最初に『哲学探究』を手に取ったのは1週間前、22日の事だった。これと言った意図もなく、ただ図書館から借りて来たと言うのが動機だった。
だがちっとも分からない。かなり焦りを感じながらベージを繰った。
そのうちにどこが特に分からないかが見えて来た。ヴィトゲンシュタインの前著『論理哲学論考』を引いてある箇所が全く理解出来ないのだ。
それも当たり前の事。私は『論理哲学論考』を今迄に読んだ事がない。
2日が過ぎていた。急いで本棚から『論理哲学論考』を引っ張り出した。
噂には聞いていた。難解であると。だが実際に読んでみると、私にはその難解さが感じられなかった。
シンプルな言葉が連なっている。そしてそれらは極めて緻密な論理構造を形作っており、頭に数字が記された短文が入れ子細工の様に並べられている。
私には、その構造がとても美しいものと感じられた。
確かにその論理は読み易い形で書かれたものではなかった。文意を読み取り、そこから意味を引き出すのはかなり時間が掛かった。
解説でヴィトゲンシュタインがこの『論理哲学論考』を書くに至った背景を知り、彼がこの著作を紡ぎ出すのにどれだけの覚悟があったかを理解出来た事も大きかった。
彼は人生の全てを賭けて、哲学を「片付け」ようとしたのだと思う。
『論理哲学論考』を読み切り、最後の有名な
語ることができないことについては、沈黙するしかない
に辿り着いた時、私はようやくヴィトゲンシュタインがこの結語に至る迄にどれ程の論理を必要としたかが理解出来た。
続いて『哲学探究』に戻った。
だが、先に読み掛けの箇所から読んでも、拉致が開かない事が分かった。私は前回殆ど理解する事なしに、『哲学探究』を読んでいたのだ。しかも読んだ箇所も全く覚えていなかった。
冒頭に戻り、再読を開始。
『哲学探究』の最良のガイドブックは『論理哲学論考』だという言葉がある。
私はその言葉の意味が極めて良く分かった。
今度は『哲学探究』が分かるのだ。
『哲学探究』に使われている言葉は、『論理哲学論考』の様な結晶の様な美しさは無い。ヴィトゲンシュタイン自身が言うように、その言葉は「ざらざらしている」。
だが読み進めて行くうちに、私には『哲学探究』にはそれなりの、大理石の様な美しさがあると感じた。
『論理哲学論考』も『哲学探究』も、それぞれの単体では、何の為の著作なのかつい見失ってしまう。そこには深い論理だけがあるからだ。
だが両著作は、私がこれ迄に読んで来た、全ての哲学書を総動員させて取り掛からなければならない深い内容が存在していた。
無茶を承知で取り掛かった事だが、『論理哲学論考』と『哲学探究』を続け様に読んで見て、私にはそれが極めて有効な読書法だったと、今になって感じる。
少しでも気を抜くと、滑落してしまいそうな、厳粛な綱渡りの様な読書体験だった。だが両者を読み終えて、今の私には読書という暗闇の中の旅に必要な、確かなオリエンテーションが備わった様な充実した力を感じている。
両者を読み切って、本当に良かったと感じている。



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