20141211

iMacがやって来た!

それ程手放しで喜べない日になってしまった昨日、11時頃遂にiMacが我が家にやって来た。

開封の儀の写真を撮るつもりだったが、箱と格闘している内に忘れ、気が付いたらTime Capsuleからのデータ転送を行っていた。

2時間半ほどそれに費やしただろうか。

私の机の上にiMacが復活した。

どれ程この瞬間を待ち望んだことだろう。


16日の朝起きたらiMacが壊れていた。

起動して画面が明るくなってもカチカチ音がするだけで、きちんと起動してくれない。暫く経つとはてなマークの描かれたフォルダのアイコンだけが出る。

調べてみるとどうやらHDDが壊れた徴らしい。何度か再起動を試みたが駄目。

ヤマダ電機に持ち込んで修理できないか訊いてみるとAppleのサポートセンターの電話番号を教えてくれただけだった。試しにK's電機に電話しても同じ。

Appleのサポセンに電話してみるときちんと3番を押したにも拘わらず矢鱈待たされた挙げ句にiPhoneの係に繋がってしまった、これは以前にもあったことだ。電話機が古すぎるのだろう。また矢鱈待たされて、その挙げ句に分かったのは、最初予想したとおり部品がもうないので修理できないというお達しだった。

意を決したのは18日になってからだった。新しいiMacを買うことにした。

けれど、以前の環境を取り戻すことが出来るのか、ずっと不安だった。Time Capsuleでデータをこまめに保存はしてあったが、新しいiMacできちんと作動してくれるかどうか分からない。

不慣れなWindows環境では、どうもモチベーションを保つことが出来ず、ブログを更新する事も無く、3週間、ただひたすら新しいiMacがやってくるのを待ち続けていた。

私はMacでなければ駄目だと言う事をつくづく痛感させられた3週間だった。


そして遂に来たのだ!

驚いたのは起動直後の設定画面でTime Machineからの転送という項目が出た事だ。これは予想外だった。真っ新の画面を確認できないのは惜しいがそれに代え難い嬉しさがある。

Time Capsuleからのデータ転送は巧く行き、私は11月15日以前の環境を再び取り戻すことが出来た。とても嬉しい。


写真を見れば分かる人には分かるかも知れないが、Track Padを付けた。結構便利だ。マウスと併用して使うつもりだ。

これを導入する時、Magic Mouseは古いものを流用するつもりでいた。だが、何となく不安になってMouseも同時に購入した。

これが大正解だった。

古いMagic Mouseは何故かどうやっても接続出来なかったのだ。


何よりも画面の美しさが際立つ。
Retina Display。

そしてそれ以上に驚いたのが、処理速度の圧倒的な速さだ。

新しくなったのだからある程度は処理能力も向上しているだろうと予想していたが、古いiMacと比較して、これ程の差が出るとは夢にも思っていなかった。

iMacがなかった頃に様々な事が起きた。
大きな地震もあった。

そして昨日、大切な人が亡くなったという知らせを受けた。

正直、未だに体が崩れ落ちそうな気分ではある。

過去は狼のように追いかけて、私に襲いかかってくる。それを一匹一匹撃ち殺しながら、未来へ進んで行かねばならない。

そんな詩があったと記憶している。

新しいiMacと共に、未来へ橇を走らせよう。

20141104

『アルゲリッチ 私こそ、音楽!』

クラシック界最大のピアニストのひとり。そう呼んでもそれ程異論はなかろう。アルゼンチンで生まれ、スイスで育った天才、マルタ・アルゲリッチの事だ。
そのマルタ・アルゲリッチを実の娘のステファニー・アルゲリッチが映画にした。これは観に行かなければファンとして話になるまい。

自分の肉親を映画にする。それがいかに困難な作業かは少し想像するだけで、理解出来る。日本語の題名は『アルゲリッチ 私こそ、音楽!』とあって、鵜呑みにすると彼女の演奏が主体になっているのかと思うが、原題を知るとそうは行くまいと思えてくる。"Bloody daughter"がこの映画の題名である。「厄介な娘」と訳せば良いのだろうか?

しかし、観てみるとそれ程の緊張感はない。
湿り気もなく、適切な距離感を保って、母を描いている。


とは言えやはり平凡ではありえなかった母を持つことの複雑さはそこここにほの見える。

演奏会の場面で
「母の演奏会を何回も見た。おそらくは何百回も。子どもの頃の私には、演奏会とは母のいない時間。母を失う時間だった。」

サイン会の場面で
「昔はなぜサインに時間を費やすのか分からなかった。ファンに献身する母の姿は私を苛立たせた。ファンに噛み付いたことも─」

「今はファンの姿が私を感動させ、子どもの頃の確信を思い出す─」
「母は超自然的な存在で、常人には手の届かない高みにいる。」
「つまり私は女神の娘なのだ」

などのナレーションにそれは見え隠れする。

女神の娘。だから厄介な娘なのだろうか?


だがその他のシーンでは、母と娘の複雑な関係は表立って現れてこない。むしろ長年接してきた者でなければ撮れなかったであろう貴重なシーンが目を引く。


日常を撮っている。

だが、それを逆から見れば日常的に撮り・撮られるという関係にあると言う事だ。そうした母と娘とは一体どんな感じなのだろう?と不思議にも思えてくる。
つまり、余りにも自然なステファニーの距離の取り方が逆に気に掛かってくるのだ。

この映画を撮って、ステファニーは
「母がもっと好きになった」
と語っている。

それはそれで良いのだろうが、どことなくステファニーには、母マルタから離れられないものを、この映画を通して感じてしまった。そこにやや不安を感じてならない。

「音楽は説明するものではなく,感じるものであり,言葉を超越するものだ」そうマルタ・アルゲリッチは言う。

この映画は名作ではあるまい。けれど、母と娘という関係も、同様に説明を拒絶するものであって、この映画は家族というものを、そしてその中の母という存在を感じる映画となり、言葉を超越することは出来ているのではないかとふと感じさせられた。

2012年 スイス、フランス
監督    ステファニー・アルゲリッチ
出演    マルタ・アルゲリッチ,スティーヴン・コヴァセヴィッチ,シャルル・デュトワ,リダ・チェン,アニー・デュトワ,ステファニー・アルゲリッチ

20141026

iPadアームスタンド

強力な武器を手に入れた。

期待して購入したものの、使う時手に持たなければならないのが意外に面倒で、iPadは使いこなしているとはとても言えない状態にあった。

確かに便利なのだ。PCと違い、ケータイ感覚で殆ど常時起動していられる。使わない時は特製カヴァーを閉じればスリープ状態にしておくことが出来る。
なので思い立った時すぐに立ち上げることが出来、発想から作業までの距離はぐんと縮まった。

だが、本格的な作業にはスペックが足りない。

最新のものに買い替えれば問題はなくなるようだ。だが金はない!

その為、主に外出時の作業に限定して使うようになっていた。


気になることがあった。

以前からAirDisplayというアプリをiPadとiMacにインストールしてあったのだ。

iPadをiMacのセカンドディスプレイとして使うことが出来る。

便利だと思って導入した。決して安いアプリではなかった筈だ。

だがiMacのディスプレイとの位置関係に問題があった。机の上に置いてこのアプリを使うと微妙に視線が強制的に動かされ、姿勢も安定しない。使っていて疲れる。

いつの間にか使わなくなっていた。


iPad用のアームスタンドがある事は知っていた。だが当時知っていた品物は1万5千円以上するもので、とても手が出なかった。

何とかならないか?

探してみると安いiPad用のスタンドがあった。それを買ってみた。

けれど届いてみて分かったのだが、この商品はカメラの三脚などに付けるヘッドであり、単独では使用できないものだった。

かっとなって三脚も買ってしまった。

けれど冷静になって考えてみると、カメラの三脚を机の上に置いて作業すると言うのは何かと不便だ。置き場所に困ることが予見できた。

何とも諦めが付かず、「iPad アームスタンド」で検索してみた。iMacに取り付けるものではないようだが、よく似た商品が圧倒的に安い値段で存在していることが分かった。

即買った!

