20231111

〈悪の凡庸さ〉を問い直す

本書の前提になっている2冊の本がある。

1冊は言わずと知れたハンナ・アーレントの問題作『エルサレムのアイヒマン─悪の陳腐さについての報告』であり、もう1冊はそれに異を唱える形で出版されたベッティーナ・シュタングネトの『エルサレム〈以前〉のアイヒマン』である。

私はたまたまこの2冊を読んだ事がある。なので本書を読み進めるに当たって、何ら抵抗を感じる事なく、過ごす事が出来た。

これは幸運な事だった。

だが、読み終えて、この2冊を例え読んでいなくても、本書を読み進めるには、さほど問題は無いのでは無いかという結論に至った。

本書には、それだけ丁寧な引用と注釈が施されている。


『エルサレムのアイヒマン』が発表されてから、もう60年が経つ。この間この著作は、様々な場面で引用され、悪の陳腐さ─現代では悪の凡庸さ─の概念も、頻繁に人口に膾炙して来た。その間に〈悪の凡庸さ〉の凡庸化(矢野久美子)と呼びうる現象も起きて来た。また哲学の面で、歴史の面で、研究も大きく進み、従来の意味合いでの〈悪の凡庸さ〉概念は、その有効性を含め、洗い直しが必要ではないか?そうした問題意識が芽生えて来た。

本書は、その問題意識を明確化する為に書かれたものと言って良いだろう。

本書は2部に分けられる構成を持っている。

第1部には〈悪の凡庸さ〉をどう見るかについて、各研究者の論考が置かれている。いずれの論考も、〈悪の凡庸さ〉の概念を丹念に検証しており、読み応えがある。

第2部では1〈悪の凡庸さ〉/アーレントの理解をめぐって。2アイヒマンの主体性をどう見るか。3社会に蔓延する〈悪の凡庸さ〉の誤用とどう向き合うか。の3つのテーマを設定し、思想研究者と歴史研究者の間での座談会が組まれている。

読んでいて感じたのは、ハンナ・アーレントによって「発見」された〈悪の凡庸さ〉概念は、言わば地上の望遠鏡によって発見された惑星であり、本書によってアップデートされた〈悪の凡庸さ〉概念は、ハッブル宇宙望遠鏡によって、鮮明化された像であろうという感覚だ。解像度が上がり、ピントもしっかりあって来たのだ。

論考は〈悪の凡庸さ〉概念は無効なのではないか?という地平まで視野を広げたものだったが、座談会を通して、確認されたのは、〈悪の凡庸さ〉概念は、未だ古びておらず、未来に渡って生き続けるだろうという点を再確認するに至っていると思う。

この結論に、私は全面的に賛同する。

これはシュタングネト『エルサレム〈以前〉のアイヒマン』を読んだ時にも感じた事で、この本は決してアーレントの〈悪の凡庸さ〉概念を否定する為に書かれたものではないという感想を持ったのだ。

確かに俗流の〈悪の凡庸さ〉概念の中には、不適切と言わざるを得ないものも出始めている。それには、全力で注意せねばならない。だがハンナ・アーレントの著作を丁寧に読み解き、その意図を注意深く受け取るならば、〈悪の凡庸さ〉概念がもたらすものは、未だに豊富に存在しているだろう。

本書の末尾には、参考になる書籍などが豊富に挙げられている。それらを含んで、〈悪の凡庸さ〉概念についての思考を深めて行くには、本書はタイムリーな出版だったと感じている。

本書は出るべくして出た、貴重な論集である。

20231108

セミコロン

その存在は勿論知っていた。だが英語に初めて触れてから50年になるが、今迄英作文で、一度たりとも使った事は無い。それが私にとってのセミコロンだった。

本書の訳註にある通り、セミコロンはコンマより重く、ピリオドより軽い区切りの事だ。だが有り体に言って、その使い方は全く分かっていなかった。文章を書く時もそうだが、読む場合に、どの様な差を付けたら良いのか、それさえも分かっていなかった。


本書の題名は『セミコロン─かくも控えめであまりにもやっかいな句読点』となっている。原題は”SEMICOLON : How a Misunderstood Punctuation Mark Can Improve Your Writing, Enrich Your Reading and Even Change Your Life”だ。『セミコロン:誤解を受けている句読点が書き方を洗練させ、読み方を充実させ、さらには生き方まで変えてくれる訳』となるのだろうか?

これは大ごとだ。生き方まで変えるのだ。心して読まねばなるまい。

本書は大きく分けて、4つのパートで構成されている。

1つ目はセミコロンの数奇な歴史を辿るパート。

セミコロンの発明・受容の経緯から、文法書(文法・語法だけでなく、約物の使用法など、表記に関するルールも掲載した書籍)の成立まで。文法家の悪戦苦闘を楽しく眺めているうちに、ひとつの重要な事実が浮かび上がって来る。カッチリとした決まりを人為的に定めても、実際の使われ方は実に多様で、規則の縛りを自由自在にすり抜けて行くのだ。このせめぎ合いは本書全体を通して、繰り返し浮上して来る。

4・5章で扱われる「規則」は、句読点の使い方を定めたルールではなく、句読点を用いて書かれた「法律」が俎上に上げられる。

アメリカでもイギリスでも、ある時期を境に条文内の句読点の解釈をめぐって、訴訟が立て続けに勃発する。何と、人の命が左右される事態と相なるのだ。その結末やいかに?

実は、法の条文というものは、自動的・機械的に解釈が一つに決まるものではなく、いつ、誰がどのような意図で書いたものか、それを慎重に見極める必要がある。;を使っていたものが:に変えられただけで、その意味が大きく変わる。その醍醐味は、本書最大の見せ場のひとつだ。

7章では、打って変わって、英語の盟主がセミコロンを巧みに活用した文章を鑑賞し、その効果が生じる仕組みを考察する。よもやレベッカ・ソルニットの原文を読む事になろうとは、夢にも思わなかった(けれど楽しかった)。

そして最後は、倫理的なコミュニケーションへと読者を誘うパートだ。これこそ本書の中心的なメッセージであり、ここまでの話題は全て布石だったとも言える。

本書を最後迄通読すると、セミコロンという句読点が、いかに微妙で深い意味合いを帯びているかを理解する事が出来る。

そして、私もセミコロンを使ってみたいというイケナイ誘惑に心が囚われるのを感じている。

先に示した様に、本書ではかなりの寮の英語原文を読まされる。これは許される事なら是非、声に出して、音読してみる事をお勧めする。そうすることで、セミコロンの効果が、よりリアルに感じられるだろう。

それにしても、この様な本をよくぞ訳して下さったものだ。さぞや苦労した事だろう。

本書の最後には、丁寧な訳者解説が付せられている。これは本書を見事に要約した、優れた解説になっている。この訳者解説を読むのが、本書を通読した者だけに限られるのは、実に勿体ないので、本稿に引用させて頂いた。