20230520

独裁者の料理人

著者ヴィトルト・シャブウォフスキもまた料理人である。

料理人が料理人について書く。それだけでも十分に意義のある仕事だと思う。だが料理人が相手にした人物たち。これが尋常ではない。

彼らは誰に料理を提供して来たか?それを挙げれば成程と思うだろう。

カンボジアのポル・ポト。イラクのサダム・フセイン。ウガンダのイディ・アミン。アルバニアのエンヴィル・ホッジャ。キューバのフィデル・カストロ。並べてみるまでもなく、彼らは錚々たる独裁者と呼ばれる存在である。


著者はスロバキア系ハンガリー人のペーテル・ケレシュ監督の『歴史の料理人」という映画を見て、頭の中でパッと閃いたと言う。

歴史の重要な瞬間に料理を作っていた人たちは歴史について何が言えるだろう。

サダム・フセインは何万人ものクルド人をガスで殺すよう命じた後、何を食べたのか?その後、腹は痛くならなかったのか?二百万近いクメール人が飢え死にしかけていたとき、ポル・ポトは何を食べていたのか?フィデル・カストロは世界を核戦争の瀬戸際に立たせたとき、何を食べていたのか?そのうちだれが辛いものを好み、だれが味の薄いものを好んだのか?だれが大食漢でだれがフォークで皿をつつくだけだったのか?だれが血のしたたるビーフステーキを好み、だれがよく焼いたのを好んだのだろう?

今迄にこうした切り口で書かれた本が無かったのが不思議なほど、シンプルで魅力的なテーマだ。

かくして著者は大陸から大陸を渡り歩き、独裁者の料理人を探し出しては、インタヴューを試みる。

だが、その作業は、実際に行ってみると、著しい困難を伴うものだった。

まず、当の料理人が生きていなければならない。

食という生きてゆく上で欠かせない、基本的な営み。だが、その食を提供する相手が独裁者である場合、料理を作る事そのものが命懸けの作業となる。

上手くいって当たり前、それどころか、何人もの人間の命を救う事にも繋がる。だが、しくじったらどうなるか?答えは火を見るよりも明らかだろう。

料理人が生きていて、運よく出会えたとしても、相手が自分に、独裁者の料理人だった時代の事を語ってくれるかどうかは、これまた判じものだ。

命懸けの状態は、独裁者が去った後も続くものだ。

料理人が独裁者に仕えるようになった動機や独裁者との距離感は、それぞれに異なる。ある者は心酔から、ある者は恐怖から、独裁者に料理を提供していた。

料理を提供するという行為を通じて、独裁者に接してきた彼らは、独裁者の特殊な場面を目撃して来た者だ。逆に言えば、料理人が語る独裁者の像は、それ自体が唯一無二の、特殊な姿を描写している事になる。

そこで語られる独裁者の姿は、子ども帰りをしてしまったような、甘えと独断が横行する姿だ。

本書の原題はJak nakarmić dyktatora。日本語に訳すのが難しいが、直訳すれば『独裁者に食べさせる方法』となるそうだ。著者はこのタイトルに「私たちが独裁者を養う」という意味もかけている。と訳者芝田文乃さんは語る。

この本は世界に名だたる独裁者を狂言回しにし、登場する料理人、その話を引き出した著者、それらを見事に日本語訳した訳者たちが織りなす、重層的な織物のような本だと、私には感じられた。

良い読書体験が出来た。

20230513

ガウディの伝言

図書館から本を借りた日は、そのリストも作らずに眠りに着いた。

体調がすぐれなかったのだ。なので、読む本を選ぶ時にも、簡単に読めそうなものを選んだ。それがこの本だった。借りた本の中で、唯一の新書。これなら多少調子が悪くても楽に読めるだろうと踏んだのだ。

だがこの本、外尾悦郎の『ガウディの伝言』は、予想以上に面白かった。


この本を読む迄サグラダ・ファミリアに日本人が彫刻家として参加している事など全く知らなかった。それもかなり重要な部分を任されているらしい。それだけでも、深い興味を抱くのに、十分だった。

文章に力みは見られない。

歴史的な事業に、主体的に関わっている日本人。だが、にもかかわらず、その語り口はあくまでも淡々としており、自然体だ。

だが、その語る内容に目を配ると、驚くような事が語られている。

バルセロナのガウディの代表作、サグラダ・ファミリアには、以前から注目していた。異様とも言い得る造形。19世紀に建築が始まっていながら、未だに完成を見ないスケールの大きさ。どれを取っても、規格外なのだ。

サグラダ・ファミリアは市街戦で一度破壊され、ガウディが遺した貴重な図面類も焼失している。手掛かりは僅かに残されたミニチュアと写真のみ。そこからガウディの構想を読み取り、復元しながら建築作業は今日も続いている。

著者は、誰かから推薦された訳でもなく、このサグラダ・ファミリア建設の作業に、単身乗り込んで行ったようだ。

まず、その度胸の良さに驚く。

その作業の難しさ、歴史に残る重要性。それらを前にしたら、普通の人はビビる。思わず身を引いてしまう所だ。

だが著者はそれらを意に介さない。ただ己の情熱が指し示すところを目指して、石を刻む。

石を掘っていると「無」になる。そう著者は言う。その辺り迄は私にも理解出来る。人は大きな存在物を前にすると、自分を無にして臨まねば、その存在物に近付いて行く事も出来ない。

著者は石を刻み続ける行為を信じて、一歩一歩ガウディに近付いて行ったのだろう。

だが、その距離はいかほどだったのだろう?

