20210911

中世ヨーロッパ

 私が学生だった頃(もう40年も前だ)に比べると、ヨーロッパの中世の知識は、格段の差がある。この50年余りの間に歴史学は知識の集積、新史料の発掘などにより、長足の進歩を遂げた。

だが、それと共に(または反して)、ヨーロッパ中世に対する、根強い偏見は、より強化された面もあるように思う。


本書は、そうした根強いヨーロッパ中世に関するフィクションを払拭する為に書かれたものだ。11のフィクションを取り上げて、一次史料を訳出しつつ、丁寧にファクトチェックしている。

本書はひとつひとつのフィクションに対して、人々が起きたと思っていること、一般に流布した物語(ストーリー)、(それを引き起こした)一次史料でフィクションの全体像を明確に示し、実際に起きたこと、(その認識を支える)一次史料で、最新の研究に基づく、より正確な歴史理解が明らかにされるという構成を持っている。

本書で扱われているフィクションを、著者は「中世主義/中世趣味medicvalism」と説明している。しかし、中世主義の中身は実に多様だ。中世をポジティブに捉える姿勢もあれば、ネガティヴに捉える姿勢もあり、担い手も様々である。その把握は一筋縄ではいかず、読者は多少混乱するかもしれない。けれどその点に関しては、訳者大貫俊夫氏による、丁寧な解説が「訳者あとがき」でなされている。

だが本書を読んでいて、私は何度か冷や汗をかいた。11のフィクションは、どれも私自身がそう信じていた事、そのものだったからだ。

中世を暗黒時代と捉える考え方からは、どうにか脱却できていたが、私はこの本を読む迄、ヨーロッパ中世の人々は不潔だったと思い、バイユーのタペストリーなどの影響から、中世の戦争は馬に乗った騎士が戦っていたと思い込み、1212年の少年十字軍の悲劇をまともに信じていた。

私は知らず知らずのうちに、中世主義に陥っていたようだ。

本書が圧倒的に説得力を持っているのは、フィクションを形成したのは誰の何という史料だったのか、そしてどの様な史料に基づいて、実際にはどうだったのかが具体的に示されている点だ。一次史料を訳出し、掲載する事によって、フィクションがフィクションである理由は何か、どの様な証拠に基づいて、事実はどうだったのかが、強力な説得力の元に示されている。

私の中世ヨーロッパ像は、この本を読む事によって、大きく修正された。

この本の有難い点は、11のフィクションそれぞれについて、さらに詳しく知るためにで、数多くの著作が紹介されている点だ。日本語に訳されている本は、訳書が示されている。これに従って、読者はより多くの、確かな情報を追跡する事が出来る。

それでは、なぜ私たちは間違った歴史認識を作り出し、なかなか手放せないでいるのだろうか?

訳者はその理由として、歴史観を構築するにあたって、普遍的に見られる「くせ」のようなものがあるからなのではないかと指摘する。

短慮軽率型:一つ、あるいは数少ない史料に記された内容を時代全体に敷衍すること。これは史料が断片的にしか伝来していない中世についてしばしば生じる落とし穴であろう。一つの出来事、一つの史料的根拠から一つの時代を説明したい、歴史の大きな流れを一括りに捉えたい、という欲求に抗うことはなかなか難しい。

優劣比較型:異なる時代、異なる地域と比較して優劣を決めてかかること。本書題1章で中世がどのように「暗黒時代」と認識されるようになったかを読むと、そのからくりが容易に理解できるだろう。

人身御供型:歴史的な出来事の原因・責任を、何かしらの先入観に基づき、何か一つの主体に押し付けること。本書を読むと、中世の非科学的な「後進性」に関連して、カトリック教会がいかに槍玉に挙げられてきたかがわかる。

これら三つの類型のどれが当てはまるか。そのような事を考えながら本書を読む事をお勧めしたい。

私は私の中世趣味の延長として、本書を手に取ったが、その偶然の出会いに深く感謝したい気持ちでいっぱいだ。本書に出会わなかったら、私はずっとフィクションをファクトと勘違いしたままだっただろう。

一冊の本によって、それまで抱いていた考え方ががらりと変化する事。それは、未知の物事を知る事に匹敵する快感を伴う体験だ。私が今抱いているヨーロッパ中世観は、昨日のそれとは全く違う。私は私にとって全く新しい時代を生き始めた。この本はそれを記す大きなメルクマールとなるに違いない。

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