20220509

系統樹・分類思考の世界

『哲学する漱石』という夏目漱石と清沢満之の思想的関係を論ずる、哲学なのか文学論なのか宗教論なのか分からない本を読んでいた。実は清沢満之が出て来た時点で、この本は一度挫折している。私は清沢満之が大の苦手なのだ。読む時間が確保出来たので、再挑戦する事にした。何とか読み切った。だが分かったかと問われれば答えに窮するしかない。

私は清沢満之が言っている事が、腑に落ちた試しがない。

絶対的束縛即絶対的自由と言われても、日本語としては理解出来るが、その通りだ!と膝を叩くには至らない。

漱石の則天去私を理解するには、清沢満之の思想を理解する必要があると言う。

そうだったのか!これは困った。

どうやら私は夏目漱石を理解するにも至っていなかったようだ。

名指しで文学がわからない奴と言われたようで、どうにも不快感が残る読書となった。

何だか自分の読解力が元々なかったような気にもなって来て、どうにも収まりが付かない。突破口をどこかに求めなければと言う気分になった。

突破口として選んだのは、三中信宏さんの『系統樹思考の世界』と『分類思考の世界』だ。この2冊を一気読みする事を、いつか実現したいと思ってもいたのだ。

世界は多様性に富み、万物は流転している。そうした世界に私たちは生きている。生きている限り、私たちは世界を認識しようとする。

流転し、無常な世界をつらつらと眺めてみると、至る所にダーウィンの言う「変化を伴う由来(descent with modification)」を見出すのに、さほど苦労は要らないだろう。それらを時間軸に従って追跡してみると、そこには様々な系統が認められる。その系統を図に表現したものが系統樹なのだ。


『系統樹思考の世界』の中で、最初に強調されているのは、「進化」するのは〈生きもの〉だけではないということだ。

生物と無生物の別に関係なく、自然物と人造物のいかんを問わず、過去から伝わってきた「もの」のかたちを変え、その中身を変更し、そして来たるべき将来に「もの」が残っていく。私たちが気づかないまま、身の回りには実に多くの(広い意味での)「進化」が作用し続けています。

系統樹思考の考え方は、文系・理系の垣根を超え、様々な「もの」を理解する上で、強力な道具となる事が示唆されている。

本書では更に、歴史を「科学」として理解してゆく上で、アブダクションと言う推論の方法が有効である事が紹介されている。

物理学や化学など典型的な科学では演繹(deduction)と帰納(induction)と言う二種類の推論方法が用いられる事が多い。

第一の演繹では前提となるある主張から、論理的に別の主張を導くというタイプの推論だ。数学を思い浮かべると良いだろう。「この三角形は正三角形である」と言う命題からは、「この三角形は二等辺三角形である」と言う別の命題が演繹される。演繹的な論証の特徴は、前提となる命題が真である限り、そこから演繹された命題もまた真であるという点だ。

第二の帰納とは、観察されたデータを蓄積する事により、真である普遍法則が導かれるというタイプの推論だ。

ここで重要な論点が提起される。それは「データと理論の間にはどのような関係があるのか」という問題だ。生物学や地質学などでは、「経験に照らす」事が不可欠だ。だが、私たちが得る「経験(データ)」が完全無欠であることを、それは意味していない。むしろ、仮説や論理が間違う可能性があり、一方観察データもまた誤りや不確かさを含んでいるかも知れない。たとえ確実な観察データがあったとしても、対立仮説間の「真偽」に決着を付ける事は必ずしも出来ないし、そうする必要もまたない。私たちはデータと理論のいずれに対しても「真偽」を問う事はない。理論がデータと矛盾していれば「偽」、整合していれば「真」というような強い関係を仮定するのではなく、もっと弱い関係を両者の間に置こうという事だ。

ここで言う「弱い関係」とは、観察データが対立仮説のそれぞれに対して様々な程度で与える「経験的支持」の大きさを指している。

データと理論の間に想定されるこの「弱い関係」は、演繹でも帰納でもない第三の推論方法だ。

データが仮説に対して「経験的支持」を与えるとき、同じ現象を説明する複数の対立仮説の間で、「支持」の大きさに則ったランク付けをすることが出来る。あるデータのもとで、最も大きな「支持」を受けた最良の仮説を頂点とする序列だ。そして、経験的支持のランクがより大きい仮説を選ぶという基準を置くことにより、仮設選択の方針を立てることが可能になる。19世紀の哲学者にして記号論の創始者であるチャールズ・S・バースは、与えられた証拠のもとで「最良の説明を発見する」推論方法を「アブダクション(avduction)」と名付けた。

理論の「真偽」を問うのではなく、観察データのもとでどの理論が「より良い説明」を与えてくれるのかを相互比較する─アブダクション、すなわちデータによる対立理論の相対的ランキングは、幅広い科学の領域(歴史科学も含まれる)における理論選択の経験的基準として用いることができそうです。

さて、多様性に満ち溢れた世界。その世界を認識する時、私たちはどのように世界に立ち向かうのか?それを論じたのが『分類思考の世界』だ。


「系統樹思考」が「タテ思考」ならば「分類思考」は「ヨコ思考」である。分類思考は、オブジェクトの時空的な変遷に目を向けるのではなく、ある時空平面で切り取られた「断面図」のパターンを論じる。たとえば、生物多様性を分類思考的に論じるとすると、ある時点に特定の場所で観察される生物相(動植物の全体)が織りなすパターンを考えることになる。

系統樹思考が推奨される思考方法だったのに対し、分類思考は「ついしてしまう」思考形態とされている。

確かに私たちは生物のみならず、様々な「もの」をつい分類してしまい、そうする事で分かった気分にもなれる。私たち人間にとって分類することは根源的な行為のひとつである。「分類するは人の常(To Classify is human)」とは格言そのものだ。

だが、その分類を科学として行おうとすると、思わぬ難題に突き当たる。例えば「種」とは何か?

この様な基本的な事柄についてすらも、現代科学は結論を得ていない。

それらの難題に対して、本書は科学者にとっては禁忌とも言われている形而上学にも果敢に深入りして、分類を考察して行く。

狂言回しとして引き合いに出されるのは、アルチンボルドでありモーニング娘。であり、果てはNHK全国学校音楽コンクール課題曲であったりする。

私たちがついしてしまう分類という行為も、まともに考え始めると、ここ迄深くなるのかと驚く程、多元的な考察が繰り広げられている。

今回『系統樹思考の世界』と『分類思考の世界』を通読して感じたのは、三中信宏さん自身が『分類思考の世界』のプロローグで仰っている事に尽きる。

私の基本的な主張は、「タテ思考(系統樹思考)」と「ヨコ思考(分類思考)」はともに重要な車の車輪であるという点にある。多様なオブジェクトがかたちづくるタペストリーとして世界を理解するためには、そのタテ糸とヨコ糸を解きほぐしてみる必要があるだろう。系統樹思考と分類思考では問題設定がそもそもちがっている。どちらかひとつで事足れりというのは短絡的な考えといわねばならない。

読んでいて、思わず胸が躍った。お陰でようやく清沢満之の毒を、身体から抜く事が出来た。

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