDoLRtwGP13EnyshAQYnbrnMurRNlYKfCtw3fHO44dkm2c_Uxsx0TOgYhDqNOhg/s320/Leonardo_self.jpeg" width="204" /></a></div><br />有名な絵だ。<p></p><p>私はついぞ、この作品がダ・ヴィンチの自画像であるという事を、疑う事などして来なかった。だが、レオナルド・ダ・ヴィンチの研究者の間では、この作品はダ・ヴィンチの自画像なのかどうか?ダ・ヴィンチの手によるものなのかどうか?などは、長年疑問に付されていたテーマらしい。</p><p>作品の技法が、ダ・ヴィンチのものとするには、拙過ぎるというのだ。</p><p>そう言われてみると、この「赤チョークによる老人の絵」は素描として、《聖アンナと幼い洗礼者ヨハネを伴う聖母子像》などと比べると、描き方が荒い。</p><p>だが著者は、レオナルド・ダ・ヴィンチが老年に至って、その利き腕である左手が麻痺状態にあったという証拠を見出す。《自画像》に見られる拙さは、それ故の結果であると言うのだ。</p><p>また著者は、ダ・ヴィンチの時代、及びやや時代が下った頃の文献から、ダ・ヴィンチの容貌を記したものを列挙する。</p><p>それらは《自画像》に見られる容貌と整合性がある。</p><p>それらを証拠として、著者は《自画像》のモデルは、レオナルド・ダ・ヴィンチ本人であると結論する。この辺りの議論の進め方は、極めて慎重であり、実証的だ。</p><p>この、議論に対する慎重さと、実証性は、他の論文にも共通する特徴だと読み取れる。それ故に、本書を通読した後に残る感動は、一種異様な迄の迫力を感じさせる。</p><p>本書の残念なところは、参照されている絵画、彫刻などの作品がいずれもモノクロである事だ。その為、私は作品の内、主要なものは、Webによる検索や、本棚にある画集を参照せざるを得なかった。</p><p>だが、本書は、論文にしては読み易く、お蔭で比較的短時間で読破する事が出来た。</p><p>読み終わって、レオナルド・ダ・ヴィンチという人物に対する姿勢を、改めて正す事が出来た充実感を感じている。</p><p>数多いダ・ヴィンチ論の中でも、質の高い論集だったと感じている。</p>IKEDA Yutakahttp://www.blogger.com/profile/07280449401867627527noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-2582316727444849117.post-63461809646545848512023-08-24T13:40:00.004+09:002023-08-25T10:42:52.781+09:00カフカはなぜ自殺しなかったのか?<p>フランツ・カフカは結核で亡くなっている。自殺ではない。</p><p>考えてみると、これはとても意外で不思議な事だ。本書はその疑問を、カフカの日記や手紙を読解して行く事で、解き明かそうとしている。</p><p></p><div class="separator" style="clear: both; text-align: center;"><a href="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEin3zNJ5Daa4_GqZDiRIAcfPUAnjRtCh6p58A8obfBpRpthj7_lTxKN7yQ4NnMteQb8XUlOD315aP-X_MdEMedwdE_rJmGQWepW8vthCOv1CnNVsQFvvtw6b8FWty0JSaemylms0Qgn-tUJhTCk36coNmFTPXms94dSTz_6TtOoD7bd6SnVcVX_Phze4cM/s3648/%E3%82%AB%E3%83%95%E3%82%AB%E3%81%AF%E3%81%AA%E3%81%9B%E3%82%99%E8%87%AA%E6%AE%BA%E3%81%97%E3%81%AA%E3%81%8B%E3%81%A3%E3%81%9F%E3%81%AE%E3%81%8B%EF%BC%9F-001.jpg" style="margin-left: 1em; margin-right: 1em;"><img border="0" data-original-height="3648" data-original-width="2736" height="320" src="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEin3zNJ5Daa4_GqZDiRIAcfPUAnjRtCh6p58A8obfBpRpthj7_lTxKN7yQ4NnMteQb8XUlOD315aP-X_MdEMedwdE_rJmGQWepW8vthCOv1CnNVsQFvvtw6b8FWty0JSaemylms0Qgn-tUJhTCk36coNmFTPXms94dSTz_6TtOoD7bd6SnVcVX_Phze4cM/s320/%E3%82%AB%E3%83%95%E3%82%AB%E3%81%AF%E3%81%AA%E3%81%9B%E3%82%99%E8%87%AA%E6%AE%BA%E3%81%97%E3%81%AA%E3%81%8B%E3%81%A3%E3%81%9F%E3%81%AE%E3%81%8B%EF%BC%9F-001.jpg" width="240" /></a></div><br />カフカは何かと言うと、すぐに自殺を考え、口にしている。この事実は、私たちの持つ、カフカのイメージと、大変整合性を持っている。<p></p><p>彼は自殺する事を、常に意識しながら生きていたのだ。</p><p>本書のテーマははじめにに端的に記されている。</p><p></p><blockquote>彼はどう生きて、なぜ自殺したいと思い、なぜ自殺しなかったのか?</blockquote><p></p><p>カフカは周りの人々から、どの様に見られていたのだろうか?