これを読書と呼んで良いのか迷う。
本書全体を通じて、中世哲学は難しいぞ!と、そればかりが書かれている。
2/3以上が用語の解説に費やされており、それらにもこの語は日本語には訳しにくいぞ!という、注意書きが必ずと言って良い程付けられている。
確かに難しい。それに加えて、文章には山内志朗氏独自の言い回しが多く、それに慣れるのに数日を要した。理虚的存在などと言われても、未だに何の事か腑に落ちない。
だが、著者が中世哲学に、真っ向から、極めて誠実に向かい合おうとしている事は伝わって来た。決して衒学趣味ではない。
中世哲学の最盛期は、今から800年程前だ。それだけ年月が経っていれば、言葉の使い方から、現在と異なっていたと考えた方が自然と言うものだ。それを敢えて現代語で書こうとすれば、その書き方が、従来と異なった物になる。
未だ影響力を持っていると言っても、神の存在を疑うのが当たり前の様な現在から、神が絶対的な存在感を持っていた時代の哲学を紐解いてどうする。そんな「悪魔の囁き」にも、何度か誘惑された。だが、歴史はその時代に立ち戻って、その時代の感性で読まなければ、理解には程遠い。その事は、今迄の読書で、深く学んで来た。
著者が本気ならば、こちらも本気で臨むだけだ。
新書にしては分厚い本書を、図書館の貸し出し期限を気にしながら、遮二無二読み進めた。どうにか、余裕を持って、読み終える事が出来た。
読んでいて、この分野の知識が、私には決定的に欠けていたと言う事実に気付かされた。カントは、最後の中世哲学の徒であったと言う。そう言われても、何の事か分からない。その程度にカントも理解出来ていなかったという事だろう。
読み終えて、何が分かったか?と問われても、答えに窮する。ただ、頭の中を、山内語で訳された、様々な用語が、励起状態の気体分子の様に、飛び交っているだけだ。
だが、ヨーロッパがイスラームに比べて、後進地域だった頃から、イスラームからアリストテレスなどの知識を逆輸入して、台頭してゆく過程で、中世哲学が極めて重要な位置を占めていた事は理解出来た。
そして、これらの中世哲学の知識は、ドゥルーズやフーコーなど現代哲学を読み解くには必須の知識(特に存在論)らしい事にも気付けた。
著者によると、中世哲学の研究も、本書でようやく六合目に達した様なものだと言う。学問の深さは、素人には見通せない程に、深く険しい。
だが、その研究を、著者が愉しんで行っている事は、十分に伝わって来た。その愉しみ方に触れる事が出来、私も楽しかった。
学問には、ひとつの無駄もないのだ。
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