取り上げる本は ドミニク・ノゲーズ『人生を完全にダメにするための11のレッスン』
こんなものを読んでいるからおまえはダメなんだ!そう言われたら言い返す術がないが、こんなものが好きなのだから仕方が無い。熟読してしまった。
画像左は日本語版の表紙。
レッスン1から7までは「人生失敗学」の体系的な定義と講座で占められている。
こうして見ると人生に失敗するのも難しく思えてくる。
筆者もそう考えている。「はじめに」の書き出しはこうだ。
「昔から人生を完全にダメにする最良の方法と言えば、生まれてこないことと相場が決まっている。」
どうやらわれわれは人生を完全にダメにする可能性を最初から失っていたらしい。
だから人生に失敗する事は困難な事だと筆者は説く。
右の画像はフランス語版。"Comment rater complètement sa vie en onze leçons"
日本語版とのセンスの違いには、もはや補いようが無いほどの隔たりがある。
筆者は畳みかけるように読者に問う。
「ヘロイン中毒のために33歳で死んだ享楽的なスターと、122年の生涯を通じて、毎日日曜に飲むボルト酒一口だけを愉しみにしていたジャンヌ・カルマン(実在の人物)とではどちらがほんとうに人生を台無しにしたのか?……etc.」
人生に失敗すると言うことは、決して一筋縄では行かない作業なのだ。
体系的に学ばねば!
その覚悟と決意が先ず必要なのだ。そして人生に失敗する事を諦めない勇気が!
なぜなら
「真に失敗した人生を送るのは実はすこぶる難しい。つねに何かしらの理由があって、本人だけでなく、他人からも一部は成功した人生であると思われかねないからである」
つまり
「人生をダメにするだけでは十分ではない。尊敬されないやり方でダメにしなくてはならない」
「不幸であるだけでは足りない。その不幸が何の役にも立たないことが必要」
膨大な引用文献を駆使して書かれている人生をダメにするということの基本を読み進めるごとに、我々は唇が固く締められてゆくのを感じるだろう。
読み進めよう!
「失敗学(ラトロジー)」の基礎的な理解のために我々は数学的な素養が必要である事もわかってくる。
「純失敗率(trn)」「総失敗率(trb)」の計算は複雑かつ煩雑だ。
だが、これらの理解の為に多くの練習問題が付いている。これをひとつひとつ丁寧に解いてゆけば、やがて理解に到達する仕組みになっている。
この点が筆者の親切な点であり、「失敗学」に対する熱意の表れでもあろう。
それらはやがて43の基本原理にまとめられる。
基礎講座に拘泥してはいられない。
この本の素晴しい点はレッスン8以降に具体的な失敗実践の例が詳しく丁寧に述べられている点にもある。
どれも極めて有用なアドバイスだ。
こんなのもある
「テロで失敗する」
確かに確実に人生に失敗出来る。
ちなみにこの本がフランス語で書かれたのは2001年の事だ。この時点で既にこれを挟み込んでおくセンスは脱帽せざるを得ない。
難点がひとつだけある。
それはこの本を読むと人生が楽しく感じられてしまう事だ。
--(補項)--
念のため、ここで断言しておきたい。
この本の読者のうち何人かは商店街の小さな本屋にもひとつのコーナーを作るほど(主にビジネス本の近くに)どっさりと置かれている「成功本」のパロディーを感じ取る者もいるだろう。
けれどこの本はそのようなものとは断じて一線を画している。
その博識、洞察力といった筆者の質の問題もあるが、何よりも違うのは、人生に失敗すると言う事は「しようとして出来る」ものではないという点にあるという指摘である。
栄光への野心を最後まで抱きながら、それに失敗しなければならない。
それも人々の同情、或いは嘲笑といった「他人の幸福への貢献」を全く含まないやり方で。
例え本人の胸中にささやかな喜び、または、満足の念がよぎったとしても、それは他人に語るには余りに惨めで、ひとりで墓場まで持ってゆくしかないような取るに足らないもので無ければならない。
これは最高に難しい事と言わなければならない。
岩波書店が発行している『身体をめぐるレッスン』という4巻の本がある。これは我々の身体性を取り戻す為に非常に多くの筆者が寄ってたかって身体と言うものを多方面から考察している。
この本は違う。人間の失敗性を取り戻す為に多角的にそしてボードレールの如き華麗なる文体によって書かれ、ニーチェの如く深淵まで到達した「失敗学」の体系である。
これを人類の至宝と呼ばすに他に何と呼ばばよいのだろう?
わたしはその言葉を知らない。
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