その商品が今日先に届いた。
名前は「寝ながら仰向けくねくねタブレットスタンド」という。何ともダサい名前だ。だが商品はイメージ通り。

確かにくねくねとしたアーム。これでタブレットの位置を自由に設定することが出来る。

使ってみて驚いたのは、手が塞がらないことがこれ程便利なこととは想像もしていなかったほど自由なことだった。
姿勢を殆ど変える事なく、iPadを操作できる。

これだけでも十分に便利だ。

早速iMacと並べて設置し、AirDisplayを起動、接続して同期させてみた。
大きなWindowを設定してあるソフトはiMacのディスプレイの大きさに替わってしまうことが分かった。だがWindowの大きさをそれ程必要としないソフトは十分に、ストレスなしに使えることが分かった。

このブログも最近導入したBeitelというアウトラインプロセッサをiPadに表示させ、それを見ながら作成している。

実を言うとAirDisplayがこれ程便利なアプリだとは想像もしていなかった。マルチディスプレイは確かに使い勝手がとても良い。
いちいちアプリを切り替える手間を全く必要としないので、仕事の効率がぐんと上がる。

しかし、三脚はカメラ用に使うこともあるだろうが、最初に間違って買ってしまったiPadホルダーは全くの無駄になってしまうのだろうか?

何か使い途は無いものか?

20140930

御嶽山噴火

TVを観ていたらもう少し早く気付いたのかも知れない。twitterで地質関連の方々が騒ぎ始めたので知った。

9月27日11時52分、御嶽山が噴火した。

突然の噴火だった。
前兆と呼べるものはなかったと言って良いだろう。

41分頃から火山性微動が発生しており、山体も膨張してはいたらしい。

噴火7分前、山体の膨張を観測 気象庁、予知は困難か

だが10分前からの前兆が何の役に立つだろう。

タイミングも最悪に近かった。紅葉シーズンの始まった快晴の土曜日、それも昼頃。
当然登山者は多く、火口付近にも大勢の人がいた。

噴火としては小規模のものだったと思える。だがその小規模な噴火でも大惨事と呼べる被害が発
生してしまった。

現在(141030)12名の死亡が確認されている。これは医師の診断が下ったものであり、山中にはまだ少なくとも26名の心肺停止状態の方々の存在が確認されている。行方不明者の総数はまだ確認されていない。

死者は50名を越えるのではないかと憂慮している。

噴火はマグマによるものでは無く、水蒸気爆発だったようだ。

マグマが関与していれば火山ガラスなどのマグマ由来物質が観察されるはずだ。
だがそれらは観察されていない。

御嶽山2014年9月27日噴火の火山灰について

この事が前兆がなかった主な原因だろう。

だが、原理的に噴火の予知は可能と言えるのだろうか?

前兆と噴火の間には

異常あり→噴火あり
異常あり→噴火なし
異常なし→噴火あり
異常なし→噴火なし

という関係が成り立つだろう。

このうち予知が出来たとされるのは

異常あり→噴火あり

の場合に限られる。
つまり予知は極めて限られた場合のみに限られると言うことが出来る。

厄介なのは
異常あり→噴火なし
の場合が余りにも多いという事実だ。

これをいちいち気にしていたら日常生活は成り立たないという言い方を、私は乱暴だとは思わない。

それに加えて今回の噴火のような
異常なし→噴火あり
と言う場合が無視できない頻度であるという事実を目の前にして私は噴火予知に対して楽観的になれない。

火山活動レベル1でも死者が出る火山噴火は十分にあり得るのだ。

そしてまたマグマ噴火ならば予想できたという考えを私は嘘だと言い切れる。
2011年新燃岳噴火は数100年に1度の規模のマグマ噴火だったが、事前に見られた地殻変動をもとに「噴火するぞ」とは誰も言えなかった。

噴火予知が全く不可能とは言わない。

有珠山などでは現実にその噴火の予知に成功している。

しかし、全ての火山で予知が可能ではない。災害が起き、死者が出るのは予知できない火山だ。そしてそちらの方が多数派であるということが現実であり、重要なことだ。

私は地震や火山噴火の予知が出来ないことは、「現在の」科学の限界なのではなく、原理的な限界だと考える。

金を掛け、もっと研究を進めれば予知が可能であるかのような言い方は妄想だと考える。

私たちが暮らす国土は、プレート境界にあり、もともと地震や火山噴火によって形作られたものだ。

私たちは活動的縁辺部に住んでいる。その事実にもっと謙虚であるべきだと思う。

また火山で死者を出してしまった痛みを堪えながら私はそう考える。

自然を畏敬すること。それを現代人はいつの間にかどこかに置き忘れてしまったのではないだろうか?

20140912

宇井純セレクション

何もしていなかったわけでは無い。

まず、最近希に見る充実した読書体験として、ハンナ・アーレントの『人間の条件』読破があった。

そして、何よりも「技術的・科学的な」とハードルを上げられた、川内原発再稼働に関するパブリックコメントなどの作成があった。

総じて、かなり充実した日々を送っていたと言っても叱られないと思う。

それらを記録しなかった事はこれから響いてくるだろうが、充実していたが故に気持ちがブログに向かわなかったという側面があった事を付け加えておく。

2週間に1度県立長野図書館に行き、そこで5冊本を借りる。そしてそれを読む。それが日課になっている。かなりの仕事量になる。その為に時間が取れなかったという面もある。

さて…。

7月に3冊の本が出版された。

新聞でその書評を読み、すぐに図書館でリクエストした。

それを読んでいた。

宇井純セレクションである。

『原点としての水俣病─宇井純セレクション1』
『公害に第三者はない─宇井純セレクション2』
『加害者からの出発─宇井純セレクション3』

という構成になっている。

適切な構成だと思う。

宇井純さんは確かに水俣病を原点として活動し始め、加害者から出発し、公害に第三者はない事を初期の段階から訴え続けていた。

この三巻本は亡くなる直前まで書かれていた1,100を越える宇井純さんの文章の中から118編を選び、編集した労作である。

1956年に水俣病は発見されている。

この年は、私の生まれた年でもある。

それだけに水俣病は私にとって逃れる事の出来ないテーマとして長年存在し続けていた。

けれど高校生の頃、水俣病を調べたいと相談した倫社の先生から、
「水俣病は生半可な覚悟で取り組むテーマではない」
と釘を刺されたこともあって、深入りしない程度に留めていた。

それでも宇井純という存在は大きく、常に意識せざるを得ない人物のひとりとして、私の中で存在し続けていた。

しかし、深入りしないようにというブレーキから、東京に居ながら彼の自主講座『公害原論』に参加することが無かったことは、今になっても悔やまれる。

今回改めて宇井純という存在を概観して、彼が成した仕事の多彩さと重要さに目を開かれる思いだった。

中でも科学者としての宇井純を浮き彫りにした第3巻の記述は驚きだった。

水俣病を始めとする公害に対しての闘士としての宇井純さんは良く知っていた。けれど、科学者としての宇井純さんは知らずに居たのだと気付かされた。

彼を批判する人々は、宇井純は批判はするが代案を出さないとしばしば口にしていた。

けれど宇井純さんは汚染水処理技術の開発・設計・建設という仕事を通して、オルタナティブな科学・技術の実践者でもあった。

と言うより公害問題を含め、彼は常に実践の人であったと言った方が正確なのだろう。

編者のひとり宮内泰介は解題にこう記している。

この三冊は、宇井純さんという人を懐かしむため、あるいはかつての運動を懐かしむためのセレクションではない。現代世界のいまだ解決されない種々の問題を解決するために、これからもずっと参照されるべきものとして編まれた。─宮内泰介・解説「宇井純さんが切りひらいた科学のかたち」-本セレクションについて
この言葉はこの三巻本を紹介する、最適な言葉になっている。

20140701

『アクト・オブ・キリング』

観て、心地良い映画ではない。それは始めから分かっていた。だが、この映画は観なければならない。心の底でそう思い続けてきた。

今日ようやく観てきた。
1960年代、インドネシアで100万人規模の虐殺が起きた。

1965年9月30日深夜、スカルノ大統領派の陸軍左派がクーデター未遂事件を起こした。それを後に大統領になるスハルト少将(当時)が鎮圧。事件の黒幕は共産党とされた。これを切っ掛けに共産主義者やその疑いが掛けられた人々が虐殺されたのだ。

その後30余年にわたるスハルト独裁体制のもと、事件に触れることはタブーになり、加害者は訴追されていない。

当初オッペンハイマー監督は虐殺生存者を取材し、映画を作り始めたようだ。だが軍の妨害によってそれは中断せざるを得なくなったと言う。

そこでオッペンハイマー監督は逆に加害者を取材し、虐殺の再現を持ちかける。

「あなたが行った虐殺を、もう一度演じてみませんか。」


するとスマトラ島メダン市で「1000人以上は殺した」と豪語する殺人部隊リーダーのアンワル・コンゴらが、喜々として大虐殺の方法を演じ始めたのだ。

更に驚くべき事に、彼らは非常に協力的ですらあった。

自ら出演者を仕切り、衣装やメークを考え、演出にも進んでアイデアを出す。

「俺たちの歴史を知らしめるチャンスだ」

殺人の方法についてアンワルは、「最初は殴り殺していたが、血が出すぎて面倒になる。だから針金を使うことにした」と説明。実際の虐殺現場を訪れ、被害者役の俳優の首に針金を巻き、笑顔で「こうやって締め上げるんだ」と語る。

合理的で後始末にも手間が掛からない方法を編み出したことに誇りすら抱いているかのようだ。


一方「9月30日事件」の背景には、米国など西側諸国の関与も指摘されている。

事件はスカルノ大統領の失脚とそれに続くスハルト大統領誕生のきっかけになり、以後インドネシアでは30年以上にわたる独裁体制に至る。

大虐殺を隠蔽するスハルト政権を西側は支援し続けた。冷戦時代に「反共」は都合のいいスローガンだった。


人間にとって悪とは何なのか?


