20210928

エルサレム〈以前〉のアイヒマン

ようやく読み切った。2週間掛かった。

だが、正直なところ今日(9月28日)中に読み終える事が出来るとは思っていなかった。

難産だった。読み切る迄に時間が掛かったのは、本が厚い上に活字が細かく、中でも丹念に付けられた注釈の文字が極端に小さく、しかも長い事が主な理由に挙げられると思う。

ハンナ・アーレントの『エルサレムのアイヒマン』は、出版された当時の人々に取ってだけでなく、現在に至る迄、衝撃的な本である。鬼か悪魔の様なイメージを期待されていたアイヒマンは、実は思考することを避けたがる凡庸な男であり、だがその凡庸さの故に、とんでもない悪事を実行したのだ。そう主張するアーレントの議論は、今では既に充分過ぎる程され尽くされたものとされていた。


だが、このベッティーナ・シュタングネトによる『エルサレム〈以前〉のアイヒマン』の登場は、そのアーレントによるアイヒマン像を根底から覆すだけの内容と根拠を持っている。

アイヒマンによる文章と音声録音という肝心な史料の大部分が放置されていたのだ。

戦後アイヒマンが逃亡したアルゼンチンには旧ナチ共同体が築かれていた。アイヒマンはそこで元武装SS隊員W・サッセン主催の座談会に参加。サッセンはそれを録音し、テープにして70巻以上になる音声のトランスクリプトを作成していた。アイヒマンは囚人となった後も8,000枚に渡る自己正当化を書き連ねた。

こうした史料が網羅的に研究されてこなかったのは、驚くべき事ではあるが、それは各所に分散し、分量は膨大で内容は耐え難い。さらにアルゼンチンでのあけすけな記録をアイヒマン本人が嘘と証言した為と考えられる。

本書は一人の哲学者が成し遂げた気の遠くなるような偉業であり、先駆者アーレントとの対話と言えるだろう。

アイヒマンは最初から、世間で自分がどうイメージされるかを注意深く観察し、それに影響を与えようと努めていた。そうしたアイヒマンは自分が600万人の人間の死に責任があるから「ユダヤ人の敵ナンバー・ワン」だと誇らしげに報告もしていた。

またハンナ・アーレントはアイヒマンについて「どちらかと言えばあまり知性に恵まれていない」と記し、服従という問題がはらむ哲学的重大性を彼は「漠然と察していた」にすぎない、と書いている。しかしこうした反応は性急過ぎるし、何と言っても危険である。アーレントは尋問と裁判の、ごく僅かな供述に基づいてそう言っているのだ。この分野でアイヒマンが行なっていた幅広い活動について、アーレントは知らなかった。

本書はアイヒマンという人物の、今迄知られていなかった側面を明らかにする。

アイヒマンは少なくとも凡庸な人物では無かった。

彼は充分な思考能力を備えた、筋金入りの国家社会主義者だったのだ。

この本の出現は、一つの事件である。アーレントによって確立されてきたアイヒマン像は、大きな変更を余儀なくされるだろう。

だが、アーレントの言う「凡庸な悪」の主張は、余り大きな変更を強いられはしないだろうと、私は考える。

アイヒマンは何はともあれ、自らの主体性が全くなかった訳ではないが、大きな権威に突き動かされ、大勢のユダヤ人を死に追いやった。その事実は何一つ変更されないだろうからである。

人は巨大な権威を前にすると、どこまでも恐ろしい犯罪に手を染めかねない。その教訓は今も生き続けている。

20210921

Spotifyにお任せ

3ヶ月で980円のキャンペーンに惹かれて、SpotifyをPremiumに上げた。

昨日、ようやくSpotifyのラジオ機能の使い方が分かった。

Spotifyを始めてもう3年経つが、未だに全ての機能が使いこなせているとは、とても言えない状態だ。

最初のうち既に触れたように私はSpotifyで好きなアーティストなどを検索して利用していた。だが、この頃は専ら古楽に集中している事もあって、Spotifyがこちらの聞き方をAIで解析して作ってくれるプレイリストを、ただひたすら聴きまくっている。毎日手を替え品を替え用意してくれるDaily Mixというプレイリストを3つか4つも聴くと、それだけでiPod touchの電池は大抵切れる。

