20180530

『オマールの壁』

オマールは毎日命がけで壁をよじ登る。恋人ナディアに逢いに行く為だ。

オマールは2人の幼馴染タレクとアムジャドとともに、反占領の武装組織に所属している。さらにオマールとアムジャドはタレクの妹のナディアに思いを寄せているが、オマールはナディアと結婚の約束をし、パン屋で働いて結婚のためのお金をため、新居も用意している。ストーリーは3人の友情と、オマールとナディアとのラブストーリーを基調としている。

オマール、タレク、アムジャドの3人は夜、イスラエル軍陣地に向けて銃を発砲し、1人を殺害した。銃撃したのは、アムジャドである。この後、物語は動き出す。

オマールは襲撃事件の関連で、イスラエル秘密警察に捕まり、ラミ捜査官の尋問を受ける。オマールは拷問を受けても誰が銃撃したか口を割らないが、ラミ捜査官はオマールに、イスラエルに情報を流す「協力者=スパイ」になれば釈放すると誘う。ラミは3人のうちのリーダー格のタレクが主犯と考えている。オマールに「出してやるからタレクをおびきだせ」と誘う。オマールはラミの裏をかくつもりで誘いに応じて釈放される。

オマールはタレクとアムジャドにラミの計画を明かして、オマールがタレクをおびき出すふりをして、イスラエル軍を襲撃しようと作戦を練る。ところが、途中でイスラエル秘密警察に踏み込まれて、オマールはまた捕まり、ラミの元に連れていかれる。ラミはオマールがイスラエル軍を罠にかけようとしたことを知っており、「お前は信用できない」と激怒する。しかし、オマールは「もう一度、チャンスをくれ」といって、釈放される。ラミはオマールがナディアと恋人関係にあることを知っていて、「ナディアには秘密がある」と謎をかける。

オマールが釈放されて、ナディアに会いに行くと、みんながオマールのことをスパイだと思っているといい、自分にも近づかないでくれ、という。オマールはラミが自分とナディアとの関係を知っていることから、アムジャドがナディアのことをラミに話したと疑い、アムジャドに「何を話したのか」と問い詰める。すると、アムジャドは「ナディアを妊娠させた」という。

アラブ社会の一部であるパレスチナでは、未婚の女性が妊娠すれば、家の恥として、親に殺されかねない。オマールはナディアを救うために、アムジャドとナディアを結婚させようとし、アムジャドを連れて、兄のタレクに掛け合う。激怒したタレクはアムジャドに銃を持ってなぐりかかり、2人はもみ合いになるが銃が暴発し、タレクが死ぬ。オマールはナディアの父親と会って、ナディアとアムジャドの結婚を仲介し、アムジャドには自分が貯金していたお金を渡し、「子供は月足らずで生まれた」ことにするよう忠告して、絶縁を宣言する。

2年後、オマールはアムジャドとの間で2児の母となったナディアと会う。オマールはナディアに子供について質問し、上の子が兄タレクの死後1年目に生まれたと聞いて、「月足らずで生まれたのではなかったのか」と聞き返す。ナディアは「いいえ、普通に生まれた」と答える。この答えで、アムジャドが「ナディアを妊娠させた」という言葉が嘘だったことを知り、オマールは衝撃を受ける。

ナディアは2年前のことについて、「私があなたをスパイだと疑ったから、あなたに嫌われたと思った。あなたが私を必要としている時に、あなたを見放した」と謝った。悲痛な表情のオマールはナディアに真相を明かさないものの、「私たちは信じられないことを信じてしまっていた。私もあなたを裏切っていた」という。

この後、オマールはイスラエルのラミ捜査官に電話して、「犯人が分かったから、拳銃を用意してくれ」と頼み、ラミと落ち合う。オマールはラミから銃の撃ち方を教えてもらった後、「サルの捕り方を知っているか」とラミに言った後、ラミを撃つ。


この「サルの捕り方を知っているか」という言葉が、ハニ・アブ・アサド監督が張り巡ら
した伏線と、それを解く鍵になっている。

「サルの捕り方」とは、映画の前半でオマールとタレク、アムジャドの3人が集まった時に、アムジャドが披露した逸話である。それはこんな話だ。

アフリカの猟師は野生のサルに砂糖を与えて、砂糖の味を覚えさせる。その後、地中に砂糖の塊を埋めて、手がちょうど入るくらいの穴をあけておく。サルは砂糖の臭いを嗅ぎつけて穴に手を突っ込む。そこへ猟師が来て、網でサルを捕まえようとするが、サルは猟師が来るのを見ても、砂糖をつかんだまま離そうとしないので、手が抜けずに、猟師に捕まってしまう。

話を聞いてタレクが「何のためにサルを捕まえるんだ」とアムジャドに問う。アムジャドは「奨学金を与えてスウェーデンに送るんじゃないか」と答える。

「奨学金を与えてスウェーデンに送る」というのは、ヨルダン川西岸であれ、ガザであれ、希望のないパレスチナから脱出することを望むパレスチナ人の若者の夢である。

オマールがラミを撃つのは、「私はサルではない」という意思表示である。オマールはイスラエルのスパイとして仲間を密告したわけでも、組織を裏切ったわけでもない。イスラエル軍に捕まり、全裸で天井からつるされて、尋問官から「誰が撃ったか言え」と問い詰められ、暴行を受けても、口を割らなかった。イスラエルにとってオマールは屈しない頑固な若者である。

しかし、結果的にはオマールはイスラエルの協力者に仕立て上げられている。イスラエルにとっての真の密告者であり協力者であるアムジャドを守り、ナディアとの結婚という彼の夢をかなえ、スパイでありながら、幸福な家族生活を送ることを可能にしたのは、ほかでもないオマールなのだ。オマールはイスラエルの利益のために働いているのである。

砂糖の味を占めて、罠にかかっても、砂糖から手を放さなかったというサルの逸話は、オマールに当てはめるとどうなるだろう。オマールにとっての「砂糖」とは何か? いろいろな見方があるだろうが、私は「名誉」だと考える。

