20220401

フーコー文学講義

 フーコーが1983年に世を去ってから、今年で39年になる。現在、彼の哲学的営為の全容が明らかになりつつある。フーコーの生前に刊行された論文や対談を収録した『ミシェル・フーコー思考集成』の出版に続き、彼がコレージュ・ド・フランスに於いて行った講義録の刊行も2015年に完結し、その大部分が既に邦訳されている。また長らく未刊だった『性の歴史4』「肉の告白」も2018年に出版され、2020年には邦訳が刊行された。その一方で、フーコーの生前には刊行されなかった講演や、フーコーがコレージュ・ド・フランスに着任する以前に大学で行った講義録などの出版も進められている。本書『フーコー文学講義』は、そうしたフーコーの生前に未刊行だった講演のうち、文学に関わるものを収録した著作である。


フーコーの文学論は、彼の哲学的営為に於いて比較的マイナーな位置を占めるものとして扱われている。

では、フーコーと文学との関わりは、ヌーヴォー・ロマンをはじめとする前衛的な興隆を目の当たりにしたフーコーの一時的な気の迷いのようなものであって、彼の哲学的企図自体には関わらない二次的なものに過ぎないのだろうか?

確かにフーコーの著作や論文に加えて、コレージュ・ド・フランス講義録が刊行されている現在、フーコーのコーパス全体に於いて文学をめぐる論考が占める量は必ずしも多いとは言えない。しかし、分量的にはマイナーだとも言えるこれらの文学論は、フーコーの研究全体の中心的な主題である主体と真理という問題に極めて密接な形で関わっているのである。

本書第一章「狂気の言語」には1963年にフーコーが製作した同名のラジオ番組企画のうち、第二回と第五回放送が収録されている。第二回放送「狂人たちの沈黙」は、フーコーと番組の監督を務めたジャン・ドアとの対談という形式を採っているが、その内容は、フーコーが1961年に刊行した『狂気の歴史』、とりわけこの著作の狂気と文学に関連する箇所の一種の要約紹介となっている。この回でまず注目すべきはフーコーがニーチェ『悲劇の誕生』に由来する「ディオニュソス的な合一」という観点から、狂気をめぐるこれらの文学的経験を捉え直しているところだろう。

次に注目すべきは、フーコーが狂気をめぐる文学的経験を明らかにするものとして採り上げた文学作品が、狂気と理性の対話という構造を持つ点である。こうした対話はフーコーが狂気の近代的経験を特徴づけるものとして分析した、狂気と理性の弁証法的な関係、即ち、理性が狂気を対象化しつつ狂気のうちに疎外された人間の真理を見出すという弁証法的な関係に鋭く対立するものである。

本書第二章「文学と言語」には、フーコーが1964年にブリュッセルのサン=ルイ大学で行った、文学をめぐる二回にわたる講演が収録されている。

サルトルによって提示された「文学とは何か」という問いを引き受ける形で開始される第一回講演に於いてフーコーが提示するのは、近代文学の考古学である。

この講演に於いてフーコーは、文学は古代以来連綿と続くものではなく、18世紀末に生まれた近代の産物であると述べる。

古典時代の文学的経験と近代の文学的経験の間にはどのような違いがあるのだろうか?フーコーによれば、古典時代の文学的経験は、古代ギリシア・ローマの古典や聖書のような、真理を告げる聖なる書物を前提として成立していた。

聖なる原典と、それを復元する修辞学の後退と共に誕生した文学を特徴づけるものとしてフーコーは、侵犯、図書館、シミュラークルという三つの形象を採り上げ、それらをサド、シャトーブリアン、プルーストという三人の作家に歸している。

フーコーによれば、侵犯、図書館、シミュラークルというこれらの形象は、いかなる肯定性も持たない否定的な形象であり、近代文学はこれらの形象の間で引き裂かれているというのである。

本書第三章に収録されているのは、フーコーが1970年にニューヨーク州立大学バッファロー校で行ったサドをめぐる二回の講演である。

サド講演に於いてフーコーは、サドの著作を精密に読解することで、論理的観点から見れば矛盾を孕むように思われるサドの思索から、その哲学的な可能性を最大限に引き出そうとしている。その意味でこの講演は、1960年代を通じてフーコーが行っ肯定的なサド評価の極北を示すものであると言える。

フーコーが文学を通してとらわれていた問題。それは、我々をこのようにあらしめている歴史的規定から身を引き離し、いかにして他なる空間を創るかにあったのではないだろうか?

〈主体と真理〉という生涯の問題系に密接な関わりを持つものとして、彼の文学論は展開されている。

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