20260724

理不尽ゲーム

奈倉有里さんが翻訳されている。

この本を選んだ理由は、そんなミーハーとも言える単純な動機からだった。

にも拘らずまたもこの様な救いの無い内容の本を引き寄せてしまうとは。私の選書はどこかが間違っているのだろうか?


理不尽ゲームとは、参加者が実際に体験した理不尽を、百物語の様に開陳し合うゲームの事だ。本書の主人公フランツィスクは、生きていれば恐らく余裕で、このゲームに優勝するだろう。生きていれば。

フランツィスクはベラルーシの音楽学校に通うチェロ奏者だ。

フットボール好きな、どこにでもいる、平凡な学生に過ぎない。

彼は恋人ナスチャとデートの為フェスティバルに出掛ける。そこで、運命の雨に降られる。雨を避けようと地下通路に押し寄せた人々は瞬く間に群衆と化し、パニックに発展する。

フランツィスクはそのパニックに巻き込まれ、昏睡状態に陥ってしまう。

運び込まれた病院の医師の下した判断は再起不能。

フランツィスクは生きてはいるが、その昏睡状態から恢復することは万に一つの可能性もなく、植物状態のまま生きる他、無いだろうと言うものだった。

医師は残された選択肢のうち有望な唯一のものである、臓器移植のドナーとなる事を母と祖母に提案するだけだった。

唯一諦めなかったのは祖母だけだった。

孫の実質的な死を、頑として認めなかったのだ。

祖母は自分の残された人生の全てを再起不能の孫に捧げ、献身的に、諦めず看護する。


そして十余年の年月が流れ去る。


ネタバレをしてしまおう。と言っても、このネタバレ、本の表紙を「読む」事で誰にでも分かる筈だ。

祖母は何日か姿を見せなかった。そのうちに義父が覗きに来てひとことふたこと看護師のおばあさんに告げ、出て行った。

祖母は一昨日、亡くなったのだ。

その時、奇跡は起こる。

フランツィスク僅かに動いたのだ。そして言葉にもならないが、声を上げる。

その後、フランツィスクは信じられないスピードで恢復して行く。

だが、運命はそこで終わりにならなかった。昏睡状態だった十余年を取り戻す様に活発に動き回るフランツィスク。

午後五時五十五分、爆発が起きた。それはある革命の名が付けられた駅での事だった。

そこはちょうどフランツィスクが通訳の女性に次のデートの約束をとりつけるつもりでいた場所だった。

テロだ。ようやく未来を取り戻しかけたフランツィスクは、そのテロに巻き込まれて命を絶った。

昏睡状態だったのが、フランツィスクだったのか世界の方だったのか?それはもう誰にも分からない。ただ確かなことは、奇跡的に生き返ったフランツィスクは、今度こそ確実に死んでしまったのだ。

彼は本当に生きたと言い得るのだろうか?

余りに、理不尽。

20260721

ファシズムの同時代性

石田憲『ファシズムの同時代性ー誘惑するナショナリズム』

ファシズムの語源がイタリアにある事は知っている。そして日本のファシズムを語る上で、日独伊三国同盟は欠かせない。

だが、ドイツに関しては、知り過ぎている程知っているにも関わらず、事イタリアのファシズムは具体的にどの様なものだったのかと問われると、答えに窮する。

知らないのだ。


本書の著者石田憲は、イタリアのファシズムが専門らしい。題名を見て、もっとファシズム一般に関する本ではないかと当たりを付けていた私にも、読み始めてすぐその事を理解出来た。

むしろ渡りに船だ。

一定のテーマの下に、体系的に書かれた本ではなく、それぞれの論文は、独自に発表され、それを独立したまま纏められたのが、本書の成り立ちである様だ。

今迄の無知からの反動も大きかったのだが、本書に書かれている内容の詳細さに圧倒され、それで読み終えるのに時間が掛かった。

ムッソリーニ以下のサブリーダーたちの履歴に至る迄、事細かく調べ上げてある。

重要な事は、繰り返し述べられている。

どうやらイタリアのファシズムにとって、メルクマールとなるのはエチオピア戦争らしい。

それが如何なる経緯で開始され、どの様な経緯を辿ったのか。それを詳しく知る事が出来た。そして、日本同様に、イタリアでも「過去の克服」はドイツ程には行われていない事も理解した。イタリアの政局で、現在でも時々、右派政権が実権を握る事があるのは、だからだろう。

