図書館から本を借りた日は、そのリストも作らずに眠りに着いた。
体調がすぐれなかったのだ。なので、読む本を選ぶ時にも、簡単に読めそうなものを選んだ。それがこの本だった。借りた本の中で、唯一の新書。これなら多少調子が悪くても楽に読めるだろうと踏んだのだ。
だがこの本、外尾悦郎の『ガウディの伝言』は、予想以上に面白かった。
この本を読む迄サグラダ・ファミリアに日本人が彫刻家として参加している事など全く知らなかった。それもかなり重要な部分を任されているらしい。それだけでも、深い興味を抱くのに、十分だった。
文章に力みは見られない。
歴史的な事業に、主体的に関わっている日本人。だが、にもかかわらず、その語り口はあくまでも淡々としており、自然体だ。
だが、その語る内容に目を配ると、驚くような事が語られている。
バルセロナのガウディの代表作、サグラダ・ファミリアには、以前から注目していた。異様とも言い得る造形。19世紀に建築が始まっていながら、未だに完成を見ないスケールの大きさ。どれを取っても、規格外なのだ。
サグラダ・ファミリアは市街戦で一度破壊され、ガウディが遺した貴重な図面類も焼失している。手掛かりは僅かに残されたミニチュアと写真のみ。そこからガウディの構想を読み取り、復元しながら建築作業は今日も続いている。
著者は、誰かから推薦された訳でもなく、このサグラダ・ファミリア建設の作業に、単身乗り込んで行ったようだ。
まず、その度胸の良さに驚く。
その作業の難しさ、歴史に残る重要性。それらを前にしたら、普通の人はビビる。思わず身を引いてしまう所だ。
だが著者はそれらを意に介さない。ただ己の情熱が指し示すところを目指して、石を刻む。
石を掘っていると「無」になる。そう著者は言う。その辺り迄は私にも理解出来る。人は大きな存在物を前にすると、自分を無にして臨まねば、その存在物に近付いて行く事も出来ない。
著者は石を刻み続ける行為を信じて、一歩一歩ガウディに近付いて行ったのだろう。
だが、その距離はいかほどだったのだろう?
寄る辺なき探究と創造。ガウディを理解出来るという自分への信頼。
それらが淡々とした語りの中で、しっかりと描写されている。
ガウディになるのではなく、ガウディと同じ物を見る。そう著者は言う。それが長年ガウディを探し続けて来た著者が辿り着いた境地だろう。そこに辿り着く迄、どれだけの紆余曲折があったのか?それは私には理解出来ない途方もない謎だ。
だが、著者外尾悦郎という存在があるお陰で、私たち日本人にも、その手掛かりが差し出されている。
この本中には、今迄知らなかったガウディの姿も描写されている。
私はこの本を読んで、サグラダ・ファミリアという存在物に、またひとつ大きな一歩を踏み出す事が出来たと確信している。
0 件のコメント:
コメントを投稿