20140626

『チョコレートドーナツ』

この私が思わず泣いてしまった。

泣ける映画という言い回しは好きではない。だが、この映画の場合には肯定的に敢えて使いたい。

愛を描いた映画である。

それは男女の恋愛でもなければ、所謂家族愛でもない。

だが人が人を互いに大切に思い、人の為に奔走する姿は、観る者に大きな感動を残す。その姿が確実に描かれている。
1979年のカリフォルニア。まだマイノリティに対する風当たりはとても強かった時代、シンガーを夢見ながらもショーダンサーで日銭を稼ぐルディ、正義を信じながらも、ゲイであることを隠して生きる弁護士のポール、母から見放されて育ったダウン症の少年マルコ。その3人が出会い、愛情を育む。彼らはすぐに共に暮らすようになる。まるで「家族」の様に。

学校の手続きをし、初めて友達とともに学ぶマルコ。夢は叶うかに見えた。

だが幸福な時間は長くは続かなかった。

ありとあらゆる偏見と理不尽が3人を引き裂こうとする。

ゲイのカップルが子どもを育てている。悪影響があるに違いないという理由で。

ささやかな幸せを取り戻すために、ルディとポールは奔走する。

だが法律も彼らの味方ではなかった。


ルディはなぜマルコにそれ程の愛情を抱いたのだろうか?
その説明は映画のなかに殆ど無い。

けれどルディの姿を追ううちに、だんだんとその理由が分かってくる。

偏見や無理解に晒されて、彼はいかに孤独だったか。その孤独と同じ孤独をルディはマルコの中に見たのだろう。

3人が暮らすようになり、マルコに部屋が与えられる。自分の部屋に佇んでマルコは

「ここがぼくのうち?」と訊ねる。

「そうよ。」

そう答えるとマルコは泣き始める。嬉しいと言って。
そのシーンが上にあげた写真だ。


社会派ドラマという側面ももっているが、人間ドラマとしての深さとリアリティこそが胸を打つ。

マルコが好きだったもの。人形のアシュリー、ディスコダンス、ハッピーエンドのお伽話、そしてチョコレートドーナツ。


マルコはうちに帰ろうとしたに違いない。

公式サイト

最後に切々と歌い上げられる「I Shall Be Released」がとても印象的だ。

原題は「Any Day Now」

20140624

リルケ Komm Du...

ハンナ・アーレント『人間の条件』を読み始めた。

ハンナ・アーレントの主著のひとつであり、充実した本だ。読んだ方も沢山あるに違いない。

第7節「公的領域─共通なるもの」の注釈42でリルケの詩が引用されている。

志水速雄訳では原文が部分的にそのまま載せられているだけで全文もなければ訳もない。そこでWebと本棚の詩集から全文と訳を見つけ出した。紹介したい。

‘Komm Du...’

Komm du, du letzter, den ich anerkenne,
heilloser Schmerz im leiblichen Geweb:
wie ich im Geiste brannte, sieh, ich brenne
in dir; das Holz hat lange widerstrebt,
der Flamme, die du loderst, zuzustimmen,
nun aber nähr’ ich dich und brenn in dir.
Mein hiesig Mildsein wird in deinem Grimmen
ein Grimm der Hölle nicht von hier.
Ganz rein, ganz planlos frei von Zukunft stieg
ich auf des Leidens wirren Scheiterhaufen,
so sicher nirgend Künftiges zu kaufen
um dieses Herz, darin der Vorrat schwieg.
Bin ich es noch, der da unkenntlich brennt?
Erinnerungen reiß ich nicht herein.
O Leben, Leben: Draußensein.
Und ich in Lohe. Niemand der mich kennt.


来るがいい 最後の苦痛よ

来るがいい 最後の苦痛よ 私はお前を肯っている
肉体の組織のなかの癒やしがたい苦痛よ
嘗て精神のなかで燃えたように ごらん 私はいま燃えているのだ
お前のなかで。薪は久しく抗っていた
お前が燃やす焔に同意することに。
けれどもいま 私はお前を養い お前のなかで燃えている
私のこの世での穏和は お前の憤怒のなかで
この世のものならぬ冥府の怒りとなっている
全く純粋に なんの計画(プラン)もなく 未来からも解放されながら
私は苦悩の乱雑な薪の山のうえにのぼっていった
なかに無言の貯えがしまってあるこの心を代償に
このように確実に未来を購うことは 何処でもできはしない
いま 人目にたたず燃えている これがまだ私なのだろうか?
思い出を私はもってゆきはしない
ああ 生 生とは外にいることだ
だが 焔のなかにいる私 その私を知っている者は誰もいない

(放棄。これは嘗ての幼年時代の病気とは違ったものだ。幼い時の病気は一種の猶予期間であり、さらに成長するための口実であった。そこではすべてが叫び、ささやいていた。幼い時にお前を驚かしたものを、いまの病気のなかへ混合してはならない)
ヴァル=モンにて。恐らく1926年12月中頃のもの。最後の手帳のなかへ書き込まれた最後の詩。

(富士川英郎訳)