20260518

3934km

フアン・カルロス・ケサダス『1934lkm国境を越えて』。

3934kmは主人公ネコが国境を越える迄に旅した距離の総計。

旅の殆どを支配しているのは、想像を絶する、過酷な運命だ。

多くのラテン・アメリカの人々がより良い未来を求めて合衆国を目指して過酷な旅に身を投じている。彼らの殆どは危険を承知で国境を越えた「書類のない」移民だ。


著者フアン・カルロス・ケサダスは述べる。

まだ九歳か十歳のイレーネをこれほどの暴力下に置くのはさすがに行き過ぎではないかと思った。そこで筆を止め、移民の子どもたちの現実がどのようなものか調べてみた。そして胸が張り裂けるような思いになった。僕が書いたもののほうが、むしろ控えめだったのだ。

読者は、ここを出発点にこの本を読まねばならない。

この本の主人公マリア・イレーネ・マダリアガ・マダリアガ通称ネコはラッキーな方なのだ。

私たちは、と言うより私は、移民の実際を殆ど知らない。そしてそれ故に時に理不尽な差別意識を抱いて彼らを見る。

この本に書かれているネコの物語を要約することは私には出来ない。まだ少女期が始まったばかりと言える年齢の彼女らの置かれている状況は、極めて過酷で高密度な削る余地のない時間の集傀なのだ。

彼女らは身の安全を期する為に昼間樹の上で眠り夜歩く。彼女らが常に追われている存在だからだ。

そしてナイフにバートという名前をつけ肌身離さず持ち歩く。

警戒している事。攻撃的である事。それが彼女らの基本姿勢になる。

殆どの人々から追われている様な生活。私たちにはそれを想像する生地があるだろうか?

時に、味方してくれる人も居る。彼らは「身に覚えのある」人々だ。

この本に、ハッピーエンドを期待する方々にはこの本はお勧めしない。確かにラッキーにも彼女らは数々の助けにも力を借りて国境越えに成功する。だがそこで苦労は終わる訳ではあるまい。彼女らを待ち受けているのは、また別種類の苦難なのだ。

私たちは彼女らを味方する側に身を置いていない。彼女らを追う側に、安住している。

20260515

エクソフォニー

日本語とドイツ語の間を軽々と越境し続ける作家、多和田葉子の様々な言語を巡る思い巡らし。

夢は日本語で見るのか、ドイツ語で見るのかと、良く質問を受けるらしい。著者はその質問に不快感を隠さない。

日本語が本物なのかドイツ語が本物なのかと、人を試す様な質問だからだ。

どちらでも見る様だ。それだけではなく、喋れもしないスペイン語やフランス語での夢も、頻繁に見ると言う。

一旦、母語から脱出すると、そう言うものなのかと、妙に納得出来た。


様々な言語に触れて来た。だが、海外に長く滞在する事がなかったので、どれもちっともモノにならない。

多和田葉子さんの様に、海外に拠点を構えて活躍する日本人には、強い憧れを抱いている。

この本には、母語の外に脱出すると言う事が、どう言う事なのかが、微に入り細に入り、詳しく述べられている。

それは日本語とドイツ語の間の関係に留まらず、他の様々な言語を例にとり、著者がそれ等とどのように関係を築いて来たのかを、具体的な例を引きながら、述べられている。

日本語と外国語の間を越境すると言うことは、例えば合わせ鏡の様に、両者を独特な感性で、眺める事を可能にする行為でもあるようだ。

例えば、松尾芭蕉の『奥の細道』のドイツ語訳を読んで、訳がおかしいのではないかとドイツに住む日本人に問われたりする。「月日は百代の過客にして」の月日がSonne und Mondと訳されているのだ。確かにおかしい。普通ならばそこで話は終わってしまう。だが多和田葉子さんは、この『奥の細道』のドイツ語訳は美しいと、暫く考えて思ったりする。中世の人間が「月日」と言った時、実際の太陽が出て沈み、月が出て沈む情景が、比喩としてでなく、具体的な生活感覚としてあったのではないかと、思い巡らしているのだ。

