本棚に『時間の矢・時間の環』があり、本代が浮いた話は既に書いた。
私はこの事の本質を間違って解釈しているようだ。
もし『時間の矢・時間の環』を買うとしたら、とんでもない金額の本代を支払わなければならない。だが、この事は別に私に臨時収入があったという意味ではない。私はここのところを大きく間違って解釈している。
気が大きくなってしまったのだ。
スティーヴン・ジェイ・グールドの最後のエッセイ『ぼくは上陸している』が刊行されたのは2011年の事だった。私はすぐにそれを入手し、読んだ。読みおわっった後、これでスティーヴン・ジェイ・グールドの新刊は読む事が出来ないのだと考え、無性に寂しい思いをした事を覚えている。
だが、ここに来て、『進化理論の構造』が訳された。
まだ読んでいないグールド本があるのだ!
私は欣喜雀躍した。
すぐに図書館にリクエストし、今それを読んでいる。
またスティーヴン・ジェイ・グールドの本を読める。これは私にとって何にも変え難い喜びだ。だが、ここ迄は要求していなかった。
『進化論の構造』はIとIIに分かれており、それぞれがまるで辞書のような分厚さを持っているのだ。まさに鈍器本と呼ぶにふさわしい本である。
しかもこれはスティーヴン・ジェイ・グールドの研究書であり、普段読んでいたエッセイとは趣が異なる。ただ巨大で分厚い本というだけではない。書かれている内容は、その密度がとんでもなく高いのだ。
巨大な本は遅々として進まず、今ようやく第2章の第3節を読み終えようとしている所だ。
本を読むのが遅い。その自覚はあったが、ここ迄来るとさすがに苛立って来る。
出来心で英語版WikipediaでStephen Jay Gouldを検索し、調べてしまった。
Wikipediaには彼の著作の一覧がある。
何と!まだ未訳の本があるではないか。
その中で、”Rocks of Ages”と題された本が妙に気に掛かった。副題はScience and Religion in the Fullness of Life。魅力的だ。
いい世の中になったもので、洋書もamazonで結構入手出来る。何しろ古書代数千円が浮いているのだ。気が大きくなっていた私は、思わずKindle本を買ってしまった。1,406円だった。
意外と安い。
貧乏なのを忘れて(何しろ気が大きくなっているのだ)私はそう思ってしまった。
いかんいかん。『進化理論の構造』を読まなければ。
気を取り直して、また今読んでいる本に戻った。
本の中にチャールズ・ダーウィンの『人間の由来』が出て来た。まだ未読だ。
図書館を調べてみる。
ない。
そうなると居ても立っても居られない気分になる。加えて、何しろ私は気が大きくなっているのだ。amazonを検索すると長谷川眞理子訳で、講談社学術文庫が出ている。これもKindle本がある。これも購入してしまった。上巻・下巻合わせて3,231円で買えた。
気が大きくなっているだけではなかった。私は遅々として進まない『進化論の構造』から逃避もしようとしていた。
次に日本語版Wikipediaでスティーヴン・ジェイ・グールドを検索した。参考文献にキム・ステルレニー『ドーキンスvs.グールド─適応へのサバイバルゲーム』が載っていた。これも図書館にない。これも購入。
購入した本は、あっと言う間に5,000円を超えようとしていた。
冷水を浴びたような気分になり、肝を冷やした。いくらなんでも散財が過ぎる。
慌てて、また『進化理論の構造』に戻った。
正気を取り戻してもKindle本は返品が効かない。どうしようもない。買ってしまったものは読むしかないだろう。
だが、買う時はスティーヴン・ジェイ・グールドの原文を味わえるのだ!と喜んでもいた私だったが、さて、Rocks of Agesとは何と訳したら良いものなのか?翻訳サイトで調べても埒が明かない事が分かっただけだった。果たして私はこの本を読む事が出来るのだろうか?
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