オマールが命がけで守ったのは、仲間を売らなかった「自分の名誉」であり、「ナディアの名誉」である。アラブ社会では未婚の女性に男性との関係が知られると、「名誉が汚された」として女性は自分の家族から殺されることもある。「名誉殺人」である。オマールは自分とナディアの「名誉」をつかんだまま離さず、罠にかかってしまったのだ。ところが、ナディアの「不名誉な妊娠」が作り話だと分かって、自分が罠にかかっていたことを知る。

オマールとナディアの悲劇のラブストーリーのクライマックスにおいて、2人は互いの人間的な弱さに気づき、決定的にすれ違ってしまった運命と向き合う。その時、イスラエルの占領はもはやテーマではなくなり、困難な状況の下で、自分を見失ってしまう無垢な若者の姿が浮かび上がる。

ハニ・アブ・アサド監督がこの映画について「戦争ストーリーでなく、ラブストーリーだ」と語ったのは、そのような意味だろう。

20180528

『アンネ・フランク』

映画の冒頭で、この映画はメリッサ・ミュラーによる伝記とカーク・エリスの調査に基づいて造られた映画であることが述べられる。

実際よく調べられている。

ロバート・ドーンヘルム監督は事実としてのアンネ・フランクに拘ったのだろう。

アンネと言えば『日記』だがこの映画はこの十代の少女が日記に書かなかった事にも目を向けている。

アンネが日記と出会う以前のフランク家の様子や、日記が途絶えた後のアウシュビッツやビルケナウの収容所の実情も描かれている。

思わず目を背けたくなるような光景も否応なしに突き付けられる。救いはアンネが知的だと思えば夢見がちであったり、想像力豊かであったり、甘やかされていたり、生意気だったりと、ナチス占領下のオランダに暮らすユダヤ人という点を除けば、ほかの少女と何ら変わりはないことだ。

逆に言えば、それ故に第二次世界大戦で起きたユダヤ人虐殺という事実がどれ程むごいものであったかが際立つのだ。

映画の終わりで、『アンネの日記』は聖書に次ぐノンフィクションとなったことが語られ、しかし、アンネの物語は、あの時代に実際に起きた、幾多の物語のうちのひとつの例であることが述べられる。

そうなのだ。背後には何百万人のアンネが存在したのだ。

アンネの物語を過去のものとして捉える発想は、新たな過ちとなる可能性は、現在でも十分にあるのだろう。

それを繰り返さないこと。その為には何が起きたのか?なぜ起きたのか?どの様にして起こり得たのか?(ハンナ・アーレント『全体主義の起原』より)をきちんと知って行く必要があるのだろう。

この映画はレンタルで観たが、途方も無い過去に、私はなぜかこの映画を借りるリストの中に含めていた。なぜ、どの様にして、この映画を知って、選んだのだろう?もはやそれを知る鍵は失われているが、その頃の私の感性に、大いに感謝したい。

良くこの映画を選んでくれていたものだ。

20180525

『ノー・マンズ・ランド』

ダニス・タノヴィチ監督の映画を観るのは2作目だ。

カメラワークもカット・構成もしっかりと手慣れており、前に観た『鉄くず拾いの物語』の、いかにも拙い手つきが、意図的な反演出志向に基づいて選択されたものだったことが、改めて確認出来た。

『ノー・マンズ・ランド』はボスニア・ヘルツェゴヴィナの紛争が深刻だった1993年当時の戦場を舞台にしている。

ボスニア軍の交代要員8人は、闇に紛れて前線へ移動していた。しかしその日は霧が深く、兵士たちは道に迷ってしまう。

夜が明け視界が開けると、彼らはセルビア陣地に入り込んでいた。
セルビア軍の容赦ない攻撃により6人は即死状態だったが、チキとツェラは中間地帯にある無人の塹壕付近まで逃げる。しかし砲撃によりチキは塹壕の中へ、ツェラは塹壕の外に吹き飛ばされる。

セルビア陣営の老兵と新人兵のニノは偵察を命じられ、塹壕へ向かう。塹壕内ではチキが生き残っており、2人の様子を伺っていた。老兵は塹壕内にジャンプ式の地雷を埋め、その上に意識のないツェラを寝かせる。地雷はツェラを動かすと爆発する仕組みになっていた。

チキは隙を狙って2人を銃撃する。老兵は即死したが、ニノは生き残る。チキはニノを裸にして塹壕の外で白いシャツを振らせる。セルビア軍はニノがどちらの兵士かわからないまま砲弾を打つ。
その音でツェラが意識を取り戻す。しかしツェラを救うには背中の下の地雷を処理してもらうしか方法がない。

チキとニノは互いを牽制し合いながらも、協力してこの状況を打開することにする。今度は2人で裸になって外で白いシャツを振る。両陣営は対応に苦慮し、国連防護軍に連絡する。

連絡を受けた国連防護軍フランス兵のマルシャン軍曹はサラエボ本部のデュボア大尉から上官と相談するので待機するよう命じられるが、命令を無視してすぐに動き始める。まずは両陣営の検問所へ銃撃しないよう要請に行く。

デゥボラ大尉はソフト大佐に相談するが、大佐は防護軍の任務は人道援助であり国連決議が出ないと何もできないと苛立つ。つまり面倒なことには関わるなということだった。

現場のマルシャン軍曹はすでに塹壕まで行き、チキたちと接触していた。しかし本部は地雷処理班の出動を拒否し、すぐに帰れと命令する。軍曹はせめてチキとニノを連れて帰ろうとするが、チキはツェラを見捨てないと言い張り、防護軍と行こうとしたニノの足を撃つ。ニノがいなくなるとセルビア軍から攻撃される可能性があるためだ。防護軍は結局3人を塹壕に残して帰ってしまう。