誤訳と思われるまでの直訳は、わたしたちを言葉の原点に立ち返らせ、言葉を比喩という老衰から救う役割を果たしてくれることがあるように思う。

この種の思い巡らしは、母語と外国語を越境し続ける事でしか、得られない感覚だと、私には思える。

その感覚は、彼女の文学観にまで及んでいる。

文学を書くということは、いつも耳から入ってきている言葉をなんとなく繋ぎ合わせて繰り返すことの逆で、言語の可能性とぎりぎりまで向かい合うということだ。そうすると、記憶の痕跡がたくさん活性化され、古い層である母語が今使っている言語をデフォルメするのかもしれない。

人は生まれた時、あらゆる言語を獲得する能力を持って生まれて来るのだと言う。だが、例えば日本語の環境で育ち始めると、6ヶ月程でlとrの区別をする能力が失われてしまう。つまりひとつの母語を獲得すると言う事は、他の言語を獲得する能力を失う事でもあるらしい。

私たちは、ある程度育ってから、他の言語を、再び学ぶ事に、妙な憧れを抱く。それは失われた能力に対しての、ある種のノスタルジーなのかも知れない。

母語から脱出する旅とは、どの様な旅なのかを、事細かく解説してくださった多和田葉子さんには、感謝の念を抑える事が出来ない。この本の読書体験を基に、これからも多和田葉子さんの作品を読解して行きたいと思わざるを得ない。

20260513

あじさしの洲/骨王

『あじさしの洲/骨王 小川国夫自選短篇集』

力みのない、奇を衒った表現も全くない、淡々とした日本語が綴られている。それでいながら、描かれている情景は鮮明で、独特の光沢を帯びている。

それが小川国夫の文学である。

私はこの本を読み始めて、一行目から、ぐいぐいと引き込まれる力を、感じざるを得なかった。

この本には、小川国夫が自ら選び抜いた、11の短篇が収められている。


どれがどれより優れているかとか、比較することは不可能だった。それぞれに、独自の魅力がある。

選ばれた作品はどれも、似通ったものはなかった。それぞれに独自の世界観を持ち、小川国夫という宇宙に散りばめられた星座の様に、輝いている。

ある作品には心中に引き込まれてゆく男女の情景が描かれ、ある作品には旧約聖書の世界が縦横無尽に展開されている。

しかし、読み終えて、作品のひとつひとつを振り返ると、そこには首尾一貫とした、小川国夫の色彩がある。そうした矛盾したような感想をなぜ抱くのか?いくら考えても、その謎は解けなかった。

作品に描かれているのは、人々と自然の織りなす情景であり、その中で繰り広げられる、登場人物たちの素朴な行為だ。

だが、私たちはそこから、登場人物たちの細やかな心理を、確かに読み取る事が出来るのだ。

それぞれの登場人物たちは、まるで旧知の親友であるかのように、最初から親しげにそこに存在している。

従って、私たちは登場人物の行為の意味やその必然性を、何の疑問もなく、理解することが出来る。

彼等はまた彼女等は私が経験をした事もない境遇を生き、行為する。私たちはそれを後追いする事で、自らもまたその境遇、行為を経験したような世界に浸る。

小川国夫は彼の作品を読む事で、読者の人生の幅を大きく拡げてしまうような力がある。

不思議な作家だ。

20260502

ファウスト

面白い本は多いが、これ程の感動に包まれる読書体験は、人生の中でそう多くない。

ゲーテ『ファウスト』を、遂に読んだ。


今迄読んでいなかったのは、家にある本が柴田翔訳のもので、出来れば彼以外の訳で読みたいと思っていたからだ。

だが、図書館から借りた本は全て読み切ってしまった。この際と思い切りを付けて、彼の訳で読む決心を、この程固めた。

読み始めて、思ったより良い訳になっていると感じた。真剣にゲーテと向き合って訳している。


なんと言う恐るべき作品なのだろうか?!

読み終えて暫くの間放心してしまい、何も手に付かなかった。

柴田訳は上巻に第I部が、下巻に第II部が当てられている。第I部、第II部は、それぞれ独立しており、全く別の作品と言っても構わないものになっていると感じた。

第I部はファウストのメフィストとの契約までの物語が、比較的短い章立てで、軽快に進行してゆく。

芝居の脚本として書かれているが、台詞は全て韻文になっており、完成度の極めて高い詩が、延々と続いて行く筋立てになっている。

柴田訳は、その韻文の面にも可能な限り気を配り、工夫して訳されているが、詩の芳香は損なわれていない。

だが、脚本の軽快さに引き摺られたのか、ファウストの人生に対する飢餓感がもうひとつ上手く表現し切れておらず、その部分は残念だった。

第II部は一転して、超人的な力を得たファウストが、時空を超えて、ギリシア神話の世界に迄及ぶ壮大な冒険譚を展開する構成になっており、ゲーテが達し得た、高邁な人生観が存分に表現されている。