オッペンハイマー監督は語る。

「政権を支持してきた日本などの国々に関係する問題だ。大虐殺は冷戦の産物だったのではないか。南の豊かな土地を支配するため、日本を含む先進国は政権を支援した。安い賃金と資源が魅力だった。自らの行為を正当化するため、反共の旗印を掲げたのだ」

しかし映画を撮り続ける中で、アンワルらの心理は少しずつ変化を見せ始める。

最初、映画を撮る共同作業は、殺人という行為の再現そのものであると同時に、演じることで殺人と距離を取る作業だった。

終盤、アンワルは「殺された1000人分の恐怖」を感じ取ることで心身に変化を来す。
その瞬間に私たちは途轍もない心の闇を垣間見ることになる。

「人が自分の見たくないものを、見ないようにするためにどうするか。うそを1枚ずつはがし、苦しさと痛みを発掘した。本物の自分と和解するためには、つらい真実と向き合わなければならないと思う」

オッペンハイマー監督はそう語る。

20140626

『チョコレートドーナツ』

この私が思わず泣いてしまった。

泣ける映画という言い回しは好きではない。だが、この映画の場合には肯定的に敢えて使いたい。

愛を描いた映画である。

それは男女の恋愛でもなければ、所謂家族愛でもない。

だが人が人を互いに大切に思い、人の為に奔走する姿は、観る者に大きな感動を残す。その姿が確実に描かれている。
1979年のカリフォルニア。まだマイノリティに対する風当たりはとても強かった時代、シンガーを夢見ながらもショーダンサーで日銭を稼ぐルディ、正義を信じながらも、ゲイであることを隠して生きる弁護士のポール、母から見放されて育ったダウン症の少年マルコ。その3人が出会い、愛情を育む。彼らはすぐに共に暮らすようになる。まるで「家族」の様に。

学校の手続きをし、初めて友達とともに学ぶマルコ。夢は叶うかに見えた。

だが幸福な時間は長くは続かなかった。

ありとあらゆる偏見と理不尽が3人を引き裂こうとする。

ゲイのカップルが子どもを育てている。悪影響があるに違いないという理由で。

ささやかな幸せを取り戻すために、ルディとポールは奔走する。

だが法律も彼らの味方ではなかった。


ルディはなぜマルコにそれ程の愛情を抱いたのだろうか?
その説明は映画のなかに殆ど無い。

けれどルディの姿を追ううちに、だんだんとその理由が分かってくる。

偏見や無理解に晒されて、彼はいかに孤独だったか。その孤独と同じ孤独をルディはマルコの中に見たのだろう。

3人が暮らすようになり、マルコに部屋が与えられる。自分の部屋に佇んでマルコは

「ここがぼくのうち?」と訊ねる。

「そうよ。」

そう答えるとマルコは泣き始める。嬉しいと言って。
そのシーンが上にあげた写真だ。


社会派ドラマという側面ももっているが、人間ドラマとしての深さとリアリティこそが胸を打つ。

マルコが好きだったもの。人形のアシュリー、ディスコダンス、ハッピーエンドのお伽話、そしてチョコレートドーナツ。


マルコはうちに帰ろうとしたに違いない。

公式サイト

最後に切々と歌い上げられる「I Shall Be Released」がとても印象的だ。

原題は「Any Day Now」

20140624

リルケ Komm Du...

ハンナ・アーレント『人間の条件』を読み始めた。

ハンナ・アーレントの主著のひとつであり、充実した本だ。読んだ方も沢山あるに違いない。

第7節「公的領域─共通なるもの」の注釈42でリルケの詩が引用されている。

志水速雄訳では原文が部分的にそのまま載せられているだけで全文もなければ訳もない。そこでWebと本棚の詩集から全文と訳を見つけ出した。紹介したい。

‘Komm Du...’

Komm du, du letzter, den ich anerkenne,
heilloser Schmerz im leiblichen Geweb:
wie ich im Geiste brannte, sieh, ich brenne
in dir; das Holz hat lange widerstrebt,
der Flamme, die du loderst, zuzustimmen,
nun aber nähr’ ich dich und brenn in dir.
Mein hiesig Mildsein wird in deinem Grimmen
ein Grimm der Hölle nicht von hier.
Ganz rein, ganz planlos frei von Zukunft stieg
ich auf des Leidens wirren Scheiterhaufen,
so sicher nirgend Künftiges zu kaufen
um dieses Herz, darin der Vorrat schwieg.
Bin ich es noch, der da unkenntlich brennt?
Erinnerungen reiß ich nicht herein.
O Leben, Leben: Draußensein.
Und ich in Lohe. Niemand der mich kennt.


来るがいい 最後の苦痛よ

来るがいい 最後の苦痛よ 私はお前を肯っている
肉体の組織のなかの癒やしがたい苦痛よ
嘗て精神のなかで燃えたように ごらん 私はいま燃えているのだ
お前のなかで。薪は久しく抗っていた
お前が燃やす焔に同意することに。
けれどもいま 私はお前を養い お前のなかで燃えている
私のこの世での穏和は お前の憤怒のなかで
この世のものならぬ冥府の怒りとなっている
全く純粋に なんの計画(プラン)もなく 未来からも解放されながら
私は苦悩の乱雑な薪の山のうえにのぼっていった
なかに無言の貯えがしまってあるこの心を代償に
このように確実に未来を購うことは 何処でもできはしない
いま 人目にたたず燃えている これがまだ私なのだろうか?
思い出を私はもってゆきはしない
ああ 生 生とは外にいることだ
だが 焔のなかにいる私 その私を知っている者は誰もいない

(放棄。これは嘗ての幼年時代の病気とは違ったものだ。幼い時の病気は一種の猶予期間であり、さらに成長するための口実であった。そこではすべてが叫び、ささやいていた。幼い時にお前を驚かしたものを、いまの病気のなかへ混合してはならない)
ヴァル=モンにて。恐らく1926年12月中頃のもの。最後の手帳のなかへ書き込まれた最後の詩。

(富士川英郎訳)

20140526

『帰ってきたヒトラー』

同じ作品を2回採り上げることになった。
髭が原語の題名になっている。なのでこの表紙のまま翻訳されるとは思っても見なかった。

ドイツ語版は読むのに3ヶ月くらい掛かった。かなり苦労した。その理由は、彼ヒトラーが使う古色蒼然としたドイツ語を始めとして、頻発する方言に手を焼いたのだ。

この表紙ならば翻訳されるまで待てば良かったと思う。

だが、やはりこれまた頻発する駄洒落が苦労して訳されているのを読んで共感の笑いを笑うことが出来た。苦労した甲斐はあったというものだ。

ドイツ語版の感想は1年以上前のエントリEr ist wieder daに書いてある。この文章を私は「慎重な訳が望まれる」と結んでいる。

軽快な、テンポの良い、リズム感に溢れた翻訳になっている。

ドイツ語で読んだ当時はかなり危険な本と感じた。愛されたヒトラーを描いているからだ。危うさはやはりある。だがこの軽快さならば許されるのではないかと感じた。

ドイツ語も実はこうした軽快なリズムなのかも知れない。時間が掛かったので重さを感じてしまったのだろうか。

或いは日本の状況が本気で危うくなってきているので、この本の危険性に麻痺してしまったのかも知れない。

冒頭に置かれた「本書について」という文章にはこう書かれている。

読者は同時にわずかな後ろ暗さを感じるはずだ。最初は彼を笑っていたはずなのに、ふと気が付けば、彼と一緒に笑っているからだ。ヒトラーとともに笑う─これは許される事なのか?いや、そんなことができるのか?どうか、自分でお読みになって試してほしい。この国は自由なのだ。今のところはまだ─。

