映画の冒頭で、この映画はメリッサ・ミュラーによる伝記とカーク・エリスの調査に基づいて造られた映画であることが述べられる。
実際よく調べられている。
ロバート・ドーンヘルム監督は事実としてのアンネ・フランクに拘ったのだろう。
アンネと言えば『日記』だがこの映画はこの十代の少女が日記に書かなかった事にも目を向けている。
アンネが日記と出会う以前のフランク家の様子や、日記が途絶えた後のアウシュビッツやビルケナウの収容所の実情も描かれている。
思わず目を背けたくなるような光景も否応なしに突き付けられる。救いはアンネが知的だと思えば夢見がちであったり、想像力豊かであったり、甘やかされていたり、生意気だったりと、ナチス占領下のオランダに暮らすユダヤ人という点を除けば、ほかの少女と何ら変わりはないことだ。
逆に言えば、それ故に第二次世界大戦で起きたユダヤ人虐殺という事実がどれ程むごいものであったかが際立つのだ。
映画の終わりで、『アンネの日記』は聖書に次ぐノンフィクションとなったことが語られ、しかし、アンネの物語は、あの時代に実際に起きた、幾多の物語のうちのひとつの例であることが述べられる。
そうなのだ。背後には何百万人のアンネが存在したのだ。
アンネの物語を過去のものとして捉える発想は、新たな過ちとなる可能性は、現在でも十分にあるのだろう。
それを繰り返さないこと。その為には何が起きたのか?なぜ起きたのか?どの様にして起こり得たのか?(ハンナ・アーレント『全体主義の起原』より)をきちんと知って行く必要があるのだろう。
この映画はレンタルで観たが、途方も無い過去に、私はなぜかこの映画を借りるリストの中に含めていた。なぜ、どの様にして、この映画を知って、選んだのだろう?もはやそれを知る鍵は失われているが、その頃の私の感性に、大いに感謝したい。
良くこの映画を選んでくれていたものだ。
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