20201230

Arianna Savall

Spotifyのプレイリストは、本当に私好みの音楽を探し出して来てくれる。

リュート奏者ではない。同じ撥音楽器だがハープを弾く。そして歌う。すっかりこのArianna Savallという音楽家に惹かれてしまった。

ハープと歌、そのどちらもしっかりとした技量に裏打ちされた演奏をする。古典歌手と紹介されているが、自ら作曲もする。

暫くの間、ソロの音源を聴いていたが、他の音楽家との共演も見事なものがある。

そのうちのひとつ、特に惹かれたのが"Scaborough Fair"だった。

かなりハイレベルな編曲が施されている。演奏も素晴らしい。

しかし、このArianna Savallという人、一体何ヶ国語で歌えるのだろうか?

20201210

リュートに嵌る

 嵌った。それもかなり重症の嵌り方だ。

ブログの左上の固定位置にLute Playerという題の絵を貼り付けてあるのでも分かる通り、昔から嫌いな楽器ではなかった。だが、これ程集中してリュートの音楽ばかりを聴いているのは、初めての事だ。

お蔭でSpotifyがその半数がリュートのプレイリストを作ってくれる迄になった。


最初はリュート奏者であれば、誰でも良かった。片端から聴いた。するとその内に好みというものが出来て来て、今ではお気に入りのリュート奏者が何人かいるようになった。

Christopher Wilson、Joachim Held、John Johnson(彼には自作の音楽に自作の詩を朗読で載せるという意欲的なCDもある)、Jordi Savall、Rosario Conte、女性ではShirly Ramseyと言ったところが光芒を放っている。

リュートが巧いかどうかより、ちょっとした癖とか節回しが、こちらの感覚にフィットするかどうかが、好みの判断基準になっているようだ。

いずれもルネサンス期及びその前後の音楽を中心に演奏してくれるのも嬉しいところだ。

しかしあれ程調弦が不安定な楽器と、良く根気強く付き合っているものだと感心してしまう。勿論、演奏に音程の不安定さはない。

ギターの前身として位置付けられる楽器だ。ギターより少しくぐもった音質を持っており、何より、その低音の充実ぶりが魅力のひとつだ。

リュート音楽に嵌り始めてかなり経つが、少しも飽きる事がない。それどころか、明日はどんなリュート奏者に逢えるか、楽しみで仕方がない。

音楽を聴いていると、その世界の広大さにいつも驚かされる。

いくら聴いても、リュート音楽が尽きる事はない。正に汲めども尽きずという状態だ。

嬉しい事だ。

当分空いた時間はリュートを聴いて過ごす毎日が続くのだろう。

20201124

ながらが出来ない

 Spotifyが3ヶ月980円のキャンペーンを始めたので、プレミアムに復帰。最初はAndrás SchiffのピアノでBach English Suitesを聴く。仄かに香る薔薇の様な芳香感が拡がる。


この感覚はクラシックならではのものだ。我が家に帰って来た様な、ほっとした気分になる。

プレミアムにしたので、広告も入らず、時間も気にする事なく聴ける。

だがその内にままならない事態が発生している事に気が付いた。

私は音楽を聴きながら本を読む事が出来ないのだ。

音楽を聴いている時には、活字が目に入って来ない。なんとかして本を読み始めると今度は音楽が全く耳に入って来なくなる。

折角プレミアムにしたのだから、音楽は聴いていたい。だが本を読まない訳には行かない。

妥協して、1時間ずつ本と音楽に振り分けて鑑賞する事にした。

考えてみるとこれは音楽と本に留まる問題ではなく、仕事から料理に至る様々な作業の中で、私はながらが出来ないのだ。洗い物をしながら魚を焼くなどという芸当は、とても無理な話だ。

その為、私の作業効率はすこぶる悪い。

本と音楽の様な趣味の領域では許されても、仕事となるとそうは行かない。

何とかしなければと感じている。だがこの癖が着いて64年。そう簡単に治るものではない。

どうしたものか?

訓練すれば、何とか治るものなのだろうか?

20201020

1991年の記憶がない

 立石洋子の『スターリン時代の記憶』という本を読んでいる。ソ連解体後のロシアの歴史認識に関する記述が並んでいる。ロシアも、過去の罪業に苦しんでいるのだ。

ところが、読んでいて気付いたのだが、私にはソ連解体の具体的な記憶がない。これだけの大事件なのに、気付いた時にはソ連は解体しており、国旗も代わっていた。

何故なのだろう?訝しんで自分の記憶を辿ってみて驚いた。私にはソ連が解体した1991年の記憶が完膚なきまでに失われているのだ。

1990年や1992年ならば、自分が何をしていたのか、おおよその記憶がある。だが、1991年に関しては、何も思い出せない。

Wikipediaで1991年を調べてみた。載っている項目のどれにも思い当たるところがない。流行語も事件も、ピンと来るところが全くない。

私は1991年、本当に生きていたのだろうか?急に不安になった。

今から29年前の事だ。完全に忘れ去る程昔ではない。

何故なのだろう。そう思って理由を探ってみるが、何しろ記憶が全くないので、手掛かりも掴めない。

次にまたWikipediaで1991年の日本を調べてみた。やはり思い当たる事がない。

だが、ひとつだけ、リアルに思い出せる項目が見つかった。

雲仙・普賢岳の火砕流だ。


このことに関しては、無闇矢鱈と鮮明な記憶がある。

と言うより、未だにその記憶から逃れられない。

特に6月3日の火砕流では、報道陣、消防団員など41人の方々が亡くなった。

それ以前から、現地の人々の余りな緊張感の無さに、言い知れぬ不安感を抱いていた。その果てにあの大参事が起きた。

今でもあのときもっと出来た事があったのではと思う。

私にとって痛恨の出来事だった。

私の1991年は雲仙・普賢岳の火砕流で、全てが占められているのだ。

火砕流は他の記憶の全てを押し流すに足る。大事件だったのだろう。

20201001

これが正規版になるのだろう

朝、macOS Big Sur Beta 9 11.0がupされた。すぐにインストールした。

実はこのupdateには、あまり期待していなかった。そろそろ正規版が出る筈だ。だが、にも関わらず、表示にはBeta 9とある。もしかすると、ベータチャンネルで登録してある限り、upされるのはあくまでもß版であり、いつまで経っても付き纏っているバグは、そのまま残されるのではないかと疑っていたのだ。

50分ほどの時間を掛けて、インストール作業を進めた。

いざ、起動してみると、何と!あの、散々悩まされていた「アプリケーション"com.avg proxy"へのネットワーク接続を許可しますか」のダイアログがいつまで経っても出て来ない。

これは!と、ようやく期待した。1分間待ってみた。やはり出ない。

無くなったのだ!

この様に、長文を入力していてもダイアログが出て邪魔されることはない。

なんと言う自由さだろう!

