この言葉に惹かれて私はこのリーフレットを買った。
だが、本文中にこの言葉そのものを見いだすことは出来なかった。
それらしい事は何度も言及している。
これを機会に、日本という国はどういう国であるのか、あらためてわかったことが、いくつもの面でありました。つまり、試練を受け、それを契機として自分たちの姿を見る、そういうきっかけにはなった。それが、これから自分たちが歩いて行く道の基準点になるのではないか。この本は東日本大震災から1年半ほど過ぎた、2012年8月26日に長野県須坂市で行われた「信州岩波講座」での講演と質疑応答を元に書かれている。
その頃までこうした意識が残っていたのだと改めて知る事が出来た。
こうした意識とは、震災を契機にして、新しいステージに入るのだという意識だ。
今、その意識はうち捨てられた旗のようにみすぼらしく放置され、忘れ去られ掛かっているように、私には見える。
池澤夏樹さんは、東日本大震災以来、それを切っ掛けとして活発に発言を繰り返している作家のひとりだ。
言っている事は、この本の表紙にある。
私たちは、これまでと同じようには生きられない。
ということに尽きるだろう。
この本の中で、池澤さんはどの様に東日本大震災を経験したのかを語っている。
四国の吉野川を旅していたようだ。
私はどうだったろう?
家にいて、鎌仲ひとみ監督が出演しているNEWS番組が録画されているDVDを観ていた。
揺れが始まってすぐ、尋常な地震ではないと分かった。揺れがゆっくりと長く続いたからだ。揺れが来る方向も従来の地震とは全く異なっていた。
そうした記憶をこの本を読むことで、段々と取り戻していった。
震災から1年半という時期は、切っ掛けとして変わろうという意識が最もあった時期だったのかも知れない。
彼は
まず、地震は仕方がない。津波も仕方がない。と言う。
けれど
さて、以上の話のあとでは、どうしても原発のことを話さなければなりません。と語っている。
「3.11」の後、日本のあり方、司馬遼太郎さん風に言えば「この国のかたち」が明らかになりました。その一番悪い面が原発だと思います。
ぼくは、原子力は原理的に人間の手に負えないのでやめたほうがいいと思っています。
これも1年半後の時期には、多くの人の共通した意識だったと思う。
質疑応答の中で、彼はこうも述べている。
今回についても、うっかりすると、運が悪いことになったけれどもともかく忘れて頑張ろうと、壊れにくい原発をつくろうと言われてうやむやにされてしまう危険はあったと思います。しかし、なんとか踏みとどまりました。これだけ反原発の運動が盛り上がっているのですから。
あぁ…。そうだった。と思い出すのだ。
紫陽花革命という言葉もあった。デモが日常化して来た状況を歓迎する声も、かなり大きかったのだ。
それらは、どこへ行ってしまったのか?
今はデモをしても、何をしても変わらない日常に苛立ちながら生きている。
この講演が行われてから数ヶ月しか経っていない。
その事に私は驚く。
その間に私たちは何と多くのことを忘れていることか!
近くに居ながら、この講演がある事も、あった事も知らずにいた。
しかし、時期をずらしてこの講演の記録を読み、得るものは多かった。
震災直後の発言を、今度は読んでみるつもりだ。
題名に込められた思いを、池澤さんはこう語る。
昔、生物は海の中で生まれて、海の中で進化して、やがて渚を越えて地上に上がってきて、ここまで来た。そういう道筋をたどってきました。文明もどこかで渚を越えてやってきたのです。そこまで戻って考えようということです。
文明という概念は物質に依っているんです。文明、civilizationとはもともと都市のものという意味です。都市に人間たちが集中して住んでつくったのが文明なのです。だから、農村文化はあるけれど、農村文明というのはない。文明というのは、都市というのができ、農業に専念しなくても済む、つまり食糧を供給してもらえる人たちがつくりだした余剰物だったのです。
そうした文明は今のままで良いのか?と彼は問いかける。
その切っ掛けを私たちは震災から受け取ったではないか。そう彼は言いたいのだろう。
時間を逆戻りさせることは出来ない。
けれど、今、私たちがやっている「なかったことにする」という態度は、実は時間を震災前に逆戻りさせようとする壮大な詐欺行為なのではないか?
その事を気付く為に、意識を逆戻りさせることは価値がある。私にはそう思えてならない。
その切っ掛けを、私はこのリーフレットに与えて貰った。
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