帰ってきたマルシャン軍曹をテレビカメラとリビングストン特派員が待ち構えていた。テレビ局は無線のやり取りを傍受しており、国連は彼らを救助しないのかと詰め寄る。彼らを助けたいと思っている軍曹はこの状況を逆手に取り、上官に再度3人の救出を願い出る。

テレビではボスニアの中間地点で数名が立ち往生しているというニュースが流され、動かざるをえなくなったソフト大佐はヘリで現場へ向かう。さらにデュボア大尉も現場へ赴き、ドイツ兵の地雷処理班が呼ばれる。防護軍と多くのマスコミが中間地帯に移動する。

塹壕内のニノは足を撃たれたことに腹を立て、ナイフでチキを刺し殺そうとする。ニノは防護軍に取り押さえられるが、2人の憎しみの感情はマックスに達していた。

ツェラの下にある地雷を確認したドイツ兵は、このタイプの地雷は一度仕掛けると処理が出来ないと言う。マルシャン軍曹たちが途方に暮れている中、ソフト大佐がヘリでやってくる。話を聞いた大佐はマスコミに向けて作業をするフリだけすればいいと指示する。

チキとニノの見張りを命じられていた若い兵士は、騒ぎに気をとられ2人から目を離す。その隙を狙ってチキは銃を拾いニノを撃とうとする。チキは殺到してきたマスコミに向かって“お前らはみんな同類だ、俺らの悲劇がそんなに儲かるのか”と怒りをぶつける。ニノは兵士の銃を奪いチキを撃とうとして、チキに撃ち殺され、チキは兵士に射殺されてしまう。

大佐は地雷処理が終了したと大尉に芝居をさせ、防護軍を引き揚げさせる。さらにマスコミに対して改めて記者会見をすると約束して、彼らを退去させる。マルシャン軍曹も最後には諦め、塹壕内の身動きの出来ないツェラだけが取り残される。


この映画は笑いとメッセージを両立させるという、映画では決して容易ではないことを実現している。

諷刺される対象は四者ある。まず互いに敵を罵倒しつつ慌てふためく両軍2組が皮肉られる。
次いで国連という組織のほとんど存在論的な欺瞞が思い切りあてこすられる。
ここで国連上層部はひたすら世評をおそれていて、メディア対策のために中間地帯への救助出動を許可し、またそれを恣意的に取り消す。
最後にニュースメディアが嘲笑される。かれらも視聴者の反応と局内での評価に隷従し、取材後はもはやニュース価値がないと考えて塹壕のなかを確認しないまま引き上げてしまう。

人びとが戦場から去ったあと、塹壕では兵士ツェラだけがたった一人、除去不能の地雷を背に敷いて横たわったまま取り残されている。もはや誰も彼を助けることはない。世界の愚かしさに向けて叩きつけたメッセージは明確だった。


こうして、わかったふうなことを言っている私も、「世界の愚かしさ」の中に含まれているのだ。勿論。そしてそれが故に、この映画を観て、とても混乱している。

20180524

『隠された記憶』

映画を観始めてしばらくしてから、この映画は単純に筋を追うだけでは、間違った観方になってしまうと気付き、居住まいを正した。

一見、心理サスペンス映画のような気がする。

出版社に勤める妻アンヌと息子ピエロと共に、成功した人生を送るテレビキャスター、ジョルジュの元に、奇妙なビデオが送りつけられる。それは、ジョルジュの自宅を外から長時間にわたって隠し撮りしたものだった。

最初は単なる悪戯だと思っていたジョルジュだったが、その後もビデオは送りつけられる。血を吐く子どもの絵と共に。
同じ絵は身の回りの人々にも送りつけられる。

繰り返される不気味な出来事に、次第に不安を募らせる夫婦。

3度目のテープには、走る車の中からジョルジュの実家を映した映像と共に首を斬られた鶏の絵が添えられていたことから、ジョルジュは心の奥深くに封印し、すっかり忘れていた「過去の罪」を思い出す。

40年以上前の1961年、ジョルジュが6歳だった頃、使用人として働いていたアルジェリア人夫婦がアルジェリア独立運動のデモに参加して亡くなる。ジョルジュの両親は遺された息子マジッドを養子にすることを決めるが、それがどうしても嫌だったジョルジュは、マジッドを騙して鶏を殺させるなどして凶暴で残酷な子供であるかのように見せかけ、両親に告げ口してマジッドが施設に送られるように仕向けていたのだ。

テープに写されていた映像に導かれてマジッドの住む団地にやって来たジョルジュはマジッドを厳しく問いつめるが、マジッドは何も知らないと言う。マジッドは本当に何も知らない様子なのだが、ジョルジュはマジッドによる脅迫だと決めつけ、彼を激しく脅す。ところが、その様子を隠し撮りした映像がアンヌだけでなく、ジョルジュの職場の上司にも送りつけられたことで、ジョルジュはますます精神的に追いつめられて行く。

更に息子ピエロが行方をくらます事件が起きる。マジッドが誘拐したと思い込んだジョルジュは警官を連れてマジッドの部屋に押し掛ける。しかし、ピエロは母アンヌの不倫に怒って友人の家に黙って泊まっていただけだった。

そんなある日、ジョルジュはマジッドに呼び出される。マジッドはジョルジュを部屋に入れると、ビデオとは何の関係もないと言い、自ら喉を切って自殺してしまう。激しいショックでその場を逃げ出したジョルジュだったが、アンヌに事情を話して警察に届ける。

それからしばらくして、マジッドの息子がジョルジュの職場に押し掛ける。自分は悪くないと取り乱すジョルジュを前に、マジッドの息子は、自分がビデオとは関係がないこと、ジョルジュのせいで施設送りとなった父マジッドが苦労して自分を育ててくれたことを語ると共に、ジョルジュが心の中に疾しいものを抱えていることを鋭く指摘する。

ピエロの学校の出入り口を遠くから写した映像が流れる。そこにはマジッドの息子とピエロが親しげに何かを話している様子が写っていた。

ここで映画は唐突に終わる。

単純に考えればピエロとマジッドの息子の共犯だったと思わせるようなエンディングだ。仮にそうだとしても心理サスペンスとして立派に成立する。

しかし、それ程この映画は単純なのだろうか?ミヒャエル・ハネケ監督はそれ程「素直な」監督だろうか?