描いているのが日本の研究者だからだろう。日本も時々顔を出す。だが、全体の流れからは独立しており、異質礫の様に坐りが悪い。

どうやらイタリアの現状を、日本に引き合わせて、日本のこれからを占う材料にしようとする意図があるらしい。

これに関しては、書き方が失敗だと言うしかない。

だが、意を汲む事は出来る。

日本でも、右派は台頭して来ている。それに対し、必要なのは過去の失敗を、丹念に振り返る事だろう。

その意図を持ってこの本を読めば、考察材料はふんだんに用意されていると言える。

イタリアのファシズムは殆ど忘れられている。日本のファシズムもその道を辿るかも知れない。

その為の材料としては、この本は十分に応えてくれるだろう。

20260710

悪童日記三部作

 心地よい読後感などあろう筈もない。

それが分かっていて、何故読み続けるのか?私にはその理由が最後迄分からずにいた。ようやくそれが見えたのは、最終作『第三の嘘』を読み終える直前の事だった。リュカ(LUCAS)とクラウス (CLAUS)という互いにアナグラムになった名をもつ双子の兄弟たちの行く末が、気になって仕方がなかったからだ。


『悪童日記』から『ふたりの証拠』そして『第三の嘘』へ。

物語の枠組みはヨーロッパ大陸からひとつの町へ、町からひとつの家族へと絞られて行く。しかしそこで語られている事が、真実なのか嘘なのか、私たちにはそれすら知らされない。しかしその主題はいささかも矮小化されていない。それどころか絶対的な永遠の次元にまで掘り下げられている。


三部作はそれぞれ、独立した小説と捉える事も可能だ。だが三部作を通読して、やはりこの三部作はそれぞれがそれぞれに支えられている事が理解出来る。『第三の嘘』を読み終えて、私にはやっと前二作とりわけ第一作の『悪童日記』に秘められた謎が、その真の姿をおずおずと現してくるのを感じた。その構成力に、私は改めて著者の力量の凄さを感じざるを得ない。


物語は、著者アゴタ・クリストフの全てを突き放した様な真っ白なエクリチュールで語られる。読者は作中のどの登場人物にも、感情移入を許してくれない作為を感じる。そしてそれはむしろ、読者にとって幸いな事である事を、最後の最後で感じ取る事が出来る。

この救い様のない物語において、どこか一箇所でも感情移入をしながらこれらの作品を読むのであれば、読者はこの三部作について行くことすら許されなかっただろう。

『悪童日記』三部作は読んで楽しめる作品ではない。世の中はまるでアメリカで、エンターテイメントが幅を効かせている。一理ある。だがこの作品の様にエンタメとはまるで正反対の作品も、あって然るべきと私は認識する。エンターテインメントばかりが芸術とはとても受け入れられない。

どうにかこうにか、私は『悪童日記』三部作を読み切った。ここで一息入れたい。と言うより当分アゴタ・クリストフからは離れていたいと切に願う。

途方もない作品だった。

20260707

文化の脱走兵

慌てて読んでしまった自覚があったので、2度読み返した。

1回目は、引用されている詩が印象に残ったものの、本文は殆ど味わえずに終えてしまった。

今回2度目で、ようやく落ち着いて読む事が出来た。


実直な方である。

その実直さがロシア文学に向いているのかも知れない。

表裏がなく、ブレがない。

その姿勢はどこかレフ・トルストイに通じるものがある。このエセー集では、それに加えて文章に力みがなく、奈倉さん本来の人柄が滲み出ている様に思えた。この様な姿勢で文章を書いたのは、このエセー集が初めてだと仰っておられた。

ご存知の方も多いだろうが、ロシアに留学しておられた。その時期にロシアとウクライナの戦争があった。

戦争に最も近付いた日本人のひとりであろう。

本書に収められたエセーにも、その戦争を扱った文章が多い。

戦争は、丹念に築き上げて来た、留学生たちの人間関係を、一瞬で滅茶苦茶に破壊してしまう。その事実を、私はこのエセー集でやっと気付かされた。

文化は脱走するのだと言う。戦争は文化も、ずたずたに破壊してしまう。戦争と文化は相入れない。それならば、戦争から脱走するのも無理はない。

ヨーロッパには、脱走兵の碑が幾つも存在するのだと言う。その発想すら、日本には無い。だがあって然るべき姿勢だ。

その姿勢を、恐らく日本で初めてこのエセー集は伝えてくれた。

その意味でも、貴重な記録だ。