寄る辺なき探究と創造。ガウディを理解出来るという自分への信頼。

それらが淡々とした語りの中で、しっかりと描写されている。

ガウディになるのではなく、ガウディと同じ物を見る。そう著者は言う。それが長年ガウディを探し続けて来た著者が辿り着いた境地だろう。そこに辿り着く迄、どれだけの紆余曲折があったのか?それは私には理解出来ない途方もない謎だ。

だが、著者外尾悦郎という存在があるお陰で、私たち日本人にも、その手掛かりが差し出されている。

この本中には、今迄知らなかったガウディの姿も描写されている。

私はこの本を読んで、サグラダ・ファミリアという存在物に、またひとつ大きな一歩を踏み出す事が出来たと確信している。

20230503

カティンの森のヤニナ

私が「カティンの森事件」を知ったのは21世紀になってからだ。かなり遅かった。

そのきっかけがJ.K.ザヴォドニーの名著『消えた将校たち─カチンの森虐殺事件』が先だったのか、アンジェイ・ワイダ監督の映画『カティンの森』が先だったのかは、今では確認のしようがない。

だが、この事件を知って、私は少なからず衝撃を受け、動揺し、以来事あるごとに「カティンの森事件」を知ろうと努めて来た。

本書を手に取ったのもそうした自分に課した義務の一環としての事だった。

『消えた将校たち』を注意深く読めば、その記載があったのだが、「カティンの森事件」の犠牲者の中にひとりだけ女性がいた。

彼女の名前はヤニナ・レヴァンドフスカ。所属はポーランド空軍であり、当時としても珍しい女性パイロットだった。

本書『カティンの森のヤニナ─独ソ戦の闇に消えた女性飛行士』はそのヤニナについて書かれた貴重なノンフィクションだ。


カティンの森事件とは、第二次世界大戦中にソ連の捕虜となっていた約22,000人とも25,000人とも言われるポーランド将校、国境警備隊員、警官、一般官吏、聖職者がソヴィエト内務人民委員会(NKVD)によって虐殺された事件の総称である。

1943年4月下旬、当時はドイツ領となっていたスモレンスク近郊の森の奥深く、夥しい数の遺体が地中から掘り起こされたのだ。

カティンは現場近くの地名だ。事件現場はグニェズドヴォの方が距離的に近かったが、発音のしやすさや覚えやすさから、ドイツがこの虐殺事件を表すのに用いた。

命名の仕方からして政治的だ。この事件は徹底的に政治に利用された。

ソ連は殺害にドイツ製の銃弾を使用し、事件はドイツによるものと主張し、ドイツはソ連の犯行を主張した。ソ連がカティンの森事件をスターリン支配下のソ連の犯行である事を認め、ポーランドに謝罪したのは、ゴルバチョフによるグラスノスチ以降の事だった。

ナチスドイツによるユダヤ人虐殺に比べ、カティンの森事件が知られていないのは、戦時中イギリスやアメリカがドイツに対抗する手前、都合の悪いこの事件を徹底的に隠蔽した影響が未だ響いているのだろう。

更にカティンの森事件の犠牲者に女性がいた事は、殆ど知られていない。

著者小林文乃は、その手掛かりすら殆どないヤニナ・レヴァンドフスカについて知ろうと志し、現地取材を何度も繰り返し、事の真相に迫って行く。

ヤニナ・レヴァンドフスカはポーランドの歴史の中で唯一成功した蜂起として知られるウェルコポルスカ蜂起の最高司令官を務めたユゼフ・ドヴルブ・ムシニツキ将軍の娘として1908年4月22日、ロシア領の都市ハリコフで生まれた。ポズナン飛行クラブに入会し、ヨーロッパ初の高度5,000mからのパラシュート降下に成功した人物になった。

英雄の娘はこれまた英雄であった。

だがこの事が仇となり、彼女はソ連の手により、多くのポーランド人と共にカティンの森で虐殺され、埋められる結果となった。

殺された推定日は1940年4月22日。何とヤニナの32回目の誕生日その日だった。

ヤニナの11歳年下の妹、アグネシュカも殆ど同じ頃、ナチスの手により虐殺されている。

姉妹は姉がソ連の手により、妹がナチスドイツの手により虐殺されたのだ。

ソ連とドイツによって蹂躙され続けた国ポーランド。それを何よりも象徴する姉妹だったと言えるのではないだろうか?

カティンの森ポーランド人捕虜集団墓地にはヤニナのプレートが残っている。

ヤニナ・アントニーナ・レヴァンドフスカ、1908年ハリコフ生まれ、パイロット。1940年没。

プレートにパイロットと記されているのが、せめてもの救いとなるだろうか。