作者ティムール・ヴェルメシュの意図はこれに尽きるだろう。

現代に復活したヒトラーは実に感じが良く、魅力的なのだ。そして交わされる会話の殆どが勘違いで成り立っていることにも現されるように、強運にも恵まれている。

彼は瞬く間に現代に順応し、成功してゆく。

そして最後に実に危険な台詞をスローガンとして吐くのだ。

「悪いことばかりじゃなかった」

ここに辿り着いて、私たちは私たちの笑いが凍り付くのを感じるだろう。



ハンナ・アーレントを読むために、そして読むうちに、ヒトラーと彼の行いに関する知識は自然に身に付いた。それがこの小説を読むとき実に役立った。

そしてかつてのヒトラーとその「一味」の所業を悪魔のようなナチスの所業として理解していては、決して正しい理解に辿り着かないことも学んだ。

『イェルサレムのアイヒマン』に示されたように、悪は陳腐で凡庸な形で立ち現れたのであり、この作品『帰ってきたヒトラー』が示すように、彼ヒトラーは魅力的で人に愛されうる質を(多分)持っていたのだ。


「訳者あとがき」でこの小説の原題Er ist wieder daが1966年にドイツで大流行した歌のタイトルからとられたものである事を知った。

これだ


翻訳された日本語版の本は1日で読めた。

20140511

『アル中病棟』

その緻密な観察眼に驚いた。

前作『失踪日記』はこの『失踪日記2 アル中病棟』への序章に過ぎなかったのではないか。そう思わせるほど充実した作品に仕上がっている。
私は今ではもう一滴も呑まなくなっているが、若い頃は激しく呑んでいた。なのでアル中への恐れは人並みに持っている。
それでも(と言うよりそれだからこそ)『アル中地獄(クライシス)』 や本作を読むと身の毛がよだつ。決して人事ではないのだ。

それにしても実に客観的に物語にしているものだと感心する。

恐らく思い出したくないような体験でもあっただろう。ギャグ漫画家の性なのだろうか?一歩も二歩も引いた立ち位置からアル中病棟を冷静に観察し、描いている。

これ程自覚的に生きることが出来るならば、アル中なんぞ簡単に克服出来るのではないかとも思うのだが、そうは行かないのがアル中のアル中たる所以なのだろう。恐ろしい病気だ。

ラストに漫画家とり・みき氏との対談が載っている。非常に良い作品紹介になっている。単独で公開した方が良いと思っていたところ探したらネタバレなしのヴァージョンがWebに公開されていた。


1998年12月26日、漫画家吾妻ひでおは妻と息子に取り押さえられて、都内のA病院に入院した。精神科B病棟(別名アル中病棟)である。

そこに至る経緯はイントロダクションに描写されている。

恐ろしい。なんか恐ろしいね。恐ろしいと頭で考える自分の声すらも恐ろしいんだよね。

B病棟には多くの先客があり、また後からも次々と新しい入院患者がやってくる。吾妻はその全てに顔を与える。20人を超えるキャラクターが、生きた人間として動き回っているのだ。彼らにはそれぞれ強烈な個性がある。

最も強烈な印象を残すのは吾妻と同室になった浅野で、彼は片付けがまったくできず、さらには計画性がないので月の小遣いを支給されるとすぐに使ってしまう。金がなくなると、新しい入院患者に対して寸借詐欺を働くのである。さらに、夜中に病室の中で小便をする奇癖もあり、吾妻を困らせる。


その他、フルコンタクト空手の有段者で気性の激しい安藤や、自己中心的な性格の杉野、修道院上がりという謎めいた経歴を持つ御木本、患者から100円ずつせびっては貯金し○○○(と書かれているがおそらくソープ)に行く福留など強烈な個性の持ち主が揃っており、集団劇として読んでもおもしろい。これだけ多くの人間を出して、しかも読者を混乱させずに描き分けるのは困難な技であるはずだ。

入院患者たちのある者は無事に三ヶ月の満期で退院するが、いつまでも病院から出られない者もいる。問題を起こして途中退院する人あり、病院の外で飲酒して再入院してしまう人あり、彼らの人生は決して明るいものではない。
看護師の1人は言う。

「私たち看護師にとって一番うれしいのは、退院していった人達が次の週呑まずに通院してくれることです」

と。つまりそれくらい、「呑んでしまう」「行方不明になる」人間が多いということなのだろう。

作中にも書かれている。

統計によるとアルコール依存症患者は治療病院を退院しても1年後の断酒継続率はわずか20%、ほとんどの人は再入院もしくは死んだり行方不明になったり。

作中で(そして確実に現実でも)吾妻ひでおは無事退院する。

来たときはタクシーに押し込められてだったが、今度は病院からひとりでバスに乗り家へ帰る。

そこからのラスト3ページは恐らく漫画史に残る名シーンだ。

俯瞰で背後からと前方からのショットが一枚ずつ。周りの人びとは吾妻と無関係に日常を生きている。

そして突然視点が仰角に変わる。

広々とした空。

しかし開放感はない。

「不安だなー。大丈夫なのか? 俺……」

そう。私たちはこの広い空の下で、広すぎる世界を歩いて行かねばならないのだ。

20140510

『理性の暴力』

叢書・魂の脱植民地化の第5弾、古賀徹の『理性の暴力─日本社会の病理学』を読んだ。
図書館から借りてきたときにはこれを1日で読み、すぐにハンナ・アーレントやミシェル・フーコーに移行するつもりでいた。だが結果としてほぼ2週間をこれで費やしてしまった。

意欲作だと思う。

古賀さんはこの作品をミルフィーユと称している。「千枚の葉」を意味するお菓子の名前だ。

それは記述の重層性と共に記述している〈私〉にもまた言及しなければ不十分とする自己言及性の入れ子構造も意味している。

その為この本は本論とその後に続くP.S.と題された補論によって構成されている。

この本は凄まじい程の密度を持っている。その密度の高さが読解に時間が掛かった主な理由だ。
特に序論には手を焼いた。
繰り出される哲学用語の量にも脅かされたが、それによって記述される哲学的内容の豊富さは半端ではない。

その為か序論を飛ばして読むことも奨められているのだが、敢えて読み切ったのは文章に秘められた訴求力に感じるところがあったからだ。

この判断は正解だったと読後に感じた。本を読む上で必要な大局観と言うのか、この本全体を貫く哲学的な方法論を意識しつつ読むことが可能になったからだ。

暴力を抑止する筈の理性が、

法が整備され、教育が普及し、社会が合理的に組織されればされるほど、まさにその合理性を通じてあらたな暴力が胚胎し、人々がそれに苦しめられている

そうした病理を現在の日本社会は抱えている。

この本はそうした状況を踏まえて、理性に対し理性による反省を試みている。

本の構成は

序論 ミルフィーユとしての記述
第一章 いじめの論理学
第二章 沖縄戦「集団自決」をめぐって
第三章 〈声〉を聞くこと─ハンセン病の強制収容
第四章 破壊のあとの鎖列─水俣の経験から
第五章 廃棄物の論理学のために
第六章 死刑場の設計
第七章 原子力発電の論理学
終章 鉄鎖を解く哲学の任務

ひとつひとつのテーマもかみ砕いて書かれていたら1冊の本になったであろう。

論考はカントやハンナ・アーレント、フーコーを引用しつつ、全体として「輸入の学」に留まらずこなされていると思う。

全てが成功しているとは思わないが、各テーマに潜む暴力としての理性を哲学の文脈に即し、そこからの脱却の可能性を丁寧に模索していると感じた。

だが、自らの不勉強さが残念で溜まらなかった。

この本を読む以前に読んでおかねばならなかった本が何冊もある。数冊はこの本と同時進行で目を通したが、やはり足りなさを感じる。エマヌエル・カントの『純粋理性批判』はその最もたるものである。無論おいそれと読解できる代物でないことは経験的に理解している。しかし、読解しておくことが必要だった。

