私が「カティンの森事件」を知ったのは21世紀になってからだ。かなり遅かった。
そのきっかけがJ.K.ザヴォドニーの名著『消えた将校たち─カチンの森虐殺事件』が先だったのか、アンジェイ・ワイダ監督の映画『カティンの森』が先だったのかは、今では確認のしようがない。
だが、この事件を知って、私は少なからず衝撃を受け、動揺し、以来事あるごとに「カティンの森事件」を知ろうと努めて来た。
本書を手に取ったのもそうした自分に課した義務の一環としての事だった。
『消えた将校たち』を注意深く読めば、その記載があったのだが、「カティンの森事件」の犠牲者の中にひとりだけ女性がいた。
彼女の名前はヤニナ・レヴァンドフスカ。所属はポーランド空軍であり、当時としても珍しい女性パイロットだった。
本書『カティンの森のヤニナ─独ソ戦の闇に消えた女性飛行士』はそのヤニナについて書かれた貴重なノンフィクションだ。
カティンの森事件とは、第二次世界大戦中にソ連の捕虜となっていた約22,000人とも25,000人とも言われるポーランド将校、国境警備隊員、警官、一般官吏、聖職者がソヴィエト内務人民委員会(NKVD)によって虐殺された事件の総称である。
1943年4月下旬、当時はドイツ領となっていたスモレンスク近郊の森の奥深く、夥しい数の遺体が地中から掘り起こされたのだ。
カティンは現場近くの地名だ。事件現場はグニェズドヴォの方が距離的に近かったが、発音のしやすさや覚えやすさから、ドイツがこの虐殺事件を表すのに用いた。
命名の仕方からして政治的だ。この事件は徹底的に政治に利用された。
ソ連は殺害にドイツ製の銃弾を使用し、事件はドイツによるものと主張し、ドイツはソ連の犯行を主張した。ソ連がカティンの森事件をスターリン支配下のソ連の犯行である事を認め、ポーランドに謝罪したのは、ゴルバチョフによるグラスノスチ以降の事だった。
ナチスドイツによるユダヤ人虐殺に比べ、カティンの森事件が知られていないのは、戦時中イギリスやアメリカがドイツに対抗する手前、都合の悪いこの事件を徹底的に隠蔽した影響が未だ響いているのだろう。
更にカティンの森事件の犠牲者に女性がいた事は、殆ど知られていない。
著者小林文乃は、その手掛かりすら殆どないヤニナ・レヴァンドフスカについて知ろうと志し、現地取材を何度も繰り返し、事の真相に迫って行く。
ヤニナ・レヴァンドフスカはポーランドの歴史の中で唯一成功した蜂起として知られるウェルコポルスカ蜂起の最高司令官を務めたユゼフ・ドヴルブ・ムシニツキ将軍の娘として1908年4月22日、ロシア領の都市ハリコフで生まれた。ポズナン飛行クラブに入会し、ヨーロッパ初の高度5,000mからのパラシュート降下に成功した人物になった。
英雄の娘はこれまた英雄であった。
だがこの事が仇となり、彼女はソ連の手により、多くのポーランド人と共にカティンの森で虐殺され、埋められる結果となった。
殺された推定日は1940年4月22日。何とヤニナの32回目の誕生日その日だった。
ヤニナの11歳年下の妹、アグネシュカも殆ど同じ頃、ナチスの手により虐殺されている。
姉妹は姉がソ連の手により、妹がナチスドイツの手により虐殺されたのだ。
ソ連とドイツによって蹂躙され続けた国ポーランド。それを何よりも象徴する姉妹だったと言えるのではないだろうか?
カティンの森ポーランド人捕虜集団墓地にはヤニナのプレートが残っている。
ヤニナ・アントニーナ・レヴァンドフスカ、1908年ハリコフ生まれ、パイロット。1940年没。
プレートにパイロットと記されているのが、せめてもの救いとなるだろうか。
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