その疑問に、カフカの恋人ミレナはこう答えている。</p><p></p><blockquote><p>あの人の本には驚かされます</p><p>でも、</p><p>あの人自身にはもっともっと驚かされます。</p></blockquote><p></p><p>カフカの書いた本、例えば『変身』には、確かに驚かされる。朝、目が醒めたら虫になっていたという、最初の1行から、びっくりさせられる。しかもそれは、特別な出来事として描かれているのではなく、さも、当たり前の出来事の様に描かれているのだ。これに驚かされずに、どうしろと言うのか?</p><p>そうしたカフカの本以上に、カフカ本人にはもっと驚かされるのだと言う。どんな人物だったのか?</p><p>私たちは知らず知らずのうちに、この本の続きを読みたくなり、気が付いた時には、この本にどっぷりと引き摺り込まれている。</p><p>カフカの日記や手紙は、本人の願いとは裏腹に、残されているものは全て、今でも読む事が出来る。だが、それをする為には、全集と格闘しなければならず、しかもそれ故に、日記と手紙を別々に読まねばならない。</p><p>本書では、それらが年代別に並び替えられ、カフカの日記や手紙が持つ詩情を強調する為、分かち書きで紹介されている。</p><p>これはとても親切な事で、何よりもまず読み易い。</p><p>カフカはなぜ自殺しなかったのか?</p><p>その問いには、本書は、一定の結論には至っているが、明確には答えていない。微かに答えが仄めかされているが、明確なものではない。</p><p>その理由としても取り上げられている概念として、言語隠蔽というものが紹介されている。下手に言葉にする事で、言葉にする事が出来たものしか残らず、他の肝心なものが消え失せてしまうという意味だ。</p><p>言葉を用いて表現する者は、言葉に絶望していなければならないとも言っている。</p><p>この概念には、大きく肯けるところがある。</p><p>カフカは人生に絶望していた。だが、それ故に生きたとも言えるのではないだろうか?</p><p>自殺という則を、超える事を、敢えてしなかったのではないか?</p><p>この本は、カフカの生きた軌跡を追う事で、カフカをより理解する手掛かりを、読者に与えている。</p><p>カフカの日記や手紙、そしてカフカの研究書を、もっと読みたくなった。</p><p>或いはそれこそが、本書の狙い所なのかも知れない。</p>IKEDA Yutakahttp://www.blogger.com/profile/07280449401867627527noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-2582316727444849117.post-79933755081280544752023-08-18T14:50:00.001+09:002023-08-18T14:50:54.123+09:00招かれた天敵<p>千葉聡『招かれた天敵─生物多様性が生んだ夢と罠』。</p><p>兎にも角にも著者の知識量の多さに圧倒された。薄からぬ本のどのページにも、多くの情報がみっしりと詰め込まれている。</p><p></p><div class="separator" style="clear: both; text-align: center;"><a href="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEicA0to5kVIDR8wDczCPyY-hiBViB2ndPoQmah0o2LHTE-V_j0cT-twgJo1_SEMOSUIZBWvxIY0LmQTq2l2-PN4GrgeFNV8SFX0IwRh7WLUQjAkB6hwhbCCC7p2HK5mR91Ku-ktq1TmKRk-tLkAW25dDb3omCjNUOIk7offtw2sJJI-qsXElKsrPazXkiw/s3648/%E6%8B%9B%E3%81%8B%E3%82%8C%E3%81%9F%E5%A4%A9%E6%95%B5.jpg" imageanchor="1" style="margin-left: 1em; margin-right: 1em;"><img border="0" data-original-height="3648" data-original-width="2736" height="320" src="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEicA0to5kVIDR8wDczCPyY-hiBViB2ndPoQmah0o2LHTE-V_j0cT-twgJo1_SEMOSUIZBWvxIY0LmQTq2l2-PN4GrgeFNV8SFX0IwRh7WLUQjAkB6hwhbCCC7p2HK5mR91Ku-ktq1TmKRk-tLkAW25dDb3omCjNUOIk7offtw2sJJI-qsXElKsrPazXkiw/s320/%E6%8B%9B%E3%81%8B%E3%82%8C%E3%81%9F%E5%A4%A9%E6%95%B5.jpg" width="240" /></a></div><br />レイチェル・カーソンはその著書『沈黙の春』で殺虫剤の大量散布により化学薬品で汚染され、命の賑わいが失われた世界の恐ろしさを、読者の脳裏に鮮烈に焼き付けた。<p></p><p>そこで登場したのは、天敵の導入による、生物学的な駆除法だった。問題はそれで解決される筈だった。当初の目論見では。</p><p>だが、現実にはその生物学的駆除法もまた、多くの困難や不都合を産み出してしまった。その事が、豊富な実例を引き合いに出しながら、丁寧に解き明かされている。</p><p>地球上の多様な生物たちは、長い地質学的時間を掛けて、その地に根付いている。だが、人間は欲から、その地質学的時間を無視して、遠い海外から特定の生物を自分たちのテリトリーに移植する。