しかし、理性の結晶である筈の哲学は、日本では典型的に植民地的な正確を有しており、解放のための学とはなっていない。

この本はそうした哲学を本来の位置に置き直す行為の一つとして理解出来る。この本に付きまとう一種の難解さは、そうした行為が常に試みとしてあった事実に由来しているのだろう。

投げかけられているのは、現代社会にあって、哲学するとはどういう意味を持つのか?社会の課題に立ち向かうとはどういう事か?そうした問題意識なのだと思う。

読み終わって、私は著者古賀さんの問いかけに、応えたいという衝動を強く感じた。

良い読書体験が出来たと感じている。

20140504

『家路』

Facebookで知った映画『家路』を観た。

願望だろう。

福島に帰り、そこで生きて行くという決意をする。それは現実には果たし得ない願望なのだろう。
だが、その願望は単純に語られたのではなく逃れ得ない現実が前提とされている。

そこにこの映画の深みはあるのだろう。
兄総一の罪を被り、もう二度と戻らない決心をして出た故郷に20年振りに次郎は帰ってきた。そこから物語は始まる。

その故郷は原発事故により居住禁止地域になっており誰もいない。

そこに中学の時の同級生北村が現れ、ふたりは建物だけが残り無人と化した思い出の地を巡る。

そこで次郎は明かす。

誰もいなくなったから、帰ってきた。

腹違いの兄という家族のなかで複雑な少年時代を過ごした彼にとって、故郷は生き易い地ではなかった。

それ故立ち入り禁止という現実なしでは、彼の帰郷はありえなかったことなのだ。


私もかつて、二度と戻らない決意をして故郷を離れ、現実に25年間戻らず、その後に帰郷した。なので主人公次郎の気持ちは良く理解出来ると思っている。


やがて彼の帰郷は兄総一の知るところとなり、次郎は母登美子と再会する。そこでふたりは、何事もなかったように稲の話を交わす。


次郎が母登美子を引き取り、居住禁止地域にある家で暮らし始め、登場人物はそれぞれの家路を辿り始め、家族は再生への道を歩み始めるのだが、この設定は余りにもファンタジックだ。

咎めに来た警官も温情をかけて何も言わず去る。

ありえない。


恐らくこの映画は福島の被災者に寄り添うことを第一目的に作られた映画なのだろう。

ファンタジーはファンタジックに描いて欲しかったが、ファンタジーを愉しむ余裕も必要なのかな?と少し感じた。

確実に福島を描いた映画ではある。

登美子を演じた田中裕子の演技が光る。

20140426

『わたしの非暴力』

それ程頻繁に起こることではないが、時折それまでの全ての読書、全ての体験が一冊の本に収斂してゆく瞬間を持つことがある。その本を読むために全てがあったように感じるのだ。
今回この本、マハトマ・ガンディーの『わたしの非暴力』がそれだった。

考えてみるとジーン・シャープの『非暴力行動の198の方法』を訳した私が、今迄この本を読んでいなかったことは、私の思考がいかに不十分だったかを物語るものと指摘されても私は反論できないに違いない。

活字が予想以上に細かなものであったにせよ、この本はそれ程浩瀚な本ではなかったし、選ばれている言葉も驚く程難解なものではなかった。しかし結果として私は4月というひと月をこの本を読むことに費やした。

それはこの本が深い内容を持ち、ひとつひとつの文章を読み終える度に長い思考の時間を持つことを必要としたことが主な理由だ。

抵抗運動を実践するに当たって、暴力をどの様に考えて行くかは私にとって長い間大きな懸案事項だった。

しかしその課題もそろそろ結論を得ることが出来たように思っている。

無論容易い選択でないことは、この本を読了した今、以前に増して理解出来るようになっている。だが宣言して構わないだろう。

非暴力を!

それが、ようやく獲得できた結論だ。

時代もやっとマハトマ・ガンディーに追い付くことが出来てきたのではないだろうか?

そんな感触を持っている。


この2冊の本の中で、とりわけどこを読んだら良いのかと問われたら、私は迷うことなく第69項の「クイット・インディア(インドを出て行け)」決議の演説を上げるだろう。

これはガンディーの生涯にわたる反英抗争の最後を飾る、しかもイギリスのインドからの即時撤退を要求する「最後通牒」だった。

ガンディーは何よりも、民族の統一戦線の急務を呼びかけ、20年間蓄積してきた大衆のエネルギーを非暴力の内に結集し、まさに「行動か死か」のスローガンのもとに新しい大衆非協力運動を開始しようとしていたのだ。

この演説は、この本の中の圧巻であるばかりではなく、インド独立運動史の一大記念碑である事は疑いない。


しかしどうしても気になるのはその直前に置かれた第67項「すべての日本人に」だ。

この項はこうして始まる。

最初にわたしは、あなたがた日本人に悪意をもっているわけではありませんが、あなたがたが中国に加えている攻撃を極度にきらっていることを、はっきり申し上げておかなければなりません。あなたがたは、崇高な高みから帝国主義的な野望にまで堕してしまわれたのです。あなたがたはその野心の実現に失敗し、ただアジア解体の張本人になり果てるかも知れません。

私たちは私たちがガンディーから、このように見られていたことを再度自覚しなければならないだろう。

ガンディーは更に言う。

情け容赦のない戦争がだれの独占物でもないことに、あなたがたが気づかれていないというのは驚くべき事に思われます。たとえそれが連合国でなくとも、どこか他の国が、きっとあなたがたの方法に改良を加え、あなたがた自身の武器をもってあなたがたを打ち負かすことでしょう。かりにあなたがたが戦争に勝ったとしても、国民が誇りに思うような遺産をなに一つ遺すことにはならないでしょう。どんなに巧妙に演出されても、残忍な行為の独演会に国民は誇りをもつことはできないからです。また、かりにあなたがたが戦争に勝ったとしても、それは、あなたがたが正しかったということの証明にはならないでしょう。それはただ、あなたがたの破壊力のほうがまさっていたことを示すだけです。


この本の最後の100ページには頻繁に「死」という言葉が出て来る。それはガンディーが殆ど死と隣り合わせに生きていたことを示しているのだろう。

非暴力は弱者の方法では無い。ガンディーは何度もその言葉を繰り返している。

確かに非暴力は常に死と隣り合わせに存在する、命がけの行為なのだ。


1948年1月30日午後5時過ぎに、ガンディーは夕べの祈祷集会に出るためにビルラ邸の庭に出た。そこには500人位の会衆が待っていた。ガンディーの姿を見て、ある者は立ち上がり、ある者は身を低くして敬意を表した。ガンディーは合掌のあいさつを以て応えた。その時、ひとりの若者が群衆をかき分けて進み出ると、ガンディーの前に跪くようにして身をかがめた。誰の目にもガンディーの祝福を受けに出たように思われた。その瞬間、男はやにわにピストルを取り出すと引き金を引いた。
小さな自動装置のピストルから3発続けて銃弾が発射された。
ガンディーの合掌していた手はだらりと下がり、その場に崩れ落ちるように斃れた。斃れる瞬間ガンディーは「ヘー・ラーマ(おお、神よ!)」とかすかに神の名を呟いたという。
ガンディーはピストルを発射した男に対し、額に手を当て、「あなたを許します」というサインを送っていたとされている。
享年79歳だった。

20140330

愚行を固執すれば

これも北杜夫から教えられた言葉だ。

アタオコロイノナに並んで、かなり長い間謎の言葉だった。

曰く
愚行を固執すれば賢者となるを得ん

それが引用されている部分を引用してみようと思う。

世の中にはいろいろ都合のよい文句がある。たとえばウィリアム・ブレイクは次のごとく言っている。
「愚行を固執すれば賢者となるを得ん」
更に、
「過度という道こそ叡智の殿堂に通ずる」
これらの箴言こそ、私が見つけ出して得々となり、ボロっちい西寮での生活をやりおおせた呪文のようなものであり、守り言葉でもあった。

「小さき疾風怒濤(シュトルム・ウント・ドランク)」という章はこの文章で始まっている。

既に私は高校生になっていた。何かにつけて激しくバランスを欠く傾向を自覚していた私は、この言葉に歓喜し、日記に書き写したことを覚えている。

長いことその原典が何なのか分からないまま放置しておいた。分からないままと言うよりは、分かろうとしていなかった。北杜夫の言葉として理解していたかったのだ。

今日ふと、この言葉を思い出し、原典を探し出したくなった。


意外とすぐ見付かった。
ウィリアム・ブレイクの詩(と言うのか予言書と言うのか)『天国と地獄の結婚』がその原典だった。
Webにはその全文が絵と共にupされていた。

William Blake
The Marriage of Heaven and Hell
この中に出て来る。

愚行を固執すれば賢者となるを得ん の原文は
If the fool would persist in his folly he would become wise.

