20180524

『隠された記憶』

映画を観始めてしばらくしてから、この映画は単純に筋を追うだけでは、間違った観方になってしまうと気付き、居住まいを正した。

一見、心理サスペンス映画のような気がする。

出版社に勤める妻アンヌと息子ピエロと共に、成功した人生を送るテレビキャスター、ジョルジュの元に、奇妙なビデオが送りつけられる。それは、ジョルジュの自宅を外から長時間にわたって隠し撮りしたものだった。

最初は単なる悪戯だと思っていたジョルジュだったが、その後もビデオは送りつけられる。血を吐く子どもの絵と共に。
同じ絵は身の回りの人々にも送りつけられる。

繰り返される不気味な出来事に、次第に不安を募らせる夫婦。

3度目のテープには、走る車の中からジョルジュの実家を映した映像と共に首を斬られた鶏の絵が添えられていたことから、ジョルジュは心の奥深くに封印し、すっかり忘れていた「過去の罪」を思い出す。

40年以上前の1961年、ジョルジュが6歳だった頃、使用人として働いていたアルジェリア人夫婦がアルジェリア独立運動のデモに参加して亡くなる。ジョルジュの両親は遺された息子マジッドを養子にすることを決めるが、それがどうしても嫌だったジョルジュは、マジッドを騙して鶏を殺させるなどして凶暴で残酷な子供であるかのように見せかけ、両親に告げ口してマジッドが施設に送られるように仕向けていたのだ。

テープに写されていた映像に導かれてマジッドの住む団地にやって来たジョルジュはマジッドを厳しく問いつめるが、マジッドは何も知らないと言う。マジッドは本当に何も知らない様子なのだが、ジョルジュはマジッドによる脅迫だと決めつけ、彼を激しく脅す。ところが、その様子を隠し撮りした映像がアンヌだけでなく、ジョルジュの職場の上司にも送りつけられたことで、ジョルジュはますます精神的に追いつめられて行く。

更に息子ピエロが行方をくらます事件が起きる。マジッドが誘拐したと思い込んだジョルジュは警官を連れてマジッドの部屋に押し掛ける。しかし、ピエロは母アンヌの不倫に怒って友人の家に黙って泊まっていただけだった。

そんなある日、ジョルジュはマジッドに呼び出される。マジッドはジョルジュを部屋に入れると、ビデオとは何の関係もないと言い、自ら喉を切って自殺してしまう。激しいショックでその場を逃げ出したジョルジュだったが、アンヌに事情を話して警察に届ける。

それからしばらくして、マジッドの息子がジョルジュの職場に押し掛ける。自分は悪くないと取り乱すジョルジュを前に、マジッドの息子は、自分がビデオとは関係がないこと、ジョルジュのせいで施設送りとなった父マジッドが苦労して自分を育ててくれたことを語ると共に、ジョルジュが心の中に疾しいものを抱えていることを鋭く指摘する。

ピエロの学校の出入り口を遠くから写した映像が流れる。そこにはマジッドの息子とピエロが親しげに何かを話している様子が写っていた。

ここで映画は唐突に終わる。

単純に考えればピエロとマジッドの息子の共犯だったと思わせるようなエンディングだ。仮にそうだとしても心理サスペンスとして立派に成立する。

しかし、それ程この映画は単純なのだろうか?ミヒャエル・ハネケ監督はそれ程「素直な」監督だろうか?

ラストシーンは、映画を観ている我々に送りつけられたビデオなのではないか?ふと、そう思って合点が行った。

では、送られて来た数々のビデオ映像は誰が撮ったのか?
最初のシーンでビデオを見ながら主人公の言った言葉がヒント、いや、答えだ。
あの時、主人公は妻に向かってこう言った。
「どこにも盗撮用のカメラなんかなかったし、車の窓越しの撮影でもない」と。
では、その状況下であの映像を撮影する事が出来る人間とは誰か?

それは、本作『隠された記憶』という映画のカメラマンである。

盗撮ではなく、この映画の為に撮っているのだから気がつくとか気がつかないとかのレベルではない。
すでに、ここでハネケ監督お得意のメタ構造になっている。
オープニングカットとラストカットに映画のクレジットが乗っかっているのはそのせいなのだ。

結局、犯人とはハネケ監督であり、同時にそれを観る我々である。
すなわち、我々観客が望んでいるモノ(=本作ではビデオテープに写っている他人の生活)は覗き見だ。
現代にあふれるメディアやマスコミ、それを求める人々に対しての強烈な皮肉でもあるのだ。
夫婦の職業がマスコミなのはもちろん計算されての事である。
ふだん、人の生活を覗き見る側にいる人間が覗き観られる側に立つとどうなるのかを意地悪く描写している訳だ。

さすがハネケ。意地の悪さ天下一品である。

音楽はない。

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