ようやくあのダイアログから解放されたのだ。

次に、開いているアプリをそのままにfinderを選択し、ほかを非表示にしてみる。そして、すべてを表示を選んでみる。全てが表示された。今迄これが出来なかったのだ。やった!このバグも解消されているのだ。

恐らく、これがそのまま正規版になるのだろう。それ迄バグをそのままにしておくとは、何と言う意地悪さだろうか。

これでやっと新macOS Big Surも「使える」OSになったのではないだろうか。

8月13日にBig Surのß版を最初にインストールしてから一月半、この時をずっと待っていたのだ。

それにしても気持ちが良い。バグのないOSとは、何と気持ちが良いものなのだろう。

20200929

いつ鑑賞するか

  フェデリコ・フェリーニの代表作『道』を録画できた。今からいつ観ようかと楽しみだ。けれどその「いつ」がどのくらい先になるかが分からないので、困っている。

録画したのは、『道』だけではない。他にも『ガッテン』や『ブラタモリ』を始め、タリス・スコラーズが出ている音楽番組や『NHKスペシャル』など幾つもある。

基本的にテレビのチャンネル権は女房殿に預けてあるので、どうしても観たい番組は、録画して、一人のとき観ることにしている。

だが、その一人のときが問題なのだ。

録画をまず話題に載せたが、している事はそれだけではない。NetRadioHunterというソフトを手に入れたので、ラジオの番組で、これはと思うものをどしどし録音している。

月曜から木曜の14:00から15:50までの『クラシックカフェ』を始めとして、その直前の『ビートルズは終わらない』。月曜から金曜の19:30から21:10の 『ベストオブクラシック』は必ず録音している。


  

昼、録音した番組は基本、その場で聴くようにしている。それでないと、どんどん溜まる一方なのでこれは欠かせない。

また、月に一度、県立長野図書館と市立長野図書館から、それぞれ5冊ずつ本を借りているので、それも読まねばならない。

月に10冊というと、かなりの量になる。実質自由になる時間は、主にこれらの本を読む事に充てられている。

そうなると、録画したテレビ番組をいつ観るかが問題となってくるのだ。

それらを観る、まとまった時間がなかなか取れない。

ブルーレイは、録画してから5年が限界だと言う。

5年というと長い月日のような気がするが、現実問題として、もう限界を超えてしまったブルーレイも何枚もある。

これでは無駄にディスクを消費しているだけで、ただですらない金を浪費しているだけという、悲惨な状態を招いているだけという事になってしまう。これは避けたい。

どうすればいいのか。

今のところ、解決策は見つかっていない。

私にフェデリコ・フェリーニの『道』を観る日はやってくるのだろうか?


20200915

さらばATOK

賢くなったとは聞いていたが、ここまでとは思っていなかった。

昨日でATOKの使用期限が切れた。Macを使い始めてから15年間、ずっとお世話になっていたが、お金が続かない。意を決して、Mac標準の日本語変換を使う事にした。

使ってみると、なかなか良いではないかという感触を持った。

デフォルトでライブ変換がオンになっている。この機能がある事自体を、私は知らなかった。入力する端から変換してゆく。これが結構使えるのだ。

ATOKほどではないが、予想変換もきちんとやってくれる。

そればかりか、これは全く期待していなかったのだが、辞書機能も備えている。

これならわざわざお金を払ってATOKを使用する必要はないなと感じた。

ここまで読んで分るように、私は今迄標準の日本語変換を、全く試さずに放置していた。昔の使い物にならないことえりの感覚で理解していたのだ。

ATOKは有料のIMらしく、それなりに高度な機能を付け加え続けている。だが、差別化を意識するあまり、余計な機能が多過ぎるようになってきたと思う。

普通の使い方をしている限り、標準の日本語変換で充分だ。

しばらくはこのままでやってゆくつもりでいる。

何事も試してみないと分からないものだ。

20200821

macOS Big Sur

自業自得とはこの事を言うのか?

macOSの新しいヴァージョンBig Surのß版をインストールした。今日、初めてのupdateがあった。

この新しいOS、使えなくなったアプリは少なくて済んだのだが、com.何とかプロクシというアプリ(そのようなアプリは入れた覚えもなければ、いくら探しても、どこにも見つからない)のネット接続を許可せよというダイアログが、10秒に1遍くらいの頻度で瞬間的に現れ、仕事の邪魔をする。当然新しいヴァージョンでは、これが改善されているだろうと予想していたのだが、あに図らんや、ダイアログは同じ頻度で現れる。現れると、その度に作業が中断され、邪魔でしょうがない。

加えて、Finderで多用してきた、隠す機能のすべてを表示が効かなくなってしまった。一旦ほかを隠すを使うと、その後はひとつひとつのアプリを選択し、表示させてゆかなければならない。

そもそもmacOSは、正規版でも、人より先にヴァージョンアップする人のことを人柱と称するほど、危険なものなのだが、ß版ではそれ以上に自己責任が問われる。まさに人柱なのだ。

なので人柱として報告しておく。Big Surにはまだヴァージョンアップしないほうが良い。

とにかく基本的な機能で、使えなくなったもの、使い勝手が悪くなったものが多すぎるのだ。

だが、予想外の機能が使える事も報告しておかねばなるまい。大抵、最初のヴァージョンでは、固定されているデスクトップピクチャーのダイナミックが、このBig Surでは、最初から機能しているのだ。これは嬉しい誤算だった。

とは言え、今回のupdate、何の為のupdateだったのか、さっぱり分からない。新しい機能は、幾つか散見される。だが、肝心のバグが直っていないどころか、新たに現れたバグが存在する。アプリを使っていると、マウスの動きが極端に遅くなったり、ダイアログの出現とタイピングのタイミングで、キーボードが効かなくなったりと散々だ。

余計な新機能はいいから、困っているバグをなんとかして欲しかった。

これから先、updateはß版で行われる。今苦しんでいるバグは、いつの日にか解消される事はあるのだろうか?その事を思うと、かなり不安になる。

20200728

ビーガンという生き方

マーク・ホーソーン『ビーガンという生き方』という本を読んだ。包括的なヴィーガンへの入門書。それがこの本の位置付けだろう。だが、その及ぶ範囲は広い。既にヴィーガンを実践している方にも、多くの気付きをもたらすに違いない。

ヴィーガンと言って多くが誤解するのは、只単に健康のために肉を摂らない人というイメージだ。勿論そこから入っても構わないが、正確にはそうではない。ヴィーガンは全ての動物の搾取に反対し、動物の権利を守るという自覚の元に、全ての動物食を拒否すると共に、衣の面では皮、羽毛、羊毛など、動物起源の素材を拒否し、科学の名で行われる動物実験にも反対するという総合的な生き方を指すのだ。

一見禁欲的な生き方の様に思えるかも知れないが、理解を深めるとそうではない事が分かってくる。

禁欲ではなく、解放なのだ。

人間は、ペットなど、一部の動物を愛玩すると同時に、牛、豚、羊、などの肉を平気で食する。だが、その肉を作る畜産業で、どの様な事が行われているのか、意外と知らない。それらは巧妙に隠蔽されている。例えば私が使っているATOKでは、屠殺という語は登録し無い限り表示されない。
ポール・マッカートニーは言う。

もし屠殺場がガラス張りだったら、誰も肉を食べないだろう。

事実を直視し、現実を学べば学ぶ程、私たちが動物に対して、とてつもなく残酷な仕打ちをしている、またはそれに加担していることを知る事が出来る。それは既に紹介した映画"Earthlings"や、ゲイリー・ヨーロフスキーのスピーチを視聴するだけでも知る事が出来る。

ヴィーガニズムを理解するまで、私はヴィーガンの方々が、何故、屠殺場や酪農家の残忍な場面を敢えて見せつけるのかを、充分には理解していなかった。だが今は分かる。レイチェル・カーソンも言っている。