過度という道こそ叡智の殿堂に通ずる の原文は
The road to excess leads to the palace of wisdom... for we never know what is enough until we know what is more than enough.

だと思う。

しかし難解な詩(?)だ。
絵と文が合わないとしか思えない部分も散見する。

北杜夫も読んだのだからと必死になって読んでみたが、ウィリアム・ブレイクが何を言わんとしてこの作品を書いたのかも全く分からなかった。

この作品に独力で辿り着くとは、一体どの様な読書をしていたのだろうか?
旧制高校生恐るべし。

20140319

断煙500日

もう、全く吸いたいと思うこともなくなった。

煙草を吸っていたことも忘れそうになる。
アプリで教えて貰わなかったらこの日が来たことも気付かずにいたかも知れない。

断煙してから500日が過ぎた。

1日20本で計算しているので、吸うはずだった煙草の本数、つまり吸わずに済んだ煙草の本数は10,000本にのぼる。

もともと収入が少なくなることを直接の切っ掛けとして始めた断煙だった。
なので手元に22万円が残った訳ではない。けれどその金額を燃やさずに済んだのだから良しとしなければならない。

時折、道に煙草の吸い殻が落ちているのを目にすると、そう言えばこれを吸っていたのだな…としみじみすることもあった。

甘いものや柿の種など、他のものに対する依存も、もうなくなっている。急かされるようになにかを口にすることはない。

自分を自分の意のままに過ごす事が出来ることは、何よりも自由なことだ。

最近、図書館を頻繁に利用するようになったので、以前程本を買うこともなくなった。段々金を使うことも少なくなって行く。

煙草から自由になったと同時に、金からも自由になりつつあるのだろうか?

自由である事の開放感は、何よりも気持ちが良いものだ。

20140309

『ハンナ・アーレント』

懸案だった。

昨年の秋頃からFBなどで紹介され、とても観たいと思い続けてきた。今日、ようやく観ることが出来た。
映画『ハンナ・アーレント』だ。

秋に、松本で上映されていたことは知っていた。それを観に松本まで行こうかとも思った事もある。

数日前(定期的にチェックしていたのだが)公式サイトを見てみると、長野市で上映する事が分かった。それも応援している映画館ロキシーでの上映だ。

上映を知る前、映画を観ることが出来ない憂さを、ハンナ・アーレントの著作を読むことで晴らしていた。

ハンナ・アーレントの本の多くはみすず書房から出版されている。いや、良い本を出版してくれている出版社だと思うし、悪いイメージはない。ないのだが、いかんせん本の値段が高い。なのでハンナ・アーレントの名前を知って10年以上経つが、なかなか本を買えずにいた。

しかし、そんなときの為に図書館がある。

映画の影響だと思うのだが、『イェルサレムのアイヒマン』は長いこと貸し出しになっていた。
先週ようやく借りることが出来た。
まだ半分程しか読んでいない状態だが、それでも映画の中で、あ、あの部分だ!と思い当たる事が幾つもあった。

しかし、映画で受けるアイヒマンの印象と『イェルサレムのアイヒマン』からのアイヒマンの印象は少しずれがあった。映画では平凡な小役人と言うことだけが強調されていたが、本の中のアイヒマンはそれよりももっと卑小な存在として描かれている。
平凡なだけではない。嘘つきで記憶力に乏しいどうしようもない存在なのだ。

恐らく、ナチの行為が暴かれつつあった戦後、行われた悪の巨大さの故に、人々は、そして誰よりユダヤ人たちは悪を為した人間は、その悪の大きさに見合うだけの巨大な悪魔的な怪物であって欲しかったのだろう。

しかし、事実はそうでは無かった。

アイヒマンはどこにでもいる平凡な、そして卑小な存在だった。

その事をアーレントは『悪の凡庸さ』と呼んだ。この概念は現代に至るまで有効で重要だ。いや、現代特に着目しなければならない概念と言える。

これを発表してハンナ・アーレントはアイヒマンを擁護したと非難されたとしばしば評されるのだがここが問題ではなかったのだと私には思える。

映画の中でも裁判の記事を書き始めてすぐ指摘されているが、問題とされたのは「ユダヤ人指導者の中にもアイヒマンに協力した者がいた。それによってユダヤ人の犠牲が増えた」という記述の方にあったと思う。

アーレントは何故この記述にこだわったのだろうか?

この事がこの裁判によって明らかになった事だからという点が先ずあるだろう。
そして何より、全体主義は加害者側にアイヒマンのような思考停止的な非人間を量産してしまう罪とともに、被害者側のモラルの崩壊を引き起こしたのだ、と言うことを言いたかったのではないだろうか。
『イェルサレムのアイヒマン』以上に頻繁に引用されていると感じたのは、同じくハンナ・アーレントの『責任と判断』だった。

とりわけこの映画の目玉とも言える講義での「8分間の演説」で展開される主題は、明白に『責任と判断』と重なる。

この日普段は休憩時間にならないと吸わない煙草に、アーレントは最初から火を点ける。緊張していたのだ。

学生や大学の教授が見つめる中、教壇に立ち、煙草を吸いながら、彼女はこう訴えかける。

「(アイヒマンを)罰するという選択肢も、許す選択肢もない。彼は検察に反論しました。『自発的に行ったことは何もない。善悪を問わず、自分の意志は介在しない。命令に従っただけなのだ』と。世界最大の悪は、平凡な人間が行う悪なのです。そんな人には動機もなく、信念も邪推も悪魔的な意図もない。(彼のような犯罪者は)人間であることを拒絶した者なのです」

さらに、自分はアイヒマンを擁護したのではなく理解を試みたのだと主張したうえで、このようにも語る。

「アイヒマンは、人間の大切な質を放棄しました。思考する能力です。その結果、モラルまで判断不能となった。思考ができなくなると、平凡な人間が残虐行為に走るのです。〝思考の嵐〟がもたらすのは、善悪を区別する能力であり、美醜を見分ける力です。私が望むのは、考えることで人間が強くなることです。危機的状況にあっても、考え抜くことで破滅に至らぬように」

『責任と判断』ではこの論点をギリシア哲学からカントまでを引用し、丁寧に解き、問題を歴史的な哲学の体系の中に位置づけている。

この思考する能力の放棄という問題を訴える中で、加害者だけでなく、被害者の側にも及ぶモラルの崩壊という論点は、どうしても避けて通れない課題だったのだろう。


『イェルサレムのアイヒマン』の中で印象的だったのはナチの内部で行われていた厳重な「用語規定」だ。

〈絶滅〉とか〈一掃〉とか〈殺害〉というような不適当な言葉が出て来る書類が見付かることはめったにない。殺害を意味するものと規定されていた暗号は〈最終解決〉Endlösung、〈移動〉Aussiedlung、および〈特別処置〉Sonderbehandlungだった。移送は〈移住〉Umsiedlung、および〈東部における就労〉Arbeitseinsatzとされた。

これと似たことを、3年程前、私たちは経験した。事故を事象と置き換え、原発が爆発した映像を見ていてもそれを爆発的事象と強弁した姿勢こそ、ナチの「用語規定」と同じ事を実際にしていた姿ではなかったか?

原発を推進してきたのは、組織性の中に埋没し、「用語規定」を駆使することによって欺瞞の思考を蔓延させ、結果的に思考停止してきた科学の、或いは政治の専門家たちだった。

そして今、私たちは再び思考を停止させ、再稼働容認という形で原発を選び取ろうとしている。


アイヒマンはどこにでも存在する。私たちは今こそこの教訓を胸に刻まなくてはならない。


私は映画を観ながら、ハンナ・アーレントの本と同じ頃読んでいたミシェル・フーコーの『真理とディスクール』を思い出していた。

その中でフーコーは知識人が行うべき行為として、自身が不利になっても勇気を奮い起こして包み隠さずに行う真理を語る行為をパレーシアと呼んだ。

ハンナ・アーレントは自らの「悪の凡庸さ」を主張することで、ユダヤ人社会から猛烈な抗議を受け、多くの友人を失った。しかし、彼女は断固考える事を放棄する危険性を訴え続けた。

ハンナ・アーレントは生涯を通じて、パレーシアを行使していたのだ。

20140307

イオンタウン Open!

