20220523

カントの人間学

かなり昔の話だが、ミシェル・フーコーの『言葉と物』を入手した時、Mさんから3回読んだが分からなかったと忠告された事がある。確かに分からなかった。フーコーは『言葉と物』を2,000人を対象に書いたと言われているが、私はその2,000人の中には入れなかった。だが、いつの日か読める様になりたいと、強く思った。

FBでその事を話したところ、まずは博士論文から入ると良いという助言を得た。『言葉と物』に向けてフーコーを順番に読んで行こうと言う計画が始まった。

フーコーの博士課程主論文は『狂気の歴史』だが、これも敷居が高そうなので、副論文『カントの人間学』から入ってみようと思っていた。

今回、意を決して『カントの人間学』を読んだ。


『人間学』は未読だが、カントならばそれなりに一通り目を通した事がある。大丈夫だろうと高を括って手を出したのだが甘かった。

フーコーは博士副論文から難しかった。

『言葉と物』とは違い、意味が拾える言葉で書かれている。なのでどうにか活字を追う事はできるのだが、扱っているカントのレベルの高さと守備範囲の広さが尋常ではないのだ。しかも思想的背景としてニーチェやハイデガーが仄めかされてる。

つまりこの本を理解しようとするのなら、カントを全集で何回も読み深め、ニーチェ、ハイデガーもノートを取りながら熟読した上でなければ歯が立たない。そうした論文らしいことだけは理解出来た。

もともと博士課程副論文は、出版されることはないのが通例だ。つまり、この論文は世間の人に読まれるという前提で書かれたものではない。どちらかと言うと、論文を査定する指導教官に向けてのみ書かれたものだと言っても良いのだろう。

だが、最初おずおずとカントの『人間学』と『純粋理性批判』の関係を論じていたフーコーが、8章あたりから強気になり始め、自分の見解をどしどしと詰め込み始めたのは、読んでいて痛快だった。

フーコーとハイデガーの近さと遠さは、それぞれのカント論の構図を対比してみればはっきりするだろう。「批判」から「人間学」を介して「超越論哲学」ないし「基礎的存在論」へ、という三項図式は両者に共通しているけれど、フーコーは三つの点でハイデガーから距離をとっている。第一に、ハイデガーにとって「基礎的存在論」は自分自身が取り組むべき仕事であるのに対し、フーコーは「超越論哲学」をカントの最晩年の仕事の中に見出す事。第二にハイデガーにとって「人間学」は「批判」から「基礎的存在論」に至るまっすぐな通路であるのに対し、フーコーは「人間学」に「批判」の反転=反復を認めること。第三にハイデガーがカント『論理学』の「人間とは何か」という問いから読み取られた「哲学的人間学」の構想に注目するのに対し、フーコーはあくまでも「世界=世間」の中で「人間は自分自身をいかになすべきか」を問うカントの『実用的見地における人間学』にこだわること。

要するに、フーコーが考えるカントは、ハイデガーが考えるカントよりもう少し徹底的で、もう少し屈折しているのだが、そんな徹底性も屈折も、どこまでも実用的な『人間学』から来るというのだ。

フーコーは博士課程主論文『狂気の歴史』、副論文『カントの人間学』を発表した後、怒涛の勢いで私たちには周知の数多くの著作を発表していった。起伏の激しいその行程が、「知」から「権力」へ、そして「自己」へと言う、断続的な問題設定を伴うものであったことも、比較的良く知られているが、その始まりに、このようなカントへのこだわりがあった事は、あまり知られていないのではないだろうか?

活字の数を数えるような読書体験だったが、それなりに深い感慨を伴う行程になった。読んで良かったと思う。

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