20130410

エンデDay

ひょんな事からミヒャエル・エンデに付いての本を3冊読んだ。図らずもエンデDayになった。

用事のついでに昭和通りにある善光洞山崎書店に立ち寄った。

ここで私は雑誌『たぁくらたぁ』をいつも入手している。

たまたま近くの信号機が赤だった。それが立ち寄った理由だった。

めぼしい本が見当たらず、帰ろうとした。

その時この本が目に止まった。50円だった。

エンデの本は沢山ある。だが私はエンデについての本を余り持っていなかった。エンデを解釈しようと思わなかったからだ。

この本の存在は知っていた。amazonで検索すると必ず出て来る。

もうそろそろ、ミヒャエル・エンデについての本を読んでも良い頃だと、その時思えたのだ。
もう何冊も彼の作品は読んで来た。
それに、何しろ50円だ。
買った。

悪くない本だ。

数多くの文献に当たり、基本的なことが網羅されている。

エンデ自身が語っている訳でも無く、人智主義者でも何でもない人が、エンデを論じている本はありそうだが実は少ない。この本はそうした意味でも貴重な本だ。

ただ、この本の中で『エンデ、自伝と作品を語る』とあるのは、すべて『ミヒャエル・エンデ──ファンタジー神話と現代』の最初の章の事だ。

エンデ自身が自らを語った本は何冊か持っている。それを読む事にした。

この本を入手出来たのは奇蹟に近い。

amazonでも扱っていないのだ。

そして、その奇蹟は幸運だった。
この本でしか知る事が出来ないエンデの発言は非常に多い。

作品の事、生い立ちの事、様々な事をエンデは語っている。

良書である。

復刊ドット・コムに復刊リクエストを出しておいた。
是非投票にご協力願いたい。

だがこの本で、エンデが少年時代に関わったレジスタンス・グループの名前が〈フライハイツ・アクツォーン・バイエルン〉と片仮名書きされているのには閉口した。何のことかさっぱり分からない。
せめてバイエルン自由行動とか、日本語に訳して紹介しておいて欲しかった。

もう一冊はエンデが死の直前、翻訳者でもある田村都志夫を聞き手として、自らを語った本、『ものがたりの余白』。

この中で、エンデは自分の作品について、人生や思索、発想の原点など、多くの事を語っている。

その話は病床でも続き、次回作の構想に関する「夢について」、さらに「死について」という貴重な証言が含まれている。

私はハードカヴァーで入手したが(その方が安く手に入る)、2009年に文庫版でも出ている。

綺麗な本が好みならばそちらを選ぶ選択肢もあるだろう。

これらを読んで、私は今迄エンデを誤読していた事に気が付いた。

きちんと論理立てて構想を練り、全体像が明らかになってから、作品は書かれていると思い込んでいたのだ。何と言ってもトーマス・マンのドイツ文学だ。

そうでは無かったらしい。

父親エドガー・エンデとの比較で語られていたが、エンデは殆ど自動筆記に近い形で、物語自身が持つ自立性に身を任せるようにして書かれているのだそうだ。

エンデは語っている。

わたしは、たとえばトーマス・マンのようには仕事ができない。トーマス・マンはかれの小説のプランを前もってきっちり立てておくのです。ページさえも。ときには、どこにはじめてどの人物が登場するかまで。トーマス・マンは設計図をすっかり仕上げてから、毎日、ひたすら階を重ねて造り上げてゆく。わたしにはできない。やれと言われても、まったくできないことです。そうやれば、偶然からはなにもやってこないからです。わたしには偶然からわたしになにかがやってくるのがいつもとても大切なのです。わたし自身が知らないなにか、わたし自身にさえよくわからないなにかが。わたしに興味があるのは、わたしにわからないことだけなのですから。(『ものがたりの余白』)

なので、時には

「『はてしない物語』を書くのは、命懸けでした。この物語は、私を危うく精神病院に送りこむところでした。」(『ファンタジー神話と現代』)

と言うような出来事もあったようだ。


エンデについて読む事に、かなり迷いがあった。

震災からまだ間もない。問題点は山積している。そのような時期にエンデなのか?他に読むべき本は山のようにある。

現実逃避なのではないか?


その問いかけは、実はエンデ自身も何度も問いかけられたものだった。

エンデはこのような言葉を残している。

神話なしでは人は生きてゆけない。わたしはそう確信しています。(神話なしでは)人は世界のなかに、いかなる秩序をも見いだすことができません。(『ものがたりの余白』)

現代は理想郷を描くことが困難な時代だ。
かつてあった共産主義という理想郷の物語は壮大な実験の末に、膨大な犠牲を出して横たわっている。グローバリゼーションという新たな怪物が跋扈し、人は次第に楽しく働く術を、つまり楽しく生きる術を失いつつある。

これこそが、エンデが『はてしない物語』で描いた、拡がりつつあるファンタージェンの虚無なのではないか?

この状況下で、いかにすれば人はモモのように遊ぶこと(spielen)を取り戻すことが出来るのだろうか?

それをエンデは生涯を通じて提示し続けたのではないだろうか?

遊びは自由で自律的だ。楽しくなければ遊べない。そして、独りでは楽しくないので自ずから人とコミュニケートする事が求められ、そこにルールが発生する。

そうした遊びを、エンデは多彩な作品を通して示し続けたように思うのだ。


暫くエンデから離れていた。かなり想像力が乏しくなってしまったように思える。
今日の読書はエンデを取り戻す切っ掛けだった様に思える。


またファンタージェンに遊んで、現実世界に帰って来よう。

私たちは、バスチアンの様に、必ず現実世界に帰ってこなければならない。

それもエンデが残した、貴重なメッセージだった筈だ。

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