とても人間が書いたものに思えなかった。ゲーテがこの作品に費やした年月は60年に及ぶ。確かにそれだけの内容を持っている。或いはゲーテ自身がこの作品を完成させる為に、メフィストと契約を交わしたのではないかとすら思える程の、完成度の高い、奔放で壮大な想像力が、作品全体を覆い尽くし、遺憾無く発揮されている。

今回は読み切る事を主眼とした為、作品を深読みする事が出来なかったが、この作品は単に読み切るだけでは勿体無いと、読後感じた。私が『ファウスト』を読めたと感じるのはまだ先の事だ。私と『ファウスト』の付き合いは、これから始まるのだろう。そしてまた、ゲーテの音律を深く味わう為に、ドイツ語で読んでみたいという欲求を強く感じた。この作品には、それだけの時間を割く価値が充分にある。

20260425

見えない都市

危うく通り一遍の読み方をしてしまう所だった。

作者はイタロ・カルヴィーノである。何かを隠しているに違いないと思い返し、読み直して、おぼろげながら、主題のようなものを掴み取る事が出来たと思う。

それでもまだやはり何か見落としているのではないかという思いが消えない。

イタリアの商人マルコ・ポーロが、フビライ汗に、自分が旅して見聞して来た55の都市について語るという設定で、物語は進む。


一見単なる『東方見聞録』のパロディーである。

いや、勿論そうした見立ても間違いではあるまい。55もの都市を想像するだけでも、気が遠くなる様な桁外れの想像力だ。

だが、それらの都市が、マルコ・ポーロが実際に見て来た都市なのか、空想なのかは明かされていない。

ヒントは、何気なく書かれたような台詞、都市の名前に隠されている。

都市の名前が、全て女性の名前になっている。まずその事に気が付いた。

そして、フビライ汗はマルコ・ポーロに

都市は全て似通っていると指摘する。

そうなのだ。語られる55の都市は、全てヴェネチアの変奏になっているのだ。

それらが記憶、欲望、死などの人間の内面を象徴する主題を11のカテゴリーに分けて映し出して揺蕩い、幻の様に存在している。

記載は極めて簡潔でありながら、強いイメージを伴っている。それ故、読む者によって解釈が変わる、余白が多い構成になっている。

マルコ・ポーロによって語られる都市とは、即ち人間であり、都市の様相は人間の持つ多彩な側面を暗示しているのだ。

その事を理解した上で、『マルコ・ポーロの見えない都市』を再読すると、そこにはイタロ・カルヴィーノの持つ、極めて深い美意識が貫かれている事に気付く。

この作品の核心は、都市そのものではなく、都市を語る事=世界を理解しようと試みる事にあると言って良い。

更に読みは進む。

この物語には、言葉が通じない状況でも、意味は伝わるのか?世界は本当にひとつの形で理解出来るのか?と言った、様々な問いが隠されている。

なにしろこの本自体が、読みを重ねる毎に、見えて来る主題が千変万化する構成になっているのだ。

この作品は、イタロ・カルヴィーノの他の作品同様、時を置いて、何度か再読する心算でいる。その時には、今回とは全く別の感想文を認(したた)める事になるだろう。楽しみだ。

20260420

侍女の物語

呪文の様な、或いは沈黙にも似た、言葉が続く。翻訳を通しても、私たちはそれが、途方もなく美しい言葉たちである事を知る。

衝撃的な作品を読んだ。

マーガレット・アトウッド『侍女の物語』がそれである。


いつもの様に、私はそれを図書館で借りて読んだ。

千切れたスピン。草臥れたページが、この本の履歴を物語っている。多くの、実に多くの読者に、この本は読まれて来たのだ。

物語が終わり、最後に付けられた、「歴史的背景に関する注釈」で、私たちは、語られて来たのが、ギレアデと呼ばれる、未来社会である事を知らされる。

そこで主人公は、奴隷の様な生き方を強いられている。

ギレアデでの生活に救いは無い。そして主人公オブフレッドたちはそこから抜け出す手立てを探す事すら諦めている様だ。

深い穴底で暮らすような生き様。僅かに、呼吸する事だけに自由が許されている様な閉塞的な空間。そこで、現在形で語られる物語を通して、私たちは主人公に、そっと寄り添う。

挟み込まれる幾つかの「夜」を乗り越え、最後の「夜」に辿り着いた時、私たちはそこで語られている未来が、私たちの生きる現実の世界にとてもよく似ている事にようやく気付く。

この物語に救いは無い。あるのはただ途方もない絶望感。だが、不思議にも、それはとても魅力的な物語になっている。

何故だろう?