ラストシーンは、映画を観ている我々に送りつけられたビデオなのではないか?ふと、そう思って合点が行った。

では、送られて来た数々のビデオ映像は誰が撮ったのか?
最初のシーンでビデオを見ながら主人公の言った言葉がヒント、いや、答えだ。
あの時、主人公は妻に向かってこう言った。
「どこにも盗撮用のカメラなんかなかったし、車の窓越しの撮影でもない」と。
では、その状況下であの映像を撮影する事が出来る人間とは誰か?

それは、本作『隠された記憶』という映画のカメラマンである。

盗撮ではなく、この映画の為に撮っているのだから気がつくとか気がつかないとかのレベルではない。
すでに、ここでハネケ監督お得意のメタ構造になっている。
オープニングカットとラストカットに映画のクレジットが乗っかっているのはそのせいなのだ。

結局、犯人とはハネケ監督であり、同時にそれを観る我々である。
すなわち、我々観客が望んでいるモノ(=本作ではビデオテープに写っている他人の生活)は覗き見だ。
現代にあふれるメディアやマスコミ、それを求める人々に対しての強烈な皮肉でもあるのだ。
夫婦の職業がマスコミなのはもちろん計算されての事である。
ふだん、人の生活を覗き見る側にいる人間が覗き観られる側に立つとどうなるのかを意地悪く描写している訳だ。

さすがハネケ。意地の悪さ天下一品である。

音楽はない。

20180518

『パラダイス・ナウ』

また中東が荒れている。またアメリカのせいだ。
トランプがエルサレムをイスラエルの首都と認め、米大使館を移転したことに対して、それに抗議するデモ隊とイスラエル軍の衝突が続いている。現時点で生後8ヶ月の幼女を含むガザの民62名が死亡している。

14日はイスラエル建国によって70万人のパレスチナ人が故郷を追われた「ナクバ(大惨事)」から、丁度70周年にあたり、その節目の日にパレスチナでは、米国とイスラエルへの憎悪が更に高まっている。

国連でも激しい意見の応酬があった

このイスラエルによるガザへの無差別攻撃を受けてUPLINKはハニ・アブ・アサド監督の『パラダイス・ナウ』と『オマールの壁』を緊急無料配信。ナクバとパレスチナの現状に対する理解を求めている。

『パラダイス・ナウ』を観た。

日本軍による特攻が、現在の自爆テロに影響を与えていないと言えば、嘘になるだろう。その意味で、自爆テロ発祥の地である日本で、この映画を見なければ、自爆テロの理解が出来ないというのも皮肉な話だ。

特攻も自爆テロも、本質的に外道だと、私は思う。けれどならば何故、そうした行為が止まないのか?それに対する答えは、まだない。

映画は、自爆テロをする側パレスチナの視点で描かれている。自爆テロ実行に至る48時間を丹念に追い、実行役はテロの前日をどう過ごすのかをリアルに描いて、その論理と心情を説得力のある形で、差し出している。

と言っても、自爆テロを賛美している訳ではない。むしろハニ・アブ・アサド監督の立場は自爆テロに批判的だ。

もう一度問う。ならば何故そうした行為が止まないのか?

それを理解する為には、そこに追い込まれて行く若者の行為と論理にそっと寄り添ってみる必要もあるのではないか?

この映画はそう言っているように、私には思える。

舞台はイスラエル軍に包囲された西岸の町ナブルス。自動車の修理工場で働くサイードとハーレドは、先の見えない現状に苛立ちを募らせていた。独立運動の英雄の娘でモロッコからナブルスにやって来たスーハは、サイードに心を寄せるが、サイードとハーレドのふたりはパレスチナ過激派の自爆テロの実行役に選ばれる。

スーハは暴力的な闘争に反対しているが、彼女が唱える非暴力的な人権運動は、閉塞感に囚われたサイードたち下層階級の心を変えるに至らない。自爆テロ決行の日となり、ふたりはユダヤ人地区に潜入しようとするが、イスラエル軍に発見されかけ、攻撃は未遂に終わる。サイードは仲間とはぐれてしまう。

ハーレドは必死になって、サイードを探すが、その間、物語は二転三転する。

この映画ではパレスチナの占領地の現実が、これまでにない程正確に、丁寧に、そして誠実に描かれている。ハニ・アブ・アサド監督はパレスチナの人物ではあるが、映画で政治的な主張をするタイプではない。あくまでもこの映画を「主張ではなく説明」と解説している。

とは言え、この映画は色気が全くない訳ではない。主人公のパレスチナ人が仲間に用意される最後のご馳走の場面は、ダ・ヴィンチの『最後の晩餐』そのままの構図になっている。これは強烈な皮肉だ。あの絵の主人公は、ユダヤ人によって処刑されたイエス・キリストなのだから。

その他にも、テロリストデビュー(と同時に人生最後の1日)の日に「伝説のリーダー」と面会するが、そのリーダーは、思ったより遙かに小柄で普通の人だったというエピソード。身体に巻くテープの品質が悪かった件について語る場面。犯行声明のビデオを撮影するときに、周りの連中が立ち食いして緊張感をぶち壊しにしているシーンなど。いずれもそこはかとない気まずさ、滑稽感が漂っている。ハニ・アブ・アサド監督は聖戦の現実とはこんなものさと、自嘲的に呟いている様だ。

そうした丁寧な描写でサイードとハーレドを見ていると、いつの間にか彼らに同調している自分に気が付く。しかし彼らは自爆テロの実行役なのだ。その事に気付いて思わず慄然とする。
爆弾を背負ってイスラエルに突入するふたりは、狂信者でも何でもなく、どこの国にのいる、現状に不満を抱くただの破れかぶれな若者なのだ。そこに見える若さ故の破壊衝動には共感すら抱く事が出来る。だが、彼らは間違いなくテロリストなのだ。

