Hush a bye baby, on the tree top,
When the wind blows the cradle will rock,
When the bow breaks, the cradle will fall,
And down will come baby, cradle and all.
When the wind blows the cradle will rock,
When the bow breaks, the cradle will fall,
And down will come baby, cradle and all.
ねんねこおやすみ木の上で
風が吹いたらゆりかごゆれた
枝が折れたらゆりかごおちた
枝が折れたらゆりかごおちた
ぼうやとゆりかご いっしょにおちた
─マザー・グース
'86年英国制作のアニメ映画である。
ようやく観た。
原題のWhen the wind blowsの元になったマザーグースを探している間に、時間が経ってしまった。ようやく見付けた。冒頭に上げた詩がそれである。
引退して英国の片田舎で暮らす老夫婦ジムとヒルダ。これからは、愛し合ったふたりののんびりした時間が始まる筈だった。
戦争が勃発した。政府は3日以内に核シェルターを作れと言う。
何事もお上の言う通りに行動していれば、間違いはないと信じるジムは、図書館から核シェルターの作り方や核爆弾への備えに関するパンフレットを持ち帰り、「対策」を実行し始める(この「対策」は英国政府が実際に発行した"Protect and Survive" (『防護と生存』)の内容を踏まえている)。しかしその政府公認の核シェルターというのは部屋のドアを取り、それを室内の壁に60度で立て掛け外堀をクッションで覆い衝撃を防ぐといった何ともいい加減なもの。
政府の説明書では窓の周辺から薄い、細かなものは除けとあるが、議会の出した説明書では窓には白いシーツを下げろと書いてある。どっちが正しいんだ?戸惑うジム。保存食の「公式」リストに載っているピーナツバターを忘れている!慌てるヒルダにジムは「僕はピーナツバターは好きじゃないよ、無くたって生き残れるさ」と答える。指示通りに出来ない言い訳を、殆ど自分に言い聞かせているのだ。
先の第二次大戦の思い出話に、ふたりは今度も有能で勇敢な指導者が事態を切り抜けてくれると言う。けれど彼らはどの国とどの国が戦っているのかさえ知らない。家具で窓をふさいだり、爆弾を落とさないよう嘆願書を書いたりと、彼らの「対策」は進む。
ジムは、大きな紙袋をかぶれば効果があるのではないかとかぶってみて妻にバカにされる。やがて彼はヒロシマを思いだし、柄のない、まっ白のシャツを着れば体を焼かれずにすむと思い至る。けれどヒルダは「それは日本人のことでしょ? 第一そんな話聞いたことないわ」と取り合わず、クリスマスプレゼントの新しいシャツを着ることを許さない。「じゃあ白の古いシャツはないかな?」けれど妻の対応はそっけない。
そこへラジオ。
「敵のミサイルがわが国へ向けて発射されました。三分で到達します。」
ヒルダは洗濯物を取りに行こうとしている。ジムは妻をかかえてシェルターへ飛び込んだ。
─閃光─
─爆風─
「ちくしょう!」
信じられないが、核爆弾が炸裂したこと、そして生きていることを確認するふたり。おののくヒルダに「僕たちは今でも幸せじゃないか」とジムは言う。
「僕たちの爆弾のこと、ニュースでやってるかもしれない!」
ラジオやTVのスイッチを捻るジム。だが当然の事ながら、何の反応もない。
電気は?電話は?全てが働かない。街は死に絶えたのだ。
楽しみにしていたテレビ番組がみられないというヒルダ。真っ白なシャツを着たジム。廃墟の生活にも笑顔さえみられる。けれど、そんな個人の幸せも大きな力が踏み潰してゆく。
数日後、ヒルダは体中が痛み、ジムはようやく放射能の影響に気付く。やがて二人の皮膚は斑点に覆われる。妻をいたわり、陽気に振舞おうと歌を唄うジム。その口から血がしたたっていることももはや妻に言われるまで気付かない。毛が抜け始めたヒルダに夫が言う。「女性は丸坊主にはならないよ、これは科学的真理だ。」しかし事実は彼らの知識を超えていた。彼らの信じるシェルターは苦しみを長引かせるものでしかなかった。
次のICBMに怯えながら、二人は紙袋を身にまとってまたシェルターへはいる。
長いお祈りの言葉。
そしてそこをふたりは再び出ることはなかった。
原作者レイモンド・ブリックスは語っている。
「本作は反核を宣伝するためでも、特別な政治的意図に基づいたものでもない。 核戦争が起こったらどうなるのか、その警告がどう取り払われるのか、人々は次に何をするのかを描きたかっただけだ。 この老夫婦はイギリスの労働階級の典型的な人々である。
誰もが彼らと同じで、私の両親がまだ生きていたら、彼らのように行動したに違いないだろう。」
この作品は、レイモンド・ブリックスの他の作品同様、現実と紙一重ではありながら、やはり一種のファンタジーなのだろう。けれど、マザーグースのように気付いてはいけない現実世界とファンタジーのすき間に位置しているように思えた。観る者はその関係を垣間見て、子どもの頃感じた、大切なものが失われて行く瞬間の不気味さを、原体験として、核のある現実世界を生き抜いて行くしかないのだろう。
冒頭に上げたマザーグースは、その不気味さを暗示している。題名からこの詩を思い出せる文化であれば、それが分かる筈だと想像出来る。その意味では、日本人はこの作品を十分理解出来る文化を共有していない。マザーグースを探し出す事に拘ったのは、こうした理由がある。
長く記憶に残りそうなアニメ映画だと思う。
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