長野に戻ってきて、何が嬉しいと言って、美味しい蕎麦が食べられることが先ず第一に嬉しい。
知っている方も多いだろうが、私は大の蕎麦好きである。
自宅で食べるし、食べ歩きもしている。
基本的に蕎麦は東京のものだと思っている。
「そばがき」として食べられていた蕎麦粉を大阪のうどんの様に麺にして食べ始めたのが寛永時代の江戸。だから麺の蕎麦は正確に言うと蕎麦切りと呼ばなければならない。
蕎麦切りをつゆで食べる。それが東京流の蕎麦の味だと思っている。
ところで、蕎麦切りという語が最初に使われたのは、意外にもどうやら信州らしい。『信濃資料』によると木曽の定勝寺では1574年(天正2)の『番匠作事日記』3月16日に「徳利1ツ、ソハフクロ1ツ千淡内」および「振舞ソハキリ金永」という記述がある。(俣野俊子・著『そば学大全―日本と世界のソバ食文化』より)
これは定説である『慈性(じしょう)日記』の1614年より40年も早い。
信州は蕎麦の供給地だけではなかったようだ。
信州の蕎麦切りを蕎麦として食べ始めたのが江戸。そういった理解の方が正しいのだろうか。
これらについては後ほどエントリを改めて記したい。
東京の蕎麦はつゆは確かに旨いが、蕎麦はさほどではない。燃えてしまった「薮蕎麦」がその代表と言えるだろう。
信州の蕎麦はつゆはさほどではない。これは正直に言っておく。期待しない方が良い。けれど、蕎麦は確実に旨い。
その信州蕎麦の中でも、この富倉そばは段違いに美味しい蕎麦だと断言できる。
女房殿の義理の息子のお祖母様がこの富倉そばを打つ。
多分富倉そばを食べさせてくれる店の中でも最も美味しいだろう(私は全てを制覇した訳ではないのだ)かじか亭に卸している。
幻の富倉そばとも呼ばれている。
なかなか食べる事が出来ない。
交通の便が悪い地域に伝わってきた蕎麦だからだ。
その蕎麦をこの季節、こごみや楤の芽などの山菜と共に分けて下さる。
蕎麦好きにとってこれ程幸せな事はない。
つなぎにヤマゴボウ、主にオヤマボクチ(雄山火口)を使っている。
なので十割蕎麦と同じような風味でありながら、麺が切れない。
従って、極限まで薄く打たれた十割蕎麦の味という貴重な食感を堪能出来る。
今迄、いろいろな地方でいろいろな蕎麦を食べてきたが、ここかじか亭の富倉そばが突出して旨い!
しかも蕎麦湯に普通の蕎麦にない独特な旨味がある。絶妙な甘さがあるのだ。
日頃から暮らしの様々な局面を、本当に上手に支えて頂いて、十分感謝なのだが、女房殿と縁がなければ、この富倉そばを知る事も無かっただろう。これを知っただけでも女房殿と結婚できて十分に幸せだ。
昨日はこの富倉そばと山菜の天ぷらを食した。店では不可能なほどたっぷりの大根おろしと共に。
満足である。
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