日々イスラエルの攻撃に晒され、国土が入植によって蚕食され続けるパレスチナ。その現状を想像する事は、アメリカに守られているという日本では、難しい事なのかも知れない。けれど、一旦彼らの日常に寄り添ってみると、彼らも私たちの日常と地続きの、同じ現実を生きているのだと言う事に気付く。

テロリストは思ったよりも遙かに身近な存在なのだ。

この機会に、こうした映画を見せてくれたUPLINKの英断に、深い感謝を表したい。

20180516

『鉄くず拾いの物語』

うさこさんと映画』の中の映画評「0479. 鉄くず拾いの物語(2013)」が優れたレビューになっている。私がこの映画を知ったのもこのレビューからだった。映画を観た後再読し、改めてその的確な表現に感心した。

その冒頭の部分。

ひとつの実話をつうじて、紛争後のボスニア・ヘルツェゴヴィナの社会をえがく。美しさをかたくなに拒んだようなその映像のなかに、ありのままの光景をさし出そうとする無言の覚悟が浮かび上がる。主人公を演じるのも俳優ではない。鉄くず――あるいは屑鉄――を売って家族をやしなっている一人の男性で、かれはロマ族の妻をもつ夫として実際に自分たちの身に起きたことを再現していく。

完璧だ。

映画を見始めて戸惑った。映像が美しくない。素人が撮ったような、何の演出も感じさせない画面が続く。

監督のダニス・タノビッチは語る。

撮影には小さなキヤノンのカメラを使い、クルーも8人だけ。彼らにすれば、子供が回りで遊んでいるようなものだったと思う。この映画に必要なのは、ナジフとセナダの生活に入らせてもらうことだった。私たちはできるだけ彼らから見えない状態で撮影にあたった。
季節は冬。雪交じりの凍てついた日々が続く。夫ナジフは仲間と共に廃車を手斧で壊し、鉄くずを選り分けて売り、100マルクほどの代価を受け取り、仲間と分け、妻セナダと幼い娘たちと食卓を囲む。

何もかもが貧しく、汚れている。大きな谷一杯に廃品が積み上がるゴミ捨て場、鉄工所、コンビナート。全てが汚れている。実際、この国の状況は、戦時中よりひどいという。

ロマという少数者である事が、更に厳しい状況に彼らを追い込んで行く。ある日、妻セナダの身体の中で胎児が死んでいて、ただちに手術をしなければ敗血症になり、死に至ることを宣告される。だが保険証がない。

多くのロマはナジフのように、子どもに教育を受けさせる為に、医療保障のない日雇いの仕事に就く事を余儀なくされている。保険証を持たない彼らが、治療を受けられるかどうかは、医者の善意によって、左右されているのだ。

手術代980マルク(約500ユーロ)が払えない。いわば5万円がない為に死んで行く事になる。ナジフは「分割で払わせてくれ」と看護師や医師に懇願するが、その願いは受け入れられない。夫ナジフはゴミ捨て場に鉄を拾いに行く。廃品の鉄は94マルクにしかならない。民間の支援団体「子どもの地」を頼るものの事態は打開できない。時間が迫る。

ダニス・タノヴィッチ監督は言う。

撮影当初は彼らがロマであることを意識はしていなかったのですが、制作していくうちに、もしセナダが青い瞳で金髪だったら扱われ方が違ったのではないかと考えるようになりました。そして、残念ながら答えはきっと『YES』だったと思いました。我々が考えなければならないのは、我々も違う場所に行けば少数民族になるかもしれないという事です。社会は、マイノリティの立場で見ると、全然違うものに見えるのです。

 夫ナジフは何とかセナダの妹から保険証を借りる事が出来た。他人の保険証を手にして診察室に入って行ったきりの妻セナダを、夫ナジフは椅子もない廊下で待ち続ける。幼い娘たちは退屈して遊び、騒ぎ、やがて静かになる。時間の長さ。薄暗い光。疲れ果てた夫ナジフの不安げな横顔。

妻セナダが戻ってきた。再び一家揃った、生活が始まる。しかし、エンディングのここでも、雪に埋もれた冬の村の美しさが映されることはない。薪を割り、抱えて、無言で戻る主人公を見送って、古い壁をじっと映して映画は終わる。

ダニス・タノヴィチ監督は、地元の新聞に書かれたセナダの記事を読んで、この事実を知った。このエピソードに怒りを覚えた監督は、数日後にナジフとセナダの暮らす村を訪ねた。ふたりに会った時の事を、監督はこう振り返っている。

この夫婦に温かく歓迎されていると感じました。この出来事を通常の映画にするには1年か2年かかかるということで、(プロデビューサーの)アムラと私は意見が一致し1度は諦めました。数日後、私は再び村に戻り、映画で自分たち自身を演じてくれないか、と彼らに提案してみたのです。

ナジフやセナダをはじめ、彼らとともに暮らすロマ地区の人たちの協力によってこの映画は誕生した。映画に登場する殆ど全ての人たちは、実名で、実際の出来事で同じ役割を担った人たちだ。違う人だったのは、医者を演じた2人だけだったという。


今迄観た映画は、どれも美しい映像を見せてくれた。それが例えドキュメンタリーと呼ばれる分野でも演出はあった。私たちはそうした演出された美しい映画を見慣れている。けれどこの映画にはその、安心出来る美しさがない。
この映画は、腹を立てているのだ。現実の矛盾に、不条理に、そしてその醜さに。涙も、議論も、叫び声をも突き抜けて、もう何も残らない程深い場所から。

ダニス・タノヴィチ監督は、現実を語り直す作業を通じて、その現実の持つ醜さを、ありのまま突き付ける選択をしたのだ。そしてその選択は成功していると、私は感じる。

彼らはひとつの現実の手触りを、世界に伝えたのだ。

20180514

『風が吹くとき』

Hush a bye baby, on the tree top,
When the wind blows the cradle will rock,
When the bow breaks, the cradle will fall,
And down will come baby, cradle and all.

