再読である。
前回は新しいiMacが届いたのと重なってしまい、十分にこの詩集に集中する事が出来なかった。加えて、吉増剛造の朗読を意識し過ぎてしまい、速く読み過ぎたとも反省していた。
今回は、意識的に、極めてゆっくりと読む事を心掛けて読んだ。
詩に書かれている事が、十分に腑に落ちる迄、ひとつひとつの節を噛み締め、それが出来る迄詩集を閉じて熟成させて読み進めた。
考えるな、感じろ!はブルース・リーの言葉だが、これは詩を読む時にも言える事だと思う。
現代詩は難解だと言われる。私はそう感じたことがない。現代国語の授業やテストの様に「作者の意図を答えよ」と問われたら、答えに窮するだろうが、それは詩を理解する事ではないと考えている。詩は、書かれた言葉を読んで、そこから何かを感じれば良い。
音楽を聴いて、作曲者の意図を答えよと問う者はいない。それと同じ事だ。
今回、『怪物君』を読んで、吉増剛造によって「書かれた」詩であるという事が、妙に説得力を持って感じられた。この詩集は書かれた言葉であるということに、とりわけ意味がある。
勿論、私は吉増剛造の声を想起する事なしには、彼の詩が理解出来ない。私は吉増剛造の声に導かれて、彼の詩の世界を旅する。
だが、この『怪物君』という詩集は、既に失われているという原稿に書かれた文字を想起する事で、理解出来た側面が大きく存在する。
その詩の言葉が、どの様な形態で書かれた言葉であったのかが、この詩集では、極限まで再現されている。その形態が必然である事を、私は素直に理解出来る。
吉増剛造の詩は、読者を選ぶ側面があると思う。彼の詩に感性を開けない者は容赦無く切り捨てられる。
吉増剛造の詩を読み始めてもう45年経つ、既に老境にある彼は、だが、今も尚新しい表現の方法に挑戦し続けている。私は全力を尽くして、その試みにどうにかこうにか追い付く事が出来ている。これは幸福な出逢いだ。
そして思うのだ、私の幸福は、吉増剛造の詩集を選んだ事ではなく、彼の詩集に選ばれた事にあるのだと。
私は多くの詩人の詩に、全身を晒して生きて来た。これからもそうあるだろう。私は詩人に選ばれて、生きながらえている。
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