犠牲者が人間であれ動物であれ、残忍さを残忍と認める勇気を私たちが持たないかぎり、世界が見違えるように良くなることは望むべくもない。

要は単純な事なのだ。現実を直視し、思いやりのある世界を目指す。それだけの事だ。

この本がユニークなのは動物を虐待する種差別が、実は人種差別、性差別、階級差別、障碍者差別、植民地主義、異性愛中心主義と絡み合って存在しているとしている所だろう。

そうなのだろうと思う。もし、これらの差別に反対するならば、同時に肉を食べ続けるという事は大きな矛盾を抱える事になる。

誰も認知的不協和を抱えながら生きるのは、心地よい事ではない。一刻も早く、そこから解放された方が、生き辛さが格段に減るだろう。

私がこの本から学び、真似したのは、家族への説得の方法だった。懇切丁寧に説明されている。

この本の訳者、井上太一氏は脱搾取と書いてビーガニズム、脱搾取派と書いてビーガンとルビを振っている。この工夫には諸手を挙げて賛成したい。

20200727

冷蔵庫を替えた

もう15年以上使ってきたのだ。そろそろ替え時だろうと女房殿と話し合って、新しい冷蔵庫に替えることにした。

古い冷蔵庫はシャープの扉が両開きのもの。この機能が使い易かったので、今回もシャープの冷蔵庫を選んだ。

買ったのは7月10日。そこから搬入迄は時間が掛かり、かつ、いつ搬入出来るかの連絡がなかなか来ず、少々消耗した。結局電話が掛かってきたのは25日の夜19時の事だった。

冷蔵庫搬入は26日の15時から17時の間という事になった。店から近いので、配達の最後に回されたのだろう。

そこからが大騒ぎ。古い冷蔵庫から、食べ物を出して保管。
業者さんは馴れたもので、冷蔵庫搬入自体は10分程で終了。保管してあった食べ物を、再び新しい冷蔵庫に入れる。
その作業に2時間程掛かった。

新しい冷蔵庫は古いものより、若干背が高く、横幅が狭い。それにどうも奥行きが意外と狭い様だ。勿論古い冷蔵庫の使い勝手から抜け出せずにいたので、それに左右されたが、新しくして、ぐんと使い勝手が良くなったとは言い難い。

最も使い慣れないのは、冷蔵庫の真ん中の段が、野菜室ではなく、冷凍庫になっている事だ。野菜室は最下段に位置している。今の人達は野菜より冷凍食品の方を、頻繁につかうのだろうか?

結局乾物類を入れる場所が見つからず、外で保管することになった。

新しい冷蔵庫に替えて、最も期待することは、節電。消費される電力は、格段と少ない筈だ。

冷蔵庫が替わり、我が家の生活も、大きく変化することになるだろう。

20200711

ゲイリー・ヨーロフスキー

旅の準備は出来ているのだ。既に。
私はヴィーガンになりたいと強く願っている。後は、女房殿を説得するだけの話だ。だが、それが実際には大問題なのだ。

Eertlingsを紹介して下さった方が、また大きなプレゼントをして下さった。ゲイリー・ヨーロフスキーという方の『世界で一番重要なスピーチ』という題名のYouTube動画がそれだ。

また大袈裟な題名が付いていると思われたかも知れない。私も最初はそう思った。けれど観終わった今は、大袈裟に思えない。実際に世界で一番重要なスピーチかも知れないと感じている。何故ならば、それは私たちにとって、最も重要な、衣食住の倫理に関するスピーチだからだ。

抜群に頭の回転が速い男だと思う。それは、本編よりもむしろ質疑応答の動画で顕著に示されている。

本編の冒頭00:01:49迄がゲイリー・ヨーロフスキーの紹介になっている。ところがこれが只の紹介では無い。逮捕に継ぐ逮捕。彼は毛皮の売買に反対して、飼われていたミンクを逃がす等、実力行動に打って出る。なので至る所でトラブルを起こし、逮捕されている。国外追放は既に5カ国に及んでいる。

エヴァンジェリストとはそういう種類の人間なのだろう。キリストからマンデラに至るまで、主張を持った者はおしなべて、犯罪者のレッテルを貼られている。

そうまでして、彼は一体何を訴えたいのか。

彼にあるのは、思いやりの実践なのだと思う。

00:16:16から00:20:08と01:04:15の2回、目を背けたくなるビデオが入る。
それに対してゲイリー・ヨーロフスキーは目を背けるなと言う。

なぜなら、君たちが肉やチーズ、牛乳、卵を食べるのなら、君たちはせめて自分たちが引き起こす痛みと苦しみを見詰めるべきだと僕は思うからだ。しかし、もし、このビデオの間、目を背けたり、目をつぶったりする必要があると感じたら、こう自分に問いかけた方がいいかも知れない。「私の目によくないのなら、どうしてお腹によいと言えるだろうか?」と。

我々人類は、地球上にはびこり、食物連鎖の頂点に君臨している。

だが、私たちはそろそろ、より良き勝者であることを目指すところに来ているのではないだろうか。

正義を振りかざす者は大抵、うさん臭がられるか、嘲笑される。けれど、世の中がここまで行き詰まって来ている今、正義や理想と、正面から取り組む姿勢が、むしろ求められているのではないだろうか。

牛肉を1kg食べる事は、車で100km走るのと同じ量の、温室効果ガスを排出する事だと言われている。

私たちは、予想以上に微妙なバランスの上に立たされている。

私には未来はヴィーガンの方にあるとしか、感じられなくなっているのだ。
従来当たり前だった喫煙が追い詰められ、禁煙が常識化したように。未来は動物食を摂らない事が常識化するように思えて仕方がない。

20200705

Earthlings

カラダカラという食と体組成を記録するサイトで"Earthlings"という映画を教えて頂いた。
観るのにかなりの覚悟が必要な映画だ。日本での配信、上映はなかった。DVDも発売されていない。だがYouTubeで観ることが出来る。

Earthlingsとは地球上の生きものを意味する。

猫とヴィーガンな生活』というブログで、既に詳しく解説されている。

潜入調査による、動物たちの苦難(人間による受難)を扱ったドキュメンタリー映画だ。

1.嘲笑 2.猛反対 3.承認の三部からなり、「ペット」「食料」「衣服」「エンターテイメント」「医学・科学研究」の5つの分野が取り上げられている。

この映画を観ると、人間が他の動物たちに対して、いかに不必要な残酷な仕打ちを続けているかが分かる。

覚悟が必要と言ったのは、この映画の中には残酷なシーンがあるという事だけでは無く、私たちがそれを知ってしまうこと。その事にある。

知る事は変わる事。私たちは、どう変わってゆくのだろうか?


ヴィーガンになりたい。
先月の終わり辺りから、強くそう思い始めている。その思いを、単純に実践すればいい。それは分かっている。けれど大人の事情から、実践できずにいる。

この映画を観て、改めて、その思いを強くした。

この映画程、人間の動物の搾取・虐待・強奪を、網羅的、体系的に描いた作品を私は他に知らない。
この映画に共感する事は、ヴィーガンへの道を選ぶ事以外に、手立ては残っていないと感じる。
生活の様々な局面で、安易な消費を続けることは、動物たちからの搾取・虐待・強奪の共犯になることを意味すると思えるからだ。

そう、私は私に有罪を宣告する。またひとつ世界は生きにくくなった。

これが現実なのだ。それを知りたければ、是非この映画を観て欲しい。大事な事が語られている。

映画のナレーションは元ハリウッド俳優であり、ヴィーガンでもあるホアキン・フェニックスが担当している。音楽はアーチストでヴィーガンのモビーが担当している。

監督がインタビューに答えています。
アースリングスの映画監督マンソン氏が語るpart1
アースリングスの映画監督マンソン氏が語るpart2

20200623

娘は戦場で生まれた


言葉が無い。圧倒的な破壊と殺戮。その映像。その前で、私はどんな言葉を編んでいったら良いと言うのだろう。
しかし、何一つ言葉を出さずにおれば、この映画を紹介する事すら出来ない。空虚な作業である事を承知の上で、何とか言葉を絞り出してみることにしよう。