それでもどういう加減か、電池に余裕がある時がある。

昨日がそうだった。

そこでDaily MIx 1のラジオを呼び出して、ずっとそれを流していた。


要はプレイリストの無限版と考えれば良いと思う。

既に聴いた曲は消えてしまうが、聴いているだけ例えばDaily Mix 1だったらそのリストと同じようなテイストの曲を延々と流し続けてくれる。

気に入らない曲が出てきたら、Premiumはスキップが無制限なので、遠慮なく飛ばして仕舞えば良い。

だが、SpotifyのAIはかなり優秀で(或いはこちらが単純なので)今のところスキップした曲は殆どない。

プレイリスト、或いはラジオで流している曲には、アルバムにも飛べるようになっているので、ここから好きなアルバムを聴き深めることも出来る。

実はそれをやりたいのだが、今のところDaily Mixとラジオを聴くのに精一杯で、それ以上深めて行く事が出来ずにいる。

つまり現在の私の音楽LifeはSpotifyに完全にお任せの状態になっているのだ。

だが、ラジオで再生した音楽は、そのままRadioのお気に入りソングというプレイリストに入れる事も出来、後で選りすぐりを聴き直す事が可能になっている。

しかし、そのようにして聴いていると、音楽という遊びの世界は、とてつもなく広いという事実に思わず瞠目してしまう。

大抵、遊びの世界は狭い。だがその遊びに含まれると思うのだが、音楽という世界は、圧倒的に広い。

プレイリストやラジオで流される音楽は、以前聴いたことがあるものも含まれるが、2/3以上は今迄聴いたこともない曲だ。

流石に3年も聴いていると、出てくる作曲家は大抵既出の人が殆どだが、それでも未だに見たことも聴いたこともない作曲家に出会うこともある。

私が聴いているのは、クラシックの中でも古楽と呼ばれる、極く狭い範囲のジャンルだ。それでも、未知の音楽に世界は満ちているのだ。

Spotifyにお任せでそれに身を委ねていると、SpotigyのAIは、次から次へと新しい音楽を届けてくれる。

そこから深めて行くのはまた次の機会にして、ここ暫くは今の聴き方でSpotifyを利用してゆこうと思っている。

20210914

蛇の言葉を話した男

 内容を詳しく語る事は避けよう。

エキサイティングで瑞々しいファンタジーである。主人公は滅びる事が定められた種族の末裔として設定されている。それを象徴するのが蛇の言葉である。昔、人々は森に棲み、当たり前の様に蛇の言葉を操っていた。だがこの物語はこう始まる。

森には、もう誰もいない。

主人公レーメットはその蛇の言葉を教えられ、操る事が出来る最後の人間なのだ。


作者アンドルス・キヴィラフクのこの小説は、単に幻想的な物語としてではなく、風刺的作品としてエストニアでは受け止められた。これは彼のそれまでの作品にはなかった特徴だが、エストニアの読者はこの風刺的な点には驚かなかった。作者は政治的、または社会的な主題について定期的に新聞などに寄稿して来たからだ。

癒される事がない孤独の物語だ。そしてまた、世界に対する幻滅の物語でもあるだろう。

小説の初頭では溢れるエネルギーを持つ素晴らしい森の現実は次第に消え去り、蛇たちのように全滅するか、サラマンドルのように忘却の淵に沈む。

この小説は何よりも「モヒカン族の最後」であることについての思考であり、時代から取り残されていること、世界と時差があることについての考察なのだ。

中欧に固有のアイデンティティ、生活様式、文化や言語という軸を通してこの思考はなされている。

エストニアの国民アイデンティティは主に言語を通して確立されていることを、読者は良く理解しておかなければならない。エストニア人はインド・ヨーロッパ語族に先立つ言葉を何千年間もの間保って来たことをとても誇りにしており、その文化についても同様だ。けれど彼らは近代化のせいでそれが脅かされていると感じている。

ロシア語話者であるソヴィエト連邦の権力による、文化の極度な押し付けは、半世紀の間エストニア人を抑圧し、彼らはそれに警笛を鳴らして来た。そして、この問題は、別の形ではあるがグローバル化した英語話者の世界にも言えることだろう。

マイナーな文化、マイノリティ、少数民族には、未来はあるのだろうか?

しかし、キヴィラフクのこの小説は、去りゆくものに対するノスタルジーを表明しているだけのロマンティックな物語ではない。

過去の世界の者となった男の視点から物語は書かれ、近代性を拒む以外に選択肢がない人間がいることを強調しているが、彼は決してかつての時代や森に住む最後の部族を理想化し、あたらしい世界を一絡げに批判し蔑視するだけの、先住民擁護の罠に陥ることはない。それはレイシズムの単なる裏返しであることを十分に認識しているからだ。

その意味では、物語を読むに当たって、主人公レーメットに過剰に身を委ね、彼の視点のみから物語世界を見る姿勢は、注意深く避けねばならない態度だろう。

私たちはこの物語のうちの誰なのだろうか?レーメット?おじさん?鉄の男?マグダレーナ?それとも母さん?

