20141104

『アルゲリッチ 私こそ、音楽!』

クラシック界最大のピアニストのひとり。そう呼んでもそれ程異論はなかろう。アルゼンチンで生まれ、スイスで育った天才、マルタ・アルゲリッチの事だ。
そのマルタ・アルゲリッチを実の娘のステファニー・アルゲリッチが映画にした。これは観に行かなければファンとして話になるまい。

自分の肉親を映画にする。それがいかに困難な作業かは少し想像するだけで、理解出来る。日本語の題名は『アルゲリッチ 私こそ、音楽!』とあって、鵜呑みにすると彼女の演奏が主体になっているのかと思うが、原題を知るとそうは行くまいと思えてくる。"Bloody daughter"がこの映画の題名である。「厄介な娘」と訳せば良いのだろうか?

しかし、観てみるとそれ程の緊張感はない。
湿り気もなく、適切な距離感を保って、母を描いている。


とは言えやはり平凡ではありえなかった母を持つことの複雑さはそこここにほの見える。

演奏会の場面で
「母の演奏会を何回も見た。おそらくは何百回も。子どもの頃の私には、演奏会とは母のいない時間。母を失う時間だった。」

サイン会の場面で
「昔はなぜサインに時間を費やすのか分からなかった。ファンに献身する母の姿は私を苛立たせた。ファンに噛み付いたことも─」

「今はファンの姿が私を感動させ、子どもの頃の確信を思い出す─」
「母は超自然的な存在で、常人には手の届かない高みにいる。」
「つまり私は女神の娘なのだ」

などのナレーションにそれは見え隠れする。

女神の娘。だから厄介な娘なのだろうか?


だがその他のシーンでは、母と娘の複雑な関係は表立って現れてこない。むしろ長年接してきた者でなければ撮れなかったであろう貴重なシーンが目を引く。


日常を撮っている。

だが、それを逆から見れば日常的に撮り・撮られるという関係にあると言う事だ。そうした母と娘とは一体どんな感じなのだろう?と不思議にも思えてくる。
つまり、余りにも自然なステファニーの距離の取り方が逆に気に掛かってくるのだ。

この映画を撮って、ステファニーは
「母がもっと好きになった」
と語っている。

それはそれで良いのだろうが、どことなくステファニーには、母マルタから離れられないものを、この映画を通して感じてしまった。そこにやや不安を感じてならない。

「音楽は説明するものではなく,感じるものであり,言葉を超越するものだ」そうマルタ・アルゲリッチは言う。

この映画は名作ではあるまい。けれど、母と娘という関係も、同様に説明を拒絶するものであって、この映画は家族というものを、そしてその中の母という存在を感じる映画となり、言葉を超越することは出来ているのではないかとふと感じさせられた。

2012年 スイス、フランス
監督    ステファニー・アルゲリッチ
出演    マルタ・アルゲリッチ,スティーヴン・コヴァセヴィッチ,シャルル・デュトワ,リダ・チェン,アニー・デュトワ,ステファニー・アルゲリッチ