冒頭18歳のワアドの初々しく美しい表情をたたえたポートレートに「両親は私が頑固で無鉄砲だといつも言っていた。その意味が分かったのは娘ができてからだった」というナレーションが被さる。

未だ、解決の糸口すら掴めない、未曾有の激戦の地シリア、アレッポ。ジャーナリストに憧れる学生ワアドは、デモへの参加を切っ掛けにスマホでの撮影を始める。
しかし、平和を願う彼女の想いとは裏腹に、紛争は激化の一途を辿り、独裁政権によって美しかった都市は無残に破壊されてゆく。

そんな中ワアドは医師を目指す若者ハムザと出逢う。
彼は仲間たちと廃墟の中に病院を設け、日々繰り返される空爆の犠牲者の治療に当たっていたが、多くは血まみれの床の上で命を落としてゆく。

非情な世界の中でふたりは夫婦となり、彼らの間に新しい命が誕生する。彼女は自由と平和への願いを込めて、アラビア語で「空」を意味するサマと名付けられた。

戦況は日に日に悪化していった。その凄惨な事態にも関わらず、ワアドとハムザはアレッポを脱出せず、自由のために戦い続ける。この場にとどまり、現状を映像で世界に届けようとするワアド。そして、医療行為によって命を救おうとするハムザ。

ワアドはふと、こんな世界にサマを産み落としてしまったことへの罪悪感を覚える。
しかし、未来の存在そのものであるサマという奇跡に、真実を伝え、世界の希望を託すことこそが、自分の使命なのだと気付く。
ワアドはカメラを構えて戦争と対峙する。自分たちがいかに娘を愛したか。そしてこの街を愛したかを記録する。
全てはサマのために。
映画の原題は"For Sama"

しかしサマが生を受けた2016年から、シリアはより凄惨な地となってゆく。
その年の初めには、この年がアレッポ陥落の年となる事を、この時まだふたりは知らなかった。

2016年12月、アレッポは陥落。ふたりはついにアレッポを脱出する事を決意した。母と娘は生き延びる事が出来るのか?ニュースに出て、顔を知られているハムザは、無事検問を突破出来るのか?

かつて美しかった街は破壊の限りが尽くされ、全てが灰色で色彩を失っていた。しかし空(Sama)は青く美しく、それを破壊出来る者は誰もいなかった。

20200604

生命の〈系統樹〉はからみあう

デイヴィッド・クォメンの『生命の〈系統樹〉はからみあう─ゲノムに刻まれたまったく新しい進化史』を読んだ。

膨大な資料を読み込み、良く整理された本だ。

話しはダーウィンが残した、小さなスケッチから始まる。
生命の系統樹は、聖書迄遡る事が出来るが、それを生物進化と結びつけて表現したのはダーウィンが初めてだ。
彼は1837年7月以来、ラベルに「B」と書かれた、小さなノートを持っていた。そこに彼自身の「大それた考え」を全て書き留めていた。
彼は書いた。「生命は樹として表せる」そして、決して芸術的とは言えない樹状のスケッチを書いていた。

走り書きはさらに続く。Bノートには、樹は「不規則に枝分かれ」していて「一部の枝は極端に分岐が多い」とある。どの枝もより細い枝へ、そこからさらに小枝「すなわち属」へと分かれていく。属は種のすぐ上位の分類群であり、種は小枝の先端の芽として表せる。

これが現在迄連なっている生命の系統樹のイメージだろう。けれどそれは、果たして「正しい」ものなのだろうか?

分子系統学は1958年のフランシス・クリックの言葉に端を発する。

カール・ウーズは分子系統学の大きな可能性を誰よりも明確に見抜いていた。分子配列情報から生命の歴史を読み解くことが出来ると、彼は知っていた。

彼はリボゾームの小サブユニットのなかの長い分子に標的を定めた。16SrRNAというのがその名称だ。

微生物学者はメタン生成菌の分類に頭を悩ませていた。

1976年頃迄に、ウーズは約30種類のサンプルを用いてリボゾームRNA分子の違いから種間関係を定量化するという、前例のないカタログ解析を終えていた。

やがてウーズはデルタHと仮称した菌が、原核生物でも真核生物でもない、第三の独立の生命形態であることに気付く。

1976年末迄に、彼のチームは追加で5種類のメタン生成菌のフィンガープリントとカタログを作成したが、まだ次が控えていた。そして予想通り、新たなカタログはどれひとつとして原核生物ではなかった。更に言うなら、細菌ではなかったのだ。

後にアーキアと呼ばれるようになった、生物の新しい「界」の発見だった。

この物語にリン・マーギュリスが登場したのは、カール・ウーズがまだ人知れず骨折り仕事に精を出していた頃だ。
彼女が果たした重要な役割は、極めて古い説に、新たな注目と信憑性を与えた事だ。私たち自身の細胞の中に、別の生命形態の亡霊が生き続けていて、生体機能を担っているという考えだ。

細胞内の小さな独立部品はもともと細菌だったと彼女は主張したのだ。

ミトコンドリア、葉緑体、中心小体といった名前で呼ばれる、それらの部品は、元はそれぞれ別の、独立した細菌だったというのだ。

細胞の「内部共生説」だ。

次に訪れた変化。それは遺伝子の水平伝播が果たす役割が、突如として認識されるようになった事だ。

通常、遺伝子は親から子へと、垂直に受け継がれてゆくものと思われている。
しかし、とりわけ菌の世界では、それだけでは説明の出来ない現象が頻発している。

MARS等に見られる抗生物質への抵抗性は、遺伝によって拡がる速さとは別次元の速さで拡がってゆく。それは「感染性遺伝」とも言える遺伝子の水平伝播によって拡がっているとしか考えられないのだ。

これが意味する事は重要だ。

つまり系統樹は只単に枝分かれしてゆくだけではなく、融合し、からみあう。
そしてまた、進化という現象は、突然変異と淘汰圧による方向付けによるものとされているが、この遺伝子の水平伝播が正しいならば、それによって起こる変化の方が、より速く、より重要なのではないか?

つまり、ここまで述べてきた系統学のあたらしい見方は、ダーウィンの進化論を覆すものになって来ているのではないか?というのだ。

私が系統的に生物学を学んだのは、4、50年前の、大学入試の頃だ。その頃には、この本に書かれている新しい進化史は、顔を見せていなかった。しかしどこから仕入れたのだろう。私はこの本に書かれた内容を、バラバラの知識として、既に持っていた。

だが、それらがどの様な意味・意義を持つのかは、この本を読むまで理解していなかった事を正直に告白する。

それまで、雑多な知識として存在していたものが、この本によって、体系的な、そしてダイナミックな物語として一気に結晶化してゆく快感を、久し振りに味わった。

むちゃくちゃ面白かった。

20200526

芍薬

一昨日わが家に芍薬がやって来た。
届いた時には、全ての花が蕾だったのだが、その後、見ている間にあれよあれよという間に開き始め、今では半数以上の花が咲いている。
その成長の速さには、舌を巻くばかりだ。

この写真は10:00頃撮ったものだが、12:35現在、既にこれよりもっと多くの花が咲いている。

芍薬や牡丹の花の咲くスピードが速いとは、話しには聞いていたが、これ程速いとは思っても見なかった。

今、この芍薬は、玄関から見える、部屋のスペースに飾ってあるが、そこだけ夏が来たように、華やかだ。

芍薬は確かにわが家に夏を運んで来てくれた。

20200518

震災画報

7日間ブックカバーチャレンジ番外3

規定の7日間+番外3日間の10日間に渡って、書影をBlog、Twitter、Facebook、Instagramで紹介して来た。

それによって人生が変えられた本。唯一無二である本を基準に取り上げて来た。

だが、このままではいつ迄経っても切りがない。そろそろケリをつける事にしよう。


神田の古本屋街で和綴じの本を購入することに憧れていた。その日のために、崩し字の読み方の勉強もしていたのだ。

しかし、それを実行したのはたった一回きり。故にこの本宮武外骨『震災画報 全』は、私が持っている唯一の和綴じの本になる。
手に入れた当時は古書でなければこれを読む事は出来なかった筈だが、2013年にちくま学術文庫から出版された時は、さすがにがっくり来た。
しかし挿画の大きさも古書の方が大きく、肌合いも違う。手元に置いておく価値は、充分にあるだろうと判断し、未だ売らずに残っている。

