汚い本の書影で申し訳ない。
この本は出会ってからずっと手元にある。
本屋で出会ったのではない。
着替えようとして箪笥を開けたら洗濯物の上にこの本が置いてあったのだ。
妙な出会い方をした。だから運命を感じた。
中学1年の春の事だ。
冒頭付近にこうある。
つまりこの世界は三次元からなるとか、精神には九つの範疇があるのか十二の範疇があるのかなどというのはそれ以後の問題だ。
自殺ということこそが、真に哲学的な問題であると述べる箇所だが、この文章に幼い私は激しく動揺した。存在が揺らいだと言って良い。
分からなかったのだ。
先ず範疇という単語の意味が分からなかった。
持っていた小さな辞書で範疇を引いてみた。
カテゴリーと出ていた。
今度はカテゴリーを引いてみた。
範疇と出ていた。
けしからぬ辞書である。
けれど思春期の入り口にあった私にとっては、それで十分だった。
難しい。分からない。それだけが読む理由だった。
そうしたものを読んでいるという自負で、気分は張り裂けんばかりだった。
以後、この本と、そしてアルベール・カミュという人物と数十年間格闘することになる。
この本にはびっしりと、細かい字で幼い書き込みがされている。
実に恥ずかしい。
そもそもこの文章が誰を引いて書かれているのか、それすらも理解していなかったことがはっきりと分かる。
今この本を読むとそれなりに理解出来る。
十二の範疇云々はカントを引いている。
カミュは人間という存在自体が不条理なもの、つまり矛盾に満ちた、荒唐無稽な存在であるとし、しかもそれを肯定する。
シーシュポスの神話は達成という目的を否定する為に引かれている。
人間の存在理由は達成するという合理的な側面にあるのではなく、そのプロセスや「在り方」にこそあると言っているのだ。…と、思う。
少し自信がない。
実存主義哲学は未だによく分からないところが多い。
だが、カミュを知っている。それだけで幼い私は鼻高々だった。
何と言う不条理!
そんなものだから、カミュを話題にして、「芸術派」の友人から
「あぁ、あのサルトルに負けた人…。」
などと返されると、まるで自分が侮辱されたように悔しさに暮れたのだった。
思春期の自分ってーのは実に、全く、只ひたすら恥ずかしい存在である。
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