読む前に抱いていた予測を、心地よく裏切ってくれた。
題名を最初に見て、予測していた内容は、筆者三中信宏さんがこれまでに書いた書評を、ただ単に並べたような、そんな内容だと思っていた。
いや、確かに幾つかの書評は引用されている。だが、それは本書の内容を補足する為に、具体例として引用されたものであり、その量も限られている。
それでは本書の内容とは何か?それを私は筆者がいかに利己的に本と付き合って来たかという事にまとめられるのではないかと密かに思っている。
本書の概要は、プレリュードの「本とのつきあいは利己的に」に示されている。1.読むこと─読書論の冒頭で筆者はアルベルト・マングェルやアンドレ・ケルテスを引いて、読書を「この上なく私的な営みとしての読書という行為は、究極の利己性を帯びている」と断言している。その上で、筆者は、多少なりとも一般化できる本の読み方として、「本は余さず読み尽くす」ということを提唱している。これに対置される読み方としては、「拾い読み」があるだろう。電子化が浸透しつつある昨今、本や雑誌(学術誌)を丸ごと読み尽くすことは稀になって来ている。それは雑誌のみに止まらず、本の世界にも浸透している。丸ごと読むのではなく、必要部分だけを切り出して、拾い読みすれば良いという風潮は、読む側にも読ませる側にも広がっているというのだ。
次に読書の必須の行為として、本を読んだら必ず書評を打つように心がけることを推奨している。
過去10年以上に渡って、三中信宏さんの書評は、私の読書の、良き水先案内人であった。それは、本を(貧乏で)買えなくなった今も続いていて、書評を読んでは、その本を図書館に買わせて読むというスタイルが定着している。筆者は「書評とはいえ、読者のための紹介ではなく、自分のための読書備忘メモとして書き綴った記事ばかり」と書かれているが、少なくとも私には、極め付けで役に立っている。
筆者は日本では「理系の本」を書評する人が圧倒的に少ないと喝破する。新聞や雑誌の誌面書評でもあるいはブログなどで公開されるネット書評でも、概して「理系の本」の書評に出くわす機会はとても少ないと仰る。
この点は私も常々実感してきた事だ。この希少性故に、私は三中信宏さんの書評のファンであり続けたのかも知れない。
筆者は、書評をするということは、書かれたものに対して、自分の見解を重ね合わせた比較評論が基本だとずっと思いこんでいたと言う。
この点に関しては、私は反省するしかないだろう。私の書評は、本の内容を紹介する、典型的なブックレポートであって、三中信宏さんが仰るような書評には程遠い。
更に筆者はピエール・バイヤールの『読んでいない本について堂々と語る方法』を引いて、ある本を読むということは、実はその本だけを読んでいるわけではなく、その本を取り巻くある文化的コミュニティを解読することに等しいと指摘する。
ある特定の本の背後には、それを取り巻く、無数の本の世界が広がっているというわけだ。
それは本を書く際にも言えることで、「一冊の本を書くことによって、細かく断片化された科学知識をひとまとまりの体系化された科学的母体へとつなげられるのではないかと私は期待している」と仰る。
この部分を読んで、私は三中信宏さんの本がなぜ面白いのかの秘密を垣間見た気持ちになった。
他にもこの本には、本を読む事、書評を打つ事、本を書く事に関しての、重要なヒントに満ちている。三中信宏さんは、事あるごとに「自分のため」を繰り返すが、その姿勢を貫き通す事によって、本書は読者にとって良き指南書にもなっているのだろう。
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