日本は、様々な震災を経験してきたが、関東大震災は未だに私の中で、大きなテーマとして位置づけられている。

地震としては、東京では、それ程大きなものではなかった。地震や津波の被害はむしろ熱海や横浜で 大きかった。
しかし、この震災を特徴付けるのは、地震後に発生した大火だ。

そして官民双方を巻き込んだ、流言蜚語の拡散。自警団による朝鮮人・中国人の虐殺。社会主義者の弾圧などが続いた。

それら全てを含んだ意味で、災害としての関東大震災はある。

震災直後から始められ、現在に至る様々な報道、研究により、関東大震災の全貌は、かなりの精度で明らかにされている。
しかし、その教訓が、それ以後の災害で、充分生かされたかと言うと、甚だ心許ない。

典型としての天災であり人災であった関東大震災を知る作業は、これからも続けて行くつもりだ。

それをしてゆく上で、この本は、いつ迄も色褪せない貴重な史料となってくれるだろう。

20200517

ダイナソー・ブルース

大して期待せずに図書館から借りてきた。

どうせ巨大隕石衝突が語られ、それによって引き起こされた暗く、長い冬が恐竜たちを飢餓に晒し、絶滅に追い込んだとされる、「例の理論」が紹介されるのだろうと。

しかしこの本『ダイナソー・ブルース─恐竜絶滅の謎と科学者たちの戦い』に描かれていたのは、想像を遙かに超える物語だった。

恐竜絶滅に関しては、無関心である事が出来ず、それなりに調べて来た。なので、もう重要な事に関しては、新たに知る事は残っていないと思っていたのだ。

甘かった。この本に書かれていた事は、知らない事だらけだった。

どんな理論でも、新たに登場してきた時は、大抵多くの懐疑の念に晒される。
恐竜絶滅に関する巨大隕石衝突説もまた、多くの反対意見に晒された。

しかし、丹念な研究の積み重ねにより、徐々に賛同者を獲得して来た。

だが、この理論が主流になってゆくのは、思っていたより遙かに紆余曲折を経たものだったのだ。

幾ら主流になった理論でも、強硬な反対者は尽きない。

学者たちも人間である。

学会を舞台に繰り広げられる戦いは、双方の意地と威信を賭けた、激しいものだった。

反対者たちの研究もまた、一理も二理もあるものだった。その主張は、それなりに説得力を持ち、主流になった理論を窮地に追い込む事すらあったのだ。

また、反対者の主張により、理論がより詳細な強固なものに鍛えられた面もあった。

この本は、その戦いの始終を、丹念に調べ上げ、スリリングでエキサイティングな、見事な人間ドラマに仕上げている。

著者尾上哲治さんは自らも層序学、古生物学の学者として研究生活を営んでいる。当然、自分の主張も持っている。

彼は、この本で天体衝突による絶滅の新しい理論を提示している。

これは思い切った決断だっただろう。

確かにこの本は、本格的サイエンス・ノンフィクションだ。
面白かった。

チチュルブ天体衝突と殆ど同時に、デカン火山活動で膨大な洪水玄武岩が噴出された事。
チチュルブ・クレーターがアラン・ヒルデブランドによって「再発見」される遙か以前に、既に発見されていた事などは、この本で初めて知った。

シニョール・リップス効果などという用語は、今迄聞いた事もなかった。

堀越孝一さん

7日間ブックカバーチャレンジ番外2

多分ホイジンガの『中世の秋』に始まるのだろう。
私にはヨーロッパ中世の歴史趣味がある。

折に触れて、出逢ったヨーロッパ中世に関する本は、数限りなくある。

その中から1冊を選ぶとすると『中世の秋』も訳した堀越孝一さんの『パリの住人の日記』という事になる。
15世紀フランスのパリに住んでいた一市民が残した日記を、丁寧に読み解き、翻訳し、注釈を付けた作品だ。

文献に対する態度が実に良い。

フランス語は少し囓ったが、発音、文法共にひどく難しい。増して中世のフランスの古語となると、手強すぎてとても手を出す気にもなれない。
堀越孝一さんはそれを自在に読み解き、解説する。

読みたいように読むのでは駄目だと堀越孝一さんは言う。
読解とは、書かれたものを書かれたままに受け取ることを言う。そこに読者の主観を交えてはならないという教えだろう。

この日記に取り組んだ、本国フランスの研究者の読み方をも批判している。
学問に対する姿勢はあくまでも厳しい。
しかし確実に愉しんでいる。
この『パリの住人の日記』を読むのが愉しくて仕方ないのだろう。それが翻訳を読む私たちにも伝わってくる。
私たちも思わず愉しくなる。

碩学とは、堀越孝一さんの様な方を指す言葉なのだろう。

碩学の作業に触れる事は、上質なワインを味わう様な快感がある。

20200516

三中信宏さん

7日間ブックカバーチャレンジ番外1

やはりはみ出した。

前任バトン走者の三中信宏さんへのオマージュを込めてこの本『生物系統学』を紹介したい。

知る人ぞ知る名著である。

地震研時代、キャンパス内にある東京大学出版会迄行き『最新版日本被害地震総覧』と共に購入した。題名と表紙を見て、即決した。
最初は軽い気持ちで読み始めたのだが、それでは全く歯がたたない事をすぐに理解させられた。
系統学が体系的に語られているのだが、その守備範囲は広い。

谷川俊太郎さんの詩から始まり、歴史についての考察を経て、系統が語られる。

それまで何気なく見ていた系統樹が、最節約法などを駆使して作られている数学的なものである事を、初めて理解した。

その構成は帯に書かれている簡略化された目次を示すのが一番だろう。

【主要目次】
第1章ーなぜ系統を復元するのか
第2章ー系統とは何か
第3章ー分岐学─その起源と発展
第4章ー分岐学に基づく系統推定─最節約原理をどのように用いるか
第5章ー系統が語る言葉─分子から形態へ、遺伝子から生物地理へ

独特の語り口で書かれたこの本を、そのコード迄理解するのは、かなり困難な作業だ。

この本とも格闘したと言って良い。

だがとても面白く、熱中して、夢中になって読んだ。

そしてそれは三中信宏さんの幾多の本との格闘の始まりを告げるものとなった。

類書を見ない。

20200515

ヘルマン・ヘッセ

7日間ブックカバーチャレンジ7日目。

昆虫少年だった私を強引なまでに文学の方に向かわせた人物、それがヘルマン・ヘッセだった。小学6年の時、国語の教科書で『少年の日の思い出』を読み、すっかりやられた。
そして中学生になり、彼の詩を読んだ。衝撃的だった。そこに私の心情が書かれていたからだ。高橋健二さんの訳だったと思う。一行一行全てにいちいち共感し、感動した。この詩人は私の為に詩を書いていると確信した。厨二病だったのだ。