ねんねこおやすみ木の上で
風が吹いたらゆりかごゆれた
枝が折れたらゆりかごおちた
ぼうやとゆりかご いっしょにおちた
─マザー・グース

'86年英国制作のアニメ映画である。
ようやく観た。

原題のWhen the wind blowsの元になったマザーグースを探している間に、時間が経ってしまった。ようやく見付けた。冒頭に上げた詩がそれである。


引退して英国の片田舎で暮らす老夫婦ジムとヒルダ。これからは、愛し合ったふたりののんびりした時間が始まる筈だった。

戦争が勃発した。政府は3日以内に核シェルターを作れと言う。
何事もお上の言う通りに行動していれば、間違いはないと信じるジムは、図書館から核シェルターの作り方や核爆弾への備えに関するパンフレットを持ち帰り、「対策」を実行し始める(この「対策」は英国政府が実際に発行した"Protect and Survive" (『防護と生存』)の内容を踏まえている)。しかしその政府公認の核シェルターというのは部屋のドアを取り、それを室内の壁に60度で立て掛け外堀をクッションで覆い衝撃を防ぐといった何ともいい加減なもの。

政府の説明書では窓の周辺から薄い、細かなものは除けとあるが、議会の出した説明書では窓には白いシーツを下げろと書いてある。どっちが正しいんだ?戸惑うジム。保存食の「公式」リストに載っているピーナツバターを忘れている!慌てるヒルダにジムは「僕はピーナツバターは好きじゃないよ、無くたって生き残れるさ」と答える。指示通りに出来ない言い訳を、殆ど自分に言い聞かせているのだ。

先の第二次大戦の思い出話に、ふたりは今度も有能で勇敢な指導者が事態を切り抜けてくれると言う。けれど彼らはどの国とどの国が戦っているのかさえ知らない。家具で窓をふさいだり、爆弾を落とさないよう嘆願書を書いたりと、彼らの「対策」は進む。

ジムは、大きな紙袋をかぶれば効果があるのではないかとかぶってみて妻にバカにされる。やがて彼はヒロシマを思いだし、柄のない、まっ白のシャツを着れば体を焼かれずにすむと思い至る。けれどヒルダは「それは日本人のことでしょ? 第一そんな話聞いたことないわ」と取り合わず、クリスマスプレゼントの新しいシャツを着ることを許さない。「じゃあ白の古いシャツはないかな?」けれど妻の対応はそっけない。

そこへラジオ。
「敵のミサイルがわが国へ向けて発射されました。三分で到達します。」
ヒルダは洗濯物を取りに行こうとしている。ジムは妻をかかえてシェルターへ飛び込んだ。

─閃光─
─爆風─

「ちくしょう!」
信じられないが、核爆弾が炸裂したこと、そして生きていることを確認するふたり。おののくヒルダに「僕たちは今でも幸せじゃないか」とジムは言う。

「僕たちの爆弾のこと、ニュースでやってるかもしれない!」
ラジオやTVのスイッチを捻るジム。だが当然の事ながら、何の反応もない。

電気は?電話は?全てが働かない。街は死に絶えたのだ。

楽しみにしていたテレビ番組がみられないというヒルダ。真っ白なシャツを着たジム。廃墟の生活にも笑顔さえみられる。けれど、そんな個人の幸せも大きな力が踏み潰してゆく。

数日後、ヒルダは体中が痛み、ジムはようやく放射能の影響に気付く。やがて二人の皮膚は斑点に覆われる。妻をいたわり、陽気に振舞おうと歌を唄うジム。その口から血がしたたっていることももはや妻に言われるまで気付かない。毛が抜け始めたヒルダに夫が言う。「女性は丸坊主にはならないよ、これは科学的真理だ。」しかし事実は彼らの知識を超えていた。彼らの信じるシェルターは苦しみを長引かせるものでしかなかった。

次のICBMに怯えながら、二人は紙袋を身にまとってまたシェルターへはいる。
長いお祈りの言葉。
そしてそこをふたりは再び出ることはなかった。


原作者レイモンド・ブリックスは語っている。
「本作は反核を宣伝するためでも、特別な政治的意図に基づいたものでもない。 核戦争が起こったらどうなるのか、その警告がどう取り払われるのか、人々は次に何をするのかを描きたかっただけだ。 この老夫婦はイギリスの労働階級の典型的な人々である。
誰もが彼らと同じで、私の両親がまだ生きていたら、彼らのように行動したに違いないだろう。」

この作品は、レイモンド・ブリックスの他の作品同様、現実と紙一重ではありながら、やはり一種のファンタジーなのだろう。けれど、マザーグースのように気付いてはいけない現実世界とファンタジーのすき間に位置しているように思えた。観る者はその関係を垣間見て、子どもの頃感じた、大切なものが失われて行く瞬間の不気味さを、原体験として、核のある現実世界を生き抜いて行くしかないのだろう。

冒頭に上げたマザーグースは、その不気味さを暗示している。題名からこの詩を思い出せる文化であれば、それが分かる筈だと想像出来る。その意味では、日本人はこの作品を十分理解出来る文化を共有していない。マザーグースを探し出す事に拘ったのは、こうした理由がある。

長く記憶に残りそうなアニメ映画だと思う。

20180509

『ウィンストン・チャーチル』

昨日はちゃんと映画館に行って映画を観た。

ハンナ・アーレントの『新版 全体主義の起原』を読み続けている。昨年の9月からなので、もう8ヶ月も、この本に掛かり切りになっている。
読んでいて痛切に感じるのは、自信があった筈の世界史の知識量が余りに貧弱だという事実だ。改めて学び直す必要性を感じている。
特に第1次、第2次、両世界大戦の知識が足りない。

それを補う意味も含めて、『ウィンストン・チャーチル/ヒトラーから世界を救った男』を選んだ。全体主義を、それに対抗した勢力はどの様に見ていたのか。それを知りたくもあった。この選択は正しかった。


名宰相ウィンストン・チャーチル。だが、就任当時、彼は政界一の嫌われ者だった。
度重なる失政、所属政党をコロコロ変える変身ぶり、四六時中酒を食らい、葉巻をくわえ口を真一文字にし、猫背で青白い顔で睨み付けるように視線を送り、口を開けば何かと攻撃的に話す。

そんな男がどの様に後のヨーロッパを、いや世界をヒトラーの野望から救うに至ったのか?この映画は、その裏側を、チャーチルの首相就任前夜から、ダンケルクの戦いを決断するまでの27日間を日付を追いながら、丹念に描いている。


1940年5月、ナチス・ドイツがヨーロッパで激しく進攻する中、国民の信を失っていたチェンバレンの首相退陣は必至になっていた。後継首相として、まず白羽の矢が立ったのは外相ハリファックスだった。しかしハリファックスは貴族である自分は首相になれないとして、固辞。「野党が認めるのはひとりしかいない」というチェンバレンの言葉に、誰もがある人物を思い浮かべ「最悪の選択だ」と顔を曇らせた。嫌われ者ウィンストン・チャーチルである。

こうして首相に就任したチャーチルは5月13日組閣の為集められた議員たちを前に、初の演説を行う。チャーチルは熱弁を揮うが、保守党からの反応はなく、またチェンバレンとハリファックスからは演説に「平和」と「交渉」のワードが入っていないと不満を述べられる。5月19日チャーチルは国民に向かってラジオで演説をする。翌朝、官邸前で掌を内向きにしたVサインをするチャーチルの写真が新聞の1面を飾った。新任のタイピスト、エリザベスは、この逆Vサインは、庶民の間では、「クソ食らえ」の意味だとチャーチルに教え、正しいVサインを教授する(実話らしい)。笑うチャーチルのもとに国王から電話が入る。「国民には正しい情報を伝えねば」。彼の演説は、イギリスが勝っているような勢いがあったのだ。散々な船出となった。

5月25日、ドイツ軍は英・仏・ベルギーの60師団を包囲。英国軍はフランス・ダンケルクの海岸まで撤退し、孤立状態になっていた。兵士30万人が包囲され、救出の術も無い。「つまり数日のうちに陸軍をまるまる失う」危機が迫っていた。
カレーに4千人の守備隊がいると聞いたチャーチルは、この部隊を東に向かわせドイツ軍を引きつけ、その間にダンケルクの兵士たちを海路で脱出させる作戦を思い付く。30万人を救うために4千人を犠牲にするのだ。
犠牲を回避したいハリファックスは「イタリアが和平交渉の仲介を申し出てきた。大英帝国の主権が保障されるなら考慮すると答えた」と言う。チャーチルは「わが国をヒトラーの支配下に置けと?」と激高する。

ハリファックスやチェンバレンとの合意が見出せないチャーチルは、アメリカのルーズベルト大統領に兵士救出のための軍艦を譲って欲しいと相談するが、断られてしまう。誰ひとり、味方がいないチャーチル。この時期が原題であるDarkest hourそのものだったのだろう。

ある時、地図を見ながらチャーチルはある作戦を思い付く。ボートでも小型船でも、フランスまで辿り着ける民間の船を召集し、ダンケルクに向かわせるのだ。こうしてダイナモ作戦の幕が切って落とされた。

5月26日、カレーはドイツ軍に完全に包囲された。なおも和平交渉への道を迫るハリファックスに、和平交渉はドイツとイタリアの罠だとし、最後まで戦い抜くと答えるチャーチル。「危険なのは”最後まで戦い抜く”というヒロイズムだ。兵士を無駄死にさせることは愛国心ではない」とハリファックスも声を荒らげる。
カレーにいる准将に電報を打つべく口述するチャーチル。「カレーの部隊の救出は行われない」。エリザベスはタイプを打ちながら静かに涙を流す。チャーチルからの電報を受け取った准将は天を仰ぐ。この日、カレーは陥落した。


5月28日、ダイナモ作戦のため860隻もの船が集まった。史上最大の民間部隊だ。
国会へと向かうチャーチル。しかし迷いは消えない。突然、彼は車を降り、地下鉄に向かう。ウエストミンスター行きの車両にチャーチルが乗り込むと、驚き、立ち上がる人びと。彼らに笑顔を向けながら、チャーチルは語りかける。「君たちイギリス国民は、今どんな気持?」

国会議事堂に到着したチャーチルは、閣議の前に閣外大臣たちを集め、演説を始めた。地
下鉄で会話した市井の人びとの名前を挙げながら、国民が抱く不安の声を伝える。「ナチスに屈したら我々はどうなる?鉤十字がバッキンガム宮殿やウィンザー城にはためくのだ!この国会議事堂にも!」


閣議が始まった。チェンバレンやハリファックスを前にチャーチルは改めて決意を表明する。降伏しないのは、国民の総意であり、国民の気持ちを代弁し続ける事が自分に課せられた義務である。それ故和平交渉は行わない。

下院に集まった議員たちに向けて、チャーチルの演説が始まった。熱弁。この演説は4分間に及んだ。

チャーチルの力強い言葉に、議員たちは皆一斉に立ち上がり、同意を示す白いハンカチを掲げる。

転機となったダンケルクの戦いの裏には、こうしたチャーチルのドラマが隠されていたのだ。


「成功も失敗も終わりではない。肝心なのは続ける勇気だ。
ウィンストン・チャーチル


ウィンストン・チャーチルはスーパーマンではなかった。60を過ぎた、ただの人間だったのだ。彼は彼なりに、自分の弱さと向き合い。時にはそれに流され、克服もして来た。その単なるひとりの人間に、世界は一時委ねられたのだ。
この映画を観るまで、世界はここ迄ヒトラーに追い詰められていたのだという事を、私は知らなかった。将にギリギリの崖っぷちにまで、追いやられていたのだ。