20260414

大地の五億年

藤井一至『大地の五億年ーせめぎあう土と生き物たち』。

プレパラートを顕微鏡で覗き、僅かにピントをずらしてみる。そうすると同じプレパラートとは思えない程、多様な、変化に富んだ、思いがけない景色に出逢うことが出来る。

この本を読んで、同じような目眩き思いを体験出来た。


見ているのは地球であり、景色であり、日常である。けれど「土」にピントを合わせて、それらを観察している。

驚いた。

同じ日常が、これほど迄にかと思う程、普段とは違った景色に見えて来る。

大学で、土壌学の講座は受講していた。

なので、土壌学の基礎知識は、ある程度持っていた。だが、この本で体験出来た、土のミラクルワールドは、ついぞ体験した事のない魅力に溢れていた。

土は地球にしかない。

それは確かな、単純な事実。

だが、それを改めて大上段から振り下ろされるように語られると、今迄気付いていなかった事実を突き付けられているような、新鮮な驚きがあった。

その地球ですら、5億年前迄は、土は存在しなかった。

何故か?それは陸上に生物がいなかったからだ。

土は生物の揺籠であると同時に、生物は土の親でもある。生物が土を産み出しているのだ。

山ばかり歩いて来た。

だが、私の興味の対象にあったのは、まず岩石であり、次にそこで生きる動植物たちであった。土は、岩石を隠してしまう、むしろ邪魔な存在であり、私は、そして私たち地質屋はそれをはぎ取ってしまいたいという欲求すら抱いている。

