これは読書なのだろうか?
読んでいて、何度もその様な思いに迫られた。ページの後ろから光が差し、印刷されている文字が自動的に目に飛び込んで来る様な感覚があった。大事な事が伝えられようとしている。その思いに突き動かされ、夢中になって文字を追った。
そのうちにこれは旅なのではないかと思い至った。
吉増剛造さんは、根源に辿り着いている詩人だ。私はそこから遥かに隔ったったところにいる。その私は吉増剛造さんに導かれて、根源への旅をしている。と。
吉増剛造さんの詩の朗読会には、何度か参加した事がある。その度に私は、詩の迫力に圧倒され、眩暈に似た困惑、困惑に似た感動を身体に覚えながら、おぼつかない足取りで帰路に着いた。
その時の感覚を思い出しながら、この本を読んだ。
あの体験がなかったら、私はこれ程鮮明に、この本を理解できなかっただろうと確信する。
私は、吉増剛造さんを体験出来る時代に、かろうじて生きる事が出来た幸運を噛み締める。
吉増剛造さんの圧倒的な声を浴びながら、過ごしていたあの時間は、何と贅沢な、そして何と貴重な時間だった事だろう。
あの時の体験も、旅だったのだと、私は今になって理解する。
吉増剛造さんはいつも、私を独りでは辿り着けない高みへと、導いて下さった。
この本『詩とは何か』は、その吉増剛造さんの詩作の秘密を、丁寧にそして確かな手付きで語ったものだ。そしてやはりこの本は吉増剛造さんの肉声で書かれている。
そして、今、私は密かに確信している。恐らく、全ての読書体験は、旅なのだと。
私は読書して来た幸運を再び噛み締める。時に優しく、時に激しく翻弄されながら、私は全ての書物を旅した。
私はかろうじて、詩を理解する事が出来る。その事は、何事にも代え難い幸運だったのだと、この本を読み終えて感じ取る。
読書という旅は風雅な時の流れだ。
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