20210911

中世ヨーロッパ

 私が学生だった頃(もう40年も前だ)に比べると、ヨーロッパの中世の知識は、格段の差がある。この50年余りの間に歴史学は知識の集積、新史料の発掘などにより、長足の進歩を遂げた。

だが、それと共に(または反して)、ヨーロッパ中世に対する、根強い偏見は、より強化された面もあるように思う。


本書は、そうした根強いヨーロッパ中世に関するフィクションを払拭する為に書かれたものだ。11のフィクションを取り上げて、一次史料を訳出しつつ、丁寧にファクトチェックしている。

本書はひとつひとつのフィクションに対して、人々が起きたと思っていること、一般に流布した物語(ストーリー)、(それを引き起こした)一次史料でフィクションの全体像を明確に示し、実際に起きたこと、(その認識を支える)一次史料で、最新の研究に基づく、より正確な歴史理解が明らかにされるという構成を持っている。

本書で扱われているフィクションを、著者は「中世主義/中世趣味medicvalism」と説明している。しかし、中世主義の中身は実に多様だ。中世をポジティブに捉える姿勢もあれば、ネガティヴに捉える姿勢もあり、担い手も様々である。その把握は一筋縄ではいかず、読者は多少混乱するかもしれない。けれどその点に関しては、訳者大貫俊夫氏による、丁寧な解説が「訳者あとがき」でなされている。

だが本書を読んでいて、私は何度か冷や汗をかいた。11のフィクションは、どれも私自身がそう信じていた事、そのものだったからだ。

中世を暗黒時代と捉える考え方からは、どうにか脱却できていたが、私はこの本を読む迄、ヨーロッパ中世の人々は不潔だったと思い、バイユーのタペストリーなどの影響から、中世の戦争は馬に乗った騎士が戦っていたと思い込み、1212年の少年十字軍の悲劇をまともに信じていた。

私は知らず知らずのうちに、中世主義に陥っていたようだ。

本書が圧倒的に説得力を持っているのは、フィクションを形成したのは誰の何という史料だったのか、そしてどの様な史料に基づいて、実際にはどうだったのかが具体的に示されている点だ。一次史料を訳出し、掲載する事によって、フィクションがフィクションである理由は何か、どの様な証拠に基づいて、事実はどうだったのかが、強力な説得力の元に示されている。

私の中世ヨーロッパ像は、この本を読む事によって、大きく修正された。

この本の有難い点は、11のフィクションそれぞれについて、さらに詳しく知るためにで、数多くの著作が紹介されている点だ。日本語に訳されている本は、訳書が示されている。これに従って、読者はより多くの、確かな情報を追跡する事が出来る。

それでは、なぜ私たちは間違った歴史認識を作り出し、なかなか手放せないでいるのだろうか?

訳者はその理由として、歴史観を構築するにあたって、普遍的に見られる「くせ」のようなものがあるからなのではないかと指摘する。

短慮軽率型:一つ、あるいは数少ない史料に記された内容を時代全体に敷衍すること。これは史料が断片的にしか伝来していない中世についてしばしば生じる落とし穴であろう。一つの出来事、一つの史料的根拠から一つの時代を説明したい、歴史の大きな流れを一括りに捉えたい、という欲求に抗うことはなかなか難しい。

優劣比較型:異なる時代、異なる地域と比較して優劣を決めてかかること。本書題1章で中世がどのように「暗黒時代」と認識されるようになったかを読むと、そのからくりが容易に理解できるだろう。

人身御供型:歴史的な出来事の原因・責任を、何かしらの先入観に基づき、何か一つの主体に押し付けること。本書を読むと、中世の非科学的な「後進性」に関連して、カトリック教会がいかに槍玉に挙げられてきたかがわかる。

これら三つの類型のどれが当てはまるか。そのような事を考えながら本書を読む事をお勧めしたい。

私は私の中世趣味の延長として、本書を手に取ったが、その偶然の出会いに深く感謝したい気持ちでいっぱいだ。本書に出会わなかったら、私はずっとフィクションをファクトと勘違いしたままだっただろう。