土壌学も履修していながら、私は土に目を向ける事もなく、それを無視して、山を歩いていたのだ。

なので、映画や写真で、プリンス・エドワード島の赤い土を見ても、別段それを不思議にも思わず、当たり前の事として、見過ごしていた。

著者はそれを奇妙な事と喝破し、プレート・テクトニクスの仕業である事を見抜く。

本書には、かくの如く言われてみれば当たり前だが、今迄考えても見なかった事実に溢れかえっている。

読み終えて、最初に私が感じたのは、著者が、この本では、まだ語り切れなかった多くの事柄を抱えているのだろうな…という事だった。

それを裏付けるように、著者はその後も何冊も土壌の本を物にしている。

この本は、私の土に対する好奇心に、見事にヒットした。著者の他の本も、これからどんどん読んでゆく心算だ。

20260412

新Kindle

8日、amazonからメールがあった。

対象端末をお持ちのお客様へと題されたもので、それが私に当てはまるようだった。

2012年に日本で発売されたKindle端末のサポートを、2026年5月20日に終了いたしますとの事。

確かに私は2012年にKindleを買い、それを今迄使って来た。向こうにはそうした個人情報も、きちんと把握されているのだ。恐ろしいと言えば恐ろしい。

14年になる。

最近は、新しく電子書籍を購入しても、その表紙が表示されなくなって来ていた。

だが丁寧に使用して来たのだ。まだ本文を読むのに支障はない。充電もきちんと終了する。

あと数年は使うつもりでいた。

だが最後通牒は向こうからやって来た。

追加の電子書籍の購入、ダウンロードは出来なくなると言う。

続けて読むと、新たにKindleを購入する際に使える20%割引クーポンが付与されるとある。

これが区切りだ。そう思った。2割引で買えるとは、悪い話ではない。

amazonのサイトで端末を探し、Kindle Paperwhiteとカヴァー、保護フィルムがセットになっている商品を、その日のうちに選択した。

私はいざと言う時、決断が早い。

翌日注文。

翌々日の10日、夕刻に新Kindleは届いた。


端末を持って、最初にびっくりしたのは、その軽さだ。古い端末に比べ、一瞬で分かる程、明らかに軽くなっている。加えて、既に充電された状態で届いたのには驚かされた。

パスワードの入力に手間取りながらも、WiFiにちゃんと接続。

幾つかの設定をした後、ライブラリを呼び出した。

大丈夫、古い端末で欠けていた表紙も、ちゃんと表示されている。

次に驚いたのはその動作の軽さだ。

古い端末では、電子書籍を開く時など、一瞬の溜めがあったのだが、それがなく、実にキビキビと動いてくれる。流石に14年の進歩は伊達ではない。

サーヴィスはそれだけではなかった。

新端末が届いた時来たメールには、2,000円分の書籍割引クーポンが付与されていた。それにKindleを購入した時のポイントを加えれば、かなりの額になる。

夢は一気に膨らんだ。

気を落ち着かせる為に珈琲を淹れ、新Kindleで最初にした事は、リルケ詩集を開く事だった。


20260404

鸚鵡籠中記

『清左衛門残日録』という、NHKの時代劇だったと記憶している。舞台装置や衣装の色にまで気を配った丁寧な造りだった。その原典としてクレジットされていた事から、この作品の存在を知った。

『摘録鸚鵡籠中記・元禄武士の日記』。


題名は、籠の中の鸚鵡が、人の声を真似るように、見聞した事柄をそのままに記したものという意味が込められているらしい。

読み始めて、事件に次ぐ事件の連続に、江戸時代という時代は何と物騒な時代だったのだろうかと思ってしまった。毎月の様に、刃傷沙汰が起きている。


摘録である。

事件があった日の記録を抜き書きしてあるのだから、事件が相次いでいる様に感じるのも仕方なかろう。現代も、同じくらいの頻度で、事件は起きている。

元禄四年の記述から、巻之一と明記される。

この辺りから、この本は、俄然面白くなって来る。

著者朝日重章の、旺盛な好奇心には恐れ入る。

心動かされた事を手当たり次第記録している。

中には理に叶わない怪しげな情報もある。

元禄武士の日記と謳われているが、俎に乗せられるのは元禄時代に限らない。貞享年間から始まり、元禄、宝永、正徳、享保と、長きに渡って記録は続けられている。

公私共に、多事だった事が伺われる。

この記録の中には、当然の様に、地震、噴火、大火事などの様子が綴られている。それらの記録は、詳細を極めている。

当然一級の史料としての価値もある。

だが、旺盛な好奇心は、時として事実の裏付けを伴わない。玉石混交様々な情報が詰め込まれている。

つまり情報通である。江戸に住んでいながら、名古屋や北陸の事件についても、同じ比重で日記されている。

一体著者はどの様にして、これらの情報を得ていたのだろうかと気に掛かる。

謎だ。

20260327

文体の舵をとれ

丁寧な指南書だと思う。但し中・上級者向け。

対象となる読者は、語りの文体の基礎練習として考え方や論点や練習問題を求める、物語の書き手たちである。

とある。


豊富な引用と練習問題が用意されている。だがその練習問題、かなりレベルが高いのだ。

片端からトライしてみたが、正直言って満足出来る解答を得たと自負出来るものは極めて少なかった。

論点は

・言葉のひびき

・句読点、構文、語りの文と段落

・リズムと繰り返し表現

・形容詞と副詞

・動詞の時制と人称

・語りの声(ヴォイス)と視点(POV)

・直接言わずに語ること、どれだけの情報を伝えるか

・詰め込み、跳躍、焦点、制御

どれも書く上で重要な要素だが、これは文章を読む上でも十分に参考になる視点であり、論点だと感じた。非常に参考になった。

少なくとも今迄無自覚に近かった文章に対する姿勢が正され、書く事、読む事に一大革命をもたらせてくれた。この本を読む前と読んだ後で私の書き方・読み方は大きく変わった。

残念だったのは、この本を独りで読まねばならなかった事だ。

ワークショップを念頭に書かれている。

それ故、回答者は仲間と互いに論評し、議論する事が求められている。

今回、それは叶わなかった。

そうしたワークショップを体験できれば、参加者は格段に進歩する事が出来るだろう。

年単位で読書会を企画し、読み込みと実践を試みるには適したテキストだと思う。

この本をきっかけにして、最も変わったのは、自分の文章を、声に出して読む習慣が出来た事だ。それをする事によって、自分の文章のひびきに対して、驚く程自覚的になれた。

読み終えて、まず最初にした事は、H.Hesseの詩を、朗読する事だった。

20260322

ミステリーストーン

いきなりモルダヴァイトである。

私は地質学を専攻した。その私が知らない鉱物だ。

尤も私の地質学は鉱物が専門ではない。私の専門は砂や礫(小石)である。だが、それでも一通りの地質調査は必須であり、鉱物学や岩石学も履修した。素人より知識はあるという自負はあった。