今日がその日だと言うことは知っていた。
だが、油断していた。

朝、いつものようにNHK・FMでクラシック音楽を聴いていたのだ。

そこにいきなりドカンドカン、ドドドドッド、ドツタクドカンと和太鼓の音が響いてきた。

こういう展開は予想していなかった。

何事かと表に出てみた。
イオンタウン長野三輪店のオープニングセレモニーだった。

9時開店の筈だ。それ迄は平穏な日常が保たれると、何の根拠もなく思い込んでいた。
8:30の様子。

早くも3、400人位は集まっているではないか。


夏頃から、長い間放置されていた広大な空き地に工事が始まった。
それまで、近くに適当な店がなく、車で買い物をしていたのだ。


並ぶのは趣味ではない。なので開店直後に様子見に行ってきた。

凄まじい混雑だった。

見るとほうれん草とホタルイカが安い。それを買った。
レジに10分ほど並んだ。

それでも長いこと待たされたと感じていたのだが、早めに買い物を済ませたのは正解だった。

買った後、店内を落ち着いて眺めている間にどんどんレジの列は長くなり、場は修羅の相を呈してきた。

こりゃたまらん!と一旦撤退。

普段は朝の9時頃には解消する表通りの渋滞がいつまで経っても解消しない。
そのうちに何があったのか、救急車も来る有様になった。


渋滞が少し解消し始めた17時頃また行ってみた。
場内放送で、一時はレジの待ち時間が2時間を越えていたことを知った。

ほうれん草をまた(お一人様2把限りなのだ)買った。

みゆきさんが18時頃帰ってきたのでまた行く。食料品を買い込み、自宅に置いてまた出動。

都合4回も通ってしまった。


昼行った時には余りにも貧弱に思えた文具類も、ダイソーもあるので何とかなりそうだ。

ブルーチーズがない!これは痛い。

だが、何から何まで全てを一ヶ所で揃えようという方が無理と言うものだろう。


取り敢えず近くに大型の店ができた事はかなり便利だ。


夕飯は戦利品のほうれん草とホタルイカを頂いた。少し寒いが春を感じた。

20140303

名曲のたのしみ

少し失望している。

失望という言葉は大袈裟のようにも思える。だが敢えて使った。それだけ期待していたのだ。

期待していた程のものではなかった。
残念だ。


それより先に喜ばなければならない。
月に一冊ずつ買って来た吉田秀和さんの本『名曲のたのしみ』が第1巻から第5巻迄、遂に揃ったのだ。
それ程安い本ではない。しかも第1巻を購入してすぐに腰巻きに、「番組41年間の放送データをまとめた小冊子をプレゼント」と書いてあることに気付いた。

何か、こう…凄そうではないか。

それ故、古書には手を出さず、全て新刊で揃えたのだ。

正直かなり揃えるのに苦労した。楽ではなかった。
なので日に日にその「小冊子」なるものに対する期待が膨らんでいったのだ。

…少なくともCDは付いているのではないか?

先月遂に最期の一冊が届き、その日のうちに応募券を切り取って官製はがきに貼り、投函した。

一昨日それが届いたのだ。

当初、その冊子を単独で写真に納めるつもりだった。

だが届いた封筒は、妙に薄かった。

写真の右端に横向きで一部が写っているのが、件の冊子だ。

何と言う事はない。NHK・FMで放送された『名曲のたのしみ』で使われた曲名がリストアップされた、本当に単純に41年間の番組のデータだ。

物凄く良いプレゼントを期待していた私は、正直力が抜けて床にへたり込んだ。


だが、本の内容は充実している。一冊に1枚CDが付いていて吉田秀和さんの声を聞くことが出来る。
…とは言っても話だけで曲は入っていない。

やはりこのシリーズはちょっと高すぎる感がある。その旨をアンケート葉書に書いて送った。


当初、このシリーズの第5巻にまとめられる筈だった、モーツァルトに関する書籍の刊行が決まったとの報せが同封されていた。

1冊の一部だったものが3冊で企画され、それが膨らんでやはり全5巻で出されることになったようだ。

吉田秀和さんの本『モーツァルト その音楽と生涯』となる予定だそうだ。


それにもCDは付いてくるのだろうか?

いずれにせよまた出費が嵩む。

20140223

岩石用ハンマー登場

掻いても掻いても減らなかった雪は車に踏み固められカチンカチンになっている。現在母の家の前は、こうなっている。
これは単なる雪ではない。ほぼ氷だ。それもかなり高密度の。
シャベルなどでつついたくらいではびくともしない。
そこで、
こいつで砕くことにした。

愛用の岩石用ハンマーである。よもやここで登場願うことになるとは予想していなかった。

長年こいつを振り回してきた。

なので私は自分で言うのも何だが、ハンマー使いに関しては神業の持ち主だと自負している。

思い切り振り回してもミリ単位の精度でハンマーを打ち付けることが可能だ。

どの形状の氷にはどの角度で打ち込むのが適切か、道路を傷つけずに氷のみ砕くにはどの程度の力を入れたら良いかなどを瞬時に判断して作業を進めることが出来る。

早速作業開始。
固い雪氷もどしどし砕いて行く事が出来る。

だが、雪を甘く見ていた。小1時間で軽くクリア出来ると思っていたのだが、進まない。
全面を完璧に綺麗にすることは諦めざるを得なかった。
取り敢えず出口と隣への通路、そしてゴミ収集場までの経路を確保。これだけやってあれば、母と向かいの家の年寄りが押すシルバーカーくらいは通れるだろう。

妥協してしまったのだ。

2時間掛けてこれしか出来なかった。

雪氷の断面。
 ハンマーの先が道路面にあたる。20cm程の厚さに踏み固められており、下部5cm位は透明な氷になっている。この部分の破壊に手間が掛かったのだ。

岩石用ハンマーを持っていて良かったと心から感じた。そうで無ければとても手の出しようがなかっただろう。

2時間ハンマーを振り続けていたら、さすがに左手に豆が出来、潰れた。

20140222

氷の世界

先週Blogを付けなかったことは痛恨事だ。
どっさりと雪が降った。箱清水で62cmだったか、その程度の積雪が善光寺平でも見られたのだ。

自宅と年寄りの家の雪掻き(と言うより年寄りの発掘作業)に奔走し、それだけでも忙しいのに通院と図書館行脚などに駆け回っている内に何となくBlogを付け忘れてしまった。

とてつもない量の積雪だった。掻いても掻いても後からどしどしと雪は降り積もり、とても追い付く量ではなかった。それぞれで少なくとも3、4回は雪掻きをしたのではないだろうか。

善光寺平は決して豪雪地帯ではない。この付近にしては雪が少ない。だから武田信玄や上杉謙信は善光寺平を欲しがった。
それにしては日々の生活に及んでいる被害は少なかったと言えると思う。

至る所生活道路は未だ寸断され(歩道は雪が積み上げられそれが凍り付いてまるで山道だ)生鮮食品が高くなった。だがそれだけだ。


このような豪雪があると後になってとんでもない光景が見られる。
これが現在のベランダの有様だ。
屋根からの融雪が寒気で再び凍り付く。

この氷の中からサンダルを2足発掘した。


山梨や秩父で深刻な雪の被害があったようだ。

やや北寄りに進んできたとは言え南岸低気圧(これを台湾坊主と呼ばなくなったのは何故なのだろうか)雪の少ない地域にどっさりと雪は降り被害を出した。

山梨の150cmはさすがに凄いと思うが、東京などはそれ程の積雪とは思えなかった。だが被害は出た。

都市の脆弱を感じるが、このような普段から雪にまみれている地域の者がそれを嗤う姿勢を「北から目線」と言うのだとtwitterで知った。


今は雪が多すぎて実感はないが、後1週間で3月に突入する。春は近い!