日の輝きと暴風雨とは
同じ空の違った表情に過ぎない。

という詩句に悶え、

魂は、曲がりくねった小みちを行く。

と読んでは転げ回るといった有様で、今思い返しても恥ずかしい。

"Stufen(階段)"は、ヘルマン・ヘッセの最後の詩集。
これだけはドイツ語で読みたいと思い、ドイツのamazon.deで購入した。船便で送られて来たので、注文してから到着する迄半年掛かった。手にした時はさすがに感動した。
私がドイツ語の本で、最初から最後まで読み通した本は、この詩集しかない。
不得意なドイツ語でも、意外と「味わう」事ができるのに驚いた。

このブログ『夏の扉へ』の表題の下に引用してあるのは、この詩集の表題作から採ったものだ。

私たちは空間を次々と朗らかに徒渉しなければならない。

といった意味だ。

ヘルマン・ヘッセのドイツ語の詩集は、他にレクラム文庫で持っているが、そちらはこれと言った詩を拾い読みした程度で、読み通してはいない。

そんな訳でヘルマン・ヘッセの一冊となると、この"Stefen"をどうしても採り上げたくなる。

私には全作品を読破した人物が3人いるが、ヘルマン・ヘッセはそのうちのひとりだ。

20200514

石森延男さん

7日間ブックカバーチャレンジ6日目。

その本は、私がその存在に気付く前から、私の自宅にあった。

少年の頃私は休みの日には、河原で石を拾い集め、捕虫網を持って駆け回る、根からの理科少年だった。そんな私にも思春期が訪れる。文学に目覚めたのだ。そうさせた人物はふたりいる。ひとりはヘルマン・ヘッセ。今日はもうひとりの石森延男さんを採り上げる。

石森延男と言えば『コタンの口笛』なのだろうが、それ以前に読んだ『バンのみやげ話』の印象が、私には思い出深い。
そうは言っても『コタンの口笛』も何度となく読んだ。「あらしの歌」「光の歌」と2巻に分かれた薄からぬあの本を、主人公の運命に我が事のように翻弄されながらも、読み終えるのが勿体なくて、本の先の方を押さえながら読んでいた事を覚えている。

『コタンの口笛』でそれなのだから『バンのみやげ話』は一体何度読んだのだろうか?
予防注射を打った腕をさすりながら空港を急ぐシーンに始まり、バンが連れて行ってくれるヨーロッパやアラブの国々に思いを馳せながら、私は夢中になってこの本を読んだ。

今は文庫本しか持っていないが、出来れば挿絵のある単行本で、この本を読みたい。鉛筆で描かれたそれらの挿絵は、石森延男さんの文章と見事なハーモニーを奏で、それを読む私の想像力を、縦横無尽に掻き立ててくれた。

見た事もない国々の、聞いたこともない話を石森延男さんは優しく、私に語りかけてくれた。私はこれも生まれる前から自宅にあった百科事典で、それらの国々を調べ、更に空想の翼を拡げた。

私が初めて主体的にする、学ぶという行為だった。

それは、私が人生で初めて持った憧れという感情だったのかも知れない。

20200513

全体主義の起原

7日間ブックカバーチャレンジ5日目。
押しも押されもせぬ大著だ。そして、文章は難解で、多くの注釈が細かに付けられている。
その注釈も律儀に追跡しながらこの本と格闘した。7ヶ月掛かった。
それだけに思い入れの深い一冊になった。
この本を読む前に、三嶋寛さんから、ハンナ・アーレントを読むなら外せない一冊として、『人間の条件』を奨められた。それとも格闘した。その読書体験が、この本を読む時生きた。
 『人間の条件』では複数性という概念が強調されている。『全体主義の起原』では、「見捨てられていること」(英語版の「独りぼっちであること「ロウンリネス」)とされ、その概念の重要性が改めて理解出来た。全体主義は複数性を徹底的に破壊するものである事が論じられているのだと思う。
他にも『全体主義の起原』では、まだ未整理だった用語を、『人間の条件』を援用することによって、きちんとした形で理解することが出来、大いに助けられた。
逆に言えば、『人間の条件』を読んでいたときに曖昧だった用語が、『全体主義の起原』を読んで、ようやくはっきり見えてきた事も多かったように思う。

2巻の終わりから3巻に掛けてのアーレントの記述の迫力は満点で、肌が泡立つような思いで読んだ。その時の感覚は未だはっきりと思い出すことが出来る。

ハンナ・アーレントの名を、一躍世界に知らしめた1冊。ここから『精神の生活上・下』に至る、全ての作品を対象にしたい気分もある。

20200512

プリズン・サークル

9日に再開したばかりの長野相生座・ロキシーに行ってみた。
プレミアム会員券を更新しなければならなかったし、何よりも映画館で映画を観たかったのだ。
新型コロナウィルス感染防止のために、マスクは必須。入口に消毒液が置かれ、座席も2つ置きに坐るように張り紙が貼られていた。

選んだのは取材許可が下りる迄に6年を費やし、2年間掛けて撮影された、坂上香監督のドキュメンタリー『プリズン・サークル』。日本の刑務所にカメラが入ったのは、この映画が初めての事だという。

島根あさひ社会復帰センターは、2008年に開設された、官民協働型の先端的な男子刑務所である。指導や生活管理は公務員である刑務官が行うが、警備や清掃、職業訓練などの多くを民間が担っている。
ドアの施錠や収容棟への食事搬送は自動化され、ICタグやCCTVカメラで監視された受刑者は、所内の独歩が許されている。

しかし、この刑務所の本当の新しさは「TC(Therapeutic Community=回復共同体)という教育プログラムを進める日本で唯一の刑務所であるという点にある。
「TCユニット」と名付けられた教育プログラムは「サークル」と呼ばれる円座での対話によって、受刑者たちが犯罪の原因を探り、問題の対処法を身に付けることを目指す。
運営するのは心理や福祉などの専門的な知識を持つ「支援員」と呼ばれる民間職員だ。

参加出来るのは、希望者の中から条件を満たした40名前後の者のみ。彼らは半年から2年程度、このユニットに在籍し、寝食や作業を共にしながら、週12時間程度のプログラムを受ける。
TCは1クールが3ヶ月。クール毎に新規生が加わる。

映画はその参加者の中から拓也(当然仮名。以後も同じ)、真人、翔、健太郎、それに出所者たちにスポットを当て、TCの実際が紹介されてゆく構成を取っている。

そこで受刑者たちは幼少年期を振り返り、加害者と被害者双方の立場に立って犯罪を振り返り、時にロールプレイを試みながら、自分と自分が成した事を見つめ直す。

映画の中で、回想シーンなどに若見ありさによる、砂絵のアニメーションが効果的に使われている。
モノトーンで描かれて行く、それらのアニメーションは、受刑者たちの置かれていた幼少年期を、具体的に復元し、彼らが実は私たちとそれ程違いがない者たちである事を伝える。
最期に「生きたい」という願いに到達した受刑者が、創作した物語を描く時、アニメーションはついに色彩を持つ。
それは処罰から回復へと、今、日本の刑務所が変わろうとしているその事を、如実に象徴していたように、私には感じられた。

まだ数が少なく、一概には比較出来ないが、TCを受けた受刑者たちの再犯率の低さは特に指摘しておく必要があるだろう。

ジェンダー・トラブル

7日間ブックカバーチャレンジ4日目。

奥付を見ると、この本が出版されたのは1999年4月1日になっている。私は既にフェミニズムの洗礼を受けた後ということになる。
けれど、私の中ではこの本によって、フェミニズムと強烈な出会いをしたという感覚がある。
フェミニズムは常に、男たちに有罪を宣告してきた。それに対して誠実に向き合うことなしに、男たちは自由に生きることは出来ないと、私は考えている。
男の有罪性からの解放。それが私にとって、人生のひとつのテーマなのだ。
この本がなければ今の私はあり得ない。