一冊の本によって、それまで抱いていた考え方ががらりと変化する事。それは、未知の物事を知る事に匹敵する快感を伴う体験だ。私が今抱いているヨーロッパ中世観は、昨日のそれとは全く違う。私は私にとって全く新しい時代を生き始めた。この本はそれを記す大きなメルクマールとなるに違いない。

20210907

離れがたき二人

 第2波フェミニズムの草分け的存在シモーヌ・ド・ボーヴォワールには、娘時代、ザザことエリザベット・ラコワンという無二の親友がいた。ザザは21歳にして、夭逝してしまったのだが、彼女がボーヴォワールに与えた影響は、ボーヴォワールの人生全体に及ぶほど大きかった。

本書は、その親友ザザをモデルとして、実体験に即して書かれた自伝的小説である。


この小説は1954年に執筆されていたが、サルトルから出版に値しないと評されたこともあり、またボーヴォワール自身が「この物語は無意味に思えたし、面白くなかった」と判断した事もあり、刊行されず仕舞いだった。1986年にボーヴォワールが亡くなる前、彼女は養女シルヴィー・ル・ボン・ド・ボーヴォワールに作品の扱いを一任した。

実に66年を経て、本作はようやく読者の目に触れる機会を得たと言えるだろう。

本書を一読して感じるのは、ボーヴォワールにフェミニズムの種を植え付けたのは、親友ザザその人だという事だ。

作家のフレデリック・ベグベデは本書を評して「エリザベット(本書でのアンドレ)、彼女こそが、カトリックのブルジョワ階級が女性に及ぼしている抑圧に対しボーヴォワールの目を開かせてくれた。ここで私たちは、単なるフェミニズムのみならず、ボーヴォワールにおけるフェミニズムの誕生に立ち合っているのだ」と述べている。同感である。

私たちはまず、本書に書かれた伝統的なフランスブルジョワ社会の、因習的な姿に驚く。

文芸評論家のオリヴィア・ド・ランベルトリは「この小説は決して古臭くない。古臭いのは(描かれている)時代なのだ」同じく評論家のジャン=クロード・ラスピエンジャスは「本書は因習的なフランスの貴重な証言だ」と、それぞれ評している。

本書の冒頭で

九歳の時、わたしは親の言うことを聞く良い子でした。

と書かれている。

ボーヴォワール(本書でのシルヴィー)は、良い子だった。その九歳の時アンドレと出逢っている。

歴史にもしはないが、敢えてもしシルヴィーがアンドレの個性に出逢っていなかったら、つまりボーヴォワールが「良い子」のままだったら、第2波フェミニズムそのものが大きく異なったものに、或いはそもそも存在しなかった可能性すらあるのではないだろうか。

本書には、本編以外に作品を託されたシルヴィー・ル・ボン・ド・ボーヴォワールによる「幼女によるあとがき」(ここには本編に含まれなかったザザの素顔が書かれている)、写真資料、ボーヴォワールとザザとの間に交わされた手紙が添付されている。ここから得られる事柄も多い。

ボーヴォワール自身も「私たちは、自分たちを待ち受けていた、抗うべき運命に共に挑んでいた。そして私は、彼女の死を代償として自らの自由を手に入れた気がしていた」(『娘時代─ある女の回想』と述べている。

私たちは本書を通じて、確かにボーヴォワールがボーヴォワールになる前夜を読む事が出来るのだと強く感じる。

20210905

アカデミアを離れてみたら

 末は博士か大臣かという言葉があった。一昔前ならば、博士号取得者とは、即ち研究者であり、当然のように大学に残って、研究者としての道を悠然と歩いて行く。そう思えた。だが、現在、その「常識」はすんなりとは通用しなくなっているようだ。


本書のあとがきに詳しいが、1991年、まさにバブルが弾けたと言われるその年に、文部省は相次いで答申を発表する。後に「大学院生倍増計画」と揶揄された目標である。

その目標は一応すんなりと達成され、博士は昔思われたような希少な存在ではなくなった。

だが、大学院生が増えても、その受け皿はそう簡単には「倍増」しなかった。

その為、行き場を失ったポスドクが大量に発生する羽目に陥った。

本書ではアカデミアを「大学あるいはそれに類する公的機関における研究環境」と、ゆるく捉えている。

その研究者としての常道から外に踏み出した者たちが、どのような人生を歩んでいるのかを、体験談の形で投稿してもらったものを集めた本が、本書である。

他人事ではない。私もかつては東大地震研というアカデミアに属し、働いていたが、現在の女房殿と出逢って、田舎を離れる事が出来ないという彼女の意向を汲んで、私なら大地が存在する所ならばどこでも生きて行けるとばかりに、アカデミアを飛び出したのだ。

現在はフリーランスの身分で、地質調査を請け負い、それを生業にして、なんとか糊口を凌いでいる。だが、仕事が仕事になるまでが実に大変で、必要な額の収入を得るのに、以前の3倍以上のエネルギーを必要としている。

他のアカデミアを飛び出した方々は、どういう人生を歩んでいるのだろう?

