内容を詳しく語る事は避けよう。
エキサイティングで瑞々しいファンタジーである。主人公は滅びる事が定められた種族の末裔として設定されている。それを象徴するのが蛇の言葉である。昔、人々は森に棲み、当たり前の様に蛇の言葉を操っていた。だがこの物語はこう始まる。
森には、もう誰もいない。
主人公レーメットはその蛇の言葉を教えられ、操る事が出来る最後の人間なのだ。
作者アンドルス・キヴィラフクのこの小説は、単に幻想的な物語としてではなく、風刺的作品としてエストニアでは受け止められた。これは彼のそれまでの作品にはなかった特徴だが、エストニアの読者はこの風刺的な点には驚かなかった。作者は政治的、または社会的な主題について定期的に新聞などに寄稿して来たからだ。
癒される事がない孤独の物語だ。そしてまた、世界に対する幻滅の物語でもあるだろう。
小説の初頭では溢れるエネルギーを持つ素晴らしい森の現実は次第に消え去り、蛇たちのように全滅するか、サラマンドルのように忘却の淵に沈む。
この小説は何よりも「モヒカン族の最後」であることについての思考であり、時代から取り残されていること、世界と時差があることについての考察なのだ。
中欧に固有のアイデンティティ、生活様式、文化や言語という軸を通してこの思考はなされている。
エストニアの国民アイデンティティは主に言語を通して確立されていることを、読者は良く理解しておかなければならない。エストニア人はインド・ヨーロッパ語族に先立つ言葉を何千年間もの間保って来たことをとても誇りにしており、その文化についても同様だ。けれど彼らは近代化のせいでそれが脅かされていると感じている。
ロシア語話者であるソヴィエト連邦の権力による、文化の極度な押し付けは、半世紀の間エストニア人を抑圧し、彼らはそれに警笛を鳴らして来た。そして、この問題は、別の形ではあるがグローバル化した英語話者の世界にも言えることだろう。
マイナーな文化、マイノリティ、少数民族には、未来はあるのだろうか?
しかし、キヴィラフクのこの小説は、去りゆくものに対するノスタルジーを表明しているだけのロマンティックな物語ではない。
過去の世界の者となった男の視点から物語は書かれ、近代性を拒む以外に選択肢がない人間がいることを強調しているが、彼は決してかつての時代や森に住む最後の部族を理想化し、あたらしい世界を一絡げに批判し蔑視するだけの、先住民擁護の罠に陥ることはない。それはレイシズムの単なる裏返しであることを十分に認識しているからだ。
その意味では、物語を読むに当たって、主人公レーメットに過剰に身を委ね、彼の視点のみから物語世界を見る姿勢は、注意深く避けねばならない態度だろう。
私たちはこの物語のうちの誰なのだろうか?レーメット?おじさん?鉄の男?マグダレーナ?それとも母さん?
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