趣味の人たちの知識量を舐めていた訳ではない。大したものがある。例えば恐竜についてなどは、好きな小学生の知識にとんと追い付かない。

だが、素人の知識は、最初のうちは見知った鉱物名から始まるものと考えていた。


徳井いつこさんのエセーは、子どもの頃の思い出から、いきなりモルダヴァイトに飛んだ。

どうやらテクタイト(隕石が地球に激突した時に出来る天然ガラス)の一種らしい。旧チェコスロバキアのモルダウ地方で採れる事からこの名が付いたと言う。

このモルダヴァイト、確かに魅力的なテクタイトの様だ。

普通テクタイトは黒色だ。だがこのモルダヴァイトだけは、地球上で唯一緑色を呈しているとの事だった。

いきなりのモルダヴァイトの衝撃から、私は一気にこの本に夢中になった。

人間と鉱物がいかに関わり合いを持って来たかが書かれている。

そうなのだ。

専門家になってしまって、つい忘れてしまうのだが、私も子どもの頃、石が持つ何とも言えない感触や、視覚的魅力など、石自身が醸す「いい感じ」に魅せられ、そこから石に夢中になったのだ。

話はそこから、石に魅せられた著名人に向かう。ゲーテや宮沢賢治、そしてカイヨワは知っていたが、ユングが石から強いインスピレーションを得ていた事は知らなかった。

徳井いつこさんは、それらをしっとりした透明感のある語り口で、そっと私に語り掛けてくれる。お蔭で私は、石が趣味だった遠い昔の自分の感覚を取り戻し、しみじみとした想いに浸る事が出来た。あれから、もうとてつもなく遠いところまで、私は旅をしてしまった。だが、あの頃の情熱は、いまだに私の身体の中心で燃えている。

この本を読んで、私はその事を再確認出来た。

尚、本書は、『夢見る石』と改題され、最近新装出版されている。そちらの題名の方が、入手し易いかも知れない。

20260306

孤独

宮崎智之編『精選日本随筆選集 孤独』。

随筆復興だと言う。鼻息が荒い。

だが、随筆に力瘤が入っているだけあって、その審美眼は確かなものがある。このアンソロジーに含まれた随筆は、どれも高水準で読み応えがある。


選ばれた作家は、全て既知の書き手だったが、既読のものはひとつもなかった。

通読して感じたのは、良い文章には一貫した独特の香りの様なものが存在するという事だった。単調でなく、それでいて複雑すぎないリズムの様なもの。それに身を任せていると、いつの間にか、見知らぬ高みに招かれる様な文章たちなのだ。

随筆の筆者に参入する事は容易い事だ。だが、ここに示された水準に達するのは、並大抵の事ではない。永い人生の風雪に晒され、鍛え上げられた芳醇な土壌がそこにある。

一貫して流れるテーマは孤独。だがそこに寂しくうらぶれた影は存在しない。与えられた孤独を通して、己が人生を見詰め直す深い洞察力が確かに存在する。

その存在を見逃すまいとして、文章を味わいながら読んだので、予想より遥かに読了までに費やした時間は多くなった。

だが、それだけの甲斐はあったと感じている。

良い随筆に費やす時間は、風雅な時の流れだ。

20260216

恐竜学

記念碑的な論集である。

学部生だった頃、恐竜の研究が、進みつつあるのを、何となく感じていた。だが、その頃は、恐竜の研究に生涯を捧げる者も身近におらず、日本にも、恐竜研究者はさほど誕生していなかった。

その頃と比べると、隔世の感がある。


編者の小林快次さんは、言わば日本の恐竜研究者のスター的存在であり、現在に至る迄、牽引的な役割を一手に引き受けて来た。

この論集が出されたのは、日本人の手による恐竜研究の本が、そろそろ書かれても良い頃だと、感じられたからだと言う。それだけ、日本人の恐竜研究者の裾野が拡がって来ているのだろう。