20140208

南岸低気圧

雪の写真を揚げておいて何だが、今年は雪が少ない。雪掻きが必要になったのもこの冬2度目だ。
 これは15時ころのベランダからの風景。まだどしどし降り積もっている。気象庁の発表では長野市内(つまり箱清水の事だ)で21cmの積雪があったと言う。

方々から雪の便りが届く。

何と沼津でも積雪があったとFB友だちが報せてくれた。20年振りだと言う。21世紀に入って初めての積雪だという事だ。

東京都内も積雪があったようだ。

都心、13年ぶり大雪警報 交通や大学入試に影響

都内各所でパンが売り切れているという。都心は雪に弱い。長野市内はそれ程雪に警戒感がある方ではないと思うが、それでも10cmや20cmの積雪ではびくともしない。

典型的な南岸低気圧だ。
もしこうした南岸低気圧の通過と予想されている東南海・南海地震が重なったら、都心はどれ程の混乱に陥るのだろうか?
天気図と同時刻の赤外線画像。

地震と低気圧の通過の間には関連があると考えている学者もいる。

20140112

桜島噴火記

本棚から古い本を取り出し、読み始めた。
柳川喜郎『桜島噴火記─住民ハ理論ニ信頼セズ』

神保町で50円で買ったものだ。
しかしこの本、未だに高値で古書店に出回っている。

この程東大地震研の方々のご尽力により再版され、適正な価格で入手する事が出来るようになった。

復刻  桜島噴火記─住民ハ理論ニ信頼セズ

今日(12日)はここに書かれた桜島の大正噴火から丁度100年に当たる。

100年前の今頃、桜島は大噴火していたのだ。

それを思い浮かべながらこの本を読んだ。

この本の冒頭付近に
50cm程の台石の上に建てられた細長い2mぐらいの新しい石碑
に書かれている問題の文章が引用されている。

 大正三年一月十二日、桜島の爆発ハ安永八年以来の大惨禍ニシテ、全島猛火ニ包マレ火石落下シ、降灰天地ヲ覆ヒ光景惨膽ヲ極メテ、八部落ヲ全滅セシメ百四十人ノ死傷者ヲ出セリ。
 其爆発数日前ヨリ、地震頻発シ岳上ハ多少崩壊ヲ認メラレ、海岸ニハ熱湯湧沸シ旧噴火口ヨリハ白煙ヲ揚ル等、刻刻容易ナラザル現象ナリシヲ以テ、村長ハ数回測候所ニ判定ヲ求メシモ、桜島ニハ噴火ナシト答フ。
 故ニ村長は残留ノ住民ニ、狼狽シテ避難スルニ及バズト論達セシガ、間モナク大爆発シテ、測候所ニ信頼セシ知識階級ノ人、却テ災禍ニ罹リ、村長一行ハ難ヲ避クル土地ナク、各々身ヲ以テ海に投ジ漂流中、山下収入役、大山書記ノ如キハ終ニ悲惨ナル殉職ノ最期ヲ遂グルニ至レリ。
 本島ノ爆発ハ古来歴史ニ照シ、後日復亦免レザルハ必然ノコトナルベシ。
 住民ハ理論ニ信頼セズ、異変ヲ認知スル時ハ、未然ニ避難ノ用意尤モ肝要トシ、平素勤倹産ヲ治メ、何時変災ニ遭モ路途ニ迷ハザル覚悟ナカルベカラズ。茲に碑ヲ建テ以テ記念トス。
 大正十三年一月                東桜島村

この碑文は重く、大切な教えを今に伝えている。

大正三年の桜島噴火に先だって、現地の桜島では、さまざまな異常現象が認められたので、村長が対岸の鹿児島測候所に、「噴火の前兆なのではないか」と問い合わせたところ、「噴火はない」という回答であった。しかし桜島は噴火し、測候所の予測を信じて島に残留していた人たちが死亡したと碑文は語っている。

防災・減災に関心を寄せる者としては、耳の痛い、重い事実だ。

2011年新燃岳噴火では住民が「理論ニ信頼セズ」避難したら、その行動を非難した人たちがいた。

100年経っても何も分かっていない。


科学を信じるなと言っているのではない。

科学者を過信するなと言っているのだ。権威に平伏するなと言い換えても良い。


この本が出版されて、30年経つ。

丁度100年目の日に、準リアルタイムでこの本を読み終え、その記述が全く古びていないことに驚かされた。

この本の終わり辺りに「尾生(びせい)の信」という言葉が出て来る。

史記蘇秦伝にある故事で、尾生という若者が橋の下で女と会う約束をして、待ち続けるうちに大雨による増水で溺死してしまう、というものだ。

固く約束を守るということを意味すると共に、融通が利かず愚直であるという例えでもある。


福島第一原発事故の時、当時を振り返って斑目元安全委員長は
「首相から炉心が露出したらどうなるか問われた。水素ができると答えると、爆発が起きるのかと問い返された。そこで格納容器の中は窒素で置換されていて(酸素はないので)爆発は起きませんと答えた。」と証言している。

それに対して当時の総理大臣菅直人は著書で、斑目元委員長の言葉を聞いて安心したのが『大間違いだった』と書いている。

ちょっと見たところ斑目元委員長の無責任な態度だけが際立つ。
だが、これこそが尾生の信を菅元首相がそのまま演じた姿だったのではないだろうか?

現実に、原発は次々に爆発した。


災厄は必ず起きる。
それが起きた時、誰かのせいにしても何も始まらない。

必ず起きるものに対して、柔軟に対応できる姿勢は常に取っておきたいし、またそれを促す防災・減災技術にしてゆかねばならないのだろう。


100年前の今日。測候所の予測は外れ、桜島は大噴火した。

20140109

時と共に在る

かなりの充実を、生活に感じ始めている。

酷い鬱の時は、時が水飴で出来ているようで、なかなか進んでくれなくて、それに耐えることが出来ず、自分を滅ぼしてしまいたい衝動に駆られていた。

今、そうした感覚はない。

自分の存在がきちんと時と共に在り、関係は整合している。

年末からミシェル・フーコーの『狂気の歴史』を読み始めた。
DVDで『アマデウス』を観、『うさこさんと映画』の中でそのエンディングについて「かつてフーコーが提示した「狂気」の定義そのもののような迫力が漂う。」と書かれているのを読み、フーコーは狂気をどの様に定義しているのだろうと関心を抱いたのが切っ掛けだった。

不純な動機である。

だから完全な敗北だった。フーコーのフの字も解読できず、その浩瀚な書物のかけらすらものに出来なかった。

暫くフーコーは放置しておいた。

10月頃、ふと気が付くと、今迄殆ど機械的に未読を既読にするだけで、殆ど目も通すことがなかったRSS Readerをこまめにチェックしている自分に気が付いた。

英語やドイツ語の記事にも(分からないなりに)取り敢えず目を通している。

これなら難解なフーコーにも食いついて行く事が出来るのではないかと(気の迷いだが)思ったのだ。

で、11月頃再挑戦、再敗北。

そこで中山元さんの『フーコー入門』を紐解いてみた。

これが正解だった。
丁寧な解説書だった。

分かり易く、それでいて肝心なところを外していない。

フーコーの知的な誠実さを良く拾い上げた内容だった。

この本で『狂気の歴史』の大筋を教えて頂いたので、ようやく私にもフーコーは解読可能な本になった。

狂気の歴史を描くということは、実は心理学というものが誕生するための条件を描くことだった。狂気は心理学の一つの対象ではなく、心理学の成立の条件そのものであり、この心理学という学問は、十九世紀以来の西洋世界に固有の文化的な事件であった。狂気の歴史はある意味では心理学の誕生の歴史でもあった。『狂気の歴史』のサブタイトルを〈心理学の考古学〉としてもよかったのである。

この場合の考古学は、勿論フーコーの『知の考古学』を引いている。


ひとつのものが見えてくると、他のものも急にはっきりと見え始めることがある。

フーコーが少しだけ見え始めてから、観る映画、聴く音楽が急に深いところで捕まえているという実感を伴うようになった。

今迄何を観てきたのか?そして聴いてきたのか?地団駄踏みたい気分だった。

実際、クラシック音楽に限っても、この1年間で4回程、今迄何も聴いてこなかった!と思い知らされるような感覚に襲われた。急に見えてくるのだ。

そうなると今迄無為に過ごしてきた時間が途方も無く勿体なく思えてくる。

自分の身の丈に合ったものをようやく読むようになったなどと自分に言い訳をして、下らないものを読んできた時間や金もとても勿体なく感じるのだ。

ものの値段というものは、それなりに合理的に付けられていると、時々感じる。安いものはそれなりのものしかない。

それなりに値段の張る、「よいもの」にきちんと触れた方が良い。


勿体ないことをして来たと思う思いは大切だが、半面しょうがなかったとも思う。

何しろ気力が湧かなかった。

長い鬱を抜け、結構被害もあった躁状態も過ぎ、ようやく努力できる精神状態を獲得することが出来てきたと感じている。

年始としてはこの上ない好発進だと思う。

この感覚を大切にして、「よいもの」に出会いたいと思っている。