トランプがエルサレムをイスラエルの首都と認め、米大使館を移転したことに対して、それに抗議するデモ隊とイスラエル軍の衝突が続いている。現時点で生後8ヶ月の幼女を含むガザの民62名が死亡している。
14日はイスラエル建国によって70万人のパレスチナ人が故郷を追われた「ナクバ(大惨事)」から、丁度70周年にあたり、その節目の日にパレスチナでは、米国とイスラエルへの憎悪が更に高まっている。
国連でも激しい意見の応酬があった。
このイスラエルによるガザへの無差別攻撃を受けてUPLINKはハニ・アブ・アサド監督の『パラダイス・ナウ』と『オマールの壁』を緊急無料配信。ナクバとパレスチナの現状に対する理解を求めている。
『パラダイス・ナウ』を観た。
日本軍による特攻が、現在の自爆テロに影響を与えていないと言えば、嘘になるだろう。その意味で、自爆テロ発祥の地である日本で、この映画を見なければ、自爆テロの理解が出来ないというのも皮肉な話だ。
特攻も自爆テロも、本質的に外道だと、私は思う。けれどならば何故、そうした行為が止まないのか?それに対する答えは、まだない。
映画は、自爆テロをする側パレスチナの視点で描かれている。自爆テロ実行に至る48時間を丹念に追い、実行役はテロの前日をどう過ごすのかをリアルに描いて、その論理と心情を説得力のある形で、差し出している。
と言っても、自爆テロを賛美している訳ではない。むしろハニ・アブ・アサド監督の立場は自爆テロに批判的だ。
もう一度問う。ならば何故そうした行為が止まないのか?
それを理解する為には、そこに追い込まれて行く若者の行為と論理にそっと寄り添ってみる必要もあるのではないか?
この映画はそう言っているように、私には思える。
舞台はイスラエル軍に包囲された西岸の町ナブルス。自動車の修理工場で働くサイードとハーレドは、先の見えない現状に苛立ちを募らせていた。独立運動の英雄の娘でモロッコからナブルスにやって来たスーハは、サイードに心を寄せるが、サイードとハーレドのふたりはパレスチナ過激派の自爆テロの実行役に選ばれる。
スーハは暴力的な闘争に反対しているが、彼女が唱える非暴力的な人権運動は、閉塞感に囚われたサイードたち下層階級の心を変えるに至らない。自爆テロ決行の日となり、ふたりはユダヤ人地区に潜入しようとするが、イスラエル軍に発見されかけ、攻撃は未遂に終わる。サイードは仲間とはぐれてしまう。
ハーレドは必死になって、サイードを探すが、その間、物語は二転三転する。
この映画ではパレスチナの占領地の現実が、これまでにない程正確に、丁寧に、そして誠実に描かれている。ハニ・アブ・アサド監督はパレスチナの人物ではあるが、映画で政治的な主張をするタイプではない。あくまでもこの映画を「主張ではなく説明」と解説している。
とは言え、この映画は色気が全くない訳ではない。主人公のパレスチナ人が仲間に用意される最後のご馳走の場面は、ダ・ヴィンチの『最後の晩餐』そのままの構図になっている。これは強烈な皮肉だ。あの絵の主人公は、ユダヤ人によって処刑されたイエス・キリストなのだから。
その他にも、テロリストデビュー(と同時に人生最後の1日)の日に「伝説のリーダー」と面会するが、そのリーダーは、思ったより遙かに小柄で普通の人だったというエピソード。身体に巻くテープの品質が悪かった件について語る場面。犯行声明のビデオを撮影するときに、周りの連中が立ち食いして緊張感をぶち壊しにしているシーンなど。いずれもそこはかとない気まずさ、滑稽感が漂っている。ハニ・アブ・アサド監督は聖戦の現実とはこんなものさと、自嘲的に呟いている様だ。
そうした丁寧な描写でサイードとハーレドを見ていると、いつの間にか彼らに同調している自分に気が付く。しかし彼らは自爆テロの実行役なのだ。その事に気付いて思わず慄然とする。
爆弾を背負ってイスラエルに突入するふたりは、狂信者でも何でもなく、どこの国にのいる、現状に不満を抱くただの破れかぶれな若者なのだ。そこに見える若さ故の破壊衝動には共感すら抱く事が出来る。だが、彼らは間違いなくテロリストなのだ。
日々イスラエルの攻撃に晒され、国土が入植によって蚕食され続けるパレスチナ。その現状を想像する事は、アメリカに守られているという日本では、難しい事なのかも知れない。けれど、一旦彼らの日常に寄り添ってみると、彼らも私たちの日常と地続きの、同じ現実を生きているのだと言う事に気付く。
テロリストは思ったよりも遙かに身近な存在なのだ。
この機会に、こうした映画を見せてくれたUPLINKの英断に、深い感謝を表したい。
0 件のコメント:
コメントを投稿