日本での恐竜発見のニュースも、以前とは段違いに多くなっている。

だが、よもやここ迄研究が進んでいるとは思わなかった。

想像していたより、遙かに定量的、理論的、そして学際的に恐竜研究は進んでいた事を、この論集で思う存分知らされた。

第I部の「進化と歴史」でまず、度肝を抜かれた。

恐竜の分類と進化の過程が、実に詳細に、幅広く述べられているのだ。

恐竜類の系統樹も、詳細に、連続的に描かれていた。

その根拠も、想像していた定性的な推論によるのではなく、定量的、論理的に分類がなされていた。それが分かったのは、再読した後の事で、最初は、図に示された恐竜の種類を追うのに精一杯で、登場する恐竜の多さに溺れていた。

成程なと思わされたのは、鳥類も恐竜の進化と歴史の一部として記載されている事で、考えてみると当たり前の事なのだが、それが当たり前のように書かれている事に、時代を感じてしまった。

恐竜から鳥への進化の過程も、以前は始祖鳥に代表される、点的な描写だった事が、間を埋める標本の発見の充実振りから、線として追跡可能になっており、ひどく驚かされた。

研究の視野は、恐竜の生理・生態から色・姿勢の復元にも及んでおり、それが単なる想像ではなく、幅広い根拠と論理的な類推に裏付けられている事を知った。

それぞれの記載には、現在の研究の到達点と、今後の課題が付せられており、この分野が今後もっと発展してゆくものである事を、実感として理解出来た。

今回は都合3回読破したが、正直言ってまだ十分に理解出来たとは言い難いものを感じている。本来ならば手元に置いておきたい本だが、その資金がないので、今後も折を見て、図書館から借りて読んで行こうと思っている。

その価値が十分過ぎる程ある論集だ。

20260213

極右インターナショナリズムの時代

衆院選が右派の圧勝で終わった。流石にめげた。

だが、なぜそのような社会現象が起きたのか、そのところが全くわからなかった。

それ以前から図書館で、佐原徹哉の『極右インターナショナリズムの時代ー世界右傾化の正体』を借りていた。

ここに、知りたいことのヒントが書かれているかも知れない。そう感じた。

実は衆院選の前に一度読破している。だがその時は、書かれている事の細部に拘ってしまい、肝心の右傾化の正体がなんであるのかは、読み落としてしまっていた。

再読の必然性を感じた。


今回は前回の轍を踏まぬよう、大局観を見失わないように気を付けながら読んだ。

筆者は東欧史の専門家らしい。日本については分からないと、冒頭で述べている。余り期待し過ぎないほうが良いだろうと、心して読んだ。

だが、この時代、なぜ「右傾化」が世界的に進行しているのかという問題意識を持って書かれた本を、私は他に知らない。何かヒントはある筈だ。

ムスリム移民と西欧の衝突などが表立って書かれている。だが、ここに拘ると大局を見失うだろう。そもそもそのムスリム移民は、なぜ目立ち始めたのか?

そこに力点を置いて読んでみると、朧げながら、右傾化という亡霊の正体が見えそうな気がした。

国民国家の屋台骨が軋みを生じ始めているのだ。

なぜか?

その背景の一つとして、新自由主義が挙げられていた。これは単なる経済用語の範疇を超えて、世界の政治形態、文化、生活をも大きく変えようとしている。

移民はなぜ増えているのか、が少し見えそうな気がした。

新自由主義が国境のピントをぼやけたものに変えてしまい、それについてゆけない者達を、異郷に追いやっているのではないか?

日本でも、移民の問題は、選挙で多く語られた問題のひとつだった。移民を受け入れる側も、新自由主義についてゆけなくて、流れ込む異民族を、異物のようにしか感じられずにいるのだ。その「実感」に、右派は付け込み、勢力を伸ばす。その構図は、今回の衆院選でも、頻繁に見られた遣り口だったのではないか?

ならば自ら率先して、新自由主義者として生きる姿勢が望まれているのか?