しばしばセックスは自然の性、ジェンダーは社会的な性と説明される事が多い。だがジュディス・バトラーはセックスもまた、社会的に規定されていると論じる。女と男の弁別が、身体の自然に根ざすとする本質論的前提を、根源的に覆しているのだ。

そしてセックスもジェンダーも、男にとって都合がいいように、造られている。

女も男も、人生の最初から、異なったスタートラインに立たされているのだ。

そうした現実の中では、男たちは女たちと、全うな関係を取り結ぶことは、事実上不可能だ。
私は、そうした現実を、男にとっても不幸なものと判断する。

シスジェンダーの男。それは疑いもなく、マジョリティとしてのあり方だろう。だが、私はその私のあり方が、それ程快適なものとは思えないのだ。

それに気付かせてくれたのが、この本『ジェンダー・トラブル─フェミニズムとアイデンティティの撹乱』だった。

読み易い本ではない。
文章は難解で、ミシェル・フーコー、ジャック・ラカン、シモーヌ・ド・ボーヴォワールといった思想家が縦横に引用され、駆使されている。
だが、この本と格闘してみる価値は、充分にある。

最近、『ジェンダー・トラブル』を解説した、良く出来た動画が公開された。
これを見れば、この本を読む必要はないとは言わないが、かなり分かり易くなることは確かだと思う。

良い世の中になった。

時々、この本と格闘していた時の事を思い出す。
かなり長い時間を必要とした。
だが、その時、少しずつ自分自身が解放されて行く快感を、私は確かに感じていた。

20200511

飯島耕一さん

7日間ブックカバーチャレンジ3日目。
今でこそ、その習慣も潰えてしまったが、息を吸うように詩を読み、息を吐くように詩を書いていた時期があった。
その頃最も影響を受けたのが、飯島耕一さんだった。
彼の『シュルレアリスムの彼方へ』を読んで、それまで只単に難解なだけだった現代詩が急に分かるようになってしまってからの習慣だ。
この『ゴヤのファーストネームは』を読んで、隅から隅まで理解出来ると感じた。
ここから『バルセロナ』『ウィリアム・ブレイクを憶い出す詩』『[next]』と読み継ぎ、飯島耕一さんの詩は、常に私の傍らにあった。
それどころかすっかり影響を受けてしまい、書く詩が飯島耕一さんの様なものに変わってしまいもした。
正直に告白しよう。私は飯島耕一さんのエピゴーネンだった。

今、飯島耕一さんの詩を読むと、ほろ苦い思いが伴う。

私が詩を書かなくなったのは、双極性障害の投薬を始めてからだった。
それ迄、詩を書かないと苦しくて仕方なかったのだが、薬が効いたのか、詩がなくても息が出来るようになったのだ。

私の詩は、「症状」のひとつの現れだったのかも知れない。

しかし、大学時代山梨の高校生に、私の詩は愛読されたこともあったのだ。

今住んでいる団地に引っ越すとき、蔵書の2/3を売り、日記、自作詩集の類は全て捨てた。
私は私が作った詩を読むことが、もう2度と出来なくなった。
その事は、少し残念な気がする。

しかし、詩は、間違いなく私のひとつの時代を形成していた。
飯島耕一さんの『ゴヤのファーストネームは』は、その時代を象徴する、大切な本なのだ。

20200510

堆積学

#7日間ブックカバーチャレンジ2日目。

私は大学時代地質学というマイナーな学問を専攻していた。中でも更にマイナーな堆積学に夢中になった。

砂や礫、泥と言った堆積物がどの様に堆積するのかを探求することによって、過去の堆積物からそれがどの様な環境で堆積したのかを推定してゆく学問だ。謂わば過去の環境の復元。

だが、私が在籍していた大学には堆積学を体系的に教えてくれる授業もなく、殆ど独学で学ばなければならなかった。その時の私を支えてくれたのがこの本だった。
他にも参考にした本は多いが、この本ほど何度も読み返した本はない。
凄まじい情報量が体系的に詰まった本だ。

ちなみに私は外国語が苦手だ。出来れば日本語の教科書が欲しかった。だが当時、それは夢のまた夢。専門的な知識は洋書を読んで手に入れるしかなかった。

がむしゃらになって読んだ。

読んでは、その成果を確かめにフィールドに駆け出して行った。

私の堆積学の知識の殆どはこの本から得たものだ。それだけに思い出深い本になった。その意味で、この本は私を形作っている本だと言って良い。

今でも時々、この本に目を通す。その度に、真剣に学問に挑んでいた自分を思い出し、今の自分の姿を反省する。私は今のこの時を、真剣に生きているのかと。

異端で派手なニセ科学が幅を利かす現代だが、正統的な学問を正攻法で修めて行く事程、面白いことはないと、断言出来る。

娯楽の極まったものが学問だと思うのだ。

20200509

田淵行男さん

Facebookやtwitterで #7日間ブックカバーチャレンジ という催しが行われている。
ひたすら書影を上げてゆくものらしい。

三中信宏さんが受け取ったバトンを、やりたい者がやれば良いと落として行ってしまった。その趣旨に賛同する。私がそれを拾い上げ、繋げる事にした。なので私もバトンを誰にも渡さない。やりたい者がやればいい。

考えてみれば、こうしたことは1年中やっている。違うのは今読んでいる本ではなく、遠い過去に遡って、自分の読書遍歴を披露することにあるのだと思う。

第1日目は田淵行男さんの『ギフチョウ・ヒメギフチョウ』を採り上げる事にした。
500円もあれば単行本が買えた高校生当時、そして、その500円を捻出するのにも苦労していた時代、12,000円のこの本を手に入れるのは、清水の舞台から飛び降りる思いだった。思い切った買い物だった。ギフチョウとヒメギフチョウの生態を知る切っ掛けを作ってくれたのは、確実にこの本だ。ギフチョウとヒメギフチョウの幼虫がその食草、カンアオイやウスバサイシンと見事なシンクロを見せている事を知ったのもこの本からだった。

ギフチョウとヒメギフチョウはその成虫の姿も美しいが、とりわけ、蛹の彫刻のような美しさに感銘を受けた事を覚えている。

以後、折に触れて田淵行男さんからは多大な影響を受けた。

引っ越しの時に、多くの本を手放してきた。だが、この本だけは売らず、手元に置き続けた。大切な本なのだ。

#7日間ブックカバーチャレンジの初日を飾るにふさわしい本だと思う。

20200502

五月

5月になった。途端に30℃を超えた。

盛夏と違って、湿度がそれ程高くない。なので、室内にいる限り、余り暑さは感じない。

しかし、一旦外に出てみると、確かに凄く暑い。

新緑の季節を迎えている。部屋から見える木々も、大分緑が目立つようになって来た。

この鴨脚樹が芽吹いたのをブログに上げたのも、つい最近の事だ。
もう、緑の連なりになっている。

木々の緑は、将に爆発的に噴き出している。これが信州の春から初夏に掛けての特徴だ。

部屋の前に行ってみると、どなたが植えたのだろうか?キンギョソウが、花を付け始めている。
最初は小さな株だった。部屋のプランターに水を遣るときに、しばしばこのキンギョソウにも水を遣っている。