</p><p>問題が起こらない訳はない。</p><p>その問題を解決する為に、人はまた無茶をする。</p><p>この本にも書かれているが、成功は失敗の源とすら言えるのだ。物事は、最初のうちは巧く行っている様に見えるのだ。だが、長い目で見ると、その中に取り返しのつかない問題が潜んでいる。</p><p>その、失敗の実例の多くが、この本に記載されている。根本的な解決法はあるのか?それは、この本では明らかにされない。</p><p>現在、世界経済はグローバリゼーションの波に翻弄されている。</p><p>多くの生物種が、遠い海外を挟んで、頻繁にやりとりされている。その為の解決法も、多く提唱されているが、この本にある通り、抜本的な解決法ではない。</p><p>だが、この本でも、農業は基本的には可能であり、失敗は成功の源である事が記されている。要は私たちはまだ、生物学を少ししか知っていないという事なのだ。</p><p>私たちは多くの生物に依存して、存在している。ならばその生物について、もっと基本的な知識を獲得しなければ、ならない。</p><p>その基本的な作業は、まだ、始まったばかりだ。</p>IKEDA Yutakahttp://www.blogger.com/profile/07280449401867627527noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-2582316727444849117.post-3935123985012933262023-08-08T12:43:00.003+09:002023-08-08T18:01:50.193+09:00向日葵<p>はっきりと憶えている。</p><p>‘79年の夏だった。私は妙に高揚した向学心に駆られ、西は島根県から東は丹沢山地迄のグリーンタフ地域を、闇雲に駆け巡っていた。</p><p>この年の経験が、後の私の人生を決めたと言っても大袈裟ではない。フィールドワークの充実だけではなく、その年に鳥取大で行われた地質学会で、タービディティー・カレントの実験を行った平朝彦さんの講演を、食い入るように見詰めていた。その事で、それ迄どちらかと言うと火成作用に傾きがちだった興味が、堆積学の方向に、大きく方向転換されたのだ。</p><p>私は日本全国のグリーンタフを叩き、記載し、考え、そしてまた歩くを繰り返していた。</p><p>当時の私は、矢鱈と体力があり、いくら歩いても、疲れるという事を知らなかった。山道を日速30km程のペースで、駆け巡っていた。</p><p>だが、嫌でも時は巡る。</p><p>私は後に自分のフィールドになる富士川流域の支流、福士川渓谷の調査を終え、ひとり身延線に乗り込んだ。</p><p>まだ冷房車など普及されている時代ではなく、富士駅に向かう上り列車の窓を全開にし、吹き込んで来る風の心地良さを全身で味わっていた。</p><p>井出駅を出発した後の事だった。</p><p>私は車窓から、大輪の向日葵が、その花を揺らしているのを見た。</p><p>その時、私は何故か、夏をではなく、夏の終わりを全身に感じ取ったのだ。</p><p></p><div class="separator" style="clear: both; text-align: center;"><a href="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEjaiWUkY95M7fMHFreDgfkCkvGCom3Di6FiSPGd4XodWCRWDurOXI4eK5ti6YPGDLMIcycPf-VMLG4t1P2XEMrtIDzW5T8gczEupaoL4aaPqHYhHxEYeJsbb6Uwg9Ivl0XTwmW1UXf20Bh_ZmfferM7zVAQzgK8JY7IKrBLIQYD74c3fOfSIi31jHWPiB0/s2560/PIXNIO-375957-5820x3880-1-scaled.jpeg" style="margin-left: 1em; margin-right: 1em;"><img border="0" data-original-height="1707" data-original-width="2560" height="212" src="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEjaiWUkY95M7fMHFreDgfkCkvGCom3Di6FiSPGd4XodWCRWDurOXI4eK5ti6YPGDLMIcycPf-VMLG4t1P2XEMrtIDzW5T8gczEupaoL4aaPqHYhHxEYeJsbb6Uwg9Ivl0XTwmW1UXf20Bh_ZmfferM7zVAQzgK8JY7IKrBLIQYD74c3fOfSIi31jHWPiB0/w319-h212/PIXNIO-375957-5820x3880-1-scaled.jpeg" width="319" /></a></div><br />向日葵と言えば普通夏を代表する花であり、盛夏を感じても、何の不思議もない。だが、その時に全身を貫く様に、余りにも強く意識したのは、日本列島を駆け巡った’79年の夏が、今終わろうとしている、その事だった。<p></p><p>身延線の車窓から、一瞬だけ見えたその向日葵の姿は、何故か記憶に強く焼き付き、その詳細を、私は未だ明瞭に再現する事が出来る。</p><p>以来、向日葵は、私にとって盛夏の花ではなく、夏の終わりを告げる花となった。</p><p>向日葵の花は今年も咲いた。</p><p>今日も水銀柱はぐんぐんと上昇し、長野にも熱中症アラートが発令された。</p><p>だが、暦は知っている。今日は立秋。</p><p>本棚からアーダーベルド・シュティフターの『晩夏』を、そっと取り出した。</p>IKEDA Yutakahttp://www.blogger.com/profile/07280449401867627527noreply@blogger.com0