その実例を知りたくて、本書を手に取った。

だが、読み進めるに従って、心のどこかでどうしようもなく白けて行く事を、抑える事が出来なくなった。

あとがきでは、本書の特徴は決して輝かしい著名人だけを取り上げているわけではない。著者の殆どは言ってしまえば普通の人たちだ。とある。

だが、その経歴を見ても、出た大学院が東大、京大、北大と錚々たる名門揃いであり、その後の人生も、概ね成功している例ばかりに思える。

教授や主任研究員になるのが「勝ち組」、外に出るのは「負け組」と思っていたが、アカデミアを離れてみたら、決してそうではなく、それなりに充実した人生がある。そう言っているように思える。

無論、失敗例を出すのは得策ではないだろう。

博士号取得者が思うような進路を歩めていない現実の前で、大学院に進む学生そのものが減って来ている。そういう声も聞こえる。

本書には、決してアカデミアに固執するばかりが人生ではない。そうではない実例もあるのだと、その事を示したいという目論見もあるのだろう。

だが、アカデミアを離れた者たちは皆が皆東大や京大、北大などを出た訳ではないのだ。むしろ、そうした大学院を出ていても、研究者に残れないのかと、事の重大さに改めて気付くのが落ちである。

アカデミアに残るばかりが進路ではない。アカデミアを離れても、そこには沢山の希望があるのだという事を示したいのならば、筆者として、比較的うまく行っている例を集めたと、正直に書くべきではないのか?

それでも投稿を読むと、皆それぞれに希望に満ちた、波乱に富んだ人生をやっていると言う事に心は動かされる。

本書が言いたいのは、アカデミアを離れる事は決して「負け組」ではないのだという、その一点だと思う。

その為に成功例を並べ、皆様に勇気を守ってもらいたかったと、正直に言えば良い。それでも本書の意図は、充分に伝わると思える。

20210903

フロイト、性と愛について語る

 『精神分析学入門』を紐解くまでもなく、フロイトは精神分析を科学と考えて来た。また、科学的である事に、生涯を掛けて拘ってきた人物でもある。だが、フロイトの精神分析とは科学なのだろうか?または、フロイトが考えていた科学とは、どういう物だったのだろうか?本書を読んで、その事が気に掛かった。


本書はフロイトの思想の中でも中核をなす、性と愛についての論考をまとめたものだ。今迄、分散していた概念が、集中して語られているので、フロイトを理解する上で、大いに助けられた。

中でも「解剖学的な性差の心的な帰結」は、今迄曖昧だった。フロイトのエディプス・コンプレックスの考えを、どの様に女性に敷衍しているのかが分かり、大変参考になった。

人間はその人生の多くを、他人との関係性の中で、過ごす。その時に中核となるのは、家庭生活の中で繰り広げられる、父や母、または兄弟との軋轢だろう。そこで獲得してきた思想を核として、他の人たちとの関係を築いてゆく。

それ故に、愛情生活の心理学は、人がどのように生き、人と関係を結んでゆくかを考察する上で、重要な手掛かりを提供してくれる。

この本にはそれが、余す所なく書かれている。

なるほど取り上げられるテーマは、日常にありふれた事例とは大きく異なったものが多い。だが、その「異常な」事例は、日常に埋もれてしまいがちな精神生活の力動関係が、破綻を来した時、どのような事柄が起こるのかが目に見える形で現れている。フロイトが病的な事例を扱うのは、だからだろう。

それにしてもフロイトはなぜこれ程迄に性に拘ったのだろうか?その答えは、フロイトを精神分析して、診断してみないと分からないもののように思える。

フロイトの著作に続いて、巻末に付せられた、中山元さんの解説「フロイトの性愛論の文明論的な広がり」は、フロイトの文章の丁寧な解説として読めるが、この文章自体が、一個の独立した著作になっているとも言える。優れたフロイトの解説書になっている。