かなり大きくなった。

世話をしてると、段々、情が移ってくる。この株も、もはや大切な私たちの家族の一員だ。

調べてみると、キンギョソウはもっと花が大きくなるようだ。

楽しみだ。

公園に行く。つい最近開き始めた八重桜も見頃を迎えている。

見事なものだ。

どの木にも、しっかり花が付いている。

信州では、花も春、爆発的に咲く。

何しろ、つい最近迄、梅と桜が同時に花を付けていたのだ。

この八重桜の反対側に、藤棚が造られている。確か昨日まで、花は付いていなかった。それがこの陽気に応えるように、一気に花を付け始めた。

まだ花の房は短い。だが、花の数はなかなかに多い。

この棚には、紫の藤もあった筈なのだが、それはまだ、姿を見せていない。

時期がずれるのだろう。

この暑さは、どうやら全国的なものではなさそうだ。気象庁で調べてみると、今日の最高気温の欄に長野、福島と言った所がずらっと並んでいる。
  
部屋に戻ると、涼しさに安心する。だが、窓を開け放って、風を入れると、その風が生暖かい。窓際に立つだけでも、暑さを感じる。

暑さを感じて、フリースの上着を脱いだのは、つい昨日の事だ。2、3日前まで、ファンヒーターを必要としていた。それが、あれよあれよという間に、一気に初夏を迎えた。

暑くなると、マスクがとても鬱陶しく感じる。

この夏は、どんな夏になるのだろうか?そう遠くない未来に想いを馳せて、今日はこの季節はずれとも言える暑さを愉しみたいと思う。

この季節は、寒暖の差が激しい。
身体に気を付けて、激しく流れて行く時の流れに身を任せ、たゆたうことにしよう。

今日2日の最高気温決定稿。長野市は32.0℃を記録した。

20200429

アーネンエルベ


読了迄に20日を要してしまった。
『SS先史遺産研究所アーネンエルベ─ナチスのアーリア帝国構想と狂気の学術』という本だ。

久し振りに浩瀚な本を読んだ。写真にあるように余裕で自立するのだ。その分厚さを察して欲しい。
しかし、時間が掛かったのはその厚さのせいだけではない。本の全てに渡って、細かく註釈が付けられ、それと本文との往復に、ひどく手間取った。


アーネンエルベという組織について、私はこの本を読むまで、全く知識がなかった。
ヒトラーの右腕とも言われるヒムラーが率いている。しかし、その全貌は余り知られていない。
ナチス親衛隊(SS)によるアーリア帝国建設の為の巨大シンクタンクだったらしい。目的はナチス世界観の学術的裏付けを確立する事にあった。明らかに怪しげだ。扱っていた分野は、インドゲルマン先史学、ルーン文字、紋章学、北欧神話、チベット探検、宇宙氷説、人種論、遺伝学、ダウジングロッド、秘密兵器開発、強制収容所での凄惨な高空・低温医学実験…。
学術と妄想が融合するとき狂気の科学の暴走がはじまる。

アーネンエルベ内の主導権争いも、熾烈を極めた。

この本にはそれらが、細部に至る迄、事細かく描かれている。

戦争が世界を支配するとき、学術はその目的の為に、徹底的に利用される。しかし学者は、いやいやそれに従うのではない。むしろ好機を得たとばかりに、主体的にそれに参加するのだ。
そしてその世界観が歪んでいるとき、学術も歪み、殆どオカルトの様相を呈し始める。そのふたつは共鳴し合い、どこ迄も暴走してゆく。

この現象は、ナチスドイツにのみ現れたものではあるまい。日本でも731部隊の人体実験に見られたように、同様の暴走があったのだ。そしてそれはいつどこでも起こり得る事だろう。

多くの科学者が、ルイセンコ学説に血道を上げたのは、それ程昔の話ではない。

人は集団になると暴走する。そうした癖を持っている。そうした傾向を認め、自分を例外扱いしないようにしないと、私たちはいつでも間違いを犯す。

そうした自分を自覚する時、アーネンエルベという巨大学術組織の全貌を描いた、この本は、自分を客観視する為のかけがえのない資料となるに違いない。貴重な記録だ。

手間取ったが良い本を読むことが出来た。

20200421

鴨脚樹芽吹く

またひとつ、季節が動いた。

昨年の今日の日記を開いてみた。
鴨脚樹(いちょう)が芽吹いたようだと書いてある。

今年はどうなのだろう?と、窓から外を見ると、今年も今日、鴨脚樹が芽吹いているのが見えた。
人の世は新型コロナウィルスで、大騒ぎだ。
だが、それとは無関係に、桜は咲き、散り始め、そして鴨脚樹は芽吹く。

何か、不思議な気持になる。

それがこの世の理(ことわり)というものなのだろう。

その思いを込めて、シャッターを切った。

この先の季節は、どの様に推移してゆくのだろうか?
その季節の中を、私はどの様に生きてゆくのだろうか?

いずれにせよ、世の中はどうにかはなってゆく。
私は余計な力を抜いて、淡々と、心静かに生きてゆこう。

芽吹いた鴨脚樹を前に、私は密かにそう誓った。

20200417

満開

花々が盛りを迎えている

部屋から見える桜も殆ど満開だ。
接写。蕾の状態が殆どない。
公園の桜は完全に満開。昨日の強風で散るのではないかと心配したが持ってくれた。
公園の反対側の桜の連なり。
どなたかが造った花壇。チューリップもハナニラも今が盛り。
今日は暖かくなると言う。
花々も今が盛りだろう。




20200414

NHK+

NHKがNHKプラスというサービスを始めた。
NHKの番組を、PCやスマホで、視聴出来るというだけのサービスだ。

それだけなので、受信料以外に支払う義務は発生しない。

その事を確認して、早速2週間前に手続きをした。

いろいろ問題はあるが、基本的にNHKには受信料を支払う事にしている。なのでこのサービスがNHKによる囲い込みであっても覚悟の上だ。

我が家のチャンネル権は女房殿にある。
私は見たい番組を録画し、女房殿がいない時に、それを見ることにしていた。

登録した当初は、NHKプラスにさほど期待していなかったが、使い慣れてゆくうちに、私のこの生活スタイルを変える程の効果が現れた。

最初は、放送中の番組を見ていたのだが、放送後1週間、その番組をNHKプラスで配信してくれる。配信中ならば過去の放送を見ることが出来る。これがなかなか便利なのだ。

昨日はNHKスペシャル2本と、クラシック音楽館を見た。

不断だとこれらの番組は録画していたものだ。
それが録画せずに視聴出来る。

録画しブルーレイに落としても、それを見るのは1回くらいなもので、取っておいてもそのうちに5年が過ぎ、データは壊れてしまう。

録画しても、見ないまま放置してある番組も結構ある。

ならばブルーレイに取っておく必要は余りない。

番組表から見たい番組をチェックしておいて、NHKプラスの配信中に、見てしまえば良い。
かくして私のブルーレイディスクの消費量は格段に減った。

クラシック音楽館では、ツィモン・バルトというアメリカのピアニストを知る事が出来た。巨漢だが、それに似合わず繊細なピアノを弾くピアニストだ。

指揮をしていたクリストフ・エッシェンバッハと共に、Spotifyで検索し、他の演奏を聴くことが出来た。

ブラタモリを、PCで見ることが出来るようになったのも嬉しい。

私はガラケーを使っているので、twitterはPCでやっている。PCとTVは別の部屋にある。ブラタモリを見ながら、twitterの反応を見ることが出来なかった。このことが、私はかなり不満だった。

それが出来るようになったのだ。

この様に、NHKプラスは、テレビとブルーレイレコーダーをもう1台ずつ購入したのと同じかそれ以上の効果を現している。

しかも、これらが実質只なのだ。これを使わない手はないだろう。

20200409

花盛り

かなり桜の花が開いた。

今日は少し寒いが、昨日までが暖かだった。

部屋から見える桜も五分咲き程度になった。
接写。
五分咲き程度というのがよく分かる。

公園の大きな桜はほぼ満開だ。
いよいよ花の季節がやって来た!