そうとも言えないと、私は感じる。

新自由主義の波に乗り、そこで成功を収めている人たちを見ると、どれもどこか歪んでいて、とてもじゃないが、好きになれそうにない人たちばかりだ。

新自由主義を超えて、それに替わりうる、政治・経済形体の模索が、今、最も必要とされている事なのではないか。

その事だけが、やけにはっきりと見えて来た。

一度目の読書では見落としていた記述もクローズ・アップされて見えて来た。

極右とリベラルの連合体は、移民排斥と労働者の権利の削減で利害を同じくし、それはグローバル資本主義の利害と一致している。グローバル化新自由主義規範の内在化によって、世界全体で階層分化が進んでいるため、経済が成長すれば誰もが豊かになれるというのは幻想に過ぎなくなり、人権と民主主義が経済発展の前提だとする中間層と富裕層を結びつけてきたリベラリズムの理念も説得力を失ったが、それに代わって、自由と権利を特定の集団だけに限定し、それ以外を切り捨てる極右の思想の方が、システムの存続に好都合なイデオロギーになったのだ。それが右傾化の正体である。

欧米では、リベラルが極右に擦り寄る現象が進んでいると言う。日本でも、代表選を終えたばかりの中道改革連合が、憲法9条の改正もあり得ると発言している。私はそこに相似形を見る。

世の中の右傾化を、ただ単に訳の分からないもの、不気味なものとして見ている限り、私たちの生活はどんどん破壊されてゆくだろう。

それに代わりうる未来像の模索もまた、すでに始まっている様に、そこはかとなく見えて来ているのが、この本を2回読破した私には、せめてもの希望だ。

20260204

薔薇の名前完全版

既に旧版は読んでいる。その時も図書館から借りて読んだ。

この度完全版が出ると聞いて、取るものも取りあえず、図書館にリクエストを出した。だが不安もあった。県立・市立共に旧版が既にあるのだ。買ってもらえるのだろうか?

どうにか買って貰えるようだと分かって、その時は欣喜雀躍した。

この程借りて来て、今日(2月4日)上巻・下巻共読み終えた。


やはり、圧倒された。

読んでいて、旧版の記憶が意外と残っている事に驚いた。それと比べると、構成構想には変化はないものの、相当手がが加えられている事が分かった。

完全版は十分に読む価値のある版だった。細かなところ迄、気を配ってあって、完成度が、旧版より、遙かに高いのだ。


嬉しいのは、いつか読む心算でいた「『薔薇の名前』覚書」が、巻末に添えられていた事だ。ウンベルト・エーコの創作の秘密が、本編を読んですぐ明らかにされるのだ。ファンにとって、これ程嬉しい事はない。

読んでいて、旧版で気が付かなかった事にも、多数気が付いた。作者はこんな所まで、気を配って、創作しているのかと、何度も驚かされた。

無論、読書量の不足から、まだ気が付いていない仕掛けも多数あるに違いない。それを思うと、やはり悔しさが滲む。

何よりも、キリスト教の教義を全くと言って良い程理解していない事が悔やまれる。

だが、そうした事を悔しがれる程、今回は読解できたのだと思えば、少しは気が休まると言うものだろう。

『薔薇の名前』は、今回の読書体験で、より一層、私にとって大切な本になった。

20260109

奴婢訓

参った。

明日10日に、図書館に本を返しに行く。それまでにと思いつつ、三木卓の書いた北原白秋の伝記を読んでいたのだ。だが、それは今日9日の朝7時には読み終えてしまった。

突然空いた空白の時間に私は狼狽えた。本棚を眺め回す。その時このスウィフトの『奴婢訓』が目に留まった。薄い。これなら1日で読めそうだ。

そうなのだ。私はこの本を、内容ではなく、未読の薄い本であるという理由だけで選んだのだ。


読み始めてすぐ、この本は素直な気分で読むことが不可能な本である事が理解出来た。

素直な気持ちで書かれた本ではない。

表向きは使用人に対して贈る、人生訓の振りをしている。だがそこに展開されるのは、一筋縄では括れない、手の込んだ、容赦ない皮肉、逆説、諧謔の嵐だった。

スウィフトは、最初よくあるタイプの人生訓を説く本を書く心算だったらしい。

けれど書き始めてすぐ、捻りに捻った形の方が、本来の目的を達成出来ると思い付いた様だ。

これでもか!と言う勢いで、奉公人が主人に対して、いかに狡賢く立ち回れるか、どうすれば責任を免れる事が出来るかが、記されている。

私が主人ならば、この様な本を読む奉公人は御免被りたいところだ。

流石『ガリヴァ旅行記』の作者スウィフト。その面目躍如のとんでもない奇書だ。

だがどうだろう。自分が奉公人であるとしたら、この本に書かれている姿勢で、勤め上げた方が、主人という権力に対して、敢然と立ち向かい、自己を貫く事が出来るとも言えるのではないだろうか?

スウィフトの狙いも、あながちそこにあったのではないかとも、今では思ている。