第2波フェミニズムの草分け的存在シモーヌ・ド・ボーヴォワールには、娘時代、ザザことエリザベット・ラコワンという無二の親友がいた。ザザは21歳にして、夭逝してしまったのだが、彼女がボーヴォワールに与えた影響は、ボーヴォワールの人生全体に及ぶほど大きかった。
本書は、その親友ザザをモデルとして、実体験に即して書かれた自伝的小説である。
この小説は1954年に執筆されていたが、サルトルから出版に値しないと評されたこともあり、またボーヴォワール自身が「この物語は無意味に思えたし、面白くなかった」と判断した事もあり、刊行されず仕舞いだった。1986年にボーヴォワールが亡くなる前、彼女は養女シルヴィー・ル・ボン・ド・ボーヴォワールに作品の扱いを一任した。
実に66年を経て、本作はようやく読者の目に触れる機会を得たと言えるだろう。
本書を一読して感じるのは、ボーヴォワールにフェミニズムの種を植え付けたのは、親友ザザその人だという事だ。
作家のフレデリック・ベグベデは本書を評して「エリザベット(本書でのアンドレ)、彼女こそが、カトリックのブルジョワ階級が女性に及ぼしている抑圧に対しボーヴォワールの目を開かせてくれた。ここで私たちは、単なるフェミニズムのみならず、ボーヴォワールにおけるフェミニズムの誕生に立ち合っているのだ」と述べている。同感である。
私たちはまず、本書に書かれた伝統的なフランスブルジョワ社会の、因習的な姿に驚く。
文芸評論家のオリヴィア・ド・ランベルトリは「この小説は決して古臭くない。古臭いのは(描かれている)時代なのだ」同じく評論家のジャン=クロード・ラスピエンジャスは「本書は因習的なフランスの貴重な証言だ」と、それぞれ評している。
本書の冒頭で
九歳の時、わたしは親の言うことを聞く良い子でした。
と書かれている。
ボーヴォワール(本書でのシルヴィー)は、良い子だった。その九歳の時アンドレと出逢っている。
歴史にもしはないが、敢えてもしシルヴィーがアンドレの個性に出逢っていなかったら、つまりボーヴォワールが「良い子」のままだったら、第2波フェミニズムそのものが大きく異なったものに、或いはそもそも存在しなかった可能性すらあるのではないだろうか。
本書には、本編以外に作品を託されたシルヴィー・ル・ボン・ド・ボーヴォワールによる「幼女によるあとがき」(ここには本編に含まれなかったザザの素顔が書かれている)、写真資料、ボーヴォワールとザザとの間に交わされた手紙が添付されている。ここから得られる事柄も多い。
ボーヴォワール自身も「私たちは、自分たちを待ち受けていた、抗うべき運命に共に挑んでいた。そして私は、彼女の死を代償として自らの自由を手に入れた気がしていた」(『娘時代─ある女の回想』と述べている。
私たちは本書を通じて、確かにボーヴォワールがボーヴォワールになる前夜を読む事が出来るのだと強く感じる。
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