その冒頭の部分。
ひとつの実話をつうじて、紛争後のボスニア・ヘルツェゴヴィナの社会をえがく。美しさをかたくなに拒んだようなその映像のなかに、ありのままの光景をさし出そうとする無言の覚悟が浮かび上がる。主人公を演じるのも俳優ではない。鉄くず――あるいは屑鉄――を売って家族をやしなっている一人の男性で、かれはロマ族の妻をもつ夫として実際に自分たちの身に起きたことを再現していく。
完璧だ。
映画を見始めて戸惑った。映像が美しくない。素人が撮ったような、何の演出も感じさせない画面が続く。
監督のダニス・タノビッチは語る。
撮影には小さなキヤノンのカメラを使い、クルーも8人だけ。彼らにすれば、子供が回りで遊んでいるようなものだったと思う。この映画に必要なのは、ナジフとセナダの生活に入らせてもらうことだった。私たちはできるだけ彼らから見えない状態で撮影にあたった。季節は冬。雪交じりの凍てついた日々が続く。夫ナジフは仲間と共に廃車を手斧で壊し、鉄くずを選り分けて売り、100マルクほどの代価を受け取り、仲間と分け、妻セナダと幼い娘たちと食卓を囲む。
何もかもが貧しく、汚れている。大きな谷一杯に廃品が積み上がるゴミ捨て場、鉄工所、コンビナート。全てが汚れている。実際、この国の状況は、戦時中よりひどいという。
ロマという少数者である事が、更に厳しい状況に彼らを追い込んで行く。ある日、妻セナダの身体の中で胎児が死んでいて、ただちに手術をしなければ敗血症になり、死に至ることを宣告される。だが保険証がない。
多くのロマはナジフのように、子どもに教育を受けさせる為に、医療保障のない日雇いの仕事に就く事を余儀なくされている。保険証を持たない彼らが、治療を受けられるかどうかは、医者の善意によって、左右されているのだ。
手術代980マルク(約500ユーロ)が払えない。いわば5万円がない為に死んで行く事になる。ナジフは「分割で払わせてくれ」と看護師や医師に懇願するが、その願いは受け入れられない。夫ナジフはゴミ捨て場に鉄を拾いに行く。廃品の鉄は94マルクにしかならない。民間の支援団体「子どもの地」を頼るものの事態は打開できない。時間が迫る。
ダニス・タノヴィッチ監督は言う。
撮影当初は彼らがロマであることを意識はしていなかったのですが、制作していくうちに、もしセナダが青い瞳で金髪だったら扱われ方が違ったのではないかと考えるようになりました。そして、残念ながら答えはきっと『YES』だったと思いました。我々が考えなければならないのは、我々も違う場所に行けば少数民族になるかもしれないという事です。社会は、マイノリティの立場で見ると、全然違うものに見えるのです。
妻セナダが戻ってきた。再び一家揃った、生活が始まる。しかし、エンディングのここでも、雪に埋もれた冬の村の美しさが映されることはない。薪を割り、抱えて、無言で戻る主人公を見送って、古い壁をじっと映して映画は終わる。
ダニス・タノヴィチ監督は、地元の新聞に書かれたセナダの記事を読んで、この事実を知った。このエピソードに怒りを覚えた監督は、数日後にナジフとセナダの暮らす村を訪ねた。ふたりに会った時の事を、監督はこう振り返っている。
この夫婦に温かく歓迎されていると感じました。この出来事を通常の映画にするには1年か2年かかかるということで、(プロデビューサーの)アムラと私は意見が一致し1度は諦めました。数日後、私は再び村に戻り、映画で自分たち自身を演じてくれないか、と彼らに提案してみたのです。
ナジフやセナダをはじめ、彼らとともに暮らすロマ地区の人たちの協力によってこの映画は誕生した。映画に登場する殆ど全ての人たちは、実名で、実際の出来事で同じ役割を担った人たちだ。違う人だったのは、医者を演じた2人だけだったという。
今迄観た映画は、どれも美しい映像を見せてくれた。それが例えドキュメンタリーと呼ばれる分野でも演出はあった。私たちはそうした演出された美しい映画を見慣れている。けれどこの映画にはその、安心出来る美しさがない。
この映画は、腹を立てているのだ。現実の矛盾に、不条理に、そしてその醜さに。涙も、議論も、叫び声をも突き抜けて、もう何も残らない程深い場所から。
ダニス・タノヴィチ監督は、現実を語り直す作業を通じて、その現実の持つ醜さを、ありのまま突き付ける選択をしたのだ。そしてその選択は成功していると、私は感じる。
彼らはひとつの現実の手触りを、世界に伝えたのだ。
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