この映画はそうしたことを、丁寧にそしてドラマチックに描いている。


そして忘れてはならないのは、その描写を支えた、役者たちの演技だ。

特に主役ウィンストン・チャーチルを演じた、ゲイリー・オールドマンの化け方は特筆に値する。
特殊メイク、ヘア&メイクデザインを担当した辻一弘の卓越した技術に支えられ、「カメレオン・アクター」の異名を持つゲイリー・オールドマンは、見事にウィンストン・チャーチルになった。

マイケル・ディーンというオペラ歌手にも協力してもらったらしい。ピアノでチャーチルの声域をトレーニングしたのだという。「これが彼の一番低い音、これは彼が話す音域」オールドマンの声は、どちらかと言うとテノール寄りなのだが、時にバスの音域で演説しなければならない事もあったそうだ。そのため、そのうちにチャーチルの音声や動画を見て、前日の夜に何をしていたのかが分かるようになったとも述べている。

この映画はチェンバレン首相の退陣を求める野党議員の怒号が響き渡る議場内を、カメラが真上から滑空するように降りてきて、熱弁を揮う野党の議員から、老いた首相の苦渋の表情を映し出すシーンから始まる。

この「天からの視点」は、その後も、ポイントとなる場面で繰り返し用いられる。

そもそもジョー・ライト監督は映像(音も含む)で物語を描く事に、執念に似たこだわりを持っている監督だ。

この天からの視点に意味がない筈がない。

そしてクライマックス。誇り高き演説を終えて議場を後にするチャーチルを、カメラはもはや真上からの俯瞰で捉えることはない。

天の視点から地上へ。この視点の変化は、全能感に満ちた権力者だったチャーチルが、国民全ての指導者に成長を遂げた結果を表現しているのではないか。映画を見終わった後、密かにそのような事を思ってみた。


ネタバレの連続のような文章になってしまったが、このようにこの映画は、関わった全ての人びとの総意が結晶した、素晴らしい出来栄えになっていると感じた。通り一遍のネタバレだけでは、この映画の魅力は、全く減じないと今では信じることが出来る。

20180507

映画『海街diary』

毎年この時期になると、映画を見始める。今日も映画館に行くつもりだったが、あいにくの雨となってしまって、録り溜めておいたBlu-rayの中から、『海街diary』を選んだ。

この映画を録画出来たときは、とても嬉しかった。原作をとても愉しく読み続けている最中だからだ。
この映画は2015年6月に公開されている。当初、映画館で観るつもりでいたのだが、何故か気が乗らず、見逃してしまっていた。NHK・BSに降りてきた時は、思わず「やった!」と声を上げてしまった程だ。

けれど映画を見始めて少し経った頃から、原作を知っていることが良かったのか悪かったのか、とその事が気になって仕方がなくなってしまった。

原作が良すぎるのだ。その原作を名手是枝裕和監督が、映画としてどの様に再現してくれるのだろう?とそのことばかりに興味を抱いてしまった。余り良い観方ではない。


 鎌倉で暮らす3姉妹の元に、15年前に出奔し、以後連絡もなかった父親が、山形で亡くなったという報せが入る。

葬式は鰍沢温泉という途方もない田舎。そこで、父が残した腹違いの妹中学生のすずと出会う。

しっかり者同士という点で、すずと通じ合うものを感じていた長女幸は、帰る寸前、すずに、一緒に住まないかと提案する。
すずも迷うことなく、その提案を承諾する。

こうして3姉妹は4姉妹となって、ぶつかり合うこともあるけれど、大抵の場合穏やかで、固い結束の下、鎌倉での淡々とした日常生活が始まって行く。

映画はその淡々とした日常生活を、こまやかなタッチで描いて行く。

しかし、映画は原作に追い付いてはいないと感じてしまった。

例えば、鰍沢温泉で、父の面倒を見てくれたのはすずだと見抜いた幸が、すずに、一番好
きな場所に連れて行ってくれと申し出、すずが父親と何度も来た、小高い丘(どこか鎌倉に似ている)に連れて行くシーンでは、原作で、感極まったすずが激しく泣き出し、それを蟬時雨が消すように降り注ぐ名場面があるのだが、映画ではそれがカットされ、涙ぐむ程度の演出として処理されてしまっていた。あれではすずが3姉妹に、心を開く切っ掛けとして乏しく、物語として物足りないものになってしまっている。

原作を読んだとき、この場面は漫画でなければ表現出来まいと、感動したのだが、やはり漫画でないと無理だったのだろうか?何とか格闘して欲しかった。

このように、全体として映画は原作に輪を掛けて、起伏に乏しく、感情移入しにくいものになってしまっている。

未だに連載中で終わっていない原作から、1年を切り取ったのは正解だったと思う。そして、主題を幸がすずに対して言う言葉「あなたはここにいていいんだよ」に絞ったのも悪くない選択だったと思う。けれどその主題に至る筈の様々なエピソードが 、十分主題に収斂せずに、流れてしまったのは、この映画の大きな弱点になっていると思う。これは原作の優れたストーリーに引き摺られたのだと思うのだが、エピソードをもっと刈り込んで、取捨選択しても良かったのではないだろうか。


だが、すずが入ったサッカーチームで花火を見に行く場面など、映画独自の名シーンもあり、映画はとても美しい。
また、4姉妹を囲む、脇役も名役者を揃えてがっちりと固めてあり、そこも見所になっている。

鎌倉は、私にとってもとても縁が深い思い出の場所であり、その風景は、やはり途方もなく美しい。その事をこの映画を観て感じさせられた。とは言え、映画は鎌倉の美しさに寄りかかってばかりはいない。
やはり是枝監督は名手であり、映画作りがとても巧い。その事も感じさせられた。

カンヌでは受賞を逃したものの、映画が終わったときにはスタンディングオベーションが起きたと言う。
奥行きが深い、しっとりとした作